第十七話「灰色の翼」2
第二章 砂糖菓子の隠れ家
光の矢が頬を掠め、闇の炎が髪を焼く。死の恐怖が、私の意識を強制的に過去へと引きずり込んだ。 走馬灯のように蘇る、古い記憶のフィルム。
――雨の匂い。 泥の感触。 そして、温かい毛皮の温もり。
私がまだ、ほんの子供だった頃。 両親を失い、東帝都の路地裏を、野良犬のように彷徨っていた日々。 誰からも石を投げられ、どこにも入れなかった私が、最後に辿り着いたのが、この浅修羅の廃寺だった。
空腹と高熱で倒れていた私を拾ってくれたのは、みすぼらしい袈裟を着た小柄な老人だった。 彼は人間ではなかった。 古くからこの寺に住み着き、住職に化けていた化け狸。
『おやおや、汚い子猫じゃな』
住職は、泥だらけの私を抱き上げ、温かいお粥を食べさせてくれた。 そして、私の眼帯をそっと外し、左右で色の違う瞳を見つめた。
『ほう、こりゃ珍しい。「見鬼の才」じゃな』
彼は驚くことも、気味悪がることもなく、感心したように髭を撫でた。
『お前さんの目は、ただの異形じゃない。遙か西の都・京帝に伝わる、真実を見抜く伝説の魔眼の隔世遺伝じゃよ』
『……けんき?』
『そうじゃ。善悪を見分ける目じゃない。善悪の「彼岸」を見る目じゃ。……その目は、世界をありのままに映しすぎる。さぞ辛かったろう』
住職の言葉は、冷え切った私の心に染み渡るお湯のようだった。初めて、私の目を「呪い」ではなく「才能」だと言ってくれた人。 私はこの廃寺で、住職と二人、ひっそりと暮らすようになった。 落ち葉を掃き、お供え物を盗み食いし、夜には住職が化ける茶釜の芸を見て笑った。
『祈や。お前は天使でも悪魔でもない。……その両方を知り、その両方を超える存在になれる』
住職はいつもそう言って、私の頭を撫でてくれた。ここが、私の家だった。 世界で唯一、私が息をしていい場所だった。
けれど、妖怪の寿命は、人間が思うほど長くはない。あるいは、住職は既に老いすぎていたのかもしれない。 ある冬の朝、住職は冷たくなっていた。 眠るように、安らかに。 狸の姿に戻ったその亡骸を抱いて、私は泣き続けた。 また一人になった。 また、居場所を失った。
寺を出て、私は再び彷徨った。 浅修羅を出て、もっと華やかで、もっと残酷な街へ。
行き着いた先は、神宿の裏路地、傾奇町。 極彩色のネオンと、欲望のノイズが渦巻く街。 私の魔眼には、この街の「色」があまりに強烈すぎた。 歩くたびに、他人の欲望が粘着質な色となって視界を覆う。金欲の黄色。色欲のドブ色。暴力の赤黒さ。 眩暈がした。吐き気が止まらなかった。
「……もう、無理」
私は路地裏のゴミ捨て場に倒れ込んだ。 このまま死のう。 誰にも愛されず、誰にも知られず、ゴミとして腐っていくのがお似合いだ。
その時。 目の前に、毒々しいピンク色の看板が灯った。
『コンセプトカフェ・しゅがーぽいずん』
ドアが開き、派手なメイクをした女性が出てきた。その時の店長の毒リスさんだった。彼女はゴミ捨て場にうずくまる私を見つけ、眉をひそめた。
「あら、迷子? ……随分と汚れてるわね」
店長はしゃがみ込み、私の顔を覗き込んだ。 眼帯が外れ、オッドアイが露わになる。 私は身構えた。また、気味悪がられる。石を投げられる。
「……あら」
店長は、私の瞳を見て、ニヤリと笑った。
「随分と綺麗な目をしてるじゃない」
「……え?」
「宝石みたい。……ねえ、あんた。行く場所がないなら、ウチで働きなさいよ」
店長は私の手を取り、強引に店の中へと引き入れた。店内は、甘い匂いと、大音量の音楽に満ちていた。 彼女は私に温かいオムライスを食べさせ、そして一着の衣装を差し出した。
黒い翼のついた、フリルのエプロンドレス。
「あんたのその目、ここでは『個性』になるわよ。……今日からあんたは『堕天使』。名前は……そうね、『しふぁ』でどう?」
しふぁ。 ドジっ子で、甘えん坊で、人間界に堕ちてきた天使。 それは、私を守るための「設定」であり、仮面だった。
「いらっしゃいませ、ご主人様♡」
初めて接客した日。 私は震えながら、覚えたての台詞を言った。客の男は、私のオッドアイを見て、目を輝かせた。
「すげぇ! リアルオッドアイ? カラコンじゃないの?」
「神秘的だなぁ……。まさに堕天使って感じだ」
「可愛いよ、しふぁちゃん!」
誰も、私を罵らなかった。 誰も、私を拒絶しなかった。 彼らが見ているのは「天羽祈」ではなく、「堕天使しふぁ」という虚像かもしれない。 それでも、彼らは私に笑顔を向け、必要としてくれた。
(ここは……)
私は、震える手でオムライスにケチャップでハートを描いた。
(ここは、痛くない)
コンカフェという虚構の箱庭。 砂糖菓子でできた、脆くて甘い隠れ家。 そこが、私にとっての新しい聖域となったのだ。
「……ッ!!」
現実に意識が戻る。 目の前には、燃え盛る廃寺と、迫りくる純血種たちの軍勢。 大切な場所が、二つとも踏みにじられようとしている。 かつての故郷であるこの寺も。 今の居場所である、リコリス・バロックの仲間たちも。
「させない……! 誰にも、渡さない!」
私は杖を振りかざし、必死に魔法を紡ぐ。固有能力『楽園追放』。 空間を歪め、重力場を操作する。
だが、戦況は絶望的だった。
「聖なる光よ、異端を焼き払え!」
『福音聖歌隊』の天使たちが、一斉に光の矢を放つ。 神聖属性の魔力が、私の悪魔の血を焼き、激痛をもたらす。
「深淵の闇よ、弱者を貪り食え!」
『禍蛇旅団』の悪魔たちが、闇の炎弾を投擲する。 暗黒属性の魔力が、私の天使の血を蝕み、吐き気を催させる。
板挟み。 どちらの力を使っても、私自身の半身が悲鳴を上げる。 光を使えば悪魔を刺激し、闇を使えば天使を逆撫でする。中途半端な私は、どちらの属性にもなりきれず、ただ力を相殺されるだけだ。
「くっ……うぅ……!」
防御結界にヒビが入る。子供たちが悲鳴を上げ、私にしがみつく。 もう、限界だった。 杖を持つ手が痺れ、視界が霞む。
「終わりだ、雑種」
天使の隊長が、止めの一撃を放とうと剣を振り上げた。私は目を閉じた。 ごめんなさい。みんな。私はやっぱり、何も守れない半端者で……。
ドゴォォォン!!
その時。豪快な爆発音が、雨音を切り裂いた。 天使の隊長が吹き飛び、地面に転がる。
「……え?」
目を開けると、寺の塀が派手に破壊され、土煙が舞い上がっていた。その向こうから、聞き慣れた、そして何よりも頼もしい声が響いた。
「アタシらの仲間に手ェ出してんじゃねぇよ、鳥野郎!」
紫電一閃。 辰巳響が雷を纏って突っ込んでくる。 彼女の拳が悪魔の顔面を捉え、遥か彼方へと殴り飛ばした。
「遅れてごめんね、祈ちゃん。……道が混んでて」
頭上から、白い影が舞い降りる。 白雪美流愛だ。 彼女はワイヤーを展開し、天使たちの翼を絡め取って墜落させる。
そして、彼女の背後から、二つの小さな影が飛び出した。美流愛と同じ顔をした、双子の少女たち。 白雪亞莉愛と、白雪華琉愛。
「お姉様のお友達をいじめるな! この害鳥!」
「お姉様のご命令です。……殲滅します」
双子が両手を広げる。 固有能力『真愛幻影』。 空間に、無数の美流愛の幻影が出現した。 本物と同じ殺気を持った幻影たちが、天使と悪魔を撹乱し、同士討ちを誘発させる。
「な、なんだ!? 敵が増えたぞ!?」
「どれが本物だ!?」
純血種たちが狼狽する隙に、瓦礫の上には鉄鏡花が陣取る。 背中のサブアームからガトリングガンを展開し、牽制射撃の雨を降らせる。
「全方位、敵性反応多数。……これより、一斉清掃を開始する」
そして。
「……待たせたな、泣き虫」
私の前に、黒いコートの背中が立った。久遠灯。 彼女はS&W M500を構え、押し寄せる純血種の軍勢を睨みつけた。
「灯さん……みんな……!」
涙が溢れた。 来てくれた。私なんかのために、こんな危険な場所まで。双子ちゃんたちまで、私を守るために戦ってくれている。
「さあ、反撃だ! 祈、お前も立て! 一緒にやるぞ!」
灯が叫びながら、天使の部隊に特攻をかける。全身から血の霧を噴き出し、再生能力を盾にした捨て身の突撃。
「は、はい……!」
私は杖を握り直す。 仲間たちが作ってくれたチャンス。無駄にはできない。
だが、私の体は動かなかった。
「……っ、どうしよう」
目の前では、灯が光の矢を浴びて血を流し、響が闇の炎に焼かれている。私が援護しなきゃいけないのに。私が魔法を使えば、もっと楽に戦えるはずなのに。
「祈! 何してる! 攻めろ!」
灯が、敵の剣を受け止めながら叫ぶ。
「ぐっ……!」
私は唇を噛み締めた。 怖い。 私の力が暴走して、どちらかに偏ってしまうのが怖い。 天使の力を使えば、母を否定することになる。悪魔の力を使えば、父を否定することになる。私は、私が何者であるかを決定するのが、何よりも怖かった。
「……どっちなの? 私は、どっちなのよ……!」
その迷いが、致命的な隙を生んだ。
「隙ありだぜ、雑種!」
灯たちの連携の死角を突き、双子の幻影をすり抜けて、悪魔の一人が私の背後に回り込んだ。狙いは私ではない。 私が背に庇っていた、子供たちだ。
「死ね!」
「……あっ」
時間が止まって見えた。振り下ろされる鉤爪。私の魔法は間に合わない。 灯も、響も、美流愛も、双子たちも、誰も間に合わない。
ドスッ。
鈍い音がした。 私の目の前で、一番年下の幼子が吹き飛んだ。 小さな体が、地面を転がる。 赤い血が、雨水と混じって広がる。
「……あ……」
子供は、動かない。 その手には、私がさっき渡した飴玉が握られたままだった。
「ギャハハハ! いいザマだ! 半端者のガキなんざ、生きてる価値もねえ!」
悪魔が哄笑する。 天使たちが、それを見て冷ややかに嘲笑う。
「……価値?」
私の内側で、何かが切れる音がした。 プツン、と。 理性が、恐怖が、迷いが、すべて焼き切れる音。
私の心臓が、早鐘を打つ。右目の奥が熱い。左目の奥が冷たい。 相反する二つの力が、制御を失って暴れだす。
価値がない? 生まれてきちゃいけなかった? ふざけるな。 ふざけるな。 ふざけるな!
この子たちは、必死に生きていた。誰にも迷惑をかけず、ただ片隅で息を潜めて、明日を夢見ていた。それを、お前たちが勝手に決めたルールで、勝手な理屈で、踏みにじっていいわけがない!
「……許さない」
私の喉から、獣のような唸り声が漏れた。
「絶対に……許さない!!」
視界が、極彩色に染まる。 雨音が遠ざかり、代わりに体内を駆け巡る血の奔流が、轟音となって響き渡る。天使でもない。悪魔でもない。 私は、私だ。 矛盾を抱えたまま、混沌を飲み込んで、それでも生きようとする「バロック」だ。
私の背中が熱くなる。 肉が裂け、骨が軋む。新たな翼が、産声を上げていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




