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リコリス・ミッドナイト・ヘブン  作者: ネオもろこし


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第一話「硝子の街の調律師」2

第二章 死舞谷の幻影と、幸福な死体


 東帝都の血管を流れるものが汚濁した血液であるなら、死舞谷(シブヤ)という街は、その循環を加速させる不整脈のようなポンプだ。


 すり鉢状の地形の底に位置する『大交差点(カレイド)万華鏡(クロッシング)』。そこでは、頭上を覆う鉛色の雲と、ビル壁面を埋め尽くすホログラム広告が共犯関係を結び、降り注ぐ雨粒を極彩色の毒液へと変えていた。信号機の電子音が、ささくれた神経を逆撫でするように鳴り響く。青に変わる刹那、三千もの黒い影が一斉に歩き出した。傘という文明の利器を用いる者は稀だ。皆、防水加工された安っぽいパーカーのフードを目深に被り、他者というノイズを遮断して、ただ前へ、前へと足を進める。その光景は、巨大なミキサーの中で攪拌される肉と欲望のスープに似ていた。


「あー、マジで最悪。今日の雨、電池舐めた時みたいにビリビリすんだけど」


 ビルの屋上看板。

「脱毛サロン・メデューサ」と書かれた巨大なネオン管の縁に腰掛け、辰巳 響(たつみ ひびき)は不機嫌そうに空を睨めつけた。その手には、流行りの毒々しい色をしたタピオカドリンクが握られているが、ストローを噛む歯には苛立ちが滲んでいる。彼女の周囲だけ、雨粒が不可視の膜に弾かれたように軌道を変えていた。墨堕川(すみだがわ)の主である龍神にとって、水はこの街の記憶を運ぶ媒体だ。だが今夜の雨は、記憶と呼ぶにはあまりにノイズが多すぎる。


「文句を言わないの、響。この街の味が悪いのは、今に始まったことじゃないでしょ?」


 響の背後から、鈴を転がしたような可憐な声が、雨音の隙間を縫って届いた。闇に溶けるようにして現れたのは、純白のフリルとレースで過剰に装飾された衣装を纏う少女――白雪 美流愛(しらゆき みるあ)だ。彼女の手には、先ほどまでライブで握っていたであろうマイクではなく、細長い形状の物体が握られている。

 改造ペンライト。その先端から伸びる高出力のレーザーブレードは、今は収束され、ただの無害な棒切れに見える。


 彼女の足元には、つい先ほどまで「口を割らなかった」であろう半グレらしき男が、白目を剥いて転がっていた。男の指は不自然な方向に曲がり、その口からは情報の代わりに血の泡が漏れ出していた。


「で? そいつ、なんか吐いた?」


「んーん。根性なし。私の新曲『初恋ギロチン』をワンコーラス聴かせる前に気絶しちゃった」


 美流愛は、男の腹を踏み台にして、軽やかに看板の縁へと飛び乗った。その表情は、ステージ上での「MIRUA」の笑顔そのものだ。しかし、彼女が主戦場とするのは光り輝くドームスタジアムではない。換気の悪い地下のライブハウス。汗と熱気が充満し、数百人の狂信的なファン(オタク)たちが密着し合う、狭く、濃密な空間だ。そこで彼女は、大衆に向けた薄い愛ではなく、手を伸ばせば届く距離にいる「個」の心臓を鷲掴みにするような、重たく粘着質な愛を振りまいている。だからこそ、彼女の殺意は研ぎ澄まされているのだ。数万人の歓声よりも、一人の断末魔を愛するように。


「でも、私の『オタク』たちが教えてくれたよ。……北の魔都、逝袋(イケブクロ)。そこの地下、『袋の底』だって」


「げ。あそこ、カビ臭いから嫌いなんだよねー。……まあいいや。(あかり)たちも向かってるんでしょ?」


「うん。現地集合。……急ごうか。雨が止む前に」


 美流愛が微笑み、躊躇なく虚空へと身を躍らせる。重力を無視したその軌道は、堕ちていく天使ではなく、獲物を狙う猛禽類のそれだ。響もまた、飲み干したプラスチック容器を握り潰し、舌打ちと共にビル風に乗った。二つの異形は、ネオンの海へと溶けていく。死舞谷の喧騒は、彼女たちの殺気を瞬く間に飲み込み、何事もなかったかのように明滅を続けていた。


 東帝都環状線『黒鉄線(クロガネセン)』に揺られ、北を目指す車内は、移動する霊安室のように静まり返っていた。窓の外を流れる景色は、スラムのバラック小屋から、次第に無機質なコンクリートの要塞群へと変貌していく。


 逝袋(イケブクロ)。かつて巨大な処刑場があったとされるこの地は、帝都の拡張工事に伴い、地上の光を拒絶するような巨大ターミナルへと姿を変えた。だが、その真の姿は地下にある。正規の地図には記載されていない、地下数百メートルに広がる広大な迷宮。通称『袋の底(アンダー・バッグ)』。そこは、地上にいられなくなった浮浪者、指名手配犯、そして光を嫌う人外たちが吹き溜まる、都市の胃袋だ。


「……うぅ、やっぱりここ、空気が重いですよぉ」


 駅の最下層、工事用フェンスの奥にある搬入路。天羽祈(あもういのり)が、鼻と口を両手で覆いながら呻いた。彼女のような霊的感度の高い存在にとって、数多の怨念や死に損ないの思念がヘドロのように堆積したこの場所は、呼吸をするだけで精神を汚染される圧殺刑に等しい。


「有機物の腐敗臭と、メタンガスの濃度が上昇している。換気システムが機能していないな。……灯、火気厳禁だぞ」


 先頭を行く鉄鏡花(くろがねきょうか)が、暗視モードに切り替えた視覚センサーで闇を見通しながら警告する。その歩調は機械的に一定であり、泥濘んだ床をものともしない。私はコートの襟を立て、S&W M500の冷たいグリップを強く握りしめた。


「分かってるよ。この状況で一服できるほど、私の肺は頑丈じゃない」


 地下へ潜るにつれ、壁面のコンクリートは湿り気を帯び、所々に奇妙な発光菌が青白く光っているのが見える。それは、これから我々が対面するであろう「何か」の前触れ、あるいは墓標の灯火のようだった。


 やがて、開けた空間に出た。かつて地下貯水池として使われていたと思われる、巨大な円筒形のホール。そこには、先着していた二人の影があった。


「おせえよー! 湿気で髪が爆発しそうなんだけど!」


 柱に寄りかかり、スマートフォンの画面を鏡代わりに前髪を直している響。そして、瓦礫の上に立ち、無邪気な手つきでこちらを招く美流愛。


「お疲れ様、灯。……ここだよ」


 彼女たちの視線の先には、分厚い隔壁があった。かつては防水扉だったのだろうが、今は無理やりこじ開けられ、そこから例の「甘い匂い」が濃厚な霧のように漂い出している。

 祈が「ひっ」と短い悲鳴を上げ、私の背中に隠れた。匂いだけではない。扉の奥から、微かな、しかし確かな「気配」が漏れ出している。それは敵意や殺意といった単純なものではない。もっと根源的な、生物としての輪郭を溶かしてしまうような、冒涜的な平穏。


「……行くぞ」


 私が先頭に立ち、扉の隙間へと足を踏み入れる。中は、広大な実験施設になっていた。 天井から吊り下げられた無数のパイプライン。そこから滴り落ちる青い粘液が、床に水溜まりを作っている。そして、その泥濘の中に、何十人もの人間が倒れ伏していた。


 彼らは死んではいなかった。いや、生物学的には心臓を動かしているが、人としては死んでいると言った方が正しいかもしれない。全員が、焦点の定まらない瞳で虚空を見つめ、口元を緩ませていた。家出少年、売春婦、借金苦のサラリーマン。社会の底辺で喘いでいたはずの彼らが、ここでは一様に、仏のような柔和な表情を浮かべている。涎を垂らし、時折ビクンと痙攣するその顔には、恐怖も苦痛もない。あるのは、圧倒的な恍惚。脳内麻薬が理性の堤防を決壊させ、幸福という名の洪水に溺れている顔だ。


「……『青い涙(ブル・ティアーズ)』の末期患者(ジャンキー)たちか」


 鏡花が冷淡に呟き、近くの一人の手首を掴んで脈を取る。


「心拍数は異常に低い。呼吸も浅い。脳波は……測定不能なほど乱れている。彼らは今、現実の肉体を置き去りにして、脳内で無限の楽園を彷徨っている状態だ」


 私は吐き気を覚えた。1000年の間、数え切れないほどの死を見てきた。戦場での無惨な死、病による静かな死、拷問による凄惨な死。だが、これほどまでに尊厳のない「生」を見たことがあっただろうか。痛みを感じないこと。苦しみを知らないこと。それが幸福だと言うのなら、こいつらは今、世界で一番幸せな家畜だ。


「……気持ち悪い」


 美流愛が、倒れている男の顔を覗き込みながら、無邪気な声で毒を吐く。


「私のライブに来るオタクたちだって、もっと必死な顔してるよ。推しに会うためにバイトして、物販に並んで、喉が枯れるまで叫んで……そうやって必死に『好き』を証明しようとしてる時の顔の方が、ずっと人間らしいもん。こんなの、ただの生ゴミだよ」


 彼女の言葉は残酷だが、芯を食っていた。地下アイドルという、客との距離が極限まで近い場所にいる彼女だからこそ、欲望の熱量には敏感なのだろう。ここにあるのは熱ではない。ただの弛緩だ。


「……あそこに、いるよ」


 祈が、震える指でホールの最深部を指差した。そこには、祭壇のように積み上げられたドラッグのケースがあり、その上に一人の少女が横たわっていた。


 松金優奈。依頼人が探していた、「真っ白」な娘。


 私たちは慎重に近づく。彼女は、まるで眠れる森の美女のように、静かに目を閉じていた。その肌は透き通るように白く、頬には微かな紅が差している。制服のリボンは整えられ、泥一つ付いていない。生きているのか?そう錯覚するほど、彼女は美しかった。


 だが、近づくにつれて、決定的な違和感が網膜を焼いた。彼女の胸部。心臓があるべき場所が、内側から青く発光している。制服のブラウス越しに、皮膚がガラス質に変質し、肋骨の形に沿って結晶化しているのが見て取れた。心拍はない。胸の上下動もない。彼女は、美しい彫像と化していた。


「……優奈さん?」


 美流愛がそっと声をかけるが、返事はない。鏡花が無言で彼女の首筋にスキャナーを当てる。数秒の沈黙の後、彼女は首を横に振った。


「死亡している。……死後、推定72時間」


「嘘でしょ? だって、こんなに……綺麗なのに」


 響が絶句する。死後三日が経過している遺体が、腐敗も硬直もせず、生前以上の美しさを保っている。鏡花はスキャナーの数値を読み上げながら、淡々と、しかし忌々しげに解説を加えた。


「これが『青い涙』の最終段階、結晶化現象(クリスタライズ)だ。過剰分泌された幸福物質と、ドラッグに含まれる未知の呪術触媒が化学反応を起こし、肉体を保存(アーカイブ)する。……彼女の心臓は、もう筋肉のポンプじゃない。巨大な青い宝石(コア)に変質している」


 私は優奈の顔を覗き込んだ。その唇は、微笑んでいた。聖母のように。あるいは、解脱した仏のように。苦痛の欠片もない。未練も、恐怖も、悲しみもない。完璧な幸福の中で、彼女の時間は凍結されている。


「……気に入らないな」


 腹の底から、どす黒い感情が湧き上がってくるのを感じた。


 これが救済か?

 これが幸せか?

 ふざけるな。


 痛みを知らない死など、生きた証の否定だ。最期に「痛い」とも「苦しい」とも叫べず、ただ薬によって作られた偽物の天国で微睡むなんて、そんなものは死ですらない。ただの廃棄処理だ。


「おやおや。……随分と野暮なお客様だ」


 唐突に、ホールの反響音に混じって、場違いな拍手が響き渡った。影の中から、一人の男が姿を現す。白衣のようなローブを纏い、顔にはガスマスクを装着している。その隙間から覗く目は、床に転がる薬漬けの患者たちと同じように、どこか焦点が合っていなかった。


「素晴らしいでしょう? 彼女は完成したのです。この薄汚れた東帝都で、唯一無垢な存在へと昇華した」


「……てめえが、ここの管理者(マネージャー)か?」


 私がM500の銃口を向けても、男は動じない。むしろ、恍惚とした様子で優奈の遺体を仰ぎ見た。


「管理者? いえいえ、私はただの庭師(ガードナー)です。……彼女の『開花』を見届ける役目に過ぎません」


「庭師……?」


「ええ。我らが主の下僕です。主はこの腐りきった世界を、苦しみのない楽園(エデン)へと作り変える御方です」


 男は両手を広げ、舞台俳優のように大仰な仕草で演説を始めた。


「あなた方『調律師』には理解できないでしょう! 生きることは苦痛だ! 老い、病、貧困、孤独! なぜ人は、わざわざ苦しむために生まれ、死んでいくのか! ならば、その苦痛を取り除くことこそが正義! 至高の愛ではありませんか!」


「愛、ねえ……」


 美流愛がペンライトを起動させる。ブォン、と低い音を立てて、青白いレーザーの刃が伸びた。彼女の笑顔が消え、地下アイドルの現場で磨かれた、ドロドロとした執着を知る者の、冷徹な殺し屋の顔が露わになる。


「愛っていうのは、もっと重たくて、汗臭くて、血の味がするものだよ。……狭い箱(ライブハウス)の中で、酸素が足りなくなるまで叫び合って、やっとほんの少しだけ伝わるものなの。あんたの言ってる、そんな綺麗で軽いだけのものなんて、愛じゃない。ただの現実逃避(トリップ)でしょ」


「愚かな……。ならば、あなた方も救済して差し上げましょう。痛みを知らない世界へ!」


 男が指を鳴らす。パチン、という乾いた音が、開戦の合図となった。床に転がっていた薬漬けのジャンキーたちが、奇声を上げて起き上がった。彼らの身体が、内側からボコボコと膨れ上がる。皮膚が裂ける音。骨が砕け、再構築される音。裂け目から青い結晶が棘のように突き出し、筋肉は異常に肥大化し、人間の原型を留めない異形の怪物へと変貌していく。


『青い涙』による強制進化。理性を焼き切り、闘争本能のリミッターを解除された成れの果てだ。


「キシャァァァァァッ!!」


 怪物の咆哮が、地下空洞を揺らす。数は二十、いや三十。どいつもこいつも、幸せそうな顔で涎を垂らしながら、殺意を剥き出しにしている。


「……鏡花。優奈の遺体を確保しろ。傷一つ付けるなよ」


「了解した。……戦闘モード、起動」


 鏡花の背中から、蜘蛛の足のようなサブアームが展開される。駆動音が唸りを上げ、冷たい殺意が空間に満ちた。祈が両手を組み、呪文の詠唱を始める。響が足元の水溜まりを蹴り上げ、水流の鞭を作り出す。私はリボルバーの撃鉄を起こし、目の前の狂信者を見据えた。 重たい金属音が、私の鼓動とシンクロする。


「掃除の時間だ」


 悪いが、私は千年前から地獄住まいでね。天国への招待状は、間に合ってるんだよ。暴力による議論が、今、幕を開ける。

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