第二十話「鉄の馬車、西へ」2
第二章 千年のミチユキ
箱根の山は、湿った闇に沈んでいた。私たちは『鉄の馬車』を廃道から逸れた獣道に隠し、束の間の休息を取ることにした。 エンジンの熱が冷めるにつれ、夜の冷気が装甲の隙間から染み込んでくる。
鉄鏡花が、携帯用のマグネシウム棒を擦り、焚き火を起こした。 パチパチと爆ぜる白い火花が、湿った枯れ木を舐め、やがて赤い炎へと育っていく。 その揺らめく光が、車座になった私たちの顔を照らし出した。
誰も口を開かない。聞こえるのは、木が爆ぜる音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけ。だが、その沈黙は重苦しいものではなかった。 嵐の中を駆け抜け、死線を越えてきた者たちだけが共有できる、静謐な連帯感。
「……灯さん」
天羽祈が、マグカップを両手で包み込みながら、ぽつりと口を開いた。 彼女のオッドアイが、焚き火の炎を映して揺れている。
「聞いても、いいですか」
「なんだ」
久遠灯は、炎に小枝をくべながら短く応じた。
「氷室知事は……本当に、灯さんの……恋人だったんですか?」
その問いに、全員の手が止まった。 白雪美流愛が顔を上げ、辰巳響がスナック菓子を食べる手を止める。鏡花でさえ、整備中の指先を止めて灯を見た。
迎賓館での出来事。 灯と氷室の会話。そして、灯が見せた激しい怒りと悲しみ。それらが何を意味するのか、全員が察していながら、触れられずにいた核心。
灯は、ふぅ、と紫煙を吐き出した。 煙が夜空に吸い込まれていくのを目で追いながら、彼女は静かに口元を歪めた。
「……恋人なんて、甘いもんじゃないさ」
灯は言った。
「あれは……共犯者だ。神に背き、運命を裏切った、愚かな共犯者だよ」
記憶の扉が開く。炎の揺らめきが、1000年前の風景を映し出す幻灯機となる。
平安の都、京帝。 当時の私は、久遠灯という名ではなかった。 『姫宮』。 この国の霊的支柱である天帝の血を引く、生ける神像。 私は御簾の向こうに座り、ただ呼吸をすることだけを許されていた。 そんな私の護衛についたのが、下級武士の周だった。 彼は無骨で、口下手で、けれど誰よりも実直だった。御簾越しに交わされる、季節の移ろいや、和歌についての短い会話。 それが、私にとっての「世界」の全てだった。
ある嵐の夜。 私は、禁忌を犯して御簾を上げ、彼の袖を掴んだ。
『……連れて行って』
『ここから連れ出して、周。……私は、神として祀られるよりも、人として泥にまみれたい』
周は驚愕し、迷った末に、私の手を握り返した。 その手は、剣ダコだらけで、ゴツゴツしていて、とても温かかった。
『……御意』
彼は短く答え、私を背負った。 それが、私たちの逃避行の始まりだった。
私たちは逃げた。 京帝を捨て、東へ、東へと。 数ヶ月の逃亡の末、現在の浅修羅にあたる広大な湿地帯にたどり着き、草庵を結んだ。 貧しくとも、満ち足りた日々。 だが、それは長くは続かなかった。
周が、倒れたのだ。 流行り病だった。 長旅の疲労と、私を守るために負った無数の傷が、彼の免疫力を奪っていたのだ。
「周、しっかりして……!」
高熱にうなされる彼の身体は、火のように熱く、そして軽かった。 薬などない。医者に見せる金もない。 絶望する私の前に、その男は現れた。
嵐の夜。草庵の入り口に立っていたのは、この国の者とは思えぬ、異国の衣装をまとった長身の男だった。 月光のような銀髪。血の色をした瞳。闇夜より深く、鮮烈な気配。
『……死ぬぞ、その男は』
男は、流暢な言葉で冷ややかに告げた。
『誰……?』
私が警戒して身構えると、男は優雅に一礼してみせた。その所作は、宮廷の貴族よりも洗練され、同時に猛獣のような危険さを孕んでいた。
『通りすがりの旅人さ。……名は、レオンハルト。東の言葉では、玲王とでも呼んでくれ』
「西の吸血鬼」。 大陸から渡ってきた、古き怪異。 彼は、瀕死の周を見下ろし、懐から小さな杯を取り出した。中には、どす黒い液体――彼自身の血が波打っている。
『助けたければ、人間を辞めることだ』
玲王は、杯を私に差し出した。 その瞳が、試すように私を射抜く。
『これは「不死の呪い」だ。……これを飲めば、其方は人ではなくなり、永遠の時を生きる魔物となる。そして、魔物となった其方の血を分け与えれば、その男もまた「眷属」として蘇るだろう』
悪魔の契約。 人として死ぬか、魔物として生きるか。私は迷わなかった。 周を失うくらいなら、化け物に堕ちてもいい。地獄の底まで付き合ってやる。
「……飲みます」
私は杯を受け取り、一気に煽った。喉が焼ける。内臓が溶けるような激痛。 全身の血液が沸騰し、書き換えられていく感覚。 視界が赤く染まる中、玲王が満足げに微笑むのが見えた。
『歓迎しよう、夜の一族へ。……我らが美しき姫君』
それが、彼との出会い。 そして、私が「人間」を脱ぎ捨てた瞬間だった。
「周……!」
私は、吸血鬼として生まれ変わった。 力が溢れてくる。傷が瞬時に塞がる。これなら、彼を救える。
私は自らの手首を噛み切った。鮮血が噴き出す。 それはもう、ただの血ではない。不老不死の霊薬だ。
「飲んで……! これを飲めば助かるの! ずっと一緒にいられるの!」
私は、周の口元に血を滴らせようとした。だが。周は、それを拒んだ。 痩せ細った、枯れ木のような手で、私の手首を優しく、けれど毅然と押し返したのだ。
『……灯』
周が、うわ言のように私の名を呼んだ。
私は息を呑んだ。 出会ってから一度も、彼が私の本当の名を口にしたことはなかった。 身分の違い。主従の壁。 どんなに愛し合っても、彼は私を「姫宮様」と呼び、決してその一線を越えようとはしなかった。
その彼が今、最期の瞬間に、禁忌を破った。 武士としてではなく。護衛としてでもなく。 ただ一人の男として、愛する女の名を呼んだのだ。
『俺は……魔物には、なりたくない』
「どうして!? 死んじゃうのよ!? 私を置いていくの!?」
私は泣き叫んだ。 永遠の命が目の前にあるのに。二人で生きる未来があるのに。
『俺は……人として……』
周は、私の頬に手を添えた。その手は、震えていた。
『君を愛した記憶を持ったまま……人間の、周として……死にたいんだ』
吸血鬼になれば、心が変わってしまうかもしれない。血への渇きに支配され、君を愛したこの温かい感情さえも、変質してしまうかもしれない。 彼は、それを恐れたのだ。 生き永らえることよりも、私への愛を「純粋なまま」完結させることを選んだのだ。
『……馬鹿よ。大馬鹿者よ、あなたは……』
私は、彼を抱きしめた。 吸血鬼の怪力で砕いてしまわないように、そっと、優しく。
『君は、生きてくれ。……俺の分まで……美しい世界を……見てきてくれ……』
周が微笑んだ。それは、泥と汗にまみれた顔で、私が生涯見た中で一番美しい笑顔だった。
彼の腕から、力が抜けた。胸の鼓動が止まる。 私の腕の中で、彼は静かに、ただの「物体」へと変わっていった。
不老不死の肉体を手に入れた私の腕の中で、愛する人だけが灰になっていく。 永遠と一瞬の、残酷な対比。
「……あぁぁぁぁぁッ!!」
灯の慟哭が、雨の草庵に響き渡った。 それを、玲王は闇の中から静かに見つめていた。何も言わず、ただ、生まれ落ちたばかりの悲しき吸血鬼の誕生を見届けるように。
灯は、周の亡骸を背負い、京帝へと戻った。 東の果ての湿地帯で朽ち果てさせるわけにはいかない。 彼が生まれ、彼が愛した故郷で眠らせてやるために。
追っ手の目を盗み、夜陰に乗じて京帝へ潜入した。目指すは、京帝の禁足地、死者の埋葬地である魂別野。 無数の墓標が立ち並ぶ、風葬の地。
雨の降る夜だった。 灯は、道具を使わず、素手で土を掘った。 硬い土。石ころ。木の根。 爪が剥がれ、指先から血が滲む。だが、痛みを感じる間もなく、吸血鬼の再生能力が傷を塞いでしまう。
掘って、傷つき、治って、また掘る。 その繰り返しが、自分がもう「人間ではない」ことを残酷に突きつける。 人間なら、痛みで手が止まるはずなのに。 人間なら、疲労で倒れるはずなのに。私は、壊れることさえ許されない。
「……ごめんな。狭いけど、我慢してくれよ」
灯は、掘り起こした穴に周を横たえた。 土をかける。彼の手が、顔が、闇に飲まれて見えなくなる。私の愛した全てが、土塊の下へ消えていく。
最後に、盛り土の上に、彼が好きだった野花を一輪供えた。 雨に濡れた、名もなき白い花。
「……待ってろ、周」
灯は、墓標の代わりに突き立てた卒塔婆に額を押し当て、誓った。
「いつか私も、そっちへ行くから。……それまで、少しだけ長い旅をしてくる」
灯は背を向けた。一度も振り返らず、闇の中へと歩き出した。 それが、彼女の1000年の孤独の始まりだった。
「……それが、私の『始まり』だ」
灯は、静かに話を終えた。 焚き火が小さくなり、熾火となって赤く明滅している。 誰も言葉を発せなかった。 ただ、薪が爆ぜる音だけが響いている。
響は、膝を抱えて顔を伏せていた。 美流愛は、灯の手をぎゅっと握りしめていた。 鏡花は、眼鏡を外してレンズを拭っていた。 祈は、声を出さずに泣いていた。
「あいつは……周は、私のために人間であることを選んだ」
灯は、空になったマグカップを見つめた。
「だから、氷室は周じゃない。……あいつの皮を被り、記憶をコピーしただけの、冒涜的な紛い物だ」
彼女の瞳に、暗い炎が宿る。
「周の遺骨を弄び、あいつの魂を汚した烏丸。……そして、あいつの顔で私を籠絡しようとした氷室。……絶対に許さねえ」
それは、愛ゆえの復讐。 過去への未練ではなく、愛した男の尊厳を守るための戦い。
「……行きましょう、灯さん」
美流愛が立ち上がった。 彼女は、灯の手を引いて立たせる。
「京帝へ。……その偽物をぶっ飛ばして、本物の周さんに『ただいま』って言いに行きましょう」
「おう。……頼むぜ、相棒」
灯はニヤリと笑った。その笑顔は、1000年前の悲劇のヒロインのものではない。 現代を生きる、ふてぶてしくも頼もしい、解決屋の顔だった。
森の空気が変わった。 鳥の声が止み、風が凪ぐ。 闇の奥から、異質な気配が滲み出してくる。
「……湿っぽい話はここまでだ」
響が立ち上がり、バチバチと放電を始めた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




