第十一話「バロック・パレード」1
第一章 微笑む死体たちの街
地下鉄の廃駅から這い出し、重いマンホールの蓋を押しのけた瞬間、私たちの視界は幻想的な青色に塗り潰された。
東帝都の地上は、まるで巨大な水槽の底に沈んだかのようだった。神宿の路地裏から見上げる空は、厚い雲に閉ざされ、そこから絶え間なく降り注ぐ雨が、街全体を薄い膜で包み込んでいる。だが、それは自然の雨ではない。雨粒の一つひとつが、微弱な電流を帯びたように青白く発光し、地面に落ちて弾けるたびに、甘ったるい芳香を撒き散らす。高濃度の『青い涙』を含んだ、粘着質な慈悲の雫。それがアスファルトを鏡のように濡らし、街灯やネオンの光を滲ませ、世界を非現実的なブルーに染め上げていた。
「……静かね」
白雪美流愛が、泥だらけのドレスの裾を絞りながら呟く。 その声は、吸い込まれるように闇に溶けた。彼女の言葉通り、この眠らない街からは、あらゆる喧騒が消え失せていた。 車のクラクションも、客引きの怒号も、酔っ払いの下品な笑い声も、パチンコ店の騒音も。 すべてが青い雨音に吸い込まれ、死に絶えている。
その代わりに存在するのは、おびただしい数の「微笑む死体」たちだ。
路上の至る所に、人々が立ち尽くしていた。 コンビニの軒先でワンカップを握りしめたままのホームレス。 電柱に寄りかかり、嘔吐の途中で動きを止めた泥酔者。 スマホを片手に、誰かを待っていたはずの若者。 彼らは皆、立ったまま、あるいは座り込んだまま、精巧な蝋人形のように微動だにしない。
共通しているのは、一様に空を見上げ、雨を全身で受け止めながら、恍惚とした表情を浮かべていることだ。瞳孔は開ききり、黒目はどこか遠くの楽園を見つめている。口元はだらしなく緩み、よだれと共に「幸福」が垂れ流されている。
至高の幸福。 苦痛から解放され、思考を停止し、ただ「快」の海に漂うだけの存在。 彼らの心臓は動いているが、その魂は既にここにはない。 『箱庭』が見せる甘い夢の中で、永遠に醒めない微睡みを貪っているのだ。
「……気味が悪いわね」
美流愛が、嫌悪感を隠さずに吐き捨てる。彼女は自分の腕を抱き、さすった。かつて彼女自身が「人形」として扱われてきたからこそ、人間が自らの意思を放棄し、単なる幸福の受信機に成り下がった姿が生理的に許せないのだろう。
「まるで、街ごとホルマリン漬けにされた標本だ」
鉄鏡花が、冷徹に分析する。彼女の義眼が捉えるサーモグラフィには、彼らの体温が周囲の気温と同化しつつあることが示されていた。生体反応はあるが、精神活動はフラット。 それは、生きながらにして死んでいる状態。
「行くぞ」
久遠灯が、短く告げた。 彼女たちが一歩、水たまりに足を踏み出す。
ピチャリ。
微かな水音が、死寂に響いた。 それは、張り詰めた水面に投じられた小石のように、波紋となって広がっていく。 その微かな「音」に、静止していた世界が反応した。
ギギギ……。
錆びついた蝶番がきしむような、不快な音が連鎖した。 立ち尽くしていた数千の首が、一斉に動いたのだ。ホームレスも、サラリーマンも、女子高生も。 路上の人々が、まるで示し合わせたかのように、ゆっくりと私たちの方へ顔を向けた。
その瞳には、敵意も殺意もない。 あるのは、異物を排除しようとする、免疫細胞のような無機質な使命感だけだ。彼らの「幸福な夢」を脅かすノイズを、本能的に察知したのだ。
「あっちへ行け……」
誰かが呟いた。夢言のような、掠れた声。
「夢を邪魔するな……」
「幸せになろう……」
「痛いのは嫌だ……」
声が重なる。 それは次第に大きなうねりとなり、呪詛のような合唱となって私たちに押し寄せる。 口々に呟きながら、市民たちが津波のように歩き出した。彼らは武器を持っていない。 丸腰で、素手で、そして満面の笑顔で。私たちを引き裂き、取り囲み、その体温のない抱擁で同化しようとしてくるのだ。 自分たちと同じ「幸福な死体」にするために。
「一般人だぞ! 全員ぶっ殺すわけにはいかねぇだろ!」
辰巳響が叫ぶ。 彼女の拳に青白い雷気が宿るが、それを振り下ろす先が見つからない。龍の力を使えば、彼らは消し飛ぶ。薙ぎ払うことは容易い。 だが、それは私たちが望む「勝利」ではない。 ただ操られているだけの弱者を虐殺して、何が調律師だ、何が神だ。
群衆の壁が迫る。 善意という名の暴力。「君たちも楽になろう」「こっちは温かいよ」という言葉が、刃物よりも鋭く精神を削ってくる。
「殺すな!」
灯が、S&W M500のグリップを強く握りしめ、叫んだ。 その声は、雨音を切り裂き、私たちの迷いを吹き飛ばす号令だった。
「だが、止まるな! ……私たちは今、この世界にとっての『悪党』だ!」
灯は銃口を空に向け、威嚇射撃を一発放つ。
ズドン!!
轟音が響き渡る。 だが、市民たちの足は止まらない。幸福な夢の中にいる彼らに、銃声への恐怖という感情はもう存在しないからだ。 それでも、灯は笑った。口の端から血を流しながら、獰猛に、傲慢に。
「平和を乱し、静寂を壊し、心地よい眠りを妨げる最悪のノイズ! それが今の私たちだ!」
灯が踏み込む。 彼女は銃身を警棒のように使い、迫りくるサラリーマンの肩を殴りつけた。 骨の砕ける音。男が吹き飛ぶ。 それでも男は、痛みに顔を歪めることすらなく、笑顔のまま転がっていく。
「罵声を浴びながら、泥を蹴り上げて進め! ……道を開けるのは、私たちの仕事だ!」
灯が先頭を切って走り出す。 引き金は引かない。 銃床で殴り、肩でぶつかり、ブーツで蹴り飛ばし、力ずくで人の波をこじ開ける。 それは、正義の行進ではない。 平和を乱す暴徒の行進。 美しく整えられた「箱庭」を、土足で踏み荒らす野蛮なパレードだ。
「行くぞ、野郎ども! パレードの始まりだ!」
灯の背中を追って、私たちも駆け出す。 傷だらけの体で、泥まみれの服で。 安らかな死の街に、生きた人間たちの荒い息遣いと、暴力の音が響き渡る。 硝子の街を、最強の不協和音が突き進んでいく。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




