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リコリス・ミッドナイト・ヘブン  作者: ネオもろこし
箱庭の揺り籠(ガーデン・オブ・クレイドル)編

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第十二話「夜明けの彼岸花」3

第三章 不味い珈琲と、愛しき地獄


 硝子の棺は砕け散った。 私たちは、泥だらけのままで、新しい朝を迎えたのだ。


 数時間後。 東帝都(トウテイト)に、気まずい朝が訪れた。


 その覚醒は、決して爽やかなものではなかった。路上で、駅のホームで、オフィスの冷たい床で。 死のように眠っていた人々が、次々と目を覚ます。 まるで、数百万人が同時に、泥酔から醒めた直後のような気怠さと、生理的な不快感が都市を覆っていた。


「……あれ? 俺、なんでこんな所に……」


「痛っ……体中が痛い……。コンクリートの上で寝てたのか……?」


 彼らは、身体の節々の痛みと、強烈な空腹感、そして内臓が冷え切った感覚と共に起き上がった。『箱庭』が見せた甘美な夢の記憶は、朝露のように消え失せている。残ったのは、雨に濡れて重くなった服の不快感と、遅刻への焦り、そして胸に空いた風穴のような、得体の知れない喪失感だけ。


 幸福だった気がする。 何も考えなくていい、何も背負わなくていい、羊水のような場所にいた気がする。 けれど、その感覚は指の隙間からこぼれ落ちる砂のように、急速に現実へと置換されていく。


「おい! 誰か傘貸してくれ! びしょ濡れだ!」


「電車動いてねえのかよ! ふざけんな! 会議に遅れるだろ!」


「ママ、お腹すいたぁー! 帰りたいよぉ!」


 街に、喧騒が戻ってくる。 怒号。泣き声。クラクション。工場の稼働音。 それは、数時間前までの静寂とは対極にある、耳障りな騒音(ノイズ)だ。 誰も、世界が一度終わりかけ、そして再生したことになど気づかない。 彼らはまた、傷つけ合い、奪い合い、文句を言いながら、この薄汚れた日常の歯車を回し始める。 昨日と同じ今日が、暴力的に再開される。


 その喧騒の片隅。 神宿(シンジュク)の路地裏にある、古びた雑居ビル。 錆びついた非常階段を、ボロボロになった5つの影が、無言で上っていく。


 カツン、カツン。 鉄骨を踏む音が、重く響く。


「……あー、足いてぇ。もう一歩も動けねぇ」


 辰巳響(たつみ ひびき)が、手すりにしがみつきながら愚痴をこぼす。彼女の自慢のパーカーはボロ布となり、髪は湿気と静電気で爆発していた。 龍としての覇気は消え失せ、今はただの、疲れ切った少女の背中があるだけだ。


「文句を言うな。……私の関節駆動系など、限界値を300%超過して焼き付いている。油が切れたブリキの玩具の方が、まだマシな動きをするだろう」


 鉄鏡花(くろがね きょうか)が、油の切れた機械のような、ぎこちない動きで続く。 白衣はオイルと煤で真っ黒だ。 彼女の論理回路は、「休息」という結論を弾き出してから、既に数時間が経過している。


「……靴、片方なくしちゃった。お気に入りだったのに」


 天羽祈(あもう いのり)が、裸足の足裏についた泥と小石を気にしながら、ぺたぺたと歩く。 その声には、世界の命運を賭けた戦いを終えた者とは思えない、日常的な悲哀が滲んでいた。


 ようやくたどり着いた屋上。 『Akari Detective Studio』のドアを、久遠灯(くおん あかり)が蹴り開けた。 鍵などかけていない。盗まれるようなものは何もないからだ。


「……ただいま」


 その瞬間。 全員の鼻腔を、強烈な悪臭が襲った。


「うっ……くさっ!!」


 響が鼻をつまんで後ずさる。 白雪美流愛(しらゆき みるあ)がハンカチで口元を覆い、涙目で呻く。


「なによこれ……! 生ゴミの臭い!? ……いや、もっと酷い、化学兵器レベルよ!」


 原因は、テーブルの上に放置された土鍋だった。 台風の日のあの夜。嵐の中で彼女たちが囲んだ、あの「キメラ鍋」。 トマトジュースと牛肉と野菜、そしてマシュマロなどが混然一体となった残骸が、停電による高温と湿気の中で放置され、見るも無惨に腐敗し、冒涜的な臭気を放っていたのだ。 表面には白カビのコロニーが形成され、新たな生態系が誕生している。


「……あー」


 灯は、天井を仰いだ。 天井の雨漏りのシミが、嘲笑うように広がっている。命がけの戦いを終え、世界の崩壊を食い止め、英雄として凱旋したはずの場所が、腐った鍋の臭いに満ちている。 あまりに締まらない結末。 だが、それが妙におかしく、そして愛おしかった。


 これこそが現実だ。 御堂蓮が目指した「腐敗しない永遠の世界」には、この悪臭は存在しなかっただろう。 モノは腐り、壊れ、臭いを放つ。それは、時間が流れている証拠であり、生命活動の成れの果てだ。


「片付ける気力もないわよ……」


 美流愛が、泥だらけのソファに倒れ込む。 高級なドレスも、肌も、髪も汚れている。だが、彼女はもう、鏡を見る必要を感じていなかった。今の自分は、どんな着飾ったアイドルよりも「本物」であるという確信が、彼女の矜持を支えていた。


 他のメンバーも、床や椅子に、死体のように転がった。タワーでの無菌室のような空気とは違う。 埃っぽくて、カビ臭くて、腐った食べ物の臭いがする。けれど、そこには確かな生活の匂いがあった。 私たちが、ここで生きて、ここで食って、ここで寝ていたという、生々しい痕跡。


「……喉、乾いたな」


 灯が、重い体を起こした。彼女は棚の奥を探り、とっておきのコーヒー豆の瓶と、手動のミルを取り出した。


「……飲むか?」


 全員が、無言で頷く。 言葉はいらない。 ただ、同じ苦味を共有したいという欲求だけがあった。


 ガリガリ、ガリガリ。 豆を挽く音が、静かに響く。 その単調なリズムが、昂った神経を鎮め、日常へと意識をチューニングしていく。 カセットコンロでお湯を沸かし、丁寧にドリップする。 立ち昇る香ばしい香りが、部屋の腐敗臭と混じり合い、奇妙な安らぎをもたらす。


「ほらよ」


 人数分のカップがないため、欠けたマグカップや湯呑みに注いで回す。 色は泥水のように濁っている。 豆が古かったのか、少し焦げ臭い。


 美流愛が一口啜り、顔をしかめた。


「……苦い。泥水みたい」


「栄養価はゼロだ。……カフェインによる覚醒作用のみが期待できる」と鏡花。「砂糖入れてもいい? 超大量に」と響。 「……温かいです。手のひらが、ジンジンします」と祈。


 灯も、自分の分を啜った。 舌を刺す苦味。喉を焼く熱さ。『青い涙』の甘さとは対極にある、覚醒の味。 砂糖菓子のような夢から、私たちを叩き起こすための、黒い聖水。


「不味いな」


 灯はニヤリと笑った。


「だが、これが生きている味だ」


 灯は立ち上がり、固く閉ざされていた窓を開け放った。 錆びついたレールが悲鳴を上げ、窓が開く。 新鮮な、しかし排気ガスと湿気を含んだ風が吹き込んでくる。部屋の悪臭が、少しだけ風に流されて薄まる。


 雨上がりの空に、頼りない太陽が昇っていた。 眼下の神宿からは、始発列車の走行音と、誰かの怒鳴り声、そしてパトカーのサイレンが聞こえてくる。 不快な騒音。 醜い争い。終わらない欲望の連鎖。


「……最低の朝ね」


 美流愛が、マグカップを持ったまま灯の隣に来て、外を見下ろした。 その横顔には、もうアイドルの仮面はない。ただの、一人の少女としての、ふてぶてしく、そして清々しい笑顔があった。


「ああ。……だが、退屈はしなさそうだ」


 灯は、空になったカップを置き、胸ポケットを探った。クシャクシャになった「わかば」の箱。 最後の一本を取り出し、火をつける。 紫煙が、朝の光に溶けていく。


 彼女たちの戦いは終わらない。 『箱庭』は壊れたが、この街の歪みが消えたわけではない。 また新しい悪意が生まれ、誰かが泣き、誰かが奪い、誰かが怪物になるだろう。 正解のない世界。 泥沼のような日常。


 だが、それでいい。 傷だらけの足を止めることなく、地べたを這いずり回る。 痛みを感じ、苦味を味わい、それでも「生きてやる」と中指を立てる。 それこそが、彼女たちが御堂の楽園を拒絶してまで選んだ「生」なのだから。


「さて」


 灯は、仲間たちを振り返った。 ボロボロで、薄汚くて、けれど最高にタフな共犯者たち。彼女たちはもう、迷わない。 自分たちの居場所が、この掃き溜めの中にあることを知っているから。


「一眠りしたらまた仕事だ。……このろくでもない世界が、また動き出しちまったからな」


 響がニカっと笑い、拳を合わせる。バチリと火花が散る。 鏡花が眼鏡の位置を直し、端末を起動する。 祈が新しい眼帯を着け、背筋を伸ばす。 美流愛がスカートの埃を払い、不敵に微笑む。


 歪な花(リコリス・バロック)。 彼女たちは、今日も硝子の街で咲き続ける。毒を食らい、泥を吸い、鮮血のような赤色を誇りながら。


 その背中には、もう孤独の影はなかった。

自分が読みたい物語を書いています。

可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。

(制作に関してAIを利用しています)

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