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リコリス・ミッドナイト・ヘブン  作者: ネオもろこし
箱庭の揺り籠(ガーデン・オブ・クレイドル)編

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第八話「雨夜の晩餐」1

第一章 台風イザナミの憂鬱


 東帝都(トウテイト)の上空で、大気が悲鳴を上げていた。 観測史上最大級と認定された台風『イザナミ』。 普段からシロップのような粘着質の酸性雨に濡れているこの街だが、今夜ばかりは様相が違う。空そのものが裂け、都市という巨大な臓器を洗い流そうとするかのように、暴虐的な水量が叩きつけられていた。帝都の動脈である環状線『黒鉄線(クロガネセン)』は、強風による架線トラブルで全線停止。首都高速『龍脈(ドラゴンライン)』も封鎖され、常に不眠症を患っているはずの神宿(シンジュク)のネオンさえも、停電の恐怖に怯えて瞬きを止めている。


 陸の孤島と化した神宿の路地裏。 雑居ビルの屋上に違法増築されたプレハブ小屋――探偵事務所『Akari Detective Studio』は、嵐の海に浮かぶ頼りない箱舟のようだった。雨音が、ドラム缶をハンマーで殴り続けるような轟音となって室内を震わせている。


「……チッ。湿気てやがる」


 久遠灯(くおん あかり)は、何度目かの着火に失敗した百円ライターをテーブルに放り投げた。 咥えた「わかば」のフィルターは湿気を含んで重くなり、先端の葉は火を拒絶している。 彼女はソファに深く沈み込み、天井の雨漏りのシミを睨みつけた。 仕事はない。依頼人は来ない。そもそも、外に出ることすら叶わない。この閉鎖空間には、行き場のない倦怠感だけが充満していた。


「微細なズレだ。……許容範囲内だが、不愉快だ」


 部屋の隅で、鉄鏡花(くろがね きょうか)が独り言のように呟き続けている。 彼女は自身の左手、義体の人差し指にある駆動装置(アクチュエーター)のカバーを外し、極細のドライバーで調整を繰り返していた。ウィーン、カチッ。ウィーン、カチッ。 規則的すぎる駆動音は、この混沌とした嵐の夜にはあまりに神経質に響く。 彼女にとって、この無為な時間は「非生産的な待機時間」でしかない。だからこそ、自身の身体という完璧なシステムを維持することに没頭し、思考の空白を埋めようとしているのだ。


「ねえ、灯。……どっちが可愛い?」


 鏡台の前を陣取っている白雪美流愛(しらゆき みるあ)が、虚ろな瞳で問いかける。 彼女は一時間前から、鏡に向かって笑いかけていた。口角を上げる。目を細める。「アイドルの笑顔」と「殺し屋の笑顔」。 その境界線は、ミクロン単位の筋肉の収縮の違いでしかない。彼女はそれを確認し、修正し、また確認する。 自己愛(ナルシシズム)ではない。それは、自分という「人形」のメンテナンスだ。 自分が何者であるかを見失わないために、彼女は鏡像という他者を必要としている。


「……腹減った」


 床には、辰巳響(たつみ ひびき)が死体のように転がっていた。 彼女の周囲には、読み散らかされた漫画雑誌と、空になったスナック菓子の袋が散乱している。龍神である彼女の代謝機能は、人間のそれとは比較にならない。何もしていなくても、強大なエネルギーを維持するためにカロリーを消費し続ける(リアクター)。 空腹は、彼女にとって最も原始的で、かつ耐え難い苦痛だ。


「肉……肉食わせろ……。あとタピオカ……」


 響が呻くたびに、外の雷鳴がゴロゴロと共鳴する。 彼女の機嫌が天候に直結している以上、このままでは事務所の中にまで落雷を招きかねない。


「あ、あのっ……お、お茶、淹れますね……!」


 この窒息しそうな沈黙に耐えかねたのか、天羽祈(あもう いのり)が立ち上がった。 彼女は震える手でポットを持ち上げ、ひび割れたティーカップに湯を注ごうとする。 だが、極度の緊張と、彼女特有の不器用さが災いした。


 ガチャンッ!!


「ああっ! ご、ごめんなさいぃ……!」


 カップが床に落ちて砕け散る音。 熱湯が床に広がり、湿った空気に白い湯気を上げる。 祈は泣きそうな顔で破片を拾い集めようとして、指先を切った。 赤い血が滲む。その血の匂いに、灯の鼻がピクリと動くが、彼女はすぐに顔を背けた。


「……やれやれ。地獄の釜の底の方が、まだ居心地が良さそうだ」


 灯はため息をつく。殺し合いの最中ならば、彼女たちは「リコリス・バロック」として完璧に機能する。 だが、平穏な日常という舞台においては、彼女たちはただの「社会不適合者」の集まりでしかなかった。何も起きない時間。 それは、彼女たちが普段蓋をしている「過去の傷」や、埋めようのない「虚無」と向き合わされる時間でもある。退屈は、猛毒だ。 じわじわと精神を侵食し、自分が孤独であることを自覚させる。


「……限界」


 響が、のそりと起き上がった。その瞳孔は縦に裂け、捕食者の色を帯びている。


「もう無理。アタシは今すぐ何かを胃に入れないと、この部屋にある有機物を片っ端から齧るぞ」


 彼女は冷蔵庫へと向かう。その足取りは、獲物を追い詰める獣のように重く、鋭い。バタン、と乱暴に扉が開かれる。 庫内灯の冷たい光が、空っぽの棚を照らし出した。


 中にあるのは、灯が常飲しているトマトジュースのボトルが一本。鏡花が自身の冷却用に保管している業務用保冷剤。そして、いつの鍋の残りかさえ定かではない、干からびて茶色くなったネギの残骸が一本。


 絶望的な光景。


「……は?」


 響の声が低くなる。 冷蔵庫の扉を握る手に力が入り、金属がミシミシと悲鳴を上げる。


「おい灯。……これは何だ?」


「見ての通り、冷蔵庫だ」


「中身の話をしてんだよ! 兵糧攻めか? アタシらに対する宣戦布告か!?」


 響の背後から、パチパチと静電気が発生する。 テレビの画面が砂嵐になり、蛍光灯が明滅を始める。暴動寸前。 コンビニは全店休業。デリバリーも停止中。 この嵐の中、食料を調達する手段は皆無に等しい。


「落ち着け、響。……鏡花、カロリーメイトとかないのか」


「あいにくだが、昨日で在庫が尽きた。私の計算では、本日の夕食は外食で済ませる予定だったため、備蓄はない」


「美流愛は?」


「ダイエット中よ。水しかないわ」


「祈は?」


「あ、飴玉なら……二個だけ……」


 詰んだ。 灯は天井を仰いだ。 空腹という野生の本能が暴走すれば、この狭い箱舟は内側から崩壊する。龍が暴れ、サイボーグが迎撃し、殺し屋が舞い、悪魔が泣き叫ぶ。 台風よりも悲惨な災害が、ここ神宿の屋上で発生することになる。


「……仕方ない」


 灯は重い腰を上げ、吸えない煙草を灰皿にねじ込んだ。彼女は部屋の隅、古びた絨毯を足で退かす。そこには、床下収納への扉が隠されていた。


「とっておきだ。……感謝しろよ」


 ギギギ、と錆びついた蝶番が鳴る。 床下から現れたのは、埃を被った段ボール箱の山だった。 かつて、報酬として現物支給された高級和牛の真空パック(冷凍保存されていたが、保冷剤の効果でギリギリ凍っている)。 いつかの依頼人が「田舎の実家から送られてきた」と押し付けていった、泥付きの根菜類。 そして、賞味期限が怪しい缶詰の数々。


 統一感など皆無。 まるで、ゴミ捨て場から拾ってきたような食材の墓場。だが、飢えた獣たちの目には、それが王侯貴族の晩餐に見えた。


「……肉」


 響が涎を垂らす。


「灯さん、これ……」


「鍋だ」


 灯は短く宣言した。


「あるものを全部ぶち込んで煮る。……文句は言わせんぞ」


 調理器具など、カセットコンロと土鍋が一つあるだけ。 レシピなど存在しない。 この嵐の夜、生き残るための「生存戦略(サバイバル)」としての料理が始まろうとしていた。

自分が読みたい物語を書いています。

可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。

(制作に関してAIを利用しています)

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