第九話「楽園の庭師」3
第三章 ガラスの靴は砕けて
白い霧の中で、久遠灯もまた、夢を見ていた。
そこは、1000年前の平安の都だった。朱塗りの橋がかかる庭園。春の日差しが、桜の花びらを透かして降り注いでいる。風は柔らかく、どこからか雅楽の音色が聞こえてくる。 血の匂いも、鉄錆の味もしない。 完全無欠の、美しい世界。
「灯……」
橋の向こうから、一人の男が歩いてくる。 狩衣を纏った、優美な貴公子。 かつて灯が愛し、守りきれずに失った、人間の男。
「ずっと待っていたよ。……やっと、帰ってきてくれたんだね」
男が微笑み、手を差し伸べる。その手は温かい。灯の記憶にある、冷たくなった死体の手ではない。 生きて、脈打ち、灯を求めている手だ。
(ああ……)
灯の胸が締め付けられる。 この手を握れば、終わる。永きにわたる孤独の旅。死ねない呪い。夜ごとに襲う渇きも、殺した者たちの怨嗟の声も、すべて消え去る。 永遠の春の中で、愛する人と共に眠れる。
「……さあ、おいで」
灯の手が、無意識に伸びる。 指先が触れそうになる。 その瞬間。
カサリ。
コートのポケットの中で、小さな音がした。 潰れかけた紙箱の音。 「わかば」。安っぽくて、辛くて、肺を汚すだけの、現代の嗜好品。
その乾いた音が、甘い夢に亀裂を入れた。
(……違う)
灯の動きが止まる。 目の前の男は、変わらず微笑んでいる。 だが、その笑顔はあまりに完璧すぎた。1000年という時間は、記憶を美化するには十分すぎる。灯が愛した男は、もっと泥臭く、弱く、そして必死に生きていたはずだ。 こんな、砂糖菓子みたいに甘ったるい幻影じゃない。
「……悪いな」
灯は、男の手を振り払った。 その掌には、拒絶の意志が込められていた。
「灯……?」
「私の趣味じゃないんだよ。……こんな、虫歯になりそうな世界は」
灯はポケットから煙草を取り出し、口に咥えた。 火をつけるまでもなく、その苦い味を舌の上で転がす。 不味い。 最低の味だ。だが、これこそが彼女が1000年間、泥水を啜りながら噛み締めてきた「生」の味だった。
「私は、まだ味わい足りないんでね。……あのクソッタレな東帝都の空気を」
灯は、自らの舌を思い切り噛み切った。
ガリッ!!
激痛。 鮮血の鉄錆の味。 それが、彼女の脳髄を貫き、甘い麻酔を焼き払う。
「起きろおおおおおおッ!!」
「ッ、あぁぁぁぁ!!」
現実世界。 バベル・タワー最上階。膝をついていた灯が、獣のような咆哮と共に覚醒した。 口から血を吐き出しながら、S&W M500を乱射する。
ズドン! ズドン!
大口径弾が、展望フロアの強化ガラスを粉砕した。パリーンッ!! ガラスの破片と共に、冷たい外気が暴風となって吹き込む。 その風が、充満していた『青い涙』のミストをかき消していく。
「ハァ……ハァ……ッ!」
灯は肩で息をしながら、銃口を御堂に向けた。
「おや。……一人だけ目覚めましたか」
御堂蓮は、眉一つ動かさずに立っていた。傷一つ負っていない。 彼が指を鳴らすと、天井から無数の防弾シールドが降下し、彼を守る壁となった。 さらに、フロアの四隅から、強化された『庭師』たちが湧き出してくる。
「しぶといですね。……ですが、無駄です」
御堂は冷ややかに言い放ち、床に倒れている4人を見下ろした。
美流愛も、鏡花も、響も、祈も。全員、幸せそうに微笑んだまま、ピクリとも動かない。 彼女たちの精神は、未だ甘い夢の中に囚われている。
「彼女たちは幸せを選んだのです。……現実にはない、理想の自分を。愛を。安らぎを」
「ふざけんな……!」
「邪魔をするのは野暮というものです。……あなたも、そこで大人しく寝ていなさい」
御堂が合図を送ると、『庭師』たちが一斉に襲いかかってきた。銃弾の雨。 灯は再生能力で耐えるが、数が多い。しかも、仲間を守りながらでは、回避もままならない。
(……クソッ、このままじゃ全滅だ!)
灯の脳裏に、最悪の結末がよぎる。 ここで戦い続ければ、全員殺されるか、あるいは永遠に夢の中に閉じ込められるか。 勝つことは不可能だ。ならば、選ぶべき道は一つ。
「……チッ。不本意だがな!」
灯は決断した。 勝つためではなく、生き延びるための撤退を。
彼女は、自らの手首を噛み切った。 噴き出す鮮血。 固有能力『血の晩餐』――最大出力。
「食らえッ!!」
灯が血を振り撒くと、赤黒い霧が爆発的に膨張した。霧は『庭師』たちの視界を奪い、呼吸器に入り込んで血液を凝固させる。一瞬の混乱。
その隙に、灯は床に向かってM500の残弾をすべて撃ち込んだ。ズガガガガッ! コンクリートが砕け、床が崩落する。
「うおおおおッ!!」
灯は、意識のない4人を両腕と背中で抱え込み、崩れ落ちる床と共にタワーの外へとダイブした。 重力に引かれ、青い雨の中へと落下していく。
「逃がしましたか」
御堂は、ガラスのない窓枠からその様子を見下ろしていた。 追撃はしない。 彼の目的は、あくまで「救済」であり、殺戮ではないからだ。
「まあ、いいでしょう。……どこへ逃げようと、この世界はもう『箱庭』なのですから」
彼は、雨に濡れた東帝都を満足げに見渡し、静かに微笑んだ。
神宿の路地裏。 ゴミ捨て場の山がクッションとなり、5人は無様に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
灯は全身の骨が砕ける音を聞いた。 再生能力がフル稼働するが、回復が追いつかないほどのダメージ。 彼女は血反吐を吐きながら、這いつくばって仲間たちの安否を確認した。
全員、生きている。だが、意識はない。 うわ言のように、「幸せ……」「帰りたくない……」「ママ……」と呟いている。 その顔には、まだ幸福な夢の残滓が張り付いていた。
「……クソッタレが」
灯はボロボロの体を引きずり、壁に背を預けて座り込んだ。 空を見上げる。 遥か頭上、雲を突き抜けるようにそびえるバベル・タワーが、青いライトアップに照らされ、勝ち誇るように輝いていた。
完全な敗北。 力で負けたのではない。心の隙間に入り込まれ、精神的に屈服させられたのだ。『リコリス・バロック』はバラバラにされ、帰るべき「家」さえも失った。
雨は、まだ降り続いている。 青く光る雨粒が、灯の頬を伝う。それは、涙のように見えた。
灯は、自分のコートを脱ぎ、震えている仲間たちにかけてやった。そして、濡れた前髪をかき上げ、タワーを睨みつける。
「……今はいい夢見てな」
彼女は、懐からひしゃげた「わかば」を取り出し、血まみれの唇に咥えた。 火は点かない。 それでも、彼女はその味を噛み締めた。
「必ず、叩き起こしてやるから。……こんな甘ったるい悪夢からな」
彼女の瞳の奥。絶望的な状況の中で、まだ消えていない残り火が、赤く燃えていた。 だが、東帝都は沈黙したまま。 甘い毒の雨に抱かれて、死のような眠りを貪り続けている。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




