第五話「雷鳴の放課後」1
第一章 神様は教室で退屈する
死舞谷の空は、腐った雑巾のように重く湿った色をしている。窓ガラスを叩く雨粒は、まるで空が垂れ流す涎のようだ。教室の空気は澱んでいる。チョークの粉末と、三十人分の制汗スプレー、それに若者特有のホルモンの臭いが混じり合って、鼻腔の奥をじっとりと刺激する。
「……だる」
アタシは頬杖をつき、大きなあくびを噛み殺した。黒板の前で、世界史の教師が何やら喚いている。ローマ帝国の興亡だとか何とか。 悪いけど、アタシからすりゃあ、そんなのつい昨日の出来事だ。 アタシは辰巳響。 見た目は、校則ギリギリのスカート丈に、派手なメイクをしたイマドキの女子高生(JK)。 だが、その中身は墨堕川の主にして、数千の時を生きる水神――龍だ。
神様にとって、人間の高校生活というのは、暇つぶしとしては上質だが、苦行としては最悪の部類に入る。たかだか五十分の授業が、永遠のように長い。 悠久の時を川底で微睡んでいた頃よりも、この硬い椅子に尻を乗せている時間の方が長く感じるのは、一種のバグじゃないかと思う。
「ねえ、響ちゃん。ノート、取る?」
隣の席から、遠慮がちな声が降ってくる。 視線を横に向けると、黒縁メガネをかけた地味な少女が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。 美咲。 クラスの中では空気みたいに目立たない、図書委員タイプの女子。 アタシとは正反対の種族だが、なぜかウマが合った。 アタシの威圧感にビビらず、かといって媚びへつらうこともなく、普通に接してくる数少ない人間。 いわゆる、マブダチってやつだ。
「いらね。どうせテスト前にお前の写させてもらうし」
「もう、また? 響ちゃん、この前の模試も赤点だったじゃん」
「うっせーな。アタシは過去を振り返らない主義なの」
美咲はクスクスと笑い、シャーペンを走らせる。その横顔は、どこにでもいる平凡な少女のものだ。弱く、脆く、そして驚くほど短命な生き物。アタシが瞬きを一つする間に、彼女たちは老い、死んでいく。だからこそ、この一瞬の輝きが、たまらなく愛おしく、そして残酷に見えることがある。
チャイムが鳴る。 それは、囚人を解放する福音のように響いた。
「終わったー! マジだりー!」
「お疲れ様。……屋上、行く?」
「おう、行く行く。タピオカ切れで死にそう」
アタシたちは鞄を掴み、教室を飛び出した。廊下の喧騒を抜け、階段を駆け上がる。 屋上への扉は重いが、アタシにかかれば発泡スチロールみたいなもんだ。 ガンッ、と蹴り開けると、湿った風が頬を撫でた。
空は相変わらずの曇天だ。 灰色の雲が低く垂れ込め、遠くで微かに雷鳴が轟いている。アタシの気分に呼応しているのか、それともただの気象現象か。 最近、この街の空模様は不安定だ。アタシの鱗がピリピリと逆立つような、嫌な電気が溜まっている。
「はい、これ新作」
美咲がコンビニ袋から取り出したのは、毒々しい紫色をしたタピオカドリンクだった。『悪魔の黒蜜芋ミルクティー』とかいう、正気を疑うネーミング。
「うわ、色ヤバ。……いただきまーす」
太いストローを突き刺し、一気に吸い込む。人工的な甘さが、脳髄を直接殴りつけてくる。モチモチとしたキャッサバの団子が、喉を通る。
「……微妙」
「えー? 美味しいよ? 響ちゃん、味覚おじいちゃんみたいだもんね」
「ああん? 誰がおじいちゃんだ、誰が。アタシはピチピチの18歳だぞ」
フェンスに寄りかかりながら、他愛のない話をする。 次のテストの話、ウザい教師の愚痴、流行りのコスメ。中身なんて何もない、空っぽで、温かい会話。 アタシはこの時間を、意外と気に入っていた。 神としての責務も、東帝都の闇も忘れて、ただの女子高生として笑っていられる時間。 人間を飼うのも悪くない、なんて上から目線で思っていたけれど、案外、飼いならされているのはアタシの方かもしれない。
ふと、美咲が髪をかき上げた。 その時、彼女の首筋に、違和感のあるものが目に入った。
「……ん? おい、それ何だ」
アタシは美咲の手首を掴み、強引に覗き込んだ。耳の下、うなじに近い部分。 そこに、青黒い痣が浮き出ていた。 ただの内出血ではない。皮膚の下で、何かが蠢くように脈動し、微かに燐光を放っている。幾何学模様にも見えるその形は、まるで焼印のようだ。
「えっ……?」
美咲がびくりと身を震わせ、慌てて襟を立てて隠そうとする。
「な、なんでもないよ。……ちょっと、転んだだけで……」
「転んでこんな痣ができるかよ。……見せろ」
アタシは彼女の抵抗を無視して、襟を掴んだ。 指先が震えている。美咲が怖がっているのが伝わってくる。 だが、それ以上に、アタシの本能が警鐘を鳴らしていた。
臭う。 甘ったるく、胸焼けするような、あの匂い。 『青い涙』の残り香。 そして、もう一つ。 焦げ付いた線香のような、鉄錆と獣脂を混ぜたような、鼻を曲げたくなる異臭。日本のものじゃない。 大陸の、古臭くてドロドロした、呪術の臭いだ。
「美咲。……お前、何した?」
アタシの声色が、知らず知らずのうちに低くなる。 ギャルの仮面が剥がれ、龍としての威圧感が漏れ出してしまう。美咲の顔から血の気が引いていく。
「ち、違うの……。知らない……。昨日、帰り道で……変な人に声をかけられて……気がついたら……」
彼女はガタガタと震え出した。瞳孔が開いている。軽いパニック状態だ。 アタシは舌打ちをし、掴んでいた手を離した。 これ以上問い詰めても、彼女の精神が持たない。
「……わかった。もういい」
アタシは努めて明るい声で言った。
「変な虫刺されじゃね? 今度、いい皮膚科教えてやるよ。鏡花んとこ」
「う、うん……ありがとう……」
美咲は力なく笑ったが、その笑顔はひきつっていた。彼女自身も、自分の体に起きている異変に、本能的な恐怖を感じているのだろう。
放課後のチャイムが鳴る。 空の雲が、さらに厚みを増していた。 遠くで光った稲妻が、美咲の横顔を一瞬だけ蒼白に照らし出した。
「今日は早く帰れ。……寄り道すんなよ」
「うん。……じゃあね、響ちゃん」
美咲は逃げるように屋上を出て行った。 その背中を見送りながら、アタシは飲みかけのタピオカ容器を握り潰した。 プラスチックがひしゃげる音が、静寂に響く。
「……クソが」
何かが起きている。アタシの死舞谷で、アタシのダチに、誰かが手を出した。その事実は、神の逆鱗を撫でるには十分すぎる挑発だった。
その夜、美咲は家に帰らなかった。
アタシのスマホに着信が入ったのは、日付が変わる直前だった。 美咲の母親からではない。 『久遠 灯』という表示。 アタシたちのチーム、『リコリス・バロック』のリーダーであり、不死身の吸血鬼探偵だ。
「……もしもし。灯? こんな時間に何の用?」
アタシはベッドの上で寝返りを打ちながら、不機嫌に応答した。窓の外は土砂降りだ。雨音が、アタシの焦燥感を煽るように激しく窓を叩いている。
『響。……お前の友達、捜索願が出てるぞ』
灯の声は、いつも通り気怠げだが、その奥に硬質な緊張を含んでいた。
「……やっぱ、そうか」
アタシは天井を睨みつけた。 予想はしていた。けれど、認めたくなかった。 あの痣。あの匂い。 ただで済むはずがなかったのだ。
『今、鏡花と情報を洗った。……ビンゴだ。死舞谷の裏で、新しい組織が動いてる』
灯が煙草の煙を吐き出す音が聞こえる。
『黒鱗幇。大陸から流れてきた武装マフィアだ。最近、ウチのシマに進出してきて、『箱庭の揺り籠』から『青い涙』の技術供与を受けてるらしい』
「マフィア? そんな連中が、なんで美咲を……」
『狙いは美咲ちゃんじゃない』
灯の言葉が、冷たく突き刺さる。
『お前だ、辰巳響』
「……は?」
『奴らの目的は「龍の肝」だ。……不老不死の妙薬を作る材料として、極上の龍をお探しらしいぜ』
頭の中で、血管がブチ切れる音がした。龍の肝。 東洋の伝説にある、万病を治し、永遠の命を与えるという幻の臓器。 そんなカビの生えた迷信を信じて、わざわざ海を渡ってきやがったのか。
『奴らは、死舞谷の土地神であるお前の正体に気づいてる。だが、正面から喧嘩を売る度胸はない。だから、お前をおびき出すための餌を用意した』
「……それが、美咲ってことか」
『ああ。あの痣は、ただのマーキングじゃない。「呪いのビーコン」だ。美咲ちゃんが恐怖を感じれば感じるほど、その信号はお前に届くようになってる』
ギリ、と奥歯が鳴る。 ふざけるな。アタシを食いたきゃ、直接かかってこいよ。 一般人を、しかもアタシのマブダチを巻き込んで、人質にするだと?
「……場所は?」
アタシは低い声で問うた。 ギャルの口調は消え失せ、数千年の時を生きる捕食者の声になっていた。
『港湾地区の廃倉庫街。第3埠頭の奥だ。……罠だぞ、響』
「知ってるよ」
アタシはベッドから跳ね起き、パーカーを羽織った。窓を開けると、湿った夜風が吹き込んでくる。 雨の匂い。潮の匂い。そして、微かに漂う血の匂い。
「罠だろうが何だろうが、関係ねぇ」
アタシは窓枠に足をかけた。眼下には、ネオンに濡れた死舞谷の街が広がっている。ここはアタシの庭だ。アタシの学校だ。アタシの遊び場だ。 そこで好き勝手やってる害虫どもは、一匹残らず駆除してやる。
『……美流愛と鏡花も向かわせた。単独行動は控えろよ』
「遅ぇよ。……アタシのダチに手ェ出したこと、地獄で後悔させてやる」
通話を切り、スマホをポケットにねじ込む。 アタシは虚空へと身を躍らせた。重力に従って落下しながら、アタシの中で眠っていた龍の血が沸騰するのを感じた。
ドオォォォン!!
夜空を引き裂くように、巨大な雷鳴が轟いた。アタシの怒りに呼応して、どす黒い積乱雲が渦を巻く。 今夜の雨は、いつもより塩辛くなりそうだ。待ってろよ、美咲。 神様が今、そのふざけた運命ごと、全部ぶっ壊しに行ってやるから。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




