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リコリス・ミッドナイト・ヘブン  作者: ネオもろこし
千年の黄昏(ミレニアム・トワイライト)編

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第十八話「神殺しの楔(くさび)」1

第一章 渇きゆく水脈


 東帝都(トウテイト)の空は、死んだ魚の眼球のように白濁していた。昼下がりだというのに、太陽の輪郭すら見えない。 分厚い鉛色の雲が低く垂れ込め、湿度を含んだ生暖かい風が、若者の街・死舞谷(シブヤ)の谷底を撫で回している。


 学校の屋上。 錆びついたフェンスに背を預け、辰巳響(たつみ ひびき)はストローを噛んでいた。口の中に広がるのは、コンビニで買ったタピオカミルクティーの安っぽい甘さ。だが、今日はその甘さが、砂を噛むように味気なかった。


「……なんか、変な匂いがする」


 響は鼻を鳴らした。 排気ガスとも、いつもの酸性雨の臭いとも違う。 もっと焦げ付いたような、あるいは乾いたような、電気的な刺激臭。


 彼女の視線は、無意識のうちに北東の空へと吸い寄せられていた。 そこには、鉛色の雲を突き破り、天を冒涜するようにそびえ立つ巨大な影があった。


『アシュラツリー』。


 高さ800メートルを誇る、東帝都の新たな象徴。六本の鋼鉄が螺旋を描いて絡み合い、頂点には三つの突起が突き出している。 その先端から放たれる航空障害灯の赤色が、今日に限って異常な輝度を放っていた。 点滅ではない。血管の拍動のように、ドクン、ドクンと、不吉なリズムで明滅している。


「……あいつ、何やってんだ?」


 響の背筋を、冷たいものが走り抜けた。 ただの電波塔ではない。あれは、この土地の心臓に打ち込まれた、巨大な「(パイル)」だ。その楔が今、地下深くに眠る何かを――響の命の源である龍脈を、貪欲に啜り上げている気配がする。


 ズズズ……。


 微かな地響き。いや、地面は揺れていない。 響の肉体(コア)だけが感じ取っている、魂の共振現象だ。


「響ちゃん? どうしたの?」


 隣でパンを食べていた美咲(みさき)が、不思議そうに顔を覗き込む。以前の事件以来、彼女は響の正体を知りながらも、変わらぬ「マブダチ」として接してくれている。 響は強がって笑おうとした。


「いや、なんでも……」


 言葉を発しようとした瞬間だった。 手から力が抜けた。


「あ……」


 プラスチックの容器が、手から滑り落ちる。カラン、という乾いた音。蓋が外れ、薄茶色の液体と黒い粒が、コンクリートの床にぶちまけられた。 甘い匂いが広がる。


 拾わなきゃ。 そう思って、手を伸ばそうとした。けれど、足が動かない。いや、足の感覚がない。


「……え?」


 響は、自分の足元を見た。 そこにあるはずの、ルーズソックスとローファー。そして、その中に入っているはずの自分の足が。


 消えていた。


「な……んだ、これ」


 透明になっているのではない。古いアナログテレビの砂嵐(ノイズ)のように、輪郭が激しく明滅し、向こう側のアスファルトが透けて見えている。実体が、希薄になっている。


「ひ、響ちゃん!?」


 美咲が悲鳴を上げた。 彼女の目にも、その異様な現象は見えていた。響の膝から下が、蜃気楼のように揺らめき、存在の解像度を失いつつある光景が。


「足が……足が、消えてるよ!?」


「うっせーな、大声出すなよ……」


 響は悪態をつこうとしたが、その声は掠れ、ノイズ混じりの電子音のように響いた。平衡感覚が失われる。 重力が、あやふやになる。 響は、糸の切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちた。


「……ヤベェな」


 響は、震える手で自分の身体を抱きしめた。指先が、自分の腕をすり抜けそうになる。


「吸われてる……。アタシの水が……根こそぎ……」


 遠くに見えるアシュラツリー。 その赤い光が、捕食者の目のようにギラリと輝いた気がした。


「響ちゃん! しっかりして! 響ちゃん!」


 美咲の悲痛な叫びが、屋上に響く。だが、響からの返事はない。 彼女の身体は、抱きしめている美咲の腕の中でさえ、時折ノイズのように明滅し、質量を失いかけていた。 まるで、悪い夢を見ているかのように、友人の存在が希薄になっていく恐怖。


(どうしよう、どうしよう……!)


 美咲はパニックになりかけた思考を、必死に食い止めた。救急車? 警察? 駄目だ。直感が告げている。 響ちゃんのこの「症状」は、病気じゃない。普通の病院じゃ治せない。 あの事件の時の落雷。あの時見た、響ちゃんの「本当の姿」。彼女は、あっち側の住人だ。 なら、助けを呼ぶべき相手も、あっち側にいるはずだ。


 美咲は震える手で、床に転がった響のスマートフォンを拾い上げた。ロックはかかっていない。連絡先を開く。 登録件数は驚くほど少なかった。 その一番上、『お気に入り』に登録されていた名前。


(あかり)』。


 美咲は迷わず発信ボタンを押した。 数回のコールの後、不機嫌そうな、低い女性の声が聞こえた。


『……ああん? 授業中じゃねえのか、響』


「た、助けてください!!」


 美咲は叫んだ。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら。


「響ちゃんが……響ちゃんが、消えちゃうんです! 足が透けて……意識がなくて……!」


 電話の向こうで、何かが倒れる音がした。 そして、声色が瞬時に変わった。冷徹で、頼もしい大人の声に。


『……場所は?』


「が、学校の屋上です!」


『動かすな。すぐに迎えに行く。……その手を離すなよ。お前が離したら、あいつは本当に消えちまうぞ』


「は、はいっ……!」


 通話が切れる。 美咲はスマホを握りしめ、響の身体を強く、強く抱きしめた。 冷たい。氷のように冷え切った響の体温。 それを、自分の体温で必死に温める。


「消えないで……。お願い、消えないで……」


 十分後。校庭に、黒いワンボックスカーが猛スピードで滑り込んできた。 タイヤがアスファルトを削り、白煙を上げる。運転席から飛び出してきたのは、黒いコートを着た女性――久遠灯。助手席からは、制服姿の少女――白雪美流愛が、医療キットを持って駆け出してくる。


「響!!」


 灯が屋上のフェンスを蹴り破らんばかりの勢いで駆け上がってきた。 彼女は美咲の腕から響を受け取ると、その透けかけた頬を軽く叩いた。


「……チッ。思ったより深刻だな」


 灯は、響を軽々と横抱きにした。その表情は険しいが、美咲に向ける視線だけは穏やかだった。


「よく知らせてくれた。……上出来だ、お嬢ちゃん」


「あ……」


 美咲は、へなへなと座り込んだ。緊張の糸が切れ、安堵の涙が溢れ出す。


「美流愛、車を出せ。鏡花のところへ運ぶ」


「了解。……響、死んだら承知しないから」


 美流愛が先導し、灯が響を抱えて走る。嵐のような人たち。 けれど、彼女たちが響の「本当の仲間」なのだと、美咲にはわかった。


 遠ざかる背中を見送りながら、美咲は祈るように手を組んだ。


(神様……じゃなくて。響ちゃんを、助けて……)


「……運び込むのが遅れていれば、霧散していたぞ」


 神宿の路地裏、『Akari Detective Studio』。 診察台(といっても、ただの長机だが)の上に寝かされた響を診ながら、鉄鏡花(くろがね きょうか)が冷徹に告げた。


 響の身体には、無数の電極とケーブルが接続されている。 鏡花が即席で組み上げた「霊的因子固定装置」だ。 これによって、辛うじて彼女の輪郭は保たれていたが、それでも時折、指先や髪の毛がノイズのように明滅している。


「原因は?」


 久遠灯(くおん あかり)が、窓際で腕を組みながら問う。その表情は険しい。


「アシュラツリーだ」


 鏡花はモニターに表示された波形データを指し示した。


「あの塔の地下深くに、巨大な『霊的吸引装置(ドレイン・システム)』が埋設されている。……今日正午、その出力が最大値まで引き上げられた」


「吸引、だと?」


「そうだ。あれはただの電波塔ではない。……東帝都の地下を流れる龍脈(レイライン)に直接パイプを突き刺し、そのエネルギーを強制的に吸い上げるための『ストロー』だ」


 鏡花は、響の胸元に聴診器のようなセンサーを当てる。心音は弱く、不整脈を起こしている。


「響は、この土地の龍脈そのもの――墨堕川(すみだがわ)の化身だ。……土地のエネルギーが吸い上げられれば、当然、彼女の存在を維持する力も枯渇する」


「つまり……都市が、自分の守り神を食い殺そうとしてるってことか」


 灯は吐き捨てるように言い、窓の外を見た。 ここからでも、街を流れる墨堕川の一部が見える。


 異様な光景だった。 普段は黒く濁り、満々と水を湛えているはずの川が、見る影もなく痩せ細っている。 水位が数メートルも下がり、川底のヘドロや、投棄された自転車、古タイヤなどが、無惨に露出していた。干上がった川。 それはまるで、動脈硬化を起こして壊死しつつある、都市の血管のようだった。


「……くそっ、力が入んねぇ」


 響が、診察台の上で呻いた。彼女は自分の手を見つめる。いつもなら、指先一つで雷を呼べるはずの手が、今はスマホを持つことさえ億劫なほど重く、そして頼りなく透けている。


「このままじゃ、アタシは消える」


 響の声が震えた。 死への恐怖ではない。「消滅」への恐怖。 肉体が滅びるのではなく、存在そのものが雨水の中に溶け、ただの自然現象へと還元されてしまう恐怖。


「……ただの雨水に戻っちまう。……誰にも記憶されず、誰の声も届かない場所へ」


「そうはさせん」


 灯が、響の傍らに歩み寄った。 彼女は、響の透けかけた手を強く握りしめた。吸血鬼の冷たい体温。 だが、その確かな質量が、響を「個」として繋ぎ止める楔となる。


「お前は雨水なんかじゃない。……辰巳響だ。生意気で、大食らいで、タピオカ中毒の女子高生だ」


 灯の瞳が、アシュラツリーの方角を射抜く。


「神様を殺そうなんざ、いい度胸だ。……そのふざけたストロー、へし折ってやる」


 数千年の時を生きた神が、近代的なインフラという暴力によって殺されようとしている。 それは、信仰を失った時代の、あまりに即物的で、残酷な神殺しだった。

自分が読みたい物語を書いています。

可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。

(制作に関してAIを利用しています)

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