第二十四話「天帝の玉座」2
第二章 呪われた求婚
切っ先が、鼻先を掠めた。皮膚が裂けるよりも早く、圧縮された風圧が肌を焼く。久遠灯は、バックステップで距離を取りながら、喉の奥でうめき声を噛み殺した。
「……ッ、速い」
氷室の動きには、質量を感じさせる予備動作が一切ない。静止から最高速へ、そしてまた静止へ。物理法則を嘲笑うかのようなその挙動は、彼がすでに人間という枠組みを超越し、神域のエネルギーによって駆動する「現象」になりつつあることを示していた。
「逃げないでください、灯」
氷室が、滑るように間合いを詰める。 その手には、紫色の瘴気を纏った名刀『数珠丸』が握られている。 かつて周が愛用し、灯を守るために幾度となく振るわれた、護りの刃。 だが今、その切っ先は、最も守られるべきはずの灯の喉元に向けられている。
「灯さん! 援護します!」
後方から、白雪美流愛の悲痛な叫びが届く。彼女は双子の妹たち――亞莉愛と華琉愛と共に、戦場の脇を駆け抜けていた。 狙いは氷室の死角。三方向からの同時攻撃。美流愛のワイヤーが氷室の首を狙い、双子のククリナイフがアキレス腱を切り裂こうと迫る。
「……邪魔です」
氷室は、灯から視線を外すことすらしなかった。ただ、左手を無造作に払う。それだけの動作で、空間そのものが歪んだ。 高密度の霊力が衝撃波となって炸裂し、美流愛たちを木の葉のように吹き飛ばす。
「きゃあああッ!?」
三つの白い影が、鍾乳洞の岩壁に叩きつけられる。防弾仕様のドレスが裂け、可憐な肢体が泥にまみれる。格が違う。 今の氷室は、東帝都のタワーで対峙した時とは比較にならない。 地下の『大龍穴』から汲み上げられた莫大なエネルギーが、彼の血管を駆け巡り、指先の一つひとつに核弾頭並みの破壊力を宿しているのだ。
「オラァッ! 調子こいてんじゃねぇぞ!」
頭上から、轟音と共に雷光が落ちる。 辰巳響だ。 彼女は鍾乳石を足場に跳躍し、全身全霊の雷撃を氷室の脳天に叩き込んだ。 神の怒りそのものと言える、数億ボルトのプラズマ。 だが。
バチィッ!!
氷室は、頭上に掲げた素手で、その雷撃を受け止めた。いや、握り潰した。 紫色の火花が散り、雷は霧散する。
「……龍神。貴女の力もまた、この祭壇の一部です」
氷室が冷ややかに告げる。 彼に流れるエネルギーは、元を正せば響の故郷・京帝の龍脈だ。同質の力ゆえに、吸収され、無効化されてしまう。
「クソッ、化け物が……!」
響が空中で体勢を崩し、着地と同時に膝をつく。 圧倒的な絶望感が、地下空間を支配していた。
「無駄ですよ。……これは、僕と灯の時間だ」
氷室は、再び灯に向き直った。その瞳は、黄金色に発光し、人間としての理性が蒸発していくのを感じさせる。 だが、その奥底にへばりついている「執着」だけは、決して消えることがない。
「僕の手を取ってください。……そうすれば、この無意味な争いは終わる」
彼は手を差し伸べる。 その掌からは、神々しいまでの光が溢れ出し、触れるもの全てを浄化し、同化しようとしていた。それは救済の光に見える。 だが灯には、それが毒々しい捕食者の舌にしか見えなかった。
「……断る」
灯は、血の混じった唾を吐き捨てた。M500の銃口を、揺らぐことなく氷室の心臓に向ける。
「その力は、あの子の命だ」
灯の視線が、祭壇の中央、磔にされた少女――昊天を一瞬だけ捉える。 少女の身体は、限界を超えて痙攣していた。 皮膚の表面に無数の亀裂が走り、そこから漏れ出す光が、彼女の生命力を削り取っていく。 彼女は泣いていた。声にならない声で、母親を呼び、痛みを訴え、それでも誰にも届かずに消費されていく。その犠牲の上に、この男の力は成り立っている。
「他人の犠牲の上に成り立つ楽園なんざ……私は認めない!」
「……そうですか」
氷室は、悲しげに目を伏せた。 その表情は、慈愛に満ちた聖人のようであり、同時に理解不能な異言を嘆く狂信者のようでもあった。
「貴女が認めなくても、世界はそれを望んでいる。……痛みからの解放。完全なる管理。それが人類の幸福なのです」
彼は、刀を正眼に構え直した。切っ先が、ピタリと灯の眉間を指す。 殺気はない。 あるのは、深い深い愛情だけ。 「貴女を壊してでも、僕の一部にする」という、歪みきった愛の決意。
「来い、氷室」
灯は覚悟を決めた。 逃げない。避けない。この男の愛を、正面から受け止めて、叩き潰す。
戦場は、二つに分断された。 灯と氷室の、一対一の決闘。 そして、残りのメンバーによる、祭壇攻略戦。
「奴のエネルギー源を断て! ……祈、あの子を救い出せ!」
鉄鏡花が叫び、瓦礫の山を駆け下りる。 彼女の背中から展開された四本のサブアームが、それぞれ異なる武装を展開し、前方の障害物を粉砕していく。
「はいっ!」
天羽祈が、鏡花の切り開いた道を走る。彼女の目的は一つ。祭壇の中央、昊天に接続された無数のチューブを切断し、彼女を解放すること。 供給源を断てば、氷室の無敵状態も崩れるはずだ。
だが、それを阻む影があった。
「おやおや。……ネズミが走り回って、鬱陶しいですね」
玉座に座る烏丸保憲が、優雅に指を振った。 彼の周囲に浮かぶ無数の呪符が、一斉に形を変える。 紙片が折り重なり、巨大な獣の形を成す。 式神。それも、一体や二体ではない。百を超える式神の群れが、雪崩のように祈と鏡花に襲いかかる。
「行かせませんよ。……儀式はクライマックスなのですから」
「邪魔だ、紙くず!」
鏡花がガトリングガンを掃射する。 弾丸の雨が式神を千切れさせるが、それらはすぐに再生し、数を増やして押し寄せてくる。 物理攻撃が効きにくい、霊的な質量を持った障壁。
「くっ……キリがない!」
「鏡花さん、後ろ!」
祈が叫び、とっさに防御結界を展開する。背後から迫っていた影の刃が、結界に弾かれて霧散した。
「……美流愛! 響! 援護しろ!」
鏡花の要請に応え、美流愛と響が戦線に復帰する。彼女たちも満身創痍だ。 だが、その瞳から闘志は消えていない。
「わかってるわよ! ……シスターズ、フォーメーションB!」
「はい!お姉様!」
美流愛の指示で、双子が左右に散開する。ワイヤーとナイフによる撹乱攻撃。 式神たちの注意を引きつけ、その隙に美流愛が本体の烏丸を狙う。
「神様気取りが……。本物の神罰ってやつを教えてやるよ!」
響が、残った力を振り絞り、両手を天に突き上げる。 地下空間の湿気を集め、局地的な雷雲を生成する。天井の鍾乳石に雷が落ち、破片が式神の群れに降り注ぐ。
乱戦。泥沼の総力戦。 だが、烏丸の余裕は崩れない。彼は、強大な結界に守られた玉座から、楽しげに戦場を見下ろしている。
一方、灯は追い詰められていた。
ザシュッ!
氷室の刃が、灯の脇腹を浅く切り裂く。回避が間に合わない。灯の動体視力をもってしても、神の力を得た氷室の剣速は捉えきれないのだ。
「どうしました、灯? その程度ですか?」
氷室は、舞うように剣を振るう。袈裟斬り、突き、斬り上げ。 連撃の嵐。灯は銃床で受け止め、転がり、辛うじて致命傷を避けるのが精一杯だ。
「ぐっ……はぁ、はぁ……!」
灯の肩で息をする。 再生能力が追いつかない。失血による貧血と、度重なる衝撃で、視界が明滅している。
「なぜです? なぜ拒むのです?」
氷室は、攻撃の手を緩めないまま、悲痛な声で問いかける。 その瞳から、涙が溢れていた。 それは演技ではない。 彼の中に埋め込まれた周の記憶が、灯を傷つけることに拒絶反応を示し、泣いているのだ。
「僕は周だ! ……貴女が愛し、貴女を守り抜いた男だ! その僕が、貴女を迎えに来たのに!」
「……違う」
灯は、血を吐きながら笑った。その笑顔は、苦痛に歪んでいたが、どこまでも澄んでいた。
「お前は、周じゃない」
灯は、防御を捨てて踏み込んだ。 自殺行為。氷室の刃が、灯の左胸を貫く。 心臓のわずか数センチ横。 焼けるような激痛。 だが、灯は止まらない。
肉を切らせて骨を断つ。 それは、周が教えてくれた「守るための剣」ではない。 灯が、周を失った後の1000年間、泥水をすすり、地獄を這いずり回りながら身につけた、薄汚くて、泥臭くて、最強の「生き残るための喧嘩」だった。
「私の愛した男は……」
灯は、突き刺さった刃を素手で掴み、自分の方へと引き寄せた。掌が裂け、骨が見える。驚愕に目を見開く氷室の顔が、目の前にある。
「もっと不器用で、弱くて……そして、優しかった!」
周は、こんな風に泣きながら人を傷つけたりしない。彼は、自分の弱さを知っていた。 だからこそ、誰よりも優しくなれた。自分の命を捨ててでも、灯の未来を守ろうとした。
目の前にいるのは、ただの力の塊だ。 愛という名の執着に食い尽くされた、哀れな怪物。
「目を覚ませ、バカヤロウッ!!」
灯の右の拳が、唸りを上げた。吸血鬼の怪力と、1000年分の拒絶、そして愛する男への手向けの想いを込めた、渾身の一撃。
ドォォォォォン!!
灯の拳が、氷室の胸板を捉えた。衝撃が、彼の肉体を貫通し、背中の呪印を内側から破砕する。 肋骨が砕け、心臓を守っていた霊的な障壁がガラスのように砕け散る音がした。
「……あ」
氷室の動きが止まる。 手から力が抜け、刀がカランと音を立てて地面に落ちた。
彼の身体を包んでいた神々しい光が、霧散していく。 金色の瞳から輝きが失われ、元の穏やかな黒色に戻る。
彼は、ゆっくりと崩れ落ちた。 灯は、その身体を受け止めた。 かつて、周を看取ったあの雨の日と同じように。
重い。 そして、温かい。 それは神の重さではなく、ただの一人の人間の男の重さだった。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




