第七話「魔女たちのシチュー」1
第一章 五つの毒薬
三年前の東帝都の雨は、今よりも幾分か質が悪かった。空から降り注ぐのは水滴ではない。都市という巨大な臓器が濾過しきれなかった毒素であり、行き場を失った化学物質の涙だ。安物のビニール傘なら一時間で黄ばみ、三時間で穴が空く。肌に触れれば、火傷のような痛みが走り、心を蝕む。 だから、この街の住人は誰も空を見上げない。アスファルトに広がる油膜の虹だけを見て、足早に歩くのだ。
湾岸エリア、第13埠頭。 廃棄されたコンテナと錆びついたクレーンが墓標のように立ち並ぶ、鉄の墓場。 その最深部に、巨大な倉庫が鎮座していた。かつては禁輸品を保管していたその腹の中には、今夜、東帝都中の「悪意」が煮詰められている。
闇オークション。 出品物は、「パンドラの匣」と呼ばれる、出処不明のトランクケース。 噂によれば、中には国家を転覆させる兵器が入っているとも、あるいは不老不死の妙薬が入っているとも言われていた。欲望に目を血走らせたマフィア、武器商人、そして腐敗した官僚たちが、腐肉に群がるハエのように集っている。
倉庫の外壁を叩く雨音は、彼らの薄汚い談笑をかき消すためのノイズだ。 だが、そのノイズに紛れて、五つの「毒薬」が迫っていることに、中の人間たちは気づいていない。
時刻は午前2時。 丑三つ時を過ぎ、夜が最も濃くなる時間帯。オークションの開始を告げるゴングが、倉庫内に響き渡った。それは、惨劇の開幕を告げるベルでもあった。
「――5億!」「8億だ!」
「10億!」
飛び交う怒号のような入札。ステージの中央、防弾ガラスのケースの中に、そのトランクはあった。黒い革張り。何の変哲もない古びた鞄。 だが、そこから滲み出る禍々しい気配は、鈍感な人間でさえ肌を粟立たせるほどだった。
「15億! ……他にないか? では、ハンマーを……」
司会者が木槌を振り上げた、その瞬間。
ドォォォン!!
倉庫の正面、厚さ10センチの鉄扉が、内側へ向かってひしゃげ、吹き飛んだ。 爆風と共に、土煙が舞い上がる。静まり返る会場。煙の向こうから、靴底を鳴らして現れたのは、喪服のような黒いスーツを着崩した女だった。
久遠灯。 当時はまだ探偵事務所を構えていない、フリーランスの傭兵。
彼女は咥えていた煙草を指先で摘み、不機嫌そうに紫煙を吐き出した。
「……おいおい。年寄りに夜更かしさせるなよ。肌荒れしたらどうすんだ」
彼女の手には、象を撃つためのような大口径リボルバー、S&W M500が握られている。警備兵がアサルトライフルを構えるよりも早く、灯は引き金を引いた。轟音。 人の胴体ほどもあるマズルフラッシュが咲き、警備兵の上半身がトマトのように弾け飛ぶ。
「依頼だ。そのトランクは私が預かる」
それが、第一の毒薬。【奪還】の吸血鬼。
「な、何者だ! 殺せ!」
マフィアのボスが叫ぶ。 構成員たちが一斉に灯へ向かって発砲を開始した。 だが、次の瞬間、頭上から死が降ってきた。
パリーンッ!!
天井の強化ガラスが粉砕される。降り注ぐガラスの雨と共に、一本の銀糸が垂れ下がった。 その糸を伝い、真っ逆さまに降下してくる白い影。フリルとレースのついたドレスを纏った、人形のように美しい少女。 白雪美流愛。当時15歳。
組織の最高傑作として育てられた暗殺人形は、重力を無視した挙動でボスの背後に着地した。
「……ターゲット、確認」
感情のない声。 彼女の手首が、指揮者のようにしなやかに動く。 マイクロフィラメント・ワイヤーが、ボスの首に巻き付いた。 抵抗する間もない。 指先一つ動かすだけで、ボスの首がボールのように転がり落ちた。
「任務完了。……撤収します」
彼女は返り血一つ浴びていない。
それが、第二の毒薬。【抹殺】の人形。
「ひぃぃっ!?」
「上だ! 上からも来るぞ!」
会場はパニックに陥る。 逃げ惑う人々が出口へ殺到しようとした時、今度は倉庫の側面、コンクリートの壁が爆発した。
ズガガガガッ!!
指向性爆薬による、完璧な穿孔。 瓦礫と粉塵を巻き上げながら、壁の大穴から重機のようなシルエットが侵入してくる。
白衣を纏い、半身を機械化した女。 鉄鏡花。
彼女の右腕は、巨大なパイルバンカーへと換装されていた。
「生体反応多数。……邪魔だ、退け」
彼女の目的は殺戮ではない。証拠隠滅だ。 トランクの中身が、違法なサイバネティクス技術の結晶であることを察知した彼女は、それを世に出さないために「物理的破壊」を選択した。彼女の義眼が、緑色の光を放ちながらトランクをロックオンする。
「対象物、および障害物を排除する」
それが、第三の毒薬。【破壊】の機械。
三方向からの襲撃に、会場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。 だが、混乱はまだ終わらない。 爆破された壁の穴、鏡花の足元から、小さな影が転がり込んできた。
「いやぁぁぁ! 開けちゃダメぇぇぇ!!」
ボロボロの服を着た、薄汚れた少女。 天羽祈。
彼女は耳を塞ぎ、半狂乱になって叫んでいた。 魔眼を持つ彼女には、トランクから溢れ出すどす黒い「悪意」が、視覚情報として見えてしまっていたのだ。その恐怖が、彼女の中の魔力を暴走させる。
「来ないで! あっち行ってよぉ!」
祈が腕を振り回すと、空間が歪んだ。 デタラメな重力波が発生し、逃げようとしていたマフィアたちを壁に叩きつけ、あるいは天井へと吸い上げる。 制御不能の災害。
それが、第四の毒薬。【封印】を願う堕天使。
そして、トドメとばかりに、空が吼えた。
バリバリバリッ!!
屋根を突き破り、青白い雷光が垂直に落下した。 直撃を受けたステージ周辺が消し飛び、焦げ臭いオゾンの臭いが充満する。 黒煙の中から現れたのは、セーラー服を着た中学生くらいの少女。
辰巳響。 彼女は不機嫌そうに髪をかき上げ、周囲を威圧した。
「あーん? 誰だよ、夜中に騒いでんのは」
彼女の背後には、揺らめく龍のオーラが見える。ここは彼女の縄張りだ。 許可なく入り込み、騒音を撒き散らす害虫どもに、土地神としての裁きを下しに来たのだ。
「アタシの眠りを妨げる奴は、全員死刑だ」
それが、第五の毒薬。【排除】する龍。
一分にも満たない時間だった。 数百人いたマフィア、バイヤー、警備兵たちは、五つの暴力によって蹂躙され、動く者は一人もいなくなった。 血の海と化した倉庫の中央。 奇跡的に無傷で残ったステージの上に、「パンドラの匣」だけが鎮座している。
その周囲を囲むように、5人の異形たちは立ち尽くしていた。 雨が、破壊された天井から降り注いでいる。 酸性の雨が、血を洗い流し、鉄を錆びさせていく。
「……あ?」
灯が、気まずそうに眉をひそめた。 依頼の品を回収しようとしたら、見知らぬ連中が四人もいる。 しかも、どいつもこいつも、カタギの匂いがしない。
「……誰よ、あんたたち」
15歳の美流愛が、ワイヤーを構えたまま冷たい目で周囲を見回す。彼女の殺害対象はボスの首だけだったが、目撃者を消すこともプログラムに含まれている。
「推奨行動:全対象の無力化」
鏡花がパイルバンカーの撃鉄を起こす。彼女にとって、トランク以外は全て障害物だ。
「う、うぅ……帰りたい……」
祈は座り込み、ガタガタと震えている。
「チッ。……生意気なツラしてんじゃねーよ」
響が指先でバチバチと電気を弾けさせる。
全員が初対面。 全員が敵。 全員が人外。
張り詰めた糸のような緊張感。 誰かが瞬き一つすれば、即座に殺し合いが始まる。「パンドラの匣」を中心にした、最悪のメキシカン・スタンドオフ。
灯は、深いため息をつき、空になった「わかば」の箱を握りつぶした。
「……おいおい。ガキに鉄屑にメンヘラかよ。今の帝都は、化物の質も落ちたな」
その言葉が、火蓋を切る合図となった。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




