第十話「枯れかけの花(リコリス)」1
第一章 泥濘の聖母
意識の底にへばりついているのは、腐った泥の臭いと、口の中に広がる鉄錆の味だ。重力という名の鎖が、千年の時を生きた肉体を容赦なく冷たいコンクリートへと縫い付けている。
そこは、神宿の地下数百メートルに穿たれた巨大な空洞だった。 バブル経済の徒花として計画され、工事半ばで放棄された地下鉄新路線の駅構内。 地図にも載っていない、都市の盲腸のような場所だ。 地上では今頃、あの忌々しい『青い涙』の雨が、アスファルトを濡らし、人々の理性を溶かしていることだろう。 だが、ここには雨音さえ届かない。 あるのは、天井から滴り落ちる地下水の滴下音と、換気ダクトが吐き出す湿った風の唸り声、そして非常用電源が灯す心許ない赤い明かりだけだ。
「……ッ、ぐぅ……」
私は、壁に背を預けたまま、肺の中の空気を絞り出すように呻いた。あばら骨が数本、内側を向いているのがわかる。 内臓の損傷も深刻だ。再生能力がフル稼働し、千切れた筋繊維を縫い合わせようと必死に熱を発しているが、供給されるエネルギーが追いついていない。 血に濡れたシャツが皮膚に張り付き、乾きかけの瘡蓋を剥がすような不快感が、かろうじて私の意識を現世に繋ぎ止めていた。
バベル・タワーからの脱出劇は、無様としか言いようのない敗走だった。 私は、意識を失った四人の仲間を両脇に抱え、背中に背負い、あるいは足で引きずりながら、排水路を抜け、瓦礫の山を越え、この地下の墓場まで逃げ延びてきたのだ。吸血鬼の怪力がなければ、途中で全員野垂れ死んでいただろう。
「……ハァ……ハァ……」
荒い呼吸を整えながら、私は視線を床に向けた。 そこには、私の「荷物」たちが、汚れた人形のように転がっていた。
白雪美流愛。 鉄鏡花。 天羽祈。 辰巳響。
リコリス・バロックのメンバーたち。硝子の街の不協和音を正す調律師を気取っていた女たちが、今は泥と煤にまみれ、見る影もなく横たわっている。 美流愛の自慢のドレスは裂け、鏡花の白衣は油汚れで黒ずみ、響のパーカーは片袖がなくなり、祈の眼帯はどこかへ消えていた。
惨めな光景だ。 敗北者の群れ。 だが、奇妙なことに、この薄暗い地下空間には、悲壮感とは無縁の空気が漂っていた。
「……ふふ、おいしい……」
美流愛が、微かに唇を動かした。 その頬は薔薇色に染まり、口元は緩みきっている。普段の、計算され尽くした「アイドルの笑顔」でも、冷徹な「殺し屋の無表情」でもない。 年相応の、無防備で、だらしないほどの幸福な寝顔。 彼女は夢の中で、普通の女子高生としてクレープでも頬張っているのだろうか。殺しの技術も、血の臭いも知らない、ただの少女として。
「……はい……これで、完治です……」
鏡花が、宙を掴むように右手を動かした。 その指先は、現実では冷たい機械の義手だが、夢の中では温かい肉体の感触を取り戻しているに違いない。救えなかった命を救い、失った温もりを取り戻し、彼女は「神の手」としての責務を全うしているのだろう。 その瞳が閉じられているにも関わらず、彼女の表情からは、あの凍てつくような理性が消え失せ、慈母のような穏やかさが滲み出ていた。
「……えへへ、みんな、見て……」
響が寝返りを打ち、コンクリートの床を抱きしめる。 普段の凶暴な龍神の面影はない。 彼女が見ているのは、コンクリートに覆われる前の美しい自然か、それとも人々から崇められる神の座か。孤独な怪物としてではなく、愛される守り神として存在する世界。
「……だいすき……透さん……」
祈が、身を縮めて呟く。 その目尻から、一筋の涙が伝い落ちた。 それは悲しみの涙ではない。あまりに満たされすぎて、器から溢れ出してしまった喜びの雫だ。 誰も彼女を差別せず、誰も彼女を傷つけない世界。 死んだはずの青年が、彼女を優しく抱きしめているのだろう。
彼女たちは皆、幸せそうだった。 泥濘の中で、汚れた服を着て、冷たい床に転がりながら、魂だけは「楽園」の羊水に浸っている。 その寝息は残酷なほどに安らかで、この陰惨な現実をあざ笑うかのように響いていた。
「……クソが」
私は悪態をつき、胸ポケットを探った。指先に触れたのは、ひしゃげた紙箱の感触。 「わかば」。 最後の一本を取り出し、ひび割れた唇に咥える。湿気ったフィルターの味が、舌の上に苦く広がる。 百円ライターを取り出し、親指でホイールを弾く。
カチッ。
火花が散るだけ。 もう一度。
カチッ。
虚しい音が響く。 ガス切れだ。 この街の空気と同じで、私の運も尽きかけているらしい。
「……ハハッ。様にならねえな」
私は火のつかない煙草を咥えたまま、天井を見上げた。 非常灯の赤い光が、網膜に焼き付く。
迷っていた。 1000年を生きた吸血鬼が、たかだか数十年の寿命しか持たない小娘たちの前で、立ちすくんでいた。
このまま、眠らせておくべきではないか?
御堂蓮の言葉が、呪いのように脳内でリフレインする。
『彼女たちは幸せを選んだのです』
その通りだ。 彼女たちが今見ている夢は、誰に強制されたものでもない。彼女たち自身の深層意識が望み、構築した、理想の世界だ。 そこには苦痛がない。喪失がない。孤独がない。彼女たちが現実世界で抱えている「欠落」が、完璧な形で埋められている。
それを、私が奪う権利があるのか?
私は、自分の古傷に触れるように、記憶の抽斗を開けた。 1000年前。平安の都。私がまだ、人間としての心をもう少しだけ残していた頃。 愛した男がいた。 名は忘れた。顔も、声も、思い出せない。ただ、彼が死ぬ瞬間の、あの安らかな表情だけが、今でも鮮明に焼き付いている。
彼は病に冒されていた。 私は吸血鬼の血を与え、彼を眷属にしようとした。そうすれば、彼は死なない。永遠に私と共にいられる。だが、彼は拒んだ。『人として死にたい』と。 そして彼は、私の腕の中で、苦痛に顔を歪めながら、それでも満足そうに息絶えた。
あの時、私は彼の選択を尊重した。 それが愛だと思ったからだ。 だが、その後の1000年はどうだ? 私は一人残され、終わりのない夜を歩き続けた。 彼のいない世界で、泥水を啜り、他人の血で渇きを癒やし、ただ死ねないという理由だけで生き恥を晒してきた。
もし、あの時。 無理やり血を飲ませていれば。彼の意思を無視して、地獄へ引きずり込んでいれば。私たちは今も、二人でいられたかもしれない。 それが彼にとっての不幸だったとしても、私にとっては幸福だったかもしれない。
善意と悪意。 救済とエゴ。 その境界線は、どこにある?
目の前で眠る美流愛たち。彼女たちを叩き起こすということは、あの完璧な幸福を破壊し、再びこの汚泥と暴力にまみれた東帝都へ引きずり戻すということだ。 殺し屋として手を汚し、サイボーグとして心を殺し、化け物として石を投げられ、混血として疎まれる日々へ。 痛みに満ちた明日へ。
それは、本当に「正義」なのか? 私がやろうとしていることは、御堂がやったこと――個人の意思を無視して運命を書き換えること――と、何が違うというのか?
「……おいしい……」
美流愛が、夢の中でクレープを齧る仕草をして微笑む。 その笑顔は、ステージ上の作り物よりもずっと可愛らしく、そして脆く見えた。
「……バカ野郎どもが」
私は煙草を噛み締めた。フィルターが潰れる感触。 甘ったれた寝言を吐きやがって。 お前らは、そんなに柔じゃないだろう。毒を食らい、泥を啜り、それでも「不味い」と笑い飛ばせる強さを持っていたはずだ。 いつからそんな、砂糖菓子みたいな幻想に満足するようになったんだ。
……いや、違う。 それは私の願望だ。 私が、彼女たちにそうあって欲しいと願っているだけだ。 私一人が孤独にならないために、彼女たちを巻き添えにしようとしているだけだ。
「……灯さん……?」
祈が、うわ言で私の名を呼んだ気がした。 ハッとして顔を見る。 だが、彼女はまだ夢の中だ。透の腕の中で、微睡んでいる。
私の手の中で、S&W M500が冷たい重みを主張する。 装填されているのは、殺傷用の弾丸ではない。鏡花が開発した、精神感応剤を封入した特殊弾。 これを撃ち込めば、強制的に脳への覚醒信号を送ることができる。 あるいは、脳波をショートさせ、夢と現実の回線を強引に繋ぎ直すことができる。
引き金は軽い。 指先に少し力を込めるだけで、彼女たちの楽園は崩壊する。 ガラスの靴は砕け、カボチャの馬車は腐ったゴミに戻る。
撃てるか? この聖母のような寝顔に向けて。 彼女たちがやっと手に入れた安息を、私自身の手で処刑できるか?
「……クソッ」
私は銃口を下ろした。 引けない。 今の私には、その覚悟がない。 彼女たちの幸福を奪ってまで、このクソ溜めのような現実に連れ戻す理由が、見つからない。
「……もう少しだけだ」
私は自分に言い訳をするように呟いた。
「もう少しだけ、いい夢見せてやるよ。……目覚まし時計が鳴るまではな」
私は壁に頭を預け、目を閉じた。 意識が遠のく。 失血による貧血と、極度の疲労。私もまた、眠りの淵へと引きずり込まれていく。
だが、私は夢を見ない。吸血鬼に、甘い夢など訪れない。 見るのはいつだって、過去の亡霊と、血塗られた記憶だけだ。
地下鉄の廃駅。 時が止まったコンクリートの箱庭で、5人の魔女たちは、それぞれの夜を彷徨っていた。地上では、青い雨が降り止まない。 世界が静かに、優しく、死んでいく音が、私の鼓膜の奥で鳴り響いていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




