悪役令嬢に転生したけど、ゴリラに滅茶苦茶にされました
プロローグ 死因:社畜
「お疲れ様でーす」
誰もいないバックヤードに声が吸い込まれる。時刻は午前三時。閉店作業を終えた私――田中美咲、三十五歳――は、油まみれのユニフォームのまま事務所の椅子に崩れ落ちた。
今月の残業、二百四十時間。休日、ゼロ。店長という名の無限責任労働者。法令遵守? 何それ美味しいの? うちの本部が食べちゃったよ、とっくに。
視界がぐらりと揺れる。
あ、これ、だめなやつだ。
胸の奥を万力で締め付けられるような痛み。膝から力が抜けて、冷たいコンクリの床に倒れ込む。頬に触れる床が、妙に心地よかった。
最後に浮かんだのは、高校時代に夜通し遊んだ、あのゲームのタイトル画面だった。
――『貴族学園物語~王子達と拾われた私の話~』
薔薇の咲き乱れる庭園。白亜の校舎。あの世界に行けたら、少しは休めるかな――。
そんなことを考えながら、田中美咲は、死んだ。
享年三十五歳。死因:社畜。
診察上は急性心不全。
第一章 転生先は天国
目を開けると、天蓋付きのベッドだった。
純白のシルクのシーツ。薔薇の香りの漂うカーテン。窓の外からは小鳥のさえずり。
「……天国?」
身を起こす。視界に入ったのは、鏡台に映る少女の姿。プラチナブロンドの髪。透き通るような青い瞳。信じられないほど整った顔立ち。そして何より――
「スタイルよっ!?」
思わず叫んだ。
富士塚と呼ぶのも烏滸がましい大平原が富士山に!
大平原から続く丘が崖、いや谷に!
富士山から谷を挟んでまた山だよ!
どこに消えたよ大平原! 大平原からの丘&丘の丘陵地帯も消失だよ!
ノックの音。同時に機械音
スキル 異言語理解を獲得しました
なんじゃこりゃ? と思う間もなく、
「ノーラお嬢様、お目覚めでございますか?」
ノーラ。
ノーラ・センス。
名門センス伯爵家の一人娘にして――
「悪役令嬢じゃん!!」
『貴族学園物語』における、やられ役。ヒロインをいびり倒し、最終的には社交界から追放される噛ませ犬。プレイヤーからは「テンプレ悪役」「もうちょっと捻れ」と散々な評価を受けていたキャラクター。
そのノーラの、定番セリフが脳裏をよぎる。
『森にお帰りなさい』
『動物園がお似合いですわ』
『サーカスで働きなさった方がよろしくてよ』
ぜんぶ言ったら追放エンド。報いを受けて社交界永久追放。家名断絶。路頭に迷うバッドエンド。
「……いやいやいやいや待って待って」
深呼吸。落ち着け。前世で鍛えた異常なストレス耐性を発揮する時だ。クリスマスイブにワンオペで百五十人を回した女だぞ、私は。
ここは冷静に、状況を整理しよう。
整理結果:
一、私は死んだ。
二、悪役令嬢に転生した。
三、原作通りに行動したら詰む。
結論――破滅フラグを絶対に回避する。
よし。シンプルだ。要はヒロインに絡まなければいい。原作の悪行イベントを全部スルーすればいい。前世の全ルートクリアの知識がある。どのタイミングで何が起きるか、全部わかっている。
完璧な計画だ。
ぐふふ、さらば社畜。こんにちは貴族。
「お嬢様、本日は王立アストリア高等貴族学園の入学式でございます」
はじまった。
第二章 ヒロインはワイルド
王立アストリア高等貴族学園。
アストリア王国の最高学府にして、貴族子弟の社交場。白亜の校舎は絵画のように美しく、手入れの行き届いた薔薇園の香りが風に乗って――
「――すっご」
いかんいかん。田中美咲が出てきた。
「まぁ、なんと美しい学園でしょう。学びの場にふさわしい格調高さですわね。お~っホッホッ」
これでいい。これでいいよね? 完璧な貴族令嬢ムーブ。
ゲーム中のノーラは入学式で既にヒロインに嫌味を言っていたが、私はそんなことはしない。誰にでも笑顔で挨拶。敵を作らない。前世の接客スキルをフル活用だ。
「ノーラ嬢、お久しぶりです」
声をかけてきたのは、金髪碧眼の美青年。制服の胸には王家の紋章。
シルヴァン・アストリア王子。攻略対象その一。メインヒーロー。原作では森でヒロイン『ローラ』を拾って学園に連れてくる、物語の起点となるキャラクター。
「シルヴァン殿下、ご機嫌麗しゅうございます」
完璧。教科書通りの挨拶。よし、このまま穏便に離れ――
「実は今日、紹介したい子がいるんだ」
来た。
原作通り。ここでヒロインが登場する。原作のノーラはここで「まぁ、なんですのこの野生児……」と暴言を吐くイベント。私はもちろんスルーする。にっこり笑って歓迎するだけだ。
「ローラ、おいで」
シルヴァン殿下が背後に声をかける。
茂みがガサガサと揺れた。
現れたのは――
一頭のゴリラだった。ご丁寧にセーラー服まで着ている。
「…………は?」
推定体重百八十キロ。筋骨隆々の四肢。知性を湛えた小さな黒い瞳。胸をドンドンと叩くドラミング。
周囲の貴族令嬢たちがキャーと黄色い悲鳴を上げた。
「きゃあ! なんてワイルドでパワフルな方!」
「すごい……あの躍動感……!」
違う。それゴリラ。
「この子はローラ。森で僕と出会ったんだ。名前がなかったから、僕が『ローラ・ローラ・ローラ』と名付けた」
『ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ』かよ!!
ニシローランドゴリラの学名そのまんまじゃねぇか!!
いやまてファンの間でもそのネタ散々言われてたわ!てかこれゲーム画面では見えなかったけどマジでゴリラだったんだ!!?
一枚絵に描かれていた「妙に太くて毛深い腕」。作画崩壊だと思っていた。絵師の悪ふざけだと笑っていた。
野生児じゃねぇよ! 野生だよ! ソフトに言い過ぎだろ、悪役令嬢さんよぉ
「ウホッ」
ローラ――いや、ゴリラが私を見た。黒い瞳がじっと私を捉える。
ゲームの知識が脳裏をよぎる。ヒロインの台詞がないのが特徴。何を考えているかプレイヤーにもわからない。
その時、不思議なことに――ゴリラの「声」が、頭の中に響いた。
『メシ』
……あ、スキル異言語理解。
余計なものを! スルーし難いじゃねぇか!
いや、原作でもノーラだけローラと会話してた様な?
どっちにしろ、内容は「メシ」だった。
「腹が減った」
ゴリラが四足歩行で移動を開始。目指す先は――中庭の果樹園。
「きゃっ、ローラさんったら、もうお庭を散策ですの? 活発ですわねぇ!」
令嬢Aが頬を赤らめている。あの、それ散策じゃなくて採食行動です。
ゴリラが林檎の木に手をかけた。
メキメキメキ。
枝をへし折って、実をむさぼり始めた。
「すごい! お強い!」
強いとかの問題じゃない。器物損壊だ。
「ノーラ嬢、驚いたかい? ローラは少し変わっているけど、とても良い子なんだ」
シルヴァン殿下が爽やかに微笑む。
良い子。まぁ、本能に忠実で素直なイイ子なのは間違いではない。
原作のノーラはここで『森にお帰りなさい』と言う。正直、今の私の心情としては百パーセント同意だ。だってゴリラだから。森が正解だから。
希少生物だ。この王子はワシントン条約に違反している。
でも言わない。言ったら破滅フラグだ。
にっこり。
「まぁ、なんと素敵な方。ぜひ仲良くさせてくださいませ」
社畜スマイルの完全勝利である。
第三章 日常がゴリラ
入学からゴリラの日々が始まった。
結論から言う。地獄だった。
漫画ならゴリラの分身を作れたと思う。
ローラ――ゴリラは、毎日とんでもないことをしでかした。
春の陽気が穏やかなある日。
校舎の外壁を素手で登攀。三階の教室の窓から侵入し、貴族子息のランチを強奪。クンクンと嗅ぐ。
『こんなの食うと腹壊すぞ』
そして窓から放り投げる。いや、人間は雑食だからな。肉食うぞ、肉。元飲食店店長としては許せない暴挙だが我慢。
(そういや、原作でも善意で投げてたっけ? 腐ってる扱いで。そんでノーラが咎めた場面だ。種が違うんだよ! 種が!)
「まぁ、ローラさんったら、おてんばですわ!」
モブ令嬢はこの調子。おてんばのスケールじゃない。そしてヒロインは全肯定される。絡んだら負けだ。突っ込んだら破滅だ。我慢しろ、私。
あの捨てられた弁当だって片付ける人がいるんだぞ!
また、ある日の雨上がりの午後。
体育の授業で馬術。ゴリラが馬に乗った。馬が辛そうだ。
そりゃどう見てもローラは相撲取り以上だもんね。お馬さん、のこった! のこった!
『走れ! 走れ!』
(馬がかわいそう。ってかサーカス行け! サーカス! って、原作ローラさん、あんた正しいよ)
「ローラさんの乗馬、迫力がありますわね!」
馬がへばってる。まるで昔の私だ。デカい荷物背負って無茶振りされて。
肌寒くなってきたある日の夕方。
ローラは中庭の大樹を揺すり、果実を大量に収穫。それを「おすそわけ」として攻略対象の王子たちに配布。
『お前ら木登りすらできなさそうな子供だもんな』
(王子も子供扱いね。まぁ、私もあれくらいの子がいてもおかしくないのよね。私とは無縁の美形達だけど)
「ありがとう、ローラ! 君の気持ち、嬉しいよ!」
シルヴァン殿下、嬉しそうに林檎を食べないで。あなた王族ですよ。絶対に酸っぱいでしょ、それ。
GW直前のある日。
学園に侵入した不審者を片手で振り回し、噴水に叩き込んだ。
なんかローラに挑戦する気だったみたい。
ゴリラを観ると血が騒ぐタイプだったのかしら?
「きゃあ、ローラさんが助けてくれましたわ!」
なぜか助けられた気になってるモブ達。
あの不審者、たぶん肋骨六本くらい逝ってる。
格闘漫画の元ラスボスでも大怪我だ。
外に雪が降り積もるある日。
学園のダンスパーティーにて。ローラがドラミングを披露。轟音が会場を揺るがす。シャンデリアが落下。
『これが本物の演奏だ!』
このゴリラ、ノリノリである。
「なんて情熱的な踊り! 新しいダンスの潮流ですわ!」
潮流……なのか? 貴族は野生に回帰するのか?
鮭が川に帰る様に。男が母を求める様に。
って、アホか。
そして毎回、毎回、どういうわけか被害の中心には私がいた。
折れた木が私の頭上に落ちてくる。投げ飛ばされた不審者が私の方に飛んでくる。シャンデリアは私のテーブルを直撃する。
それでも私は笑顔を崩さなかった。
「あらあら、まぁまぁ。大丈夫ですわ、おほほほ」
相手が「ウホホ」ならこっちは「おほほ」よ。
この程度、どうということではない。
前世で培った、理不尽に耐える力。上司の無茶振り、客の暴言、酔っ払いの絡み、トイレのゲロ、本部の方針転換、全てを笑顔で受け流してきた十七年間のキャリア。
それが今、ゴリラの暴挙を受け止めるためだけに発揮されていた。
……使い方、これで合ってる?
第四章 ゴリラのメス化
やがて異変が起きた。
ローラ――ゴリラの「声」が変わり始めたのだ。
最初の頃は『メシ』『寝る』『あの木登りたい』という動物的な独白だったのが、徐々に――
『ねぇノーラ、今日のあたしの毛並み、どうかな? シルヴァンに褒められたいな……えへへ』
急にヒロインっぽくなった!?
しかも自意識過剰である。鏡の前でポーズを取るゴリラ。百八十キロのセーラー服が、ヘンタイと呼ぶのも憚られる筋肉が、小首をかしげて上目遣いをしている。その光景は、控えめに言って恐怖だ。
「ローラさん、ご機嫌麗しゅうございますわね」
『ノーラったら、あたしのこと気にしてくれるんだ! 嬉しい! あたしたち、親友だよね?』
親友。百八十キロのゴリラが、伯爵令嬢の私を親友だと言っている。
前世の上司が「うちは家族経営だから」と言いながら残業代を踏み倒していたのを思い出した。言葉の暴力である。
だが、ゲームの知識を掘り起こすと、確かにこの時期からヒロインのイベントが変わる。攻略対象との恋愛フラグが立ち始め、悪役令嬢ノーラとの対立が本格化する時期だ。
原作では、ノーラがローラの恋路を邪魔しようとして、逆に自分の評判を落としていくパートだ。
私はもちろん邪魔しない。むしろ応援する。どんどん王子と恋愛してくれ。その間、私は図書室でお茶を飲んでいる。
「ローラさん、シルヴァン殿下とのお散歩、楽しんでいらしてくださいね」
『うんっ! ノーラ大好きっ!』
ゴリラが私に抱きついた。
肋骨が悲鳴を上げた。
「ぐふっ」
ゴリラのハグは愛情表現であると同時に、体重百八十キロの全力プレスである。
「だ、大丈夫ですわ……愛情深い方ですこと……おほほ……」
内心で叫ぶ「肋骨!! 肋骨折れる!! 労災!!!」そして冷静になった。
そう、労災……絶対に認めてくれない会社だったなぁ……。
しかし、本当の問題はその後だった。
三学期。ゴリラの「声」は、さらに変質した。
『ねぇノーラ。あんた、本当はシルヴァンのこと好きなんでしょ?』
「は!?」
思わず声に出た。慌てて口を押さえる。
『隠さなくていいって。あんたの目、見ればわかるよ。でもさ、あんたっていつも自分の気持ち押し殺すよね。それ、良くないよ?』
なんだこれ。急に打算的な親友キャラになった。てかめちゃくちゃ的確に刺してくる。
「わ、わたくし、殿下のことなど……」
いや実際、好きとかじゃない。ただ、シルヴァン殿下が私――ノーラに向ける穏やかな微笑みに、前世で誰にも向けてもらえなかった優しさを感じて、少しだけ――
ほんの少しだけ、心が揺れた。それだけだ。
ごめん、嘘。私の安寧、貴族生活の為に極力避けてるだけ。本当は激推しなんですわ。
『あんた、前の生活でもそうだったんじゃない? 自分の気持ちは後回し。頼まれたら断れない。全部抱え込んで、笑顔で「大丈夫です」って――』
「……やめてくれない?」
珍しく、本音が出た。
ゴリラが黒い瞳でじっと私を見ている。百八十キロの体躯に似合わない、どこか優しい目で。つぶらな野生の瞳で。
『まぁいいわ。そのうちわかるわ』
ゴリラは林檎をかじりながら、興味を失ったように歩き去った。
……なんだったんだ、今の。
第五章 拉致はコンプライアンス違反
冬の終わり。卒業を目前にして、事件は起きた。
学園の大ホール。全校生徒が見守る中、シルヴァン殿下が壇上に立つ。
「――ノーラ・センスに告ぐ。お前は、ローラへの度重なる嫌がらせの罪により、この学園からの追放を命じる」
……え?
「お前がローラに向けた数々の暴言。『森にお帰りなさい』『動物園がお似合いですわ』――皆が証言している」
言ってない。
一回も言ってない!!
確かに思ったことはある。だってゴリラだから。森が適切だし動物園も悪くない。でも口に出したことは一度もない。一度も!!
横を見る。攻略対象の王子たち全員が、冷ややかな目で私を見ていた。
あぁ、そうか。これ、原作の追放イベントだ。
悪役令嬢ノーラの最期。全ルート共通のバッドエンド。プレイヤーの間では「ざまぁ展開」と呼ばれた、勧善懲悪のカタルシスシーン。
私が回避に心血を注いだ、あの破滅フラグが――
回避行動を取ったのに起動した。
「ちょっ……待ってくださいませ! わたくし、そのようなことは一言も――」
「見苦しいぞ、ノーラ」
別の攻略対象が遮る。知将キャラのレオン。
「複数の証人がいる。お前の悪行は明白だ」
いない。そんな証人いない。だって言ってないから。
でも、反論が喉に詰まった。
前世の記憶がフラッシュバックする。本部の理不尽な叱責。身に覚えのないクレーム対応。「お前が悪い」と決めつけられ、弁明の機会すら与えられなかった、あの感覚。
そうだ、私はいつもこうだった。
理不尽に対して、声を上げられない。拒否できない。「仕方ない」と飲み込んで、笑顔で受け入れてきた。上司に、本部に、客に、世界に対して――
「……わかり、ました」
自然と、その言葉が出た。
わかりました。従います。だって逆らったところでどうにもならない。これはシナリオだから。決まった結末だから。前世と同じ。抗っても無駄。
私の足が、ホールの出口に向かって動き出す。
全校生徒の冷たい視線。ヒソヒソという囁き。それを笑顔で受け止めながら――
ドゴォォォォォン。
大ホールの正面扉が、蝶番ごと吹き飛んだ。
扉の残骸が放物線を描いて飛んでいく中、その巨躯がゆっくりと歩み入った。
銀色の背中。堂々たる体躯。小さいが聡明な黒い瞳。
ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ。
百八十キロのシルバーバックが、大ホールの中央に仁王立ちした。
「ローラ!? 何をしている、戻りなさい!」
シルヴァンが叫ぶ。
ゴリラは一瞥もくれなかった。
代わりに、その巨体がゆっくりと壇上に歩み寄り――
激しくドラミングを打った。
そして一気に駆け下りると私を脇に抱え込んだ。
そのまま雄叫びとともに大ホールから駆け出した。
校庭を飛び出し、街を駆けて、塀を登り、屋根を越えて……やがて見慣れぬ森へとついた。
「ノーラ」
くそ渋いイケメンボイスだった。拉致とか喋るとか吹き飛ばすほどの。
「お前に言いたいことがある」
ゴリラの声は低いが、優しかった。
「お前、こう思ってるだろ。『仕方ない』『従うしかない』『抗っても無駄』――」
心臓を直接掴まれたような感覚。
「お前はずっとそうやって生きてきた。前の場所でもそうだった。理不尽を飲み込んで、笑顔を貼り付けて、自分を殺して――それが大人だと、社会人だと思ってた」
涙が出そうになった。
「でもな、ノーラ。それは優しさじゃない。それは諦めだ」
「……」
ゴリラが大きな手で、ぽん、と私の頭に触れた。
掌はごつごつしていたけれど、この世界の誰よりも温かかった。
「――それは、」
ゴリラの目が、穏やかに笑っていた。
「だから嫁にこないか?」
「いや! なんでだよ! 台無しだよ!」
思わず声に出ていた。
この世界にきてからずっと我慢していた突っ込みだ。
ゴリラが、満足げに頷いた。
「言えるじゃねぇか」
そして、その巨体を翻して歩き出した。
「あ、ちょっと――ローラ!」
ゴリラが肩越しに振り返る。
「ああ、一つ言い忘れてた。オレ、オスだから」
「……まぁ、シルバーバックだしね。ドラミングしまくってたし」
「なんだ、バレてたか」
「学名そのまんまの名前つけられて気づかない方がおかしいですわ。ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ」
ゴリラが――ローラが、声を上げて笑った。
低くて、太くて、どこまでも渋い笑い声だった。
「じゃあな、ノーラ。あんたはもう大丈夫だ。帰るか?」
「待って」
私は呼び止めた。
「――森にお帰りなさい」
ゴリラが立ち止まった。
「動物園がお似合いですわ」
沈黙が落ちる。
でもそれは冷酷な悪役令嬢の台詞ではなく――初めて心から、等身大の言葉として放たれた「拒絶」だった。
あなたがいなくても、私は大丈夫。だから、もう行って。
ゴリラの背中が、ふるえた。
笑っているのだと、わかった。
「……上出来だ」
振り返らず、ローラは手だけを上げて応えた。
銀色の背中が、光の中に消えていく。
エピローグ ハロワ
目が覚めた。
白い天井。消毒液の匂い。規則的な電子音。
病院だった。
「美咲さん! 美咲さん、聞こえますか!?」
看護師の声。自分の名前だ。田中美咲。三十五歳。
チェーン系居酒屋社員――
「あなた、店舗の事務所で倒れていたんです。パートのスタッフさんが見つけて救急車を呼んでくださって……」
死んでなかった。
生きてた。
心臓は止まりかけたらしいが、搬送が間に合ったと。あと十分遅かったら危なかったと。
ベッドの上で天井を見つめる。点滴のチューブが腕に繋がっている。
夢だったのか。全部。
ノーラも、ゴリラも、王子たちも、薔薇の学園も。
でも。
胸の奥に、あの声が残っている。
渋くて低い、銀色のゴリラの声。
そして、頭に残る温かい手の感触。
スマートフォンが鳴った。ベッドサイドに置かれた画面に、店長の名前。
出る。
「あ、美咲? 生きてた? よかったよかった。で、明日からシフト入れるよな? 人いないんだよマジで。あ、来月のキャンペーン、お前担当――」
「辞めます」
電話の向こうが沈黙した。
「――は?」
「辞めます。本日付で。有給が三十二日残っているはずですので、消化させていただきます。引き継ぎは書面で行います。では」
通話を切った。
指が震えている。心臓がバクバクしている。
でも。
「……言えるじゃん、私」
ベッドの上で、田中美咲は泣きながら笑った。
窓の外は朝だった。冬の終わりの、柔らかな陽光が差し込んでいる。
テレビがついていた。動物番組。画面の中で、銀色の背中を持つ巨大なシルバーバックが、のんびりと草を食んでいた。
字幕が流れる。
『――ニシローランドゴリラ。学名:ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ』
美咲は鼻をすすって、小さく笑った。
「ローラさん、やっぱり動物園がお似合いですわ」
テレビの中のゴリラが、カメラ目線でドラミングをした。
――まるで、「上出来だ」と笑っているようだった。
完
※なお、退院後の彼女はゴリラ絡みの仕事を探し、カレー屋で働くことになったがそれは別の話。




