第九話「楽園の庭師」2
第二章 甘い毒、あるいは羊水
エレベーターが到着したのは、天国でも地獄でもない場所だった。『バベル・タワー』最上階、展望フロア。 扉が開いた瞬間、肌を撫でたのは、病院の集中治療室(ICU)を思わせる無機質な冷気と、微かなオゾンの匂いだけだった。
そこは、空中に浮かぶガラスの棺だった。床から天井まで、視界を遮るものは何もない全面ガラス張り。眼下には、青い雨に沈んだ東帝都の全貌が広がっている。かつては欲望の光で眠ることを知らなかった不夜城が、今は海溝の底のように静まり返り、青白く発光する死の都へと変貌していた。
「――ようこそ。特等席でしょう?」
広大なフロアの中央。 都市を見下ろす位置に、一人の男が立っていた。 御堂 蓮。 この狂った箱庭を設計した『造園家』。 彼は武器を持っていなかった。護衛もいない。 ただ、ガラス越しに滅びゆく世界を、愛おしい我が子を見守るような目で見つめていた。
「……いい眺めだ」
久遠灯が、低い声で応じる。彼女はS&W M500を構え、一直線に御堂へと歩み寄った。靴音が、静寂な空間に鋭く響く。
「だが、少し湿気が多すぎる。……カビが生えそうだ」
「そうですか? 植物には水が必要です。……人間という種にもね」
御堂はゆっくりと振り返った。銀縁眼鏡の奥にある瞳は、驚くほど穏やかで、そして底知れない虚無を湛えていた。 殺意を向けられているにも関わらず、彼の心拍数は平時と変わらない。 灯の吸血鬼としての聴覚が、その異常な落ち着きを捉えていた。
「戯言はいい。雨を止めろ」
灯が銃口を突きつける。 距離、五メートル。 引き金を引けば、0.1秒で彼の頭蓋骨は粉砕される。
だが、御堂は微笑み、首を横に振った。
「止めませんよ。……彼らは望んで眠りについたのですから」
彼は両手を広げ、眼下の街を示した。
「聞こえませんか? 悲鳴も、怒号も、泣き声も消えた。あるのは安らかな寝息だけ。……人類が有史以来求め続けてきた『平穏』が、今ここに完成したのです」
「平穏だと?」
辰巳響が唸る。 彼女の身体から放電する青白い火花が、床を焦がしている。
「勝手に薬漬けにして殺しといて、何が平穏だ! テメェのやってることは、ただの大量殺人だ!」
「殺人ではありません。……救済です」
御堂は、響の怒りを柳のように受け流す。
「あなた方も、本当はわかっているはずだ。生きることは苦痛だ。老い、病、貧困、差別、孤独。……なぜ人は、わざわざ傷つくために生まれ、泣きながら死んでいくのか」
彼の視線が、私たち一人ひとりを舐めるように移動する。
「そこのお嬢さん。……本当は、戦うことに疲れているのでしょう?」
白雪美流愛が、ピクリと眉を動かした。
「機械の身体になったドクター。……失った温もりを、今でも夢に見るのでは?」
鉄鏡花の義眼が、揺らぐ。
「混血の迷子さん。……どこにも居場所がない孤独に、震えているのでは?」
天羽祈が、唇を噛み締める。
「そして、龍神よ。……汚れた川と愚かな人間に、絶望しているのでは?」
言葉の刃が、的確に全員の古傷を抉る。 彼は知っているのだ。 私たちが抱える「欠落」を。 強大な力を持て余し、社会からはみ出し、それでも泥の中を這いずり回っている私たちの、隠しようのない痛みを。
「黙れ……ッ!」
灯がトリガーに指をかける。 問答無用。ここで頭を吹き飛ばせば、雨は止む。
「ええ、黙りましょう。……言葉など不要な世界へ、ご招待します」
御堂が、パチンと指を鳴らした。
プシューッ……。
微かな音がして、フロアの四隅にある空調ダクトから、白い霧が噴き出した。煙幕ではない。 甘い、あまりに甘美な芳香。
「!! 息を止めて!」
鏡花が叫ぶ。 解析センサーが、致死濃度の数値を弾き出していた。
「『青い涙』のガス……!? しかも、ナノミスト化されている!」
「遅いですよ」
御堂の声が、霧の向こうから響く。
「この霧は、皮膚からも粘膜からも浸透する。……防ぐ術はありません。それは羊水のように、あなた方を優しく包み込み、あるべき場所へと還すのです」
視界が白く染まる。 手足の感覚がなくなる。 灯の怒号も、響の雷鳴も、遠く水底の出来事のように遠ざかっていく。
重力が消える。 意識が、溶ける。
白い闇の中で、世界が再構築される。 それは幻覚だ。 わかっている。わかっているはずなのに。 あまりに鮮明で、あまりに懐かしく、あまりに――望んでいた光景だった。
「――ちゃん、美流愛ちゃん! 起きて!」
肩を揺すられ、私は目を覚ました。 そこは、夕暮れの教室だった。 目の前には、クラスメートの女子たちが笑っている。
「もう、部活遅れるよ? 今日はクレープ食べに行くんでしょ?」
私は自分の手を見た。 血も、火薬の臭いもしない。 マメ一つない、綺麗な手。 着ているのは、フリルのついたアイドル衣装でも、黒い戦闘服でもない。ごく普通の、どこにでもある高校の制服。
「あ……うん。行く」
私は鞄を持って立ち上がる。重たい。でも、それは命の重さじゃない。教科書とノートの、心地よい重さ。 殺しの技術も、組織の命令も、ファンの視線もない。 ただの、女子高生の放課後。
(ああ……私、これがやりたかったんだ)
友人と腕を組んで歩く。 クレープ屋の甘い匂い。一口食べる。 イチゴと生クリームの味。鉄錆の味なんてしない。 幸せだ。 このままずっと、この夕暮れの中にいたい。
ピ、ピ、ピ。 規則正しい電子音が聞こえる。私は、真っ白な病室にいた。手にはメスではなく、カルテを持っている。私の手。 機械ではない。温かい血が通い、皮膚の感触がある、生身の手。
「先生、ありがとうございました」
ベッドの上で、患者が微笑んでいる。九条だ。 そしてその隣には、生身の身体を取り戻した美サがいる。二人だけではない。 かつて私が救えず、この手の中で冷たくなっていった患者たちが、全員笑顔で立っていた。
「みんな……生きているの?」
「ええ。先生が助けてくれたんですよ」
私は震える手で、彼らの頬に触れた。 温かい。脈打っている。 オイルの臭いもしない。金属の冷たさもない。 生命の熱。
(私は……神の手になれたんだ)
失ったものは何もない。 私の体も、患者の命も。 すべてが完璧な世界。 もう、冷たい機械の体に戻る必要なんてない。
ステンドグラスから、七色の光が降り注いでいる。美しい教会。そこには、白い翼を持った天使たちと、黒い翼を持った悪魔たちが、仲良く手を取り合っていた。 争いも、差別もない。
「おいで、しふぁちゃん」
祭壇の前で、誰かが手を差し伸べている。 透さんだ。 あの作業服姿の彼が、優しく微笑んでいる。死んでいない。怪物にもなっていない。
「君は、君のままでいいんだよ」
透さんが私を抱きしめる。周囲の人々も、私を見て微笑む。『汚らわしい』なんて言わない。『半端者』なんて言わない。 私のオッドアイを、綺麗だと言ってくれる。
「ここは……?」
「君の居場所だよ。もう、怯えなくていいんだ」
涙が溢れた。 ここには、ストロングゼロも、リストバンドもいらない。 ただ、愛されているという実感だけがある。 帰りたくない。あの、ドブの臭いがする路地裏には、もう二度と。
水が、透き通っている。 墨堕川の川底。 ヘドロも、空き缶も、死体もない。クリスタルのように清らかな水流。
私は、本来の姿――巨大な青龍となって、大空を泳いでいた。眼下には、コンクリートに覆われる前の、美しい緑の大地が広がっている。 川岸には、人々が集まっていた。美咲がいる。 彼女たちは、私を見上げ、恐怖ではなく、純粋な畏敬と感謝の祈りを捧げている。
『水神様、ありがとうございます』
『あなたのおかげで、今年も実り豊かです』
(……そうか。アタシは、守りたかったんだ)
孤独な怪物として恐れられるのではなく。神として、この土地と、そこに生きる人々を愛し、愛されたかった。 ここには、アタシを縛る鎖はない。退屈な授業も、マフィアの襲撃もない。 あるのは、永遠に続く静寂と、満たされた自尊心だけ。
現実と幻覚の境界が融解する。 脳髄が、甘い羊水に満たされていく。
『戦う必要などありません』
御堂 蓮の声が、脳内に直接響く。 それは神の啓示のように、絶対的な安らぎを伴っていた。
『ここが現実です。……辛い記憶は、すべて置いていきなさい。武器を捨て、鎧を脱ぎ、ただ幸福な夢に身を委ねればいい』
展望フロア。 白い霧の中で、彼女たちの瞳から、戦意という名の光が消えていく。 とろんとした、焦点の合わない瞳。 口元には、だらしないほどの幸福な笑みが浮かんでいる。
カラン……。
美流愛の手から、改造ペンライトが滑り落ちた。 鏡花のサブアームが機能を停止し、収納される。 祈が杖を放り出し、床に崩れ落ちる。 響の纏っていた雷気が霧散する。
全員が、床に倒れ込んだ。 死んだのではない。 至高の揺り籠の中で、二度と覚めない眠りについたのだ。
「……素晴らしい」
御堂は、その光景を満足げに見下ろした。
「やはり、あなた方もただの人間だった。……幸福の前では、どんな強者も赤子と同じだ」
彼は歩き出す。 残るは一人。 まだ膝をつきながらも、必死に意識を保とうとしている吸血鬼。
だが、彼女の瞳もまた、急速に白濁しつつあった。最強の「リコリス・バロック」が、音もなく崩壊していく。 甘い毒の雨音だけが、静かに響き渡っていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




