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神童[Shen tong]

零~ゼロの不毛~

作者: 藤夜 要

 サレンダーから支給された架空名義の口座に、数え間違えたかと思わせるゼロの数を見てから、ひと月ほど経った晩秋のとある夜。GINは居室を兼ねた事務所のソファに寝そべったまま、愛飲のヘネシーをあおっていた。

「お?」

 瓶のまま嗜んでいたそれが不意に取り上げられ、定まらなかった視点が瓶を掴んだ持ち主の顔へと集中した。侮蔑の目を細めてGINを見下ろす存在に軽く驚かされる。

「零……もうそんな時間か?」

 彼女から訪問すると連絡があったのは夕刻で、確かその時点で四時間後に来ると言っていたはずだ。

「雑務で予定より一時間ほど遅れました。一体いつから飲んでいたのですか」

 零はGINの問いを無視してそれだけを返すと、GINの宝物を手にしたままくるりと背を向けた。渋々身体を起こして、キッチンから自分へ向ける黒い背中に懇願する。

「零ちゃーん、それ、返して」

 彼女はGINの願いに一切答えず、手にしたヘネシーの中身を全部シンクへぶちまけた。

「ひどい。もったいない。俺の金で買ったのに」

「こんなもので頭痛をごまかすなと本間にもきつく言われているでしょう。肝臓をやられますよ」

 振り返る切れ長の瞳が、明らかに怒気を孕んでいた。GINはそれから逃げるように、背もたれを頼りにキッチンへ向けていた身を正反対の方へ戻した。

「それならそれで、それが俺の寿命ってだけのことじゃん。別に嘆く家族がいるわけじゃなし」

 カツンと床を弾くローファーの音が、かなり強い主張を訴えた。

「では、言い方を変えましょう。あまり深酒をされると、私が“任務”を果たせなくて困るんです」

「って、何それ」

「子供に返ってしまうから、あなたは私にさえ怯えます」

「判りやすいウソつくな。そんなの記憶にないし」

「泥酔してるんですから、覚えてないに決まっているでしょう」

「……マジ? それ、いつの話?」

「とにかく、お酒を控えてください」

 零がソファに腰掛けるGINに目線を合わせて身を屈めた。逃さないとばかりに両手で頭を鷲掴み、挑む視線で睨んで来る。

「約束したじゃあ、ありませんか。心配するなと言ったでしょう? ウソだったんですか?」

 いつも、こうだ。心の中でそっとごちる。紀由のこととなると、見境なくというか、恥をかなぐり捨ててでも、というか。

「ウソじゃないよ。そうじゃなくてさ」

 GINは溜息混じりにそう告げながら、頭を押さえ込む零の手を取った。

「その“任務”なんだけどさ。紀由が前に言ってた。ゆかりさんは血漿投与で《育》をもらってる、って。お前もその方が楽だろうし、俺もそうしようかと思って。だから、もうそういうのは、いいや」

 GINが申し出ると、零の険しい目つきが次第にきょとんとしたものに変わっていった。

「なぜ、それで私が楽になるんですか?」

「いや、そのだから多分、ほら。遼とかも、なんつうか……だろ?」

 日ごろの二倍ほどに大きくなっていた零の両目が、突然固く閉じられた。

「……ぷっ」

 肩をすくめて、押し殺すように彼女が笑う。知り合ってから十年少しになるが、そんな声を聞いたのは初めてだった。

「遼の方が、GINよりもかなりいい反応を示しますよ」

「どういう意味だ、それ」

 小ばかにした笑みを湛える零に、剣呑な視線を差し向けた。

「遼は口腔接触だけで、充分に細胞が《育》や《生》に反応を示します。さすがの私も、未成年に手をつけるほど節操なしではないつもりですよ」

 くつくつと笑いながら、GINの指に指を絡める。それは恋人同士のする甘やかな雰囲気のものではなく。

「いでっ」

「余計な気遣いは無用です。それとも、あなたの《能力》を知った上で満たしてくれる女性でも出来ましたか?」

「……ヤな女」

 いるわけないだろう、と口にするのも腹立たしい。判っていて訊く零のことはやっぱり苦手だ。そんなGINの内心は、実際に言葉として零に伝わることはなかったが。

「風間」

 零が名を呼び、自身の膝を伸ばす。GINも釣られてソファから立ち上がった。

「ありがとうございます。でも、血漿の扱いは、あなたが余計に面倒を感じる手順が必要になりますし」

 促されるまま、寝室へ繋がる扉を開ける。真っ暗な闇がふたりの前に広がった。

「何より、苦痛を伴います。あの本間でさえ、投与当時のゆかりさんを最後まで見届けられずに部屋を出たくらいですから」

 零の手がGINから離れ、ベッドサイドのスタンドをともす。彼女からそれについて語られたのは、GINも血液を提出する必要があることや、零も大量の血液を提供しなくてはならない、といったような面倒な検査や体への負担の説明だった。

「なんか、結構難しいモノ、なんだな。でも」

 ――おまえは、それでいいのか?

 最も問いたい言葉は、簡単に紡げるものではなかった。零がそれでいいと思っているはずなどないことを、GINはとうの昔から知っている。年に似合わない少女趣味な、零の夢を知っていた。

 零は紀由の家族になりたかった。彼の子の母親になりたかった。零が紀由と出逢った時、すでにその席には志保がいた。ふたりが出会うよりも前から、零は“温かな家族”という自分の夢を諦めてしまうほど汚れた歴史を背負っていた。

 ジャケットを脱ぐ衣擦れの音がする。彼女の黒い髪が解かれ、白い背中を滑る音がかすかに奏でられた。

 GINは扉の前で木偶の坊のように突っ立ったまま、身動きが取れずに俯いた。固く握られたGINの手が不意に包まれ、零の方へと引き寄せられた。

「そんな顔をされたら、こちらが萎えます」

 そう言ってくすりと寂しげに笑う。彼女がどんな顔で言っているのか解らない。目を合わせる度胸など持ち合わせていなかった。

 引かれるままベッドサイドに立ち尽くす。彼女の手がGINの両手からグローブを外し、ベッドサイドのデッキへそれを放った。

「あなたは私の好みに育てたのですから。私は意外と楽しませていただいてますよ? どうせならあなたも任務と思わず、楽しめばいいのではありませんか?」

 小悪魔のように耳許でそう囁く。百合の香りが鼻を突く。シャツで覆われていた胸元が、解放感とかすかな冷気でぶるりと震えた。

「ご無沙汰だったのでしょう? 今日はあなたに合わせてあげます」

 甘ったるい声と吐息が、GINの鼻先で挑発と誘惑を繰り返す。

「れ」

 零、と彼女を制する名を呼ぶことさえ阻まれた。固く瞼を閉じれば、マトリックスの嵐がGINを襲う。ざらつく不快感と、渇いた欲望。螺旋のようにそれらが織り合い、理性や思考を混沌とさせる。どこかでどさりと音がし、柔肌の肉感がGINの欲情を刺激した。

「ん……」

 オレンジの淡い灯りさえ、GINの視界から消え失せていった。




 キャリア組の父を持つ紀由と違い、GINの出世は功績次第。そして、どれだけ功績を上げたとしても、紀由と同じ場所まで上り詰めるのは不可能だった。

『もっと早く知ってたらなあ』

 雛が初めて見たものを親と慕って真似するように、GINは紀由の二年後に同じ道を辿って来た。突然辿る道が途絶えたと気づいたのが、大学三年のころ。GINにそれを教えたのが、同じ射撃サークルに在籍していた土方零だった。

 サークルに所属する仲間のほとんどが、趣味に留まっているかオリンピックを目指しているかのどちらかでしかなかった。入部理由について話に花が咲いたとき、GINの“刑事になれば、射撃のスキルが必要だから”という言葉は、その場の空気を凍らせた。相変わらず変わり者扱いでポツンと独り無言で飲んでいた、その席で隣へ腰掛けて来たのが零だった。それがきっかけと言えばきっかけだった。

『この大学では、そんなものですよ。T大であれば、ごくまともな動機です』

 そう言ってビールのジョッキを傾けられた。そして立て続けに尋ねられた。

『あなた、当たり前のように言っていましたけれど、どうして刑事を目指すのですか?』

『……なんで?』

 そのときGINが零に抱いた第一印象は“能面みたいに無表情で気持ちの悪い女”だった。機械的に問い掛ける声の低さが妙にGINを萎縮させた。

『……親友が総監を目指してるから。そいつなら、絶対なれる。俺はそいつのお陰で今があるから、今度は俺がそいつを守りたくて』

 そう言ったGINの答えを、零がどう解釈したのか解らない。ただ、一瞬だけ表情を見せた。言葉では巧く言えない複雑な微笑らしきものをかたどったのが印象的だった。

『守るため、ですか。羨ましい限りです』

 そのときは、聞き流していた。のちにその意味を理解して思い出すまでは、零が発した言葉の重みを解っていなかった。

『私も刑事を目指しています。私はあくまでも現場に拘っていますけれどね』

 そんな話から、思えばあれでも話が盛り上がっていたのだと思う。アルコールにも助けられ、互いに日ごろよりも饒舌になっていた。

『警察大学? この大学からそちらへ進むのであれば、かなり厳しい試験になりますよ』

『マジ? うわ……やっぱ一浪してでも、あいつと同じ大学に行けばよかった』

 GINは頭を抱えてテーブルに突っ伏し、今更嘆いても仕方のない恨み言を零していた。

『あー、でも、無理か。俺、浪人出来る立場じゃないや』

 もっと早く知っていたら、と零す自分が情けなかった。

『随分とその親友の目標が実現されることを信じ切っているんですね。何があなたにそう思わせるんですか』

『だってあいつ、警視総監の息子だもん。間近で目標を見ているし、あいつの根性は半端ないし』

『総監……の、息子……本間紀由と知り合いだったのですか』

『へ? 知ってるのか?』

 零は警察関係者で紀由を知らない者はないと言った。彼が警察大学入職から半年も経たない内に、当人の資質を理由に警察上層部から注目されている事実も、そのとき初めて知らされた。




 当時、過保護なGINの兄貴分は、非番になるとGINの大学へ足を運んでいた。いつも由良を伴っていたのは、志保の機転だったのかも知れない。

 GINが零と紀由を引き合わせたのは、大学の食堂での偶然からだ。そのときGINは、紀由から説教を食らっていた。

『お前な、俺だってまずは現場からだぞ。現場を知らずして指示を出せる立場に立てるか』

 そもそも現場で臨機応変に動ける方が、机上でやきもきするよりよほど遣り甲斐がある、と紀由は言う。由良はそんな紀由の隣で呆れ混じりの溜息をつき、こっそりと肩をすくませた。

『兄さん、もういいから早く食べてしまわないと。学食、結構混んで来たわよ』

『ん? お、本当だ』

 紀由は周囲をぐるりと見回し、慌てて食べさしの牛丼を掻き込み出した。

(サンキュー)

 こっそりと唇だけで、由良に謝辞を述べる。にこりと笑う彼女の向こうに、席を探して辺りを見渡す長い黒髪が目に入った。

『零、席がないのか?』

 少しためらいつつも声を掛けたのは、彼女の手にしていたものがざる蕎麦だったからだ。伸びたら、ただでさえあまり美味くない学食が更に不味くなると思っただけだった。

『風間……いいのですか?』

 珍しく零が戸惑う表情を見せた。彼女に背を向けた恰好の本間兄妹が、彼女の方を振り返る。

『神祐の学友か?』

 と紀由が気さくに問い掛ければ、

『相席でも構わなかったらどうぞ。私たち、もうすぐ食べ終わりますし』

 と由良がGINに手を出し、隣の席にある荷物を寄越せと言外に命令する。

『座れば?』

 由良のバッグを手渡しながら、GINもそう促した。

『でも』

『あ、そうだ。これ、本間紀由』

 まだ遠慮がちに立ち尽くす彼女に、そんな餌を撒いてやった。GINに悪意はまったくなかった。そのあとの展開など、このときのGINには想像すら出来なかった。


『女性で一課配属希望なんて珍しいな。いずれは結婚するという将来を考えて、安全重視の部署を目指す女性が多いのに』

 場を和ませようと雑談に興じた紀由の言葉に、初めて零が素の表情を見せた。GINは目の前の小さな事実に、少なからぬ衝撃を覚えた。

『……私には、不向きですから。そういう平穏な暮らしというのは』

 深くて黒い思念を、GINの《能力》が薄ぼんやりと感知した。仮に《能力》がなかったとしても、彼女の澱んだ瞳を見れば誰でも解る。それを証明するかのように、紀由が自分の言葉に謝罪を添えた。

『いや、すまん。余計な詮索だったな。頑張れ――って、お前もだよ、神祐』

 紀由は幾分か湿った空気を乾かすように快活に言ったかと思うと、GINの丼から海老天を勝手にひとつさらっていった。

『あ、てめ、紀由! 一本しか入ってないんだから、それを取られたらただの丼じゃんかよ、これ!』

 紀由の配慮に便乗し、GINも調子を合わせて食らいつく。

『ちょっと、神ちゃんも兄さんも。ほら、零さんが呆れてるじゃないの』

 由良がそう言いながら、自分の丼から海老を一本GINの丼に分け与えた。

『はい、もう。これで喧嘩はおしまいっ』

『……はい』

『……むぅ』

 そんな三人のやり取りを見て、零がまた別の顔を覗かせた。それもまた初めて見る彼女の表情だった。

『風間から話は伺っていましたが、本当に兄弟みたいに仲がよろしいんですね。噂の本間紀由さんの、意外な一面を見せていただきました』

 そう言って小さくくぐもる笑い声は、意外と高く可愛らしい声だった。

『噂? なんのだ?』

『プロファイリングの講義で、講師を論破されたそうですね。先日報道されていた強盗事件実行犯のプロファイルはあなたがされたのだとか。知り合いの所轄が、こちらの面目が立たないとぼやいていました』

 そう言ってまたくつくつと笑う。零のそんな柔らかな表情に、つい目を見張ってしまった。

『土方、それは噂ではなく情報漏えいだ。その所轄ってのは、誰だ』

 紀由の目つきが、オフから険しい仕事のものへと瞬時に変わった。剣呑な視線に臆することなく見つめ返す、零のその肝にも再び驚かされた。

『机上の理論だけで即現場対応が出来るはずなどない、と私は考えています。好奇心から彼に問い質したのではありません。向学心から無理やり聞き出したのは私です。その件に関しての御用向きでしたら、私がお話を伺います』

『……』

 紀由が言葉に詰まるなど、滅多にないことだった。GINは由良と顔を見合わせ、不安げな瞳をかち合わせた。

 テーブルに箸の置かれるカタンという音が、やけに大きく響いた。つるりと零の蕎麦をすする音が気まずい沈黙の中に響く。

『土方。食い終わってからで構わない。少し顔を貸せ』

 零はそう申し出た紀由に視線を向けず、二、三度蕎麦をすすると、ほどなく静かにトレイへ箸を置いた。

『ごちそうさまでした。結構ですよ』

 あとで合流すると紀由に告げられたGINと由良は、ただ黙ってそれに頷くしかなかった。

 ふたりが去ったあとの席で、由良と頭を突き合わせて小声で話す。

『紀由、浮気か?』

『神ちゃん、バカでしょう』

『だって、ヘンな空気だったじゃん』

『それより、さっき言っていた所轄の人って、どうなっちゃうんだろう』

 兄さんはちょっとの不正も許せない人だから、と物憂げに言われると、反する持論が見つからなかった。

『どうも、ならないだろ。いくら紀由が上から目を掛けられているからって、結局はまだ警大のぺーぺーなわけだし』

『う……ん、そっか。そうだよね』

『それに、どっちかっつうと、零が紀由を嵌めた気がするんだよな。あいつのデカに対する気負いって、半端なく強いから』

 初めて零と語り合った居酒屋の席で見た、彼女の強い眼差しを思い出し、そのときのやり取りを軽く由良に話した。

『神ちゃん、随分零さんのこと、詳しいのね。もしかして、彼女?』

『は?』

 想定外のストロークを投げ込まれ、声がそれまでの二倍になった。

『勘弁しろよ。能面に興味ないし』

『能面?』

『あいつがあんなにくるくる表情が変わるのなんて、今日初めて見たんだぞ。普段は何考えてるかわかんないやつ。サークルの連中が影で“能面”って陰口叩いてる』

『今、神ちゃんもそう言った。性格悪い』

『う』

 結局その話はうやむやにされ、他愛ないいつもの話に流れていった。

 その後紀由から連絡があり、落ち合ってみれば、零も紀由と一緒にいたままだった。軽く挨拶を交わして零と別れ、三人でその後ろ姿を見送った。

『あいつは考え方さえ変わらせてやれば、きっといいデカになる』

 零の背中を見つめながらそう呟いた紀由には、新しい仲間を見つけた喜びを表す笑みさえ浮かんでいた。

『神祐、零に抜かれるなよ』

 彼の零への呼び名が「土方」から「零」に変わっていた。

 それを境に、四人で会う機会が増えていった。その辺りから誰からともなく、「GIN」「零」「本間」と互いを呼び合うようになっていった。少なくてもGINは、零の前で紀由の名を口にするのがためらわれた。時折刺して来る彼女の視線が、GINにそう思わせた。実際は赤の他人なのに、家族面で紀由の名を呼ぶ自分の浅ましさを、零に咎められているような気がした。

 過ごす中で、少しずつ知る。零が苗字を呼ばれるのが嫌いなこと。何も語られはしないが、紀由がその理由を知っているらしいこと。時折志保が四人に混じり、その存在に零が表情を変えたこと。そういったことにあまり関心のないGINにも、由良に言われるまでもなく零の淡い想いが窺い知れた。

『引き合わせなきゃよかった。どうしよう、由良』

『どうしよう、って……どうしようもない、と、思う。だっていきなり声を掛けなくなったら、それこそ大人げないでしょう?』

『そか……うぉ、面倒くせえ』

『神ちゃんのせいじゃないから。そんなに落ち込まないで。ね?』

 一度は人間らしい表情を見せた零の表情が、次第に元の能面に戻っていくのを見るのが心苦しかった。由良はお門違いな罪悪感だと言ってくれたが、どうしても割り切れなかった。




 群れて行動している誰かを見て、“いかさまめいた強者”と感じ始めたのはいつからだろう。元々他人に執着しない――というよりも、執着するほどの濃いつき合いをしたことがない。警察学校での生活に馴染んだころには、自分の喧嘩強さ――もちろん《能力》を行使しての偽りの強さに過ぎないが――を当てにしてまとわりつく連中が愛想を振り撒いて来る程度で、GINが素でいられるほどの存在は現れなかった。

(なんで俺、ここにいるんだろう)

 紀由と志保の結婚披露宴会場で、新郎側の友人席に座る自分を不思議に思った。零のせいではないが、紀由との間に、幼いころにはなかった妙な壁を作っていた。

 卓上に置かれている料理は、見慣れない豪華なものばかりだった。どう食べていいのかわからない上に食指が動かない。それらの凝った盛り付けや色合いが、却ってGINの食欲を萎えさせた。学校とは名ばかりで、これでも一応給与をもらっている立場だ。食い慣れないものを食って、腹を壊している暇などなかった。アルコールで満たされたグラスだけに口をつけながら、GINは隣の席をそっと盗み見た。

 会場の前半分を占める警察関係者の席ではなく、目立たない後部に位置する新郎側の友人席。零の席をGINの隣にと志保に提案したのは由良らしい。

『兄さんが鈍感でごめんなさい。少しでも遠い席の方がいいかな、と思って』

 それは同時に、志保に対する配慮でもあったようだ。先の紀由の鈍さに対する謝罪は、志保の言葉でもあると由良が言っていた。生まれた時から一緒に育って来た幼馴染だという志保からの伝言は、GINから見ても余裕と自信に受け取れた。

(……めんどくさ……)

 ねじれた人間関係を外側から見て、つくづくそう思った。GINのほかに会話を交わす相手もない零は、やはり食事にはほとんど手をつけていなかった。速いペースでワイングラスを空にしては、ギャルソンに手招きを繰り返していた。限りなく黒に近い深紅のパーティドレスに、漆黒の長い髪を下ろしていた。それが頬にかかっているのにも気づかないほど酔っていた。肩や二の腕を覆っていたシルクのショールがだらしなくずれて、白い肌を見せているのにも気づいていない。

 呼ばれたギャルソンが、心配そうな顔でワインの載ったトレイを零へ差し向けた。GINはそんな彼に、そっと目配せを送った。同時に危なげな手つきでグラスへ手を伸ばす零の手を、グローブを嵌めた手でそっと制した。

『お前、飲み過ぎ。もうやめておけって』

 そう諭すGINに、とろんとした瞳が哀しげに微笑んで来る。

『放っておいて、ください、と。たまにはいいじゃないですか、と』

『なんだよ、そのいちいちくっつく“と”っていうのは』

 そうちゃかして笑う声に、無理が出た。そんなふたりの許へ、和服姿の女性と燕尾服姿の男性がビールを手に近づいて来た。

『志保の父でございます。この度はお忙しいところを本当にありがとうございます』

 そう言って零にグラスを取るよう促す、志保の父親。

『まだ若い二人ですし、志保は至らない娘ですが、どうぞ色々教えてやってくださいね。もう、きゅうちゃんが配属を機に是非、と言ってくれたので喜んでお受けしたものの、右も左もわからない子ですので心配で』

 志保とよく似た面差しの母親が、目を潤ませながらまくし立てた。

『お母さん、場をわきまえなさい。余計なことをしゃべり過ぎだ』

『だってお父さん』

 そんなふたりに、零がおもむろに言葉を返した。

『おめでとうございます。お似合いのお二人で、幸せのお裾分けを頂戴いたしました』

 そして注がれたビールを一気に飲み干し、小さく一礼して立ち上がった。

『おい、零?!』

 慌ててGINも立ち上がり、志保の両親に軽く会釈を返してから急いで彼女のあとを追った。

 その日は、紀由が幼いころから想いを交わしていた志保と、晴れて夫婦になった日。同時に、零の失恋記念日とも言い換えられた。




 赤いテイルランプが続く車道を左に、零の体が右へ左へと、揺れる。

『零、危ないから。縁石の上を歩くなって』

 結局宴の終わりも待たずに、ふたりして披露宴会場を抜け出していた。

『ほうっておいて、くださいよ、と』

 舌足らずにそう言いながら、くるくると泥酔ダンスを踊る。ショールはもう役目を果たしていない。零のおもちゃと化していた。

『きゅうちゃん、ですってよ、と。似合わない呼び方、ですよねえ……と』

 紅いドレスがふわふわと風に舞う。踊る零に合わせてショールが翻る。たなびく黒髪が、零の代わりとばかりに乱れて広がった。

『途中で抜け出したら、あいつも心配するじゃん。一旦戻ろう』

『あいつ、ですか。誰?』

『何言ってんだよ。本間だよ』

『ほーんーま……。ああ、あなたの、家族みたいな、だーいじな人、でしたよね』

『あ? なんだよ、それ』

『すーっごく、欲張りな人。たくさん、ほかにも、大切な人がいて。大切に、思われて』

 ――住んでいる世界が、違う人。

 その言葉だけが、一瞬にして周囲の喧騒が消えてしまうほどGINの耳に響いた。

『あなたなんか、大嫌いです』

 舞う両の脚がぴたりと止まる。

『私など、本間の眼中にありません。あなたの闘争心を刺激して引き上げる存在。あの人が心配するなら、風間、あなたのことだけですよ、っと』

 振り返った彼女の頬が、テイルランプに照らされキラリと光った。唇は絵に描いたように端正な微笑をかたどるのに、その瞳が新月のように真っ黒で何も見ていなかった。

『……言ってる意味がマジわからんし』

 思わず立ちすくむ。そんなGINを見た彼女が、「ふん」と小さく鼻を鳴らしてまた背を向ける。

『あの人の周りにいる人は、みんな、みぃんな、綺麗。私は、薄汚い。きっとそれが、体中から滲み出てるんですよ、と』

 また彼女が、ふらふらと縁石の上を伝い歩いて踊り出す。

『だからやめろって』

『あなたも、綺麗。あなただって、施設育ちの癖に。いいですよね。本間や由良と、同じに見える。私の目には、綺麗に……あ』

『あぶな……っ』

 咄嗟に足を踏み込んでいた。零が車道に大きく傾いた瞬間。派手に鳴り響くクラクション。瞬時に彼女を抱きかかえ、そのまま目の前に迫った車のボンネットを踏み台にしている自分がいた。

『え?』

 ふたり同時に発した言葉。そのまま車道の反対脇に転がり込む。反対側の舗道を飛び越え、人の身丈以上のフェンスさえ越えた、無人になっている公園へ。

 早く脈打つ心臓が痛かった。公園の外灯の照らす景色が淡い緑色に染まっていた。

『風間……その瞳』

 その声で我に返った。慌てて右手で両目を隠す。癖でつい決して外れないようにと、グローブを力いっぱい引っ張った。

『かざ』

『見るなっ』

 即座に彼女を手放し一歩退く。立ち上がろうと左手を芝生についた瞬間、その手を零に取られた。

『離せっ、寄るなっ』

『グローブ……見当違いなファッション、というわけではなさそう、ですね』

 遠慮なくGINにまたがり、自重を掛けて束縛を試みる。そんな零を跳ね返す時間さえ与えられなかった。乱暴にグローブが取り去られ、零の素手がGINの手に絡みついた。

『!』

『!』

 それは、これまで一度も感じたことのないほど鮮明な思念。同時に襲う、割れるような頭痛。今まで見たこともない螺旋の配列が、固く目を閉じたGINの前に広がった。その隙間から見えるコマ割りの映像。見覚えのあるそれは、GINの遠い記憶。

 ――もう読まないから。ぶたないで……。

 小さく身を丸めている、貧弱な少年。腫れた頬で顔が変形している。GINの頬に、ぬるいものが伝っていった。

 同時に溢れ返る映像と音声は、GINには覚えのない凄惨な光景。生臭さやすえた臭い。零の今来ているドレスよりもどす赤黒い一面の海。振り返る漆黒の髪の少女は、見覚えのある切れ長の虚ろな瞳でGINを見た。

『そんな……こんなにはっきり……視えたことなんか……』

 うっかり口を滑らせた。その声がGINを今に引き戻した。

『なん、ですか……これは』

 その声に弾かれ瞼を開けた。視界はすでに通常に戻っていた。無造作に放られたグローブを拾い、急いでつけ直す。呼気と吸気の間隔が異様に短いことに気づくと、もっとうろたえた。心臓がはちきれそうな勢いで伸縮を繰り返す。

(……ばれた)

 紀由や由良にさえ隠して来たことを、よりによって最も苦手な存在に知られてしまった。

 俯いたまま固まっていたGINの頬に、ひやりとした細い指がそっと触れた。ゆっくりと顔を彼女の方へと向けさせられ、抗う言葉を呑まされた。

『そう……。本間も由良も知らないそれが、あなたの秘密、なんですか』

 潤んだ瞳で、酔った彼女が妖しい笑みを闇夜に零す。

『あなたのことが私に流れ込んで、あなたが私の顔を見れない。それは、あなたも私の秘密を知ったからでしょう?』

 頭痛が益々ひどくなる。喉がからからに渇いていた。潤す役割を担う唾液さえ分泌されず、喉が張りついて声も出せなかった。

『た、のむ……本間と、由、良に……は……』

 やっとの思いで絞り出された声が、低く芝生の地を這った。そんなGINをなぶるように、零が挑発の言葉を囁く。

『こうして間近で見ると、可愛らしい目をしているんですね。まるで、子供みたい。だから前髪を伸ばしているんですか?』

 彼女がするりと懐に忍び込む。完全に後手を取っていた。それに気づいて悔し紛れに吐いた言葉が、GINの自滅をいざなった。

『……ガキのころから売りをやってたお前に言われたくはない。俺がガキなんじゃなくて、そっちが変に老け込んでるだけじゃないの?』

『似た環境で育って来たのに、本当にあなたはゆがみがありませんものね。……羨ましいくらいに、綺麗』

 真っ白な能面に、赤い月が宿る。だから穢してあげる、と、その月が囁いた。

『本間の親友と寝たともなれば、切り捨てることが出来るでしょうか』

 彼女の囁きに合わせて吐き出される息が、GINの鼻先を艶かしくくすぐった。

『あなたを穢せば、少しはあの人の大切なあなたを憎まなくて済む私になれるのかしら』

『やめ……ッ?!』

 重なり合った唇が、更に色濃く鮮明な思念を送り合う。細胞に刻んでいく、という表現がぴたりと合うほど、知りたくも知られたくもない思考や記憶が溢れ返った。GINの意向などお構いなしで、体と本能から湧き出て来る下衆な欲が、細胞単位で彼女との接触を貪欲に求めた。触れただけの口づけが次第に激しく絡むそれへと変わっていった。

 ――チェリーボーイを卒業させてあげる。

 触れることで秘密が表に出るのを恐れていたのでしょう、という彼女の言葉がGINの頬を熱くさせた。なのに頷く間のわずかな分離さえ惜しむ欲が、どこか自分のものではない気分にもさせた。

 誘われるままタクシーに乗り込み、辿り着いた先は、よくある“そういう”場所だった。部屋の扉を閉める時間さえ焦れったく、乱暴に零の身体を抱き寄せた。彼女が慣れた仕草でGINを誘導する。わずかに抗う思考さえ、その瞬間に消え去った。

(全部もう……どうでもいいや)

 頭痛と、動揺と、混乱、誘惑。それらがGINを征圧した。




 その後GINは、悔やんでも悔やみ切れない不可解な変化に見舞われた。

『な……んだ、これ……』

 素手で触れるもののほとんどから、雑多なノイズが溢れ、GINの五感を刺激した。ざわめきに近いそれらが伝えて来るのは、そのアイテムに関わった者の残留思念。恐る恐る、脱ぎ散らかした自分の服に触れてみる。

 ――ふざけんなっ、他人事だと思って!

 怒鳴り散らす醜い自分を見て、思わず手にした服を手離した。

『どうしたのですか』

 隣からの気だるい声が、GINをぎこちなく振り向かせた。

『……なんか、変』

『変?』

 零が怪訝そうに顔をしかめ、ゆっくりと身を起こした。そのとき一瞬だけ、彼女の素肌がGINのそれに直接触れた。

『え?』

 そんな気の抜けた彼女の声が、GINの焦りと不安を刺激した。一瞬触れただけなのに、彼女とまぐわったときと同じ鮮度で彼女の思念が流れ込み、こちらの思念も駄々漏れになった。

『どうして?』

 床に打ち捨てられたままだったグローブを急いで両手に嵌める。その手で呆然とGINを見つめる零の頬にそっと触れた。

『……漏れて』

『ますね』

『なんでだよ、今までそんなこと』

 それ以上は、言葉にならなかった。零の瞳に映る自分の瞳が、小さく左右に揺れていた。

『ほかに、何か変化は?』

 零が静かに問い掛けた。

『……頭痛が、やんだ。モノに触ると、なんか聞こえるし、なんとなくイメージみたいなもんが勝手に見えちまう』

『“そちら”の方も、大人の段階に成長した、ということでしょうか』

『ふざけんなっ、他人事だと思って!』

 咄嗟に自分の頬へ触れた彼女の手を払い除け、怒鳴り散らした瞬間はっとした。

『これ……さっき、見た』

『見た?』

『自分のシャツを掴んだとき……同じ景色を、見た』

『……予知的なもの、ですか』

『わかんねえよっ。どうするんだよっ。零のせいだぞ、今までこんなことなかった!』

 何にも触れられない。誰にも知られてはいけないのに、これまで以上に覚られやすい感度に自分が変わっている。その現実を目の当たりにし、思考も理性も崩壊した。

『どうしよう……どうしよう……こんなんじゃ……』

 ――紀由を守るどころじゃない。

 ベッドの上で、子供のように膝を抱いて丸まり、頭を抱えて嗚咽を漏らす。自分という存在を、GIN自身がほかの誰よりも気味悪く思い、怯えていた。

『風間……落ち着いて、ください』

 そんな声が頭上から降った。パイルの生地が、GINの頬をそっと撫でる。抱きかかえられた頭をわずかにずらして瞼を開けると、バスローブの更に下へ服を着た零の豊満な胸が覗いていた。

『どうですか。まだ、私の思念が伝わりますか』

 かなり薄ぼんやりとして、耳障りや目障りを感じるほどではなくなっていた。

『……へーき』

『よかった。シャワーを浴びて、少し気を落ち着けましょう。それから一緒に考えましょう』

 今はほかに、手立てがない。GINはこくりと小さく頷いた。


 ここまでばれてしまうと、却ってある種の開き直りが生まれてしまう。互いに宴席での酔いはすっかり醒めていた。GINの動揺もかなり薄まり、お互いの身づくろいが済んだころには、冷静に話せる程度の気丈さを取り戻せていた。

『――っていう感じ。巧く説明出来ないところは直接《送》る』

 そう言って零の額に掌を押し当てると、彼女は静かに瞼を閉じた。

 意図して送る思念は、主観まみれではあるが整理されて送ることが出来る。この奇異な力の程度や種類、どこまでがコントロール出来ていることで、どこからが自分で制御するのが不可能なのか。異様に掌への熱を感じ出す。《能力》がGINの制御を凌いで暴走し始めるサインだが、その温度がこれまでとかなり違う。やはりこれまでよりも力が増していた。

『零……限界』

 苦しげに断りの声を絞り、翳した右手を左手で引き剥がす。零に見えているのかは判らないが、GINの掌に小さなつむじ風が渦を巻き、その摩擦熱がGINの掌をうっすらと焼いていた。

『おおよそのことは、把握しました。あなたの意図的な思考や思念を相手の脳へ送ることも出来るのですね』

 最も感度の高い部位は掌。幼少期の服装が、ほかの子と変わらず半袖やハーフパンツを着ていられたことなどから、《能力》の成長は今に始まったことではないと結論づけられた。

『ケチらず本革のグローブに替えてみたらどうでしょう。それから、夏場も今後は薄手の服を避けるように』

『お前、俺を蒸し殺す気かよ』

『集団リンチで痛めつけられるより、かなり不快感が少ないと思いますけど』

 辿られた過去を引用して揚げ足を取られ、ぐうの音も出せなくなった。

『ひとつ、訊いてもいいですか?』

 そう呟いた零の表情が、途端に憂いを帯びた。

『何』

『その《能力》は、使いようによっては大きな助けになると思われます。本間の楯として、それを受け容れる気はありませんか』

 予想外の提案じみた質問に、答える言葉が思い浮かばなかった。

『……楯……』

『彼が上を目指すには、派閥、功績、その他諸々の障害があります。彼が余計な雑事に囚われないでまい進していけるように、私たちが彼の下について押し上げていく……刑事の道を、そのまま一緒に歩んでは、行けませんか?』

 遺留品から、容疑者のあとを追える。運がよければ予知が働き再犯を防げる可能性も生まれる。捕らえれば、思念を送って自白を促せるかも知れない。零が次々と、そんなポジティブな可能性を並べ立てた。

『頭痛の副作用は、私が引き受けます』

『引き受ける、って』

『私があなたの鎮痛剤になります。だから、お願いします』

 ――本間を、守って。

 彼女から、敬語が抜けた。必死の眼差しが揺れ始める。黒曜石の瞳から、ついとひと筋が伝い落ちた。

『何がお前にそこまで思わせるんだ? 不毛だろ、報われもしないのに』

 ためらいつつも、素手で彼女の頬を拭う。痛いほどの思念が掌に突き刺さった。

『あの人は私の過去をすべて知っていたのに……“美人が台無しだ”と、言って、くれたんです』

 紀由は“土方”“所轄の知り合い”のキーワードだけで、ひとつの事件を連想したらしい。過去の事件を読み取ることでプロファイリングに必要な情報を蓄積させていた彼が、不可解と心に残った事件だったと言われたそうだ。

『あなたが私の思念で見たとおり、私にはそういう事件に関わった過去があります。あの人は、知っていたんです。その上でそう言ったんです』

 復讐のためではなく、人を生かすための刑事になれ、待っている、と。

 それを聴いているGINの顔が、引き攣れてゆがんだ。彼に非がないのは解っているが、あまりの愚鈍に臍を噛む。尋ねてしまった自分の鈍さに憤りを禁じ得ない。

『あなたなら、解ってくれますよね? 誰一人自分と繋がる人がいない中で、自分を認めてくれる人に対して自分がどうありたいと願うのか』

 すみません、と続く言葉が、いきなり小さく弱まった。

『深酔いのせいにしてはいけませんよね。初心を忘れて我欲に走った自分を……恥じます』

 既に本間から、身に余るものをもらっていたのに。寂しげに彼女は言う。彼が笑みを消し、ゆがんだ表情で上層部とわたり合うために手を穢す様を見たくない。能面と影で揶揄されていたはずの女が、感情をむき出しにして吐き捨てる。

『彼に手を穢させないためなら、なんでもします。だから風間……お願いです』

 しまいには俯いてしまった彼女の頬にそっと触れて顔を上げさせた。

『解ったよ。……ちょっとだけ、いい夢を見せてやる』

 そう囁きながら、顔を近づける。合わせて瞼を閉じた彼女の目尻から、最後のひと雫がこぼれ落ちた。

 常に肩書きを身にまとう紀由のラフな姿など、零は見たことがないだろう。伝う涙が教えて来た、彼女のささやかな夢を思念に練り込み、彼女の唇を介して送り届けてやった。

 こんな立ち位置、関係でなければ、思わず苦笑してしまいそうな少女趣味。くつろいだ恰好の紀由が、庭先に置いたチェアに腰掛け、新聞を読んでいる。それを邪魔するのは、零とよく似た艶やかな黒髪と、紀由にそっくりな強い光を放つ瞳をした、フリルのスカートが似合う少女。

 零が本当に好きな色は、黒ではなく淡いピンク。似合わないとふたりして笑うのを見て、一緒になって苦笑する。

 そんな夢物語が、零の目にGIN以外の誰かを映させた。

『紀由』

 夢の中でしか彼の名を呼べない零が、あまりにも哀れだった。




 零による《育》の“任務”のお陰で、体調はすこぶるよい。だが、過去ログを辿るという夢見の悪さのせいか、どこか身体が重い。

(身体っつーか、腕か)

 零の首から腕枕を解こうと少し動かしただけでジンとする。

「ん……」

 甘い吐息とともに、零がGINの首を掻き抱いて引き留めた。右腕が、不意に浮いた彼女の頭から解放される。突然血流がよくなったことで、泣きたくなるほどの痺れが右腕に走った。

(……ぉっ)

 思わず低く呻いてしまったが、すぐにもう一方の手で口を押さえて声を殺した。そっと彼女の顔を窺うと、無防備な顔で眠ったまま小さな寝息を立て続けていた。

 ふと、気がついた。不毛なこんな時間がふたりの間に数え切れないほどあったにも関わらず、零の寝顔を見たのは今日が初めてだ。

「本間の心配どころじゃないじゃん。お前が過剰勤務だっつうの」

 表の仕事と裏の仕事、由有の送迎にRIOの教育者。ゆかりへの献血に、恐らくきっと組織に対するダブルスタンダードの画策を続ける本間とともに、彼女も動いているに違いない。

 すっかり夜が明け、カーテンの隙間から朝陽が忍び込んでいる。そのひと筋が零の頬を片側だけ細く照らし、彼女の流す涙に見せた。

「等価交換に、なるかな」

 小さな声で独り呟き、GINは素手で彼女の額にそっと触れた。

 五年ぶりに再生させる、少女趣味な零の夢。苦笑混じりで送りつつ、淡い微笑を期待した。ありふれた平凡な家庭を夢見る零が、愛情のない交わりに平気でいられるはずがない。せめてもの、償い。ささやかな罪滅ぼし。そして、厚かましくも赦されたいと願う我欲混じりの、贖罪。

「ん……うそ……違う」

 期待した微笑は、彼女の顔に咲かなかった。まるでGINを責めるように眉根を寄せて、ただそれだけを口にした。

「零? 起きてるのか?」

 咄嗟に手を離し、彼女と少し距離をとる。

「う……うん」

 彼女は黒曜石の瞳を見せることなくころりと寝返り、白い背中をGINに向けた。

 零の頬に一瞬見えた、陽射しではない、本物の涙。夢も完全に渇き切って、虚無だけが彼女を満たしているのだろうか。ただ使命と初心への義務感だけを支えに、日々を送っているのだろうか。

「……なんとか、しなきゃな」

 いつまでも零の厚意に甘えていられないような気がした。GINは零を起こさないよう、そっとベッドを抜け出した。支給された携帯電話で紀由の番号をコールする。

『本間だ。どうした』

『なあ、ちょい訊きたいんだけど。血漿投与で俺の頭痛もどうにかなりそう?』

 GINは紀由に、高木ファイルの中からそれに関する資料がないかを早急に調べて欲しいと願い出た。

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