第二話「0時のアイドル、雨夜の殺人鬼」1
第一章 地下二階の熱帯魚
北の魔都、逝袋。 その地下深くに根を張るライブハウス『セルロイド・ドリーム』は、巨大な臓器の内壁を思わせる赤錆色の空間だった。
換気ダクトが老衰した獣のような唸り声を上げているが、二百人を超える男たちが発散する熱量と湿気を吐き出し切るには、あまりに無力だ。 充満しているのは酸素ではない。 安っぽい制汗スプレーと、古びた揚げ油、そして行き場のないリビドーが煮詰まった、饐えた臭気。 壁に染み付いたタバコのヤニとカビの臭いが、それらを接着剤のように繋ぎ止めている。
重低音が肋骨を震わせた。ステージ上のスポットが、私の視界を白く焼き尽くす。
「いくぞー! せーのっ、み・る・あー!」
私はマイクを握りしめ、完璧な角度で首をかしげる。眼下には、サイリウムの海。 赤、青、黄色、そして私の担当カラーである純白。 それらが不規則に、しかしある種の宗教的な統率を持って波打っている。 最前列に陣取る男たちの顔は、どれも一様に血管を浮き上がらせ、滝のような汗を流し、必死の形相で何かを叫んでいる。彼らの口の動きは「愛してる」と形作られているが、大音量のスピーカーの前では、それは意味を持たない振動音に過ぎない。
私は、白雪美流愛。 地下アイドルグループ「Night☆Lily」のセンター。 そして、殺し屋だ。
ステップを踏む。 フリルとレースで武装した衣装が、重力に従ってふわりと舞う。 私の動き一つひとつに、客席から野太い歓声が上がる。彼らは私を見ている。網膜に焼き付けようと、必死に目を見開いている。だが、私に見えているのは「ファン」という個体ではない。 急所だ。
頸動脈。眼球。喉仏。心臓。 ペンライトを振り上げるその脇腹の隙間。名前を叫ぶために無防備に晒された咽頭。 幼少期、暗殺組織の教官に叩き込まれた思考回路は、彼らの熱狂的な求愛行動を、すべて「殺害の好機」として処理してしまう。
(……気持ち悪い)
内面で毒づきながら、私は客席の一人に「レス」を送る。指先でハートを作り、ウインクを飛ばす。 その男は、撃ち抜かれたように仰け反り、隣の男に肩をぶつけて歓喜した。 滑稽だ。彼らは私を「天使」と呼ぶ。「俺の光」と崇め、「生きる意味」だと縋る。 けれど、私にとってここは水槽だ。 分厚い強化ガラス一枚隔てた向こう側から、飢えた魚たちが餌を求めて口をパクパクさせている。私はその中で、極彩色の鰭を揺らして泳ぐだけの、哀れな熱帯魚。
彼らの瞳に宿る光。 それは純粋な好意などではない。 執着だ。私という存在を消費し、咀嚼し、自らの内側に完全に取り込みたいという、捕食者の欲望。
『MIRUAちゃん! 俺だ! 俺を見てくれ!』『結婚してくれ!』『死ぬほど好きだ!』
怒号のような愛の言葉が、私の鼓膜を叩く。組織の教義において、対象への過度な執着は、殺意の第一段階と定義されている。 愛しすぎることと、殺して自分のものにすることは、コインの裏表ですらない。同じ面の、見る角度が違うだけの現象だ。 だから、彼らの「愛してる」という叫びは、私にはこう翻訳される。
――お前を殺したい。
「ありがとう! みんなのこと、だぁいすきだよ!」
曲の最後。 私はステージの中央で、今日一番の笑顔を作った。 口角を限界まで引き上げ、目は笑わず、けれど涙袋を強調して「可憐さ」を演出する。 この笑顔は、防弾ガラスよりも強固な盾であり、ナイフよりも鋭利な凶器だ。照明が落ちる。暗闇の中、私はマイクを下ろし、冷え切った目で熱狂の残滓を見下ろした。
ライブの熱が冷めやらぬフロアは、即席の「特典会」会場へと早変わりしていた。 物販テーブルの前に長蛇の列ができる。一枚千円の「チェキ券」を握りしめた男たちが、数秒間の接触を求めて並んでいる。 アイドルという虚像と、現実の肉体が交錯する数少ない時間。 それは儀式だ。 資本主義と承認欲求が交配した、醜くも神聖な儀式。
「はい、次の方ー」
スタッフの乾いた声が響く。私はチェキカメラのレンズに向かって、次々とポーズを決める。隣に来た男の汗が、私の衣装に染み込む。吐息が首筋にかかる。反射的に、袖口に隠したマイクロフィラメント・ワイヤーに指がかかりそうになるのを、理性で押し留める。
「MIRUAちゃん、今日のライブも最高だったよ」
「ありがとー! ヤマモトさんも、ペンライトすごく綺麗だった!」
「えっ、見ててくれたの!? うわ、マジか、生きててよかった……」
「また来てね。約束だよ?」
「はい、お時間ですー」
「剥がし」と呼ばれるスタッフが、男の肩を掴んで引き剥がす。男は名残惜しそうに何度も振り返りながら、列の外へと排出されていく。その背中を見送りながら、私は次の「獲物」を待つ。 このルーチンワークこそが、私の日常だ。 感情を殺し、反射神経だけで愛を配給する作業。
だが、違和感があった。 歯車が一つ、噛み合っていないような感覚。 列の消化が進むにつれ、その違和感は確信へと変わっていく。
(……いない)
タナカが、いない。
タナカ。本名不詳。あだ名は「ガチ恋のタナカ」。年齢は四十代半ば。小太りで、いつも季節外れのネルシャツを着て、背負ったリュックサックには無数の缶バッジを付けている男。 彼は私の「太客」だ。 給料の全額、いや、おそらくは借金までして、そのすべてを私につぎ込んでいる。 毎回のライブで必ず最前列のゼロズレ(立ち位置の正面)を確保し、特典会では制限時間ギリギリまでチェキ券をループする。その執着心は異常を通り越して、ある種の信仰に近い。彼にとって、ライブに来ることは呼吸と同じだ。私がここにいる限り、彼が来ないという選択肢はあり得ない。
さっきのライブ中、確かに彼の姿を見たはずだ。 最前列で、誰よりも激しく頭を振り、私の名前を叫んでいた。 なのに、特典会の列に彼の姿がない。トイレだろうか? いや、彼は自分の順番を逃すことを極端に恐れる男だ。 体調不良? あり得ない。彼は高熱があっても点滴を打って現場に来るタイプの人間だ。
「……ねえ、スタッフさん」
「ん? どうした、MIRUA」
「タナカさん、見かけました?」
「あー、あの太客か。……そういや見てねえな。外で涼んでんじゃねえの?」
スタッフは興味なさげに答える。 私の胸の内で、アラームが鳴った。 殺し屋としての直感。 空間の「音」が、一つだけ欠けている。 いつもの騒音の中に、あるべきはずのノイズが含まれていない。
その時だ。
「うわあああああああっ!!」
楽屋裏、機材搬入口の方角から、男の悲鳴が轟いた。 ライブハウスの重低音を切り裂く、裂帛の絶叫。 それは歓喜の声ではない。 生物が、捕食者に直面した時に上げる、根源的な恐怖の音。
フロアの空気が凍り付く。 オタクたちが動きを止め、ざわめきが波紋のように広がる。私は反射的にテーブルを蹴り、スタッフの制止を振り切って走り出した。 アイドルとしての「MIRUA」の皮を脱ぎ捨て、殺し屋としての本能が脚を動かす。
「きゃっ、MIRUAちゃん!?」
「どいて!」
メンバーの驚く声を背に、私は重い鉄扉を押し開けた。搬入口へと続く薄暗い廊下。湿ったコンクリートの臭いと、埃の臭い。 そして、その奥から漂ってくる、鉄錆と甘い蜜が混ざったような、異質な芳香。
搬入口のシャッター前。 そこに、肉塊が転がっていた。
タナカだ。 見間違えるはずがない。あの擦り切れたネルシャツ。リュックから散らばった私の缶バッジ。 彼は仰向けに倒れ、天井の蛍光灯を見上げていた。
「……タナカ、さん?」
私は駆け寄り、その身体に触れる。 冷たい。 地下二階の熱気の中にいたはずなのに、まるで氷のように体温が奪われている。 そして、彼の表情を見た瞬間、私は息を呑んだ。
笑っていた。 恐怖に歪んでいるのではない。苦痛に顔をしかめているのでもない。 口元はだらしなく緩み、目はとろんと蕩け、頬は薔薇色に染まっている。 それは、至高の快楽に浸りきった人間の顔だった。まるで、人生で一番幸せな夢を見ている最中に、時間が永遠に停止してしまったかのような。
「……なんだ、これ」
私は彼の首筋に視線を落とす。そこには、致命的な傷があった。頸動脈のあたりが、ごっそりと抉り取られている。 だが、それは獣に噛みちぎられたような乱暴なものではない。 もっと鋭利な、外科手術用のメスか、あるいは極めて薄い刃物で、愛おしむように丁寧に切開されたような傷跡。
異常なのは、血だ。 これほどの傷を受けていながら、床には血が一滴も流れていない。 傷口は白く乾ききっている。まるで、体内の血液が一瞬にして蒸発したかのように。いや、違う。吸い尽くされたのだ。血液という物質だけでなく、彼の命、情熱、執着、そのすべてが。
「……妙だな」
背後から、低い声が響いた。 影から現れたのは、喪服のような黒スーツを着崩した女性――久遠灯。 私が呼ぶよりも早く、彼女は嗅ぎつけてきたらしい。 彼女は咥え煙草のまま、タナカの死体のそばにしゃがみ込み、興味深そうに傷口を覗き込んだ。
「灯……これ、吸血鬼の仕業?」
「よせ。同族と一緒にすんな。吸血鬼の食事作法はもっと汚い。こんなに綺麗に、中身だけを啜ったりはしないさ」
灯は指先で傷口に触れ、その感触を確かめる。
「乾いてる。物理的な血液だけじゃない。こいつの持っていた『熱量』……そうだな、お前への『愛』とやらまで、ごきゅっと吸い取られたみたいだ」
「愛を、吸い取られた……?」
私はタナカの顔をもう一度見る。 空っぽだ。彼の中にあった、私への狂おしいほどの執着。粘着質な視線。それらが全て抜き取られ、後には幸福な抜け殻だけが残されている。その光景は、グロテスクであると同時に、冒涜的なほど神々しかった。
「おい、祈。出番だぞ。いつまで隠れてる」
灯が闇に向かって声をかける。 積まれた機材ケースの陰から、おずおずと天羽祈が姿を現した。 彼女は青ざめた顔で口元を押さえ、ガタガタと震えている。
「うぅ……臭い、臭いよぉ……」
「我慢しろ。……何が視える?」
祈はオッドアイを開き、タナカの死体に視線を向けた。彼女の左目、悪魔の瞳が赤く発光する。その場に残された残留思念、死の瞬間の映像を、彼女は網膜に焼き付ける。
「……視える。この人が死ぬ直前の映像」
祈の声が、恐怖で上擦る。
「抱きしめられてる。……すごく、強く。骨が折れるくらい」
「誰に?」
「……女の人。白い衣装を着て、甘い匂いをさせて……」
祈は私を見た。 その視線は、恐怖と困惑に揺れている。
「美流愛ちゃん……?」
「は?」
私は眉をひそめる。
「何言ってるの。私はずっと特典会にいたよ。アリバイならここにいるオタクたちが証明してくれる」
「で、でも……視えるの! この人が最後に見たのは、美流愛ちゃんそのものだった!」
祈は頭を抱え、その光景を言語化しようとあがく。
「この人……タナカさんは、死ぬ瞬間、すごく幸せそうだった。『ああ、MIRUAちゃん』って……『やっと一つになれる』って……」
祈は吐き気をこらえながら、タナカの最期の言葉を代弁した。
「『僕を食べて』……って」
背筋に冷たいものが走った。僕を食べて。 それは、究極の献身。自己の消滅を代償とした、偶像との融合。 ファンが抱く究極のエゴイズムが、最も醜悪な形で成就してしまっている。
「……私じゃない」
私は呟く。 だが、祈の魔眼が嘘をつくはずがない。 タナカを殺したのは、私の姿をした「何か」だ。私の衣装を着て、私の顔で笑い、私のファンを抱きしめ、その命と愛を啜った怪物。
それは、歪んだ信仰が生み出した怪物なのか。 それとも、私自身の内側にある「殺したい」という衝動が、身体を抜け出して実体化したドッペルゲンガーなのか。
「……ふざけんな」
殺意が湧き上がる。恐怖ではない。純粋な怒りだ。私のファンを。私の獲物を。私の所有物を。勝手に「食べた」奴がいる。
私はタナカの死体を見下ろした。 その幸福そうな死に顔が、私を嘲笑っているように見えた。『MIRUAちゃん、最高だったよ』 幻聴が聞こえる。
「……許さない」
私はスカートの裾を握りしめた。その下には、冷たいペンライトの柄が隠されている。
私のファンを殺していいのは、私だけだ。他の誰にも、指一本触れさせない。
搬入口の外から、雨音が響いてくる。 北の魔都の夜は、まだ始まったばかりだ。 その闇のどこかで、もう一人の「私」が、血に濡れた唇を拭いながら笑っている気配がした。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




