第八話「雨夜の晩餐」3
第三章 幸福の定義、そして崩壊
嵐の轟音は、いつの間にか遠いBGMへと退いていた。 狭いプレハブの室内を満たしているのは、鍋から立ち昇る湯気と、満腹という生理的な充足感、そして奇妙なほどの静寂だった。
空になった土鍋の底には、赤いスープの残滓がこびりついている。 それは、本来混ざり合うはずのない食材たちが、高温という暴力的なプロセスを経て融和し、一つの「味」として完結した痕跡だった。
「……なんか、幸せですね」
ぽつりと、天羽祈が漏らした。 その言葉は、湯気の中に溶けて、ゆっくりと室内に広がっていった。
全員の手が止まる。 箸を置く音だけが、カチリと響く。
この東帝都において、「幸せ」という単語は、手放しで喜べるものではない。 それは、あの忌まわしいドラッグ『青い涙』が見せる幻覚と同義であり、破滅への入り口を飾る甘い看板だ。幸福とは、思考停止の別名であり、死に至る病の初期症状。 それが、この街の共通認識(常識)だった。
「……馬鹿なこと言わないで」
白雪美流愛が、ナプキンで口元を拭いながら冷笑した。
「こんなボロ屋で、停電中に、賞味期限切れの肉が入った寄せ集めの飯を食うのが? ……随分と安上がりな幸せね」
言葉は棘を含んでいるが、その声音にはいつもの鋭さがない。彼女は満たされていた。計算されたカロリー摂取でも、ファンからの歪んだ愛でもなく、ただ温かい食事を誰かと囲むという、原始的な行為によって。
「でもま、悪くねーんじゃね?」
辰巳響が、シーハーと爪楊枝を使いながら、行儀悪く椅子に踏ん反り返る。
「高級焼肉を独りで食うよりは、味がした気がするわ。……あー、食った食った」
「ドーパミン、およびセロトニンの分泌量は正常値を推移している」
鉄鏡花が、自身のバイタルデータをモニターしながら、淡々と事実を述べた。
「味覚センサーへの入力信号はカオス極まりないが……精神的な充足度は高い。……不快ではない」
祈が、嬉しそうに目を細める。 彼女のオッドアイには、今この瞬間、目の前にいる仲間たちの魂の色が、どんな宝石よりも温かく映っているに違いない。
久遠灯は、安酒のボトルを傾け、最後の一滴を喉に流し込んだ。 アルコールの熱が、胃の腑から全身へと広がる。彼女は胸ポケットから「わかば」を取り出し、火をつけた。 今度は一発で点いた。 湿気ていた煙草も、この部屋の熱気で乾いたらしい。
「幸せ、ねえ……」
灯は紫煙を吐き出し、天井の雨漏りのシミを見上げた。
「幸せなんてのは、なろうとしてなるもんじゃない。……気づいたら足元に転がってる、吸い殻みたいなもんだ」
拾う価値もないゴミかもしれない。 すぐに踏み消されてしまう火種かもしれない。だが、確かにそこには熱があり、肺を焼くような実感がある。
彼女たちは家族ではない。友人というには、あまりに背景が血生臭い。 利害と偶然、そして行き場のない孤独だけで結びついた、歪な共犯関係。 だが、だからこそ。 互いの傷を舐め合うのではなく、ただ隣にいて、同じ飯を食うという行為が、何よりも得難い「体温」として機能する。
誰かが言ったわけではない。 けれど、全員が心のどこかで、この場所を「帰るべき場所」として認識し始めていた。 たとえそれが、嵐が過ぎ去るまでの、束の間の幻影だとしても。
その時だった。
ザザッ……!
突然、部屋の隅に置かれていたブラウン管テレビが、不快なノイズと共に点灯した。 停電しているはずだ。電源プラグすら抜けている。にもかかわらず、画面は明滅し、砂嵐の向こうから映像を結び始めた。
「……なんだ?」
響が身構える。 鏡花が即座に解析モードに入る。
「外部からの強制介入。電波ジャックだ。……帝都全域の公共放送、および通信回線が乗っ取られている」
砂嵐が晴れる。 画面に映し出されたのは、無機質な白い部屋だった。その中央に、一人の男が立っている。
仕立ての良い白衣を纏った、長身の男。銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、理知的で、底知れない冷徹さを湛えている。その背景には、ガラスケースに収められた無数の『青い涙』のアンプルと、カプセルの中で眠るように死んでいる人々の映像が、モザイクのように並べられていた。
『――ごきげんよう、迷える子羊たち』
男は、カメラに向かって優雅に一礼した。 その所作は洗練されており、まるでオーケストラの指揮者のようだ。
灯が目を細める。 知っている。 直接会ったことはないが、その顔写真は、裏社会のブラックリストの最上位にある。
「……ビンゴだ」
灯が唸るように呟く。
「あいつが、教祖か」
新興宗教『箱庭の揺り籠』の頂点に立つ男。 この街にドラッグを蔓延させ、偽りの救済をばら撒く元凶。 コードネーム『造園家』。本名、御堂 蓮。
『今夜の雨は、実に素晴らしい』
御堂の声は、ノイズ混じりのスピーカーを通してもなお、朗々と響き渡った。
『穢れた地上を洗い流し、全てを海へと還す慈悲の雨だ。……私はこの雨に、心からの感謝と、ささやかな「祝福」を混ぜさせていただきました』
御堂は、手元のコンソールを操作する。 画面が切り替わり、東帝都の地図が表示された。 地図上の至る所に、赤い点が灯っている。 貯水槽、浄水場、地下水脈への取水口。
そこに映し出されたのは、黒い雨合羽を着た信者たちの姿だった。彼らは無言で、タンクに入った青い液体を、水源へと投下している。
『私の可愛い「庭師」たちが、雨に紛れて種を蒔きました』
御堂は、愛おしそうに画面を撫でた。
『この雨には、高純度に精製された『青い涙』の成分が含まれています。……もう、注射器も錠剤も必要ありません。呼吸をするだけで、肌が濡れるだけで、あなた方は救われるのです』
「……なっ!?」
美流愛が息を呑む。広域散布。ドラッグを、気象兵器として利用したバイオテロ。
『人間は脆い。痛み、悲しみ、喪失……それらに耐えうるほど、心は強くできていない。ならば、作り変えればいい』
御堂は両手を広げ、恍惚とした表情で宣言した。
『庭師たちよ、剪定の時間だ。……私の描く理想の「風景」に、雑草の苦痛は必要ない。枯れ果てた現実を刈り取り、永遠の夢を植え付けるのです』
「……おい。窓の外」
響の声が震えていた。 全員が窓に駆け寄る。
雨の色が変わっていた。闇夜に沈んでいたはずの雨粒が、微かに、しかし確かに青白く発光している。 まるで、空から無数の蛍が降り注いでいるかのような、幻想的で、死ぬほど美しい光景。
「燐光現象……。大気中の『青い涙』濃度が、致死量を超えている」
鏡花が絶望的な数値を読み上げる。
眼下の路地裏。 建物の軒下で雨宿りをしていたホームレス。 泥酔して路上に寝転がっていたサラリーマン。 傘も差さずに歩いていた若者たち。
彼らが、一斉に動きを止めた。 そして、ゆっくりと空を見上げる。
「あ……あぁ……」
ガラス越しでも聞こえるほどの、歓喜の嘆息。 彼らの顔に、満面の笑みが浮かぶ。 苦痛から解放され、至高の幸福に満たされた、仏のような笑顔。 そのまま、彼らは糸が切れたように崩れ落ちた。 ピクリとも動かない。 心臓が宝石に変わり、脳が焼き切れる音なき音が、街中に響き渡るようだった。
パンデミック。 幸福な死が、波紋のように広がっていく。
『さあ、楽園の扉は開かれた。……拒絶など無意味です。おやすみなさい、東帝都』
テレビの画面がフッと消え、元の暗闇に戻る。 だが、その残響は、耳の奥にこびりついて離れない。
灯は、吸いかけの煙草をもみ消した。 火種が、ジジッといって消える。
「……デザートにしては、重すぎるな」
彼女は、部屋の隅に立てかけてあったS&W M500を手に取り、シリンダーを確認した。 冷たい金属音が、室内の空気を一変させる。
鍋の温かさは消え失せた。 そこにあるのは、冷え切った戦場の空気。 日常は終わった。 ここからは、生き残るための殺し合いだ。
「行くぞ、リコリス・バロック」
灯はコートを羽織り、仲間たちを見回した。その瞳には、吸血鬼の凶暴な光が宿っている。
「……食後の運動だ。あのイカれた造園家に、手入れの仕方を教えてやる」
響が拳を鳴らす。美流愛がワイヤーを引く。祈が杖を握りしめ、鏡花がシステムを戦闘モードへ移行させる。
束の間の安息は、最悪の形で破られた。 硝子の街は今、巨大な「箱庭」へと変貌しようとしていた。降り止まぬ青い雨の中、5人の魔女たちは、終わりの始まりへと足を踏み出す。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




