第一話「硝子の街の調律師」3
第三章 彼岸花は雨に濡れて
東帝都の地下深くに穿たれたその空洞は、巨大な胃袋の内部を思わせた。天井を這うパイプラインは血管のように脈打ち、そこから滴る青い粘液は消化液の如く床を侵食している。そして今、この胃袋の中で、異形の怪物たちが餌を求めるように殺到していた。
「キシャァァァァッ!!」
鼓膜を食い破らんばかりの絶叫。 元は人間だったモノたち。だが今の彼らに、霊長類の尊厳など欠片も残されてはいない。過剰摂取した『青い涙』が遺伝子情報を書き換え、筋肉繊維を鋼鉄のワイヤーのように強張らせている。皮膚を突き破って生えた青い結晶は、照明の乏しい地下空間で燐光を放ち、まるで深海の捕食者の如き不気味さを醸し出していた。
私はS&W M500のハンマーを起こしたまま、あえて一歩も動かずにその奔流を待ち構える。先頭を走る個体が、涎を撒き散らしながら跳躍した。 肥大化した腕が、私の胴体を薙ぎ払わんばかりの勢いで振り下ろされる。避けることは容易い。吸血鬼としての動体視力を用いれば、彼らの動きは泥水の中を泳ぐ魚のように緩慢だ。 だが、私は避けない。避ける必要がないからではない。避けてはならないのだ。この身に刻まれた呪い、痛みという名の生の実感を肯定するために。
ドゴォッ!
鈍重な衝撃音が響き、私の肋骨が悲鳴を上げた。 鋭利な爪がコートを引き裂き、わき腹の肉を深々と抉る。熱い。そして痛い。神経線維が焼き切れるような激痛が脳髄を駆け巡り、スパークする。その瞬間、私の視界は鮮明さを増した。痛みが回路を接続し、千年の淀みを吹き飛ばすスイッチとなる。
「……いいパンチだ。だが、少し軽いな」
私は血の泡を吐きながら嗤う。抉られた傷口から、鮮血が噴き出した。だが、その血液は重力に従って滴り落ちることはない。私の意思に呼応し、微細な粒子となって霧散する。固有能力『血の晩餐』。 赤黒い霧が瞬く間に私の周囲を覆い隠し、怪物の視界を奪う。 霧に含まれる私の細胞が、怪物の眼球や粘膜に付着し、その血液を急速に凝固させていく。
「ガッ……!?」
怪物が苦悶に呻き、動きを止めた刹那。私はその懐深くに滑り込み、冷え切った銃口を腹部にねじ込んだ。皮膚と金属が密着する感触。
「地獄でダイエットでもしてな」
トリガーを引く。 轟音。500S&Wマグナム弾の破壊力は、人体の構造を無視して貫通する。怪物の背中から肉片と青い結晶が爆散し、背後のコンクリート壁に鮮烈な抽象画を描いた。再生能力が働くよりも早く、私は次弾を装填済みだ。私の傷口は既にふさがり始め、蒸気のような熱を発している。
「次はお前か? それともお前か?」
挑発に応じるように、左右から二体の怪物が迫る。 だが、その軌道上に、一筋の閃光が走った。
「私のステージに、勝手に上がってこないでくれる?」
可憐な声と共に、闇を切り裂く青白い光刃。白雪美流愛だ。彼女は重力に縛られていないかのような軽やかさで、瓦礫の上を跳ね回っていた。 リミッターを解除した彼女の脳内では、世界はコマ送りの映像として処理されているはずだ。固有能力『殺戮舞踏』。 右手の改造ペンライトから伸びるレーザーブレードが、指揮棒のように優雅な弧を描く。それは暴力というよりは、高度に洗練された舞踊だった。 光が通過した後、一拍遅れて怪物の首がずり落ちる。 切断面は高熱で焼かれ、血を一滴も流すことなく絶命していた。
「あーあ。もっと硬いサイリウムかと思ったのに。ポキって折れちゃった」
返り血一つ浴びていない純白の衣装を翻し、美流愛は舌を出す。 その瞳は、地下アイドルの現場で見せる営業用のそれではない。獲物の命脈を断ち切る感触だけを愛する、純粋培養された暗殺者の虚無がそこにあった。彼女にとって、殺害とはファンサービスの一種であり、相手への最大の敬意なのだ。
だが、この狭い空間における敵の数はあまりに多い。 地下水道の汚水溜まりから、次々と新たな個体が這い出してくる。
「もー! キリがない! しかもここの湿気、マジで最悪! アタシの髪、朝イチで巻いてきたのに台無しじゃん!」
癇癪を爆発させたのは、辰巳響だ。彼女は苛立ち紛れに、近くの太い配管をローファーの踵で蹴り抜いた。金属の裂ける嫌な音が響き、高圧の水流が鉄砲水となって噴出する。本来なら制御不能の濁流となるところだが、響が指を鳴らした瞬間、水は生き物のように鎌首をもたげた。 龍神の権能。水流操作。東帝都の地下を流れる汚水すら、彼女にとっては手足の延長だ。
「全部、流してやるから覚悟しな!」
響が腕を振るうと、数トンもの水塊が津波となって怪物たちを襲った。壁ごと押し流された群れが、瓦礫と共に叩きつけられ、骨の砕ける音が重奏となって響く。女子高生の不満と、神の天罰が同居した理不尽な暴力。
「ひぃっ……き、気持ち悪い……こっち来ないでよぉ!」
後方では、天羽祈が半泣きになりながらステップを踏んでいた。迫りくる怪物に対し、彼女は震える手でハートマークを作る。
「美味しくなぁれ……じゃなくて、堕ちろ! 萌え萌えキュン!!」
その言葉がトリガーとなり、空間の物理法則が歪む。 固有能力『楽園追放』。 指定された座標の重力が局所的に増大し、飛びかかろうとした怪物が、見えない巨人の掌に押し潰されたように床へとめり込んだ。ベチャリ、とカエルの潰れるような音がする。同時に、私の周囲に淡い光の粒子が漂い始めた。祈の魔眼(天使側)の力だ。 抉られたわき腹の再生速度が加速する。痛みが引いていくのは惜しいが、今は贅沢を言っていられない。
「灯、右翼30度から大型個体が接近中だ。関節部の強度が通常の三倍に強化されている。正面からの打撃は推奨しない」
戦場の喧騒を縫って、鉄鏡花の冷徹な指示がインカムに届く。 彼女は最後尾に位置し、戦闘には参加せず、ただ冷静に敵のデータを解析していた。その瞳には、サーモグラフィや生体スキャンデータが高速で流れているだろう。 彼女にとってこの殺戮劇は、解決すべき数式か、バグ潰しの作業に過ぎない。
「推奨しないと言われてもな……避けるのは趣味じゃないんでね!」
私は指示を無視し、迫りくる巨体へと正面から突っ込んだ。 丸太のような腕が振り下ろされる。私はそれを左肩で受け止めた。 鎖骨が砕け、肩関節が外れる感覚。 だが、それこそが好機。敵の腕が私の肉に食い込み、動きが止まったその瞬間、私は血の混じった唾を吐き捨て、M500の銃口を怪物の顎の下に突き入れた。
「……あばよ」
引き金を引く。頭蓋が吹き飛び、巨体が崩れ落ちる。外れた関節を強引にはめ直しながら、私は荒い息を吐いた。周囲を見渡せば、動いている怪物はもういない。 床は青い血液と汚水、そして肉片で埋め尽くされている。
「……ふぅ。片付いたか」
残るは、祭壇の前で立ち尽くす一人の男のみ。庭師の下働きを名乗る売人だ。彼は、自らの手駒が全滅したというのに、恐怖するどころか、恍惚とした笑みを浮かべていた。 その手には、未開封の『青い涙』のアンプルが握られている。
「素晴らしい……。これほどの暴力、これほどの生命エネルギー……。あなた方もまた、救済されるべき迷える仔羊だ」
男はガスマスクを剥ぎ取り、素顔を晒した。その顔には、無数の青い血管が浮き出ており、既に彼自身がドラッグに侵されていることは明白だった。彼はアンプルのふたを噛み砕き、中身を一気に飲み干した。
「私は幸せになるんだ! お前たちのような欠陥品には理解できない、至高の世界へ!!」
ゴボッ、と男の喉が鳴る。 直後、彼の肉体が爆発的に膨張を始めた。白衣が裂け、皮膚の下から巨大な青い結晶柱が突き出す。骨格がメキメキと音を立てて組み変わり、人間としての原型が溶解していく。 それは、先ほどの怪物たちとは比較にならない、純度の高い絶望の具現化だった。巨大な肉塊となりながら、男は尚も叫び続ける。
「痛くない……怖くない……ああ、なんて素晴らしいんだ! これがエデン! これが神の愛!」
「……うるさいね」
私はリボルバーのシリンダーを開き、排莢した。 キン、キン、と虚しい音を立てて、薬莢が汚水の中に落ちる。最後のスピードローダーを取り出し、新たな弾丸を装填する。水銀と聖銀を封入した、吸血鬼殺しの特注弾。同族殺しのための弾丸を、こんな三流の悪党に使うのは癪だが、致し方ない。
巨大化した売人が、丸太のような拳を振り上げた。私は逃げない。その拳が、私の全身を叩き潰す。全身の骨が悲鳴を上げ、内臓が破裂する。視界が真っ赤に染まる。だが、意識は飛ばない。千年分の呪いが、私の魂を現世に縫い付けている。再生。修復。再構築。私は血溜まりの中から、よろめきながらも立ち上がった。 その姿を見て、売人の動きが止まる。その白濁した瞳に、初めて「恐怖」の色が宿ったように見えた。
「な……なぜだ……? なぜ死なない……? なぜ、そこまでして痛みにしがみつく……!」
「ああ、理解できないだろうね。したくもないさ」
私は歩み寄る。 一歩踏み出すごとに、砕けた足の骨が繋がり、肉が盛り上がり、皮膚が塞がっていく。その激痛こそが、私の燃料だ。
「お前の言う幸福とやらは、何も感じないことだろう? 寒さも、ひもじさも、孤独も、死の恐怖も」
私は変異しつつある売人の足元に立ち、その巨大な顔面を見上げながら、銃口を眉間に押し当てた。冷たい鉄の感触。 男は震えていた。それは武者震いなどではない。薬でも消し去ることのできなかった、生物としての根源的な死への畏怖だ。
「だがな、痛みも、苦しみも、不味い煙草の味も知らない人生なんざ……ただの綺麗な排泄物だ」
「や、やめ……私は、幸せに……!」
「いい夢見な。……永遠に覚めないやつを」
指に力を込める。ハンマーが落ち、撃針が雷管を叩く。
ズドン!!
地下空洞の空気を震わせる轟音。大口径の弾丸が、売人の頭部を、その歪んだ幸福論ごと吹き飛ばした。背後の壁に風穴が開き、遅れて巨大な肉塊が崩れ落ちる。 ドサリ、という重い音が、戦いの終わりを告げた。「幸福な夢」は、物理的な破壊によって強制終了させられたのだ。
静寂が戻ったホールに、水滴の落ちる音だけが響く。私は深く息を吐き、血に濡れた前髪をかき上げた。口の中に広がる鉄の味。ああ、不味い。けれど、これが生きている味だ。
東帝都の空は、相変わらず泣き止むことを知らないらしい。 地上に出ても、雨は降り続いていた。だが、その雨粒は、地下の澱んだ空気よりは幾分かマシに感じられた。
事件は収束した。『青い涙』の密造拠点は壊滅し、売人たちは始末された。しかし、松金優奈は生き返らない。彼女は、青く透き通った宝石の心臓を抱いたまま、永遠の眠りについたままだ。
後日。 神宿にある松金組の事務所。 重厚な執務室には、線香の匂いが立ち込めていた。私は懐から、布に包まれた「それ」を取り出し、デスクの上に置いた。 優奈の遺体から摘出された、青い結晶体。 かつて心臓として彼女を生かしていたパーツだ。
「……娘さんは、最後まで幸せそうだったよ。……それが真実かどうかは別として」
私の言葉に、松金は震える手でその宝石を握りしめた。冷たく、硬く、そして美しい。 極道の男は、声を殺して慟哭した。 その目から溢れる涙は、青くもなければ、甘い匂いもしない。 しょっぱくて、汚くて、見苦しい、喪失による本物の涙だった。私はそれを見て、少しだけ安堵した。少なくとも、この男はまだ人間だ。痛みを痛みとして感じられる、真っ当な人間だ。
デスクに置かれたアタッシュケースを受け取る。中には約束通りの報酬が入っているはずだ。中身を改めることはしない。私は無言で背を向け、部屋を出た。
ビルの外に出ると、仲間たちは既にそれぞれの日常へと戻ろうとしていた。
「じゃあねー!灯、今夜ライブだから、またね!」 美流愛がビニール傘を回しながら手を振る。
「アタシも補習あんだよね。マジだるい」響が気怠げにスマホをいじりながら歩き出す。
祈は「早くお店行かなきゃ、遅刻しちゃう!」と小走りで駆け出し、鏡花は無言で会釈をして、患者の待つ路地裏へと消えていった。
誰も、終わった事件の話などしない。感傷に浸ることも、互いの傷を舐め合うこともない。私たちは「リコリス・バロック(歪な花)」。 群れることはあっても、根が交わることはない。 そのドライな距離感が、今は心地よかった。
私は一人、神宿の雑踏の中に取り残される。 周囲を行き交う人々は、誰もが疲れた顔をして、足早に家路を急いでいる。 彼らの中に、どれだけの「幸福」があるのかは知らない。きっと、誰もが何かを抱え、何かに耐えながら、この灰色の街を泳いでいるのだろう。
私はコートのポケットを探り、くしゃくしゃになった「わかば」の箱を取り出した。 最後の一本。湿気ったフィルターを咥え、ライターを擦る。 オレンジ色の火が灯り、紫煙が肺へと流れ込む。
「……不味い」
喉を焼く痛み。肺を汚すタールの重み。そう呟きながらも、私はその煙を深く、深く吸い込んだ。 東帝都の不協和音は、まだ完全には消えていない。 どこかでまた、音がズレ始めている気配がする。ネオンが滲む曇天の下、吸血鬼探偵はまた、次の夜へと歩き出した。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




