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リコリス・ミッドナイト・ヘブン  作者: ネオもろこし
箱庭の揺り籠(ガーデン・オブ・クレイドル)編

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第十話「枯れかけの花(リコリス)」3

第三章 泥だらけの朝食


 現実への帰還は、産声のような嘔吐と共に始まった。


「がはっ……!!」


 地下鉄の廃駅。 静寂に包まれていた冷たいコンクリートの上で、白雪美流愛(しらゆき みるあ)が弾かれたように上半身を起こした。 彼女は胃の中身をぶちまけた。 吐き出したのは消化液だけではない。 脳髄の奥深くにこびりついていた、甘ったるい砂糖菓子のような夢の残滓。 完璧で、無菌で、退屈すぎて死にそうだった「普通の少女」の記憶。 それらを全て、拒絶反応と共に吐き出したのだ。


「オェ……ッ、はぁ、はぁ……」


 美流愛は肩で息をしながら、口元を汚れた袖で乱暴に拭った。 その瞳は充血し、涙で潤んでいるが、そこには確かな「殺意」の光が戻っていた。


「う、ぐ……ッ!!」


 辰巳響(たつみ ひびき)が、獣のような呻き声を上げて転がり起きる。彼女もまた、供物の酒と果物の味を反芻し、それを地面に吐き捨てた。 神殿の静寂よりも、不味いタピオカの人工甘味料の方が、彼女の舌には合っていたのだ。


「……エラー、強制排出……ッ」


 鉄鏡花(くろがね きょうか)が、システム再起動のノイズ混じりの声を上げ、咳き込む。 彼女の口から漏れたのは、オイルの混じった胃液。死のない世界という論理的矛盾(パラドックス)が、彼女の演算回路を焼き切る寸前だったのだ。


「……いや、だ……ッ!」


 天羽祈(あもう いのり)が、悪夢から逃れるように叫んで跳ね起きた。彼女は自分の体を抱きしめ、ガタガタと震えながら嗚咽を漏らす。愛され、守られ、肯定されるだけの世界。 そこには「祈」という個人の輪郭が存在しなかった。 透明な存在になることへの根源的な恐怖が、彼女を現実へと引き戻した。


 全員、顔色は最悪だ。 美流愛のドレスは泥と嘔吐物で汚れ、鏡花の白衣は煤け、響のパーカーは破れ、祈は片方の靴を失っている。 涙と鼻水と泥にまみれ、美しさの欠片もない。 アイドルも、神様も、聖女もいない。 ただの、生き汚く、泥臭い「人間」の姿。


 その光景を見て、久遠灯(くおん あかり)はニヤリと笑った。口の端から血を流しながら、安堵と皮肉が入り混じった、最高に意地の悪い顔で。


「おはよう、寝坊助ども。……いい夢は見れたか?」


「……最悪の夢だったわ」


 美流愛が、ふらつく足取りで立ち上がった。 彼女は口の中に残る甘い味を消すように、足元の水溜まりの泥水を掬ってうがいをした。 ペッ、と吐き出す。


「普通の女子高生? 友達とカラオケ? ……ふざけないで」


 彼女は、破れたドレスの裾を引き裂き、包帯代わりに腕に巻いた。


「あんなぬるま湯に浸かっていたら、私の皮膚が腐っちゃうわ。退屈で死ぬかと思った」


 彼女の瞳孔が収縮する。 そこにあるのは、獲物を狙う捕食者の輝き。誰かに守られるだけの「お姫様」ではなく、自らの手で運命を切り裂く「魔女」の顔。


「同感だ」


 鏡花が、割れた眼鏡を外し、ポケットにしまった。 彼女は自身の義手を強く握りしめる。 金属の軋む音が、心地よい現実感として響く。


「バグのない世界など、研究対象としての価値がない。……死があるからこそ、生は定義される。故障するからこそ、修理(メンテナンス)の意味がある」


 彼女は冷徹に断言した。


「あの世界は、エントロピーが増大しない閉鎖系だ。……あんな場所に閉じ込められるくらいなら、このポンコツだらけの世界で、油まみれになって修理し続ける方が、よっぽど合理的だ」


「アタシはよぉ!」


 響が叫び、コンクリートの壁を殴りつけた。轟音と共に、壁に亀裂が入る。


「タピオカが飲みてぇんだよ! 不味くて、甘くて、体に悪いアレをな! 誰が供物の高級酒なんて飲むかよ!」


 彼女は牙を剥き出しにして吠える。


「誰もアタシと目を合わせねぇ、誰もアタシを『響』って呼ばねぇ……そんな神様の座なんて、クソ食らえだ! アタシはここで、馬鹿やって、喧嘩して、ゲラゲラ笑って生きてたいんだよ!」


 そして、祈。 彼女はまだ震えていた。けれど、その手はしっかりと、灯のコートの裾を掴んでいた。


「……怖かったです」


 祈が、掠れた声で言う。


「みんな優しくて、みんな私を愛してくれて……。でも、誰も『本当の私』を見てくれなくて……」


 彼女はオッドアイを見開いた。右目の青と、左目の赤。不揃いで、不吉で、美しい瞳。


「傷がない私は、私じゃない。……痛みがなきゃ、私が生きてきた証拠がなくなっちゃう……!」


 彼女たちの言葉が、廃駅の空気を震わせる。 それは、幸福への宣戦布告であり、自分たちの「歪み(バロック)」を肯定する魂の叫びだった。


 灯は、ようやく火のついた「わかば」を深く吸い込み、紫煙を天井に向けて吐き出した。 その煙は、換気ダクトの風に乗って揺らめき、消えていく。


「そうかい」


 灯は短く呟いた。


「……悪いな、地獄に連れ戻して」


「感謝するわよ、灯さん」


 美流愛が、灯の肩に手を置いた。その手は冷たかったが、力強かった。


「あのままあそこで幸せになるくらいなら、泥水すすって生きてる方がマシよ。……それに」


 彼女は、灯の瞳を真っ直ぐに見つめて、悪戯っぽく笑った。


「死ねないあなたが、一人で地獄に取り残されるところなんて、見たくないもの」


「……ッ」


 灯が息を呑む。 その言葉は、銃弾よりも深く、吸血鬼の心臓を貫いた。1000年の孤独。愛する人々に先立たれ、置いていかれることへの恐怖。それを、この18歳の少女は見抜いていたのだ。「置いていかない」という宣言。 それは、不死者にとって、どんな愛の言葉よりも救いになる響きだった。


「……生意気なガキだ」


 灯は苦笑し、立ち上がった。 全身の骨が悲鳴を上げるが、不思議と足取りは軽かった。独りじゃない。 その事実が、千年の孤独を癒やす唯一の特効薬だった。


 地上へ続く階段の下。 5人は並んで、その暗闇を見上げていた。換気口から吹き込んでくる風には、湿気と、微かな『青い涙』の甘い香りが混じっている。


 外はまだ、青い雨が降り続いているはずだ。 東帝都の住人たちは、依然として幸福な夢の中に囚われている。 世界は、御堂蓮の描いた「箱庭」へと書き換えられつつある。


 だが、彼女たちの心はもう折れていない。 一度は幸福に屈し、心を折られた。けれど、その底から這い上がってきた彼女たちは、以前よりも強く、鋭く、そして歪に研ぎ澄まされていた。 自分たちの「欠落バロック」こそが、この狂った正常な世界に対抗する唯一の武器だと知ったからだ。


「行くぞ」


 灯がM500のシリンダーを回す。チャキッ、という硬質な音が、開戦のゴングのように響く。


「『箱庭』をぶっ壊して、不味いコーヒーでも飲みに行こうぜ」


 灯が歩き出す。 その背中に、4人の影が続く。


「了解。……請求書、今回の分も上乗せしとくから。覚悟しろ」


 鏡花が、システムを戦闘モードへ移行させる。


「暴れ足りねぇ! あのタワーごとヘし折ってやる!」


 響が拳を鳴らし、青白いスパークを散らす。


「推しの新曲、まだ聴いてないし! ……ここから出してよ!」


 祈が杖を構え、魔力を充填する。


「……アンコールは、派手にいくわよ」


 美流愛が、スカートの裾を翻した。 その手には、折れた改造ペンライトの代わりに、奪い取った敵のナイフが握られている。


 ボロボロの5人が、闇の中へと消えていく。 階段を上る足音は、バラバラで、不揃いで、けれど力強いリズムを刻んでいた。


『リコリス・バロック』の再結成。 それは、正義のためでも、誰かを救うためでもない。 ただ、自分たちが自分たちで在り続けるための、ワガママで、傲慢で、そして最高に人間臭い戦いの始まりだった。


 硝子の街の夜明けはまだ遠い。 けれど、彼女たちが通った後には、確かな「生」の熱が残されていた。

自分が読みたい物語を書いています。

可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。

(制作に関してAIを利用しています)

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