第十四話「鋼鉄のヒポクラテス」3
第三章 喪失と鋼鉄の誓い
数日後。 私は、東帝都大学病院の第1外科手術室に立っていた。無影灯の白い光が、私の手元を鮮明に照らし出している。 手術台に横たわっているのは、10歳の少女だ。先天性の心臓疾患。複雑に入り組んだ血管と、未発達な心筋。他の医師たちが「手術不可能」と匙を投げた難症例だった。
「メス」
私が手を差し出すと、器械出しの看護師が柄を叩きつけるように渡す。 指先に冷たい金属の感触が馴染む。 私の世界が、極限まで収縮する。 モニターの心拍音、人工心肺の駆動音、そして少女の寝息。 それら全てがシンフォニーのように調和し、私の指先を導いていく。
(……いける)
私は確信していた。 私の技術は、今日も完璧だ。 神などいない。奇跡もいらない。この指先が紡ぎ出す論理的な切開と縫合だけが、少女の命を現世に繋ぎ止める錨となる。
執刀開始から6時間。 難所を越え、心臓の拍動が力強さを取り戻し始めた時だった。
ドォォォォォン!!
突如、地響きと共に爆音が轟いた。 病院全体が大きく揺れ、無影灯が明滅する。
「な、何だ!?」
「地震か!?」
スタッフたちが動揺する。 だが、揺れは収まらない。続けて、足元から突き上げるような衝撃。地下ボイラー室。 そこを起点とした爆発が、建物の構造を根底から破壊したのだ。
「キャアアアッ!」
悲鳴と共に、天井が崩落した。 巨大なコンクリート塊が、手術台めがけて落下してくる。
「――ッ!!」
思考するよりも早く、私の身体は動いていた。私はメスを放り出し、開胸されたままの少女の上に覆いかぶさった。医者としての本能。 あるいは、自分の技術の結晶を守ろうとするエゴだったのかもしれない。
ズガァァァッ!!
背中に、焼き鏝を押し当てられたような激痛が走った。熱い。重い。 瓦礫が私の脊椎を砕き、両足を押し潰す。落下してきた鉄骨が、私の両腕――「神の手」と呼ばれたその腕を、無惨に切断した。
「あ……が……ッ」
血の味が口の中に広がる。 視界が歪む。 火災報知器のベルと、スプリンクラーの水音。煙の臭い。肉の焼ける臭い。
薄れゆく意識の中で、私は見た。 崩れ落ちた壁の向こう。炎の揺らめきの中に立つ、一人の男の影を。
烏丸保憲。
彼は、崩壊する手術室を、まるで舞台劇の観客のように見下ろしていた。その瞳には、憐憫も、驚きもない。 ただ、予言が的中したことを確認するような、冷徹な納得だけがあった。
『残念だ。……君のその手も、いずれ脆く崩れ去るだろう』
あの言葉が、呪いのように蘇る。これは事故ではない。私の拒絶に対する回答。 粛清だ。
(……守れ、なかった……)
私の腕の中にいる少女。その心臓は、まだ動いているだろうか。 確かめたくても、脈を取るための指が、もう私にはなかった。
次に目が覚めた時、私は水の中にいた。
緑色の培養液。 気泡の音。 私は、巨大なガラスの筒――ライフサポート槽の中に浮かんでいた。
「……目が覚めたかね、鉄先生」
スピーカー越しに、烏丸の声が響く。私は声の方を見ようとした。 だが、首が動かない。いや、首の筋肉そのものが存在しない感覚。 視線だけを、辛うじて下に向ける。
「――ッ!?」
声にならない叫びが、電子信号となってノイズを走らせた。
ない。 手も、足も。 胸も、腹も。 私の身体は、ダルマのように削ぎ落とされたのではない。「首から下が、完全に消失していた」。
ガラスに映る自分の姿。そこにあるのは、培養液に浮かぶ「脳髄」と、そこから垂れ下がる脊髄、そして辛うじて残された眼球だけ。 生命維持装置のチューブが、血管の代わりに無数に突き刺さっている。 私は、人間としての肉体をすべて失い、ただの「生体部品」になっていた。
「君は生き残った。……素晴らしい生命力だ」
ガラスの向こうに、烏丸が立っていた。彼は、私の無惨な姿を見ても眉一つ動かさず、淡々と事実を告げた。
「だが、残念ながら少女は助からなかった。……君が庇ったおかげで即死は免れたが、術後の管理ができなければ、当然の結果だ」
少女が、死んだ。 私のオペは成功していたはずなのに。私が、最後まで守りきれなかったから。
「君もまた、医者としては死んだも同然だ。肉体の98%を喪失した。……その状態で、どうやってメスを握る?」
烏丸は、培養槽の横にある台を指差した。 そこには、鈍い光沢を放つ金属の骨格――全身義体が置かれていた。 彼が以前私に見せた設計図。 『科学的式神』の機体だ。
「これを使え」
烏丸は言った。悪魔の囁きのように。
「私の研究に協力するなら、君に『新しい器』をやろう。脳髄を格納し、神経を接続すれば、君は人間以上の身体機能を手に入れられる。……決して震えることのない、鋼鉄の『神の手』を」
選択肢などなかった。ここで死ねば、私はただの「事故死した哀れな医者」として処理され、少女の死も無駄になる。烏丸の野望は闇に葬られ、彼はまた別の犠牲者を探すだろう。
悔しさが、データ上の涙となって溢れ出した。この男を生かしておけない。 私の人生を、少女の未来を、踏みにじったこの悪魔を。
「……いいだろう」
私は、培養液の中で思考した。 喉はない。だが、接続された人工声帯ユニットが、私の思考を音声に変換する。
『契約だ、烏丸。……その身体、貰い受ける』
私は魂を売った。だが、服従するためではない。 復讐するためだ。 いつか、その鋼鉄の指で、この男の喉笛を食いちぎるために。
数ヶ月後。私は、烏丸の用意した研究所の手術台の上にいた。 私の脳髄は、チタン合金の頭蓋に収められ、全身義体との接続を完了していた。 神経接続率は100パーセント。 私は、かつての肉体以上に自由に、この機械の腕を動かすことができた。
「素晴らしい適合率だ。……さあ、鉄先生。君の最初の仕事だ」
烏丸が、実験体となる動物を用意させた。私はメスを握る。 だが、機械の手が震えた。センサーの誤作動ではない。 私の脳が、少女の死に顔をフラッシュバックさせているのだ。恐怖。後悔。怒り。 それらの感情がノイズとなり、電子回路に干渉し、精密動作を阻害する。
(……これでは、ダメだ)
人間としての脳が残っている限り、私は烏丸に勝てない。 感情がある限り、私はまた誰かを失う。ならば。
「……私は、貴様の道具にはならない」
私は、烏丸の命令を無視した。メスの切っ先を、動物ではなく、自分自身のこめかみに向ける。メンテナンスハッチを開き、剥き出しになった自らの電子脳に、刃を突き立てた。
「おい、何をする気だ!?」
研究員たちが慌てる中、私は冷徹に、自身の脳にメスを入れた。 痛みはない。だが、魂が削られる感覚がある。私は、自分の脳の構造を熟知している。感情を司る領域。恐怖を感じる扁桃体。 そこを物理的に遮断し、バイパスを通す。
「私は、医者だ。……患部は、切除する」
自らを執刀する。 人間としての心を殺し、ただ目的のためだけに動く冷徹な機械となるために。 震える心を、涙を流す機能を、私は自らの手で切り捨てた。
ザシュッ。
神経が断たれる音がした。その瞬間、手の震えが止まった。恐怖も、怒りも、悲しみも、遠い彼方へと消え去った。 残ったのは、氷のような理性と、純粋な論理だけ。
「……システム、オールグリーン」
私は、感情のない合成音声で呟いた。 こうして、天才外科医・鉄鏡花は死んだ。 そして、脳髄だけの怪物――サイボーグの闇医者が誕生した。
「……ん……」
意識が浮上する。 重い瞼を開けると、そこは見慣れた薄暗い天井だった。『鉄屑医院』の手術室。 腐ったような消毒液と、機械油の匂い。ここは、無菌室のような白亜の巨塔ではない。ドブネズミたちが集う、掃き溜めの底だ。
「おい、気がついたか!?」
久遠灯の顔が、視界いっぱいに飛び込んできた。 その背後には、心配そうに覗き込む白雪美流愛、辰巳響、天羽祈の姿がある。
「鏡花さん! よかった……!」
「マジで焦ったし! いきなりぶっ倒れるんだもん」
「……システムチェック、完了。再起動を確認」
彼女たちの声が、鼓膜を震わせる。 温かい。騒がしくて、鬱陶しくて、泥臭い。 だが、培養液の中の静寂よりは、遥かにマシだ。
「……やかましい」
私は、わざと不機嫌な声を出し、上半身を起こした。左胸の装甲板が外され、応急処置が施されている。論理ウイルスは隔離・消去され、神経系もバイパス手術で繋ぎ直されていた。 灯がやったのか。あるいは、私が無意識下で自己修復プログラムを走らせたか。
「再起動直後は処理落ちする。……大声を出すな、有機生命体ども」
「減らず口が叩けるなら大丈夫だな」
灯が安堵の息を吐き、ニヤリと笑った。その笑顔を見て、私の胸の奥――ブラックボックスが微かに熱を持った。かつて切り捨てたはずの「感情」の欠片。 それが今、仲間というバグによって、再び形成されつつある。
私は、自分の左手を見た。 無骨な、鋼鉄の義手。 だが、そこには確かに、灯の体温が残っていた。かつての温かく柔らかな手ではない。 けれど、この手はもう震えない。 誰かを守るために、敵を砕き、命を繋ぎ止めることができる、最強の「神の手」だ。
「……烏丸保憲」
私は、脳内のブラックリストを更新した。最優先排除対象。過去の亡霊は、もう私の足を掴む鎖ではない。私が乗り越えるべき、明確な「障害物」だ。
「私の『神の手』は……貴様を解体するためにある」
私は義手を強く握りしめた。 金属がきしむ音が、宣戦布告のように響く。その手は冷たい鋼鉄だが、そこには確かに、かつての熱い血が通っていた。 痛みを知る鉄屑として、私はこの街で生きていく。 硝子の街の夜明け前。 サイボーグの医者は、静かに、しかし力強く、再起動を完了した。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




