第十六話「籠の中のカナリア」1
第一章 番号で呼ばれた少女
記憶の底にある原風景は、常にコンクリートの灰色と、鼻腔を刺す次亜塩素酸ナトリウムの白で塗り潰されている。
そこは、地図に載らない地下施設だった。太陽の光は届かず、空調の低い駆動音だけが、絶え間なく鼓膜を震わせていた。『鳥籠機関』。 それが、私が生まれ、育ち、そして心を殺された場所の名前だ。
この国を裏から支配する特務祭祀局の長、烏丸保憲が、現代の技術で「忍」を蘇らせるために設立した養成機関。そこには、「人間」はいなかった。いるのは、管理者である大人たちと、検体と呼ばれる子供たちだけ。
「――検体番号・零。前へ」
スピーカーから響く無機質な声。私は、何も考えずに一歩前へ出た。 身につけているのは、飾り気のない白いワンピース。足は裸足。床の冷たさが、足の裏から全身へと伝播していく。
私の名前は「零」。 親から貰った名前など知らない。物心ついた時には、私はこの番号で呼ばれていた。 周囲には、同じような目をした子供たちが並んでいる。 壱、弐、参……。 彼らは私の「兄弟」であり、同時に「競合部品」だった。
毎朝の点呼の後、私たちは「ビタミン剤」と呼ばれるカプセルを飲む。それを飲むと、頭の中の霧が晴れ、恐怖や悲しみといった感情が、波の引いた砂浜のように消え失せる。残るのは、澄み渡った集中力と、命令に対する絶対的な服従心だけ。
訓練は過酷を極めた。 人体構造学、薬物学、潜入術、そしてあらゆる殺人技術。 ナイフ一本で大男を解体する方法。 ピアノ線で音もなく頸動脈を断つ角度。笑顔一つで相手の警戒心を溶かす心理誘導。
脱落者は廃棄される。 昨日まで隣で寝ていた「参」番が、翌日にはいなくなっている。だが、私の心は痛みを感じない。
「不良品が排除された」
ただそれだけの事実として処理される。
私は、優秀だった。 誰よりも速く、誰よりも正確に、ターゲットの急所を貫くことができた。教官たちは、私をガラス越しに見下ろし、満足げに頷く。
「素晴らしい。……やはり、オリジナルに近い遺伝子配列は伊達ではないな」
「感情の抑制レベルも完璧だ。これなら、どんな任務にも耐えうる」
「完成だな。……『最高傑作』だ」
私は、その言葉を誇りとも思わなかった。 道具が褒められて喜ぶだろうか? 私は、よく研がれたナイフであり、正確に時を刻む時計に過ぎない。私という個体の中に、「私」という意思は存在しなかった。
ある日。 私は、烏丸の執務室に呼び出された。革張りの椅子に座るその男は、爬虫類のような冷たい瞳で私を見つめた。
「零。お前に、最初の実戦任務を与える」
烏丸は、一枚の写真と、派手な衣装のカタログを机に放り投げた。
「潜入先は、地下アイドルグループ『Night☆Lily』。……新メンバーオーディションに合格し、内部に入り込め」
アイドル。知識としては知っている。大衆の前で歌い踊り、笑顔を振りまく虚像。 それが、暗殺と何の関係があるのか。
「ターゲットは、この男だ」
烏丸が指差したのは、脂ぎった中年男の写真だった。建設省の汚職官僚。 彼は無類のアイドル好きであり、そのグループのライブに頻繁に顔を出しているという。警備は厳重だが、握手会やライブ中の接触ならば、隙が生じる。
「衆人環視の中、事故に見せかけて殺せ。……お前の『歌』で、彼を地獄へ送るのだ」
「了解」
私は短く答えた。 疑問はない。躊躇いもない。 ただ、与えられた役割を演じ、障害を排除するだけ。 それが、私の生きる理由のすべてだったから。
数ヶ月後。 私は、逝袋の地下ライブハウスのステージ袖に立っていた。
「いくよー! みんな、盛り上がってねー!」
メンバーの掛け声と共に、私たちは光の中へと飛び出した。 まばゆいスポットライト。 爆音のスピーカー。 そして、客席を埋め尽くす数百人の男たちの怒号のような歓声。
「うおおおおおっ!!」
「MIRUAちゃーん!!」
空気は最悪だった。 汗と埃と、安っぽい香水の臭いが充満している。酸素が薄い。 この非衛生的な環境は、私の管理された肉体にとって毒でしかない。
私は、プログラム通りに動いた。 鏡の前で数万回繰り返した、完璧な笑顔。 指先の角度まで計算された、可憐なダンス。声帯の振動数を調整し、最も大衆に好まれる周波数で歌う。
(……ターゲット、確認)
踊りながら、私の視覚センサーは獲物を捉えていた。 最前列の中央。 SPに囲まれながら、だらしなく鼻の下を伸ばしている中年男。 データ通りだ。 曲のクライマックス、彼が興奮して身を乗り出した瞬間が、殺害の好機。
全ては順調だった。 私は、ただの殺人機械として、任務を遂行するはずだった。
その時だ。
「MIRUAちゃんッ!! 俺を見てくれ!!」
最前列の柵に押し潰されそうになりながら、一人の男が叫んだ。ターゲットではない。ただのファンだ。 ボロボロのTシャツを着て、汗だくになりながら、必死にサイリウムを振っている。
ふと、彼と目が合った。
その目は、組織の教官たちのような、私を「道具」として値踏みする冷たい目ではなかった。かといって、ターゲットのような、性的な欲望に濁った目でもない。
飢えた獣のように。あるいは、救いを求める信徒のように。私という存在を渇望し、崇拝し、その魂のすべてをぶつけてくる熱視線。
(……な、に?)
私の思考回路に、ノイズが走った。 気持ち悪い。 生理的な嫌悪感が背筋を走る。 だが、同時に。 その視線の熱量が、私の凍りついた心の奥底に、微かな火を灯した。
温かい。 この薄汚い地下室で、私に向けられる無数の「好き」という感情。 それは、私が今まで一度も与えられたことのないものだった。組織では、私は「機能」として評価された。 だがここでは、私は「存在」として求められている。
「愛してるぞォォォォッ!!」
誰かの叫びが、鼓膜を震わせる。愛。 それはバグだ。不要なデータだ。
なのに、どうしてこんなに、胸が締め付けられるのか。
曲が、サビに入る。 ターゲットの官僚が、興奮してステージに手を伸ばした。SPの視線が、一瞬だけ彼から外れる。
今だ。
私の身体は、思考するよりも速く動いた。ダンスの回転を利用し、袖口からマイクロフィラメント・ワイヤーを射出する。 極細の死神の鎌が、照明に反射して一瞬だけ煌めく。
ヒュッ。
風を切る音すら、音楽にかき消される。ワイヤーは正確にターゲットの首に巻き付き、私の指先の動き一つで、肉を、気管を、動脈を寸断した。
鮮血が噴き出す。 それはスプリンクラーのように舞い上がり、最前列の客たちに降り注ぐ。 私の白い衣装が、赤く染まる。
「きゃああああああっ!?」
「な、なんだこれ!? 血!?」
悲鳴が上がる。会場はパニックに陥った。 SPたちが銃を抜く。本来なら、私はここで混乱に乗じて撤退する手筈だった。影のように消え、再び「番号」に戻るはずだった。
だが、私は動けなかった。いや、動かなかった。
スポットライトが、血まみれの私を照らし出している。 私は、マイクを強く握りしめた。 掌に伝わる金属の感触。 そして、目の前に広がる、恐怖と興奮が入り混じったカオス。
これが、私の世界だ。 無機質な鳥籠の中ではない。 血と、汗と、欲望が渦巻く、生々しい現実。
私は、笑った。 プログラムされた笑顔ではない。心の底から湧き上がる衝動に任せた、獰猛で、美しい笑顔。
「……歌うわ」
私は、震えるSPたちを無視して、マイクに向かって囁いた。
「聞いて。……これが、私の産声よ」
私は歌い続けた。 伴奏などない。悲鳴と怒号がバックコーラスだ。 その歌声は、組織の教官が教えた完璧な音程ではなかった。 感情が乗り、震え、歪み、けれど誰よりも力強く響く「人間」の歌。
「私は、ゼロじゃない」
歌詞を変えて、私は叫んだ。
「私は……白雪美流愛だッ!!」
それが、私が「籠」を食い破った瞬間だった。最高傑作の人形が壊れ、一人の殺し屋が誕生した夜。
その夜、私は組織のアジトへと帰還した。血を洗い流し、純白の制服に着替え、無表情な「零」の仮面を被り直して。
「報告します。ターゲットの排除、完了しました」
烏丸保憲への報告。彼は満足げに頷き、「よくやった。やはりお前は最高傑作だ」と褒め称えた。 だが、私の内側では、制御できないノイズが嵐のように吹き荒れていた。
(……違う)
コンクリートの独房に戻り、ベッドに横たわる。 天井のシミを見つめながら、私は自分の胸に手を当てた。 鼓動が速い。 ステージの熱が、ファンの歓声が、まだ耳の奥に残っている。 あの場所で、私は初めて「生きて」いた。 誰かの命令で動く部品としてではなく、意思を持った人間として。
(私は……戻りたくない)
ここには何もない。歌もない。光もない。名前さえない。あるのは、次の「殺し」の命令と、廃棄されるまでのカウントダウンだけ。
私は枕の下から、こっそり隠し持っていたメモ帳を取り出した。 そこには、任務の合間に書き溜めた、拙い歌詞が綴られていた。 誰に見せるわけでもない、私の魂の叫び。
「……歌いたい」
殺すためじゃない。 私の歌を、私の声を、誰かに届けるために。
数日後。 新たな任務が下った。
『湾岸エリア、第13埠頭の廃棄倉庫へ向かえ。そこで行われる闇オークションに潜入し、出品される「パンドラの匣」に関わるマフィアのボスを抹殺せよ』
端末に表示された文字を見た瞬間、私の直感が告げた。――ここだ。 ここが、分岐点だ。
この任務は、大規模な混乱が予想される。 警備は手薄になり、組織の監視の目も届きにくくなるだろう。私は、決意した。
(この任務を利用して……消えよう)
ターゲットを殺し、その混乱に乗じて姿をくらます。組織を裏切れば、一生追われることになるだろう。刺客が差し向けられるかもしれない。それでも構わない。 飼い殺しのカナリアとして死ぬより、血まみれでも空を飛んで死にたい。
私は、鏡に映る自分に向かって、小さく微笑んだ。それは、人形の笑みではなかった。 自由を渇望する、魔女の笑みだった。
「さよなら、鳥籠。……私は、私のステージへ行くわ」
そうして私は、3年前のあの雨の夜、第13埠頭の倉庫へと向かったのだ。そこで、運命の共犯者たち――久遠灯たちと出会うことになる。
そして、現在。 逝袋のライブハウス『セルロイド・ドリーム』。
私は、今日もステージに立っていた。 あれから3年。 私は組織を抜け、追っ手を返り討にし、この街で生き延びてきた。 地下アイドル、そして、裏社会の掃除屋。 二つの顔を持つ私は、この場所でしか呼吸ができない。
「ありがとー! アンコール、いくよー!」
汗を拭い、客席を見渡す。 いつもの熱狂。いつものむせ返るような臭気。私の愛する、汚くて愛おしい「箱庭」。
だが、違和感があった。 客席の中央。 モーゼが海を割るように、人混みが左右に分かれている。そこに、異様な集団が整列していた。
「……え?」
私は、息を呑んだ。そこにいたのは、私だった。
全員が、私と同じ顔をしている。 私と同じ、白雪美流愛の顔。 着ているのは、私がかつて組織で着せられていたのと同じ、純白の戦闘用ドレス。数は十二人。 彼女たちは、無表情でステージを見上げている。その瞳には、光がない。 かつての私と同じ、感情を去勢された人形の目。
「お姉様」
集団の中心に立つ、二人の少女が一歩前に出た。 左右対称のような双子。 右の少女は長い黒髪をポニーテールにし、左の少女はツインテールにしている。 それ以外は、私と瓜二つだ。
「お迎えにあがりました」
「廃棄の時間です、エラー個体」
二人の声が重なる。 その声紋さえも、私と完全に一致していた。
組織が、私の遺伝子データから製造した量産型クローン部隊。 コードネーム『籠愛舞姫』。
その指揮官個体、亞莉愛と華琉愛。
「……嘘でしょ」
マイクを持つ手が震える。 それは恐怖ではない。過去の亡霊が、物理的な質量を持って現れたことへの戦慄。
「客席で武器を出さないでくれる? ……マナー違反よ」
私は努めて冷静に言った。だが、彼女たちは聞く耳を持たない。 スカートの下から、サブマシンガンを取り出す。 ジャキッ、という金属音が、ライブハウスの熱気を凍りつかせた。
「総員、射撃開始」
アリアが無機質に命じる。 銃口が火を噴いた。悲鳴。硝煙。鮮血。 私の大切なステージが、私の大切なファンたちが、私の「過去」によって蹂躙されていく。
「やめろォォォッ!!」
私は客席へと飛び込んだ。 ファンを守るために。そして、自分自身の呪われた運命と決着をつけるために。
二人の瞳には、かつての私と同じ「虚無」が宿っていた。 それは、私が捨て去ったはずの、空っぽの鳥籠の闇だった。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




