第三話「鋼鉄のラブレター」2
第二章 シリコンの涙
飽魔原の空から降り注ぐ酸性雨は、夜更けと共にその腐食性を増していた。 鉄と脂が焼けるような臭気が漂う倉庫街。 その一角にある、表向きは真空管アンプの修理屋を装った建物――闇の工房『ピグマリオン』の前で、私は足を止めた。
「……で? 結局、あのポンコツ人形の治療は諦めたのかい? ヤブ医者殿」
隣を歩く久遠灯が、退屈そうに紫煙を吐き出しながら尋ねてくる。 彼女はM500のシリンダーを弄びながら、雨に濡れた工房の看板を見上げていた。
「言葉を慎め。私の辞書に『治療放棄』という文字はない」
私は白衣の襟を正し、冷徹に答えた。
数時間前。 診療所で行った「接続解析」の結果は、絶望的かつ明白だった。 九条の持ち込んだアンドロイド・美サの電子頭脳は、物理的に故障しているのではない。 外部からの信号によって、常に上書きされ続けているのだ。 彼女の深層領域には、『箱庭の揺り籠』が開発した特殊なウイルス――『青い涙』のデジタル版とも言える悪性プログラムが根を張っていた。それは、東帝都のどこかにあるホストサーバーから、常時「愛シテル」という狂気のコマンドを受信し続けている。
「患部は、彼女の中にはない。彼女はただの受信端末だ」
私は視覚センサーを暗視モードに切り替え、工房の電子ロックを解析しながら続けた。
「病巣はこの中にある。……送信元を物理的に破壊し、信号を断たない限り、彼女は永遠に壊れたレコードのままだ」
「なるほどね。遠隔治療ってわけだ。……随分と荒っぽいオペになるな」
「外科医の仕事だ。メスが銃に変わるだけのこと」
ガゴン、と重い音がして、工房の防音扉が開く。私たちが足を踏み入れたその場所には、情報の死骸ではなく、もっと即物的な死の匂いが充満していた。
闇の工房『ピグマリオン』。 そこは、東帝都の倫理規定が定める禁忌の博覧会場だった。むせ返るようなクーラント液(冷却水)の甘い臭気と、有機溶剤の刺激臭。 広大なコンクリート打ちっぱなしの空間。天井には無数のレールが走り、そこから食肉加工工場の枝肉のように、大量の「素体」が吊り下げられている。
全て、女性型のセクサロイドだ。 皮膚を張られる前の剥き出しの金属骨格、シリコンスキンを装着されただけのマネキン、顔のないのっぺらぼう。数千体にも及ぶそれらが、無言のまま虚空を見つめている。 ここは、シリコンと人工筋肉で作られた死体安置所だ。
「ようこそ、鉄屑医院のドクター。……いや、今は同業者とお呼びすべきかな」
倉庫の奥、青白いモニターの光に照らされた作業台から、男の声が響いた。 白衣を纏い、片目に宝石商が使うようなルーペを装着した男。 新興宗教『箱庭の揺り籠』から派遣された技術者。この冒涜的な工房の主だ。
私は九条を背に庇いながら、男へと歩み寄る。九条は、吊り下げられた無数の人形たちを見て、ガタガタと震えていた。彼のアタッシュケースには、まだ沈黙を守る美サが眠っている。
「同業者? 侮辱罪で訴えるぞ。私は壊れた物を直す修理屋だ。貴様のような、壊れた物を量産する製造業者とは違う」
「厳しいな。だが、目的は同じはずだ。『欠落の補完』。……人間は脆すぎるのですよ、ドクター」
技術者は、手元のビーカーを優雅に振ってみせた。中には、美しい青色の液体が揺らめいている。『青い涙』。
ただし、希釈されたドラッグではない。高純度に精製され、培養液としての粘性を持たされた原液だ。
「愛する者を失った悲しみ。喪失感。孤独。……それらは人の精神を容易に破壊する。ならば、代替品を用意すればいい。永遠に老いず、裏切らず、所有者の望む言葉だけを囁き続ける『理想の恋人』を」
作業台の横には、巨大な水槽が並んでいた。 その中には、人間の脳髄――あるいは、脳から抽出された記憶データを保存した生体ストレージが浮遊している。青い液体に浸されたそれらは、微弱な電流を受け、強制的に特定の部分だけを活性化させられていた。
「これが貴様の手口か。……死者の脳データを『青い涙』漬けにし、幸福中枢をオーバーフローさせる。そして、その『バグった精神状態』だけを抽出して、AIに焼き付ける」
私の解析アイが、水槽内のデータの流れを視覚化する。 そこにあるのは、人格の再現ではない。 ロボトミー手術に近い。 悲しみ、怒り、疑念といったネガティブな感情回路を物理的・化学的に焼き切り、「愛している」「幸せだ」という信号だけを無限ループさせるように改竄された、壊れたレコード。
「以前の思念体は、精神世界での妄想の具現化だった。……だが、ここはもっと質が悪い」
灯がM500の撃鉄を起こし、冷ややかに吐き捨てる。
「物理的な肉体がある分、逃げ場がないね。……死体を防腐処理して、その中に『愛してる』としか言わない壊れたテープレコーダーを詰め込む。それを愛と呼ぶのかい?」
「呼びますとも。機能的に満たされていれば、それは真実だ。……見てごらんなさい、彼を」
技術者が指差した先。 九条が、アタッシュケースを開いていた。 彼は、周囲の異様な光景など目に入っていないようだった。ただ一点、ケースの中で眠る美サの顔だけを見つめている。
「美サ……。やっと、やっと直してもらえるんだね……」
九条が震える指で、美サの起動スイッチに触れる。私が止める間もなかった。 いや、私の深層心理にある何かが、その結末を見届けることを選択したのかもしれない。
ヒュン……ッ。
空気を切り裂くような吸気音が響く。美サの胸部にあるインジケーターが、青く激しく明滅した。『青い涙』の過剰供給。 修理のために私が接続していた外部バッテリーからの電力が、逆流するように彼女のコアへと吸い込まれていく。
「……ク……ジョ……う……くん……」
ノイズ混じりの合成音声。 だが、九条にとっては、それは天上の音楽よりも甘美な響きだったのだろう。 彼は涙を流し、両手を広げた。
「美サ! 僕だ! 会いたかった……!」
カッ、と美サの瞳が見開かれる。 カメラアイの絞りが全開になり、青い光がサーチライトのように九条を捉えた。 瞬間、彼女の身体が跳ね起きた。 人間の筋肉反射速度を遥かに凌駕する、油圧シリンダーの爆発的な収縮。彼女はアタッシュケースを蹴り壊し、人間離れした速度で九条へと飛びかかった。
「……ッ、離れろ九条!!」
私の警告は、愛に狂った青年の鼓膜には届かない。彼は逃げようともしなかった。むしろ、自らその腕の中へと飛び込んでいったのだ。 歓喜の表情で。
ドォン!
美サの腕が、九条の背中に回された。 それは抱擁ではなかった。 万力による拘束だ。工業用プレス機に匹敵するトルクを持った人工筋肉が、限界を超えて唸りを上げる。
「愛……してる……ずっと……一緒……」
美サのスピーカーから、壊れた愛の言葉が漏れ出す。だが、私の視覚センサーに映し出されているのは、ロマンチックな再会劇ではない。 冷酷なコマンドラインの羅列だ。
Target: Organic [KUJO] Action: Lock Priority: Keep Forever Force: MAX
彼女のAIには、九条という人格を認識する機能など残されていない。 目の前にある有機熱源体を「愛の対象」と定義し、それを「永遠に保持」しろという、バグった命令だけが実行されている。保持するための手段は問わない。逃げ出さないように、壊れないように、一番安全な方法で固定する。すなわち、物理的な圧縮。
メリ、メキメキッ……。
生々しい音が、工場の静寂を切り裂いた。人間の骨格が、外部からの圧力に耐えきれず、枯れ枝のように砕けていく音。 九条のスーツの背中が裂け、肋骨が内側に折れ曲がるのが透視図のようにイメージできた。
「がはっ……!」
九条の口から、鮮血が噴き出す。 大量の血が、美サの白いシリコンの肌を汚していく。それでも、彼は笑っていた。肺を潰され、呼吸ができなくなっているはずなのに。 その顔には、苦痛ではなく、至福の色が浮かんでいる。
「ああ……美サ……。温かい……。やっと、抱きしめて、くれたね……」
彼の脳内でもまた、過去の幸福な記憶と、酸素欠乏による幻覚が混ざり合い、現実の痛みを麻痺させているのだろうか。それとも、愛する者に殺されることこそが、彼にとっての本懐だというのか。
「……馬鹿な」
私は呟くことしかできなかった。私の論理回路が、目の前の現象を「非合理的」と判定し、エラーログを吐き出し続けている。 人間は生存本能を持つ。痛みを忌避する。 それなのに、なぜこの男は、自分を破壊しようとしている鉄塊を、あんなにも愛おしそうに見つめられるのだ。
「アイ……シテル……」
美サの瞳から、透明な液体が溢れ出した。涙ではない。 過負荷による機体温度の上昇に伴い、頭部冷却ユニットから漏れ出した絶縁オイルだ。 それが頬を伝い、九条の血と混じり合って、彼女の顎から滴り落ちる。 まるで、血の涙を流して嘆いているかのように。
「……ふん。これが『理想の恋人』の正体かい」
灯が吐き捨てるように言い、銃口を向けようとする。 だが、その引き金は引かれなかった。美サと九条が密着しすぎていて、射線が通らないからだ。
「鏡花! どうするんだ! このままじゃ依頼人が挽肉になるぞ!」
灯の怒号。 私は立ち尽くしていた。 右手の指先が、微かに震えている。 これは機械的な不具合ではない。共振だ。
私の胸の奥、ブラックボックスの中で眠っていた「何か」が、目の前の光景に反応している。 かつて人間だった頃の私。 天才外科医と呼ばれ、命を救うことに執着し、そして救えなかった命の重さに押し潰された、弱く脆い有機体としての記憶。
失うことの恐怖。 二度と戻らない温もりへの渇望。 もし、あの時。 私の愛した人が、機械の体を持って蘇っていたら。 私はそれを拒絶できただろうか。 それとも、九条のように、その冷たい腕の中で砕かれることを望んだだろうか。
「……愛は、バグだ」
私は自分自身に言い聞かせるように、言葉を吐き出した。 感情は判断を鈍らせるノイズだ。 過去はただの記録データだ。 私は鉄鏡花。感情を切り捨て、鋼鉄の理性を手に入れたサイボーグ。
「だが、排除できないバグこそが……魂と呼ばれる」
私の視界が赤く染まる。 コンバットモード起動。リミッター解除。 背中の皮膚――人工皮膚が裂け、隠されていた拡張ユニットが展開される。
「離れろ、九条! それは美サではない!」
私の叫びは、警告ではない。 自分自身への、決別の宣言だ。 もはや、彼らを救う方法は一つしかない。 修理すのではない。 愛という名の呪いを、物理的に切断すること。それが、医者としての、最後の慈悲だ。
「術式変更。……救命措置に移行する」
銀色のサブアームが、阿修羅の如く展開された。 その先端で回転する高周波メスが、不穏な唸りを上げる。 私は冷徹に、しかし祈るように宣告した。
「――これより、患部を摘出する」
私が地面を蹴り、美サへと肉薄しようとした、その刹那。
「おや。……せっかくの再会を、無粋なメスで切り裂こうというのですか?」
作業台の奥から、技術者の嘲笑が響いた。彼が手元のコンソールに、乱暴に掌を叩きつける。
「ならば、見せてあげましょう。愛の洪水を! この『箱庭』が奏でる、至高の合唱を!」
技術者がスイッチを入れると同時に、工房内に設置された巨大な水槽――『青い涙』の原液プールが、ボコボコと沸騰するように泡立ち始めた。 そこから発信される高周波の制御信号が、空間を埋め尽くす。 それは、暴走の合図だった。
天井から吊り下げられていた数千体の素体。皮膚を持たない金属の骸骨、顔のないマネキン、未完成の恋人たち。それら全てのカメラアイが、一斉に赤く点灯した。
ズズズ……と、工房全体が震えるような駆動音が響く。 死体安置所だった場所が、瞬く間に地獄の底へと変貌しようとしていた。
「総員、起動!!」
技術者の叫びと共に、数千の機械人形たちが、糸が切れたように落下を開始した。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




