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リコリス・ミッドナイト・ヘブン  作者: ネオもろこし
箱庭の揺り籠(ガーデン・オブ・クレイドル)編

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第四話「天使の過ち、悪魔の救済」3

第三章 穢れた翼で飛ぶ


 神宿(シンジュク)の夜空に、あり得ないはずの極光(オーロラ)が揺らめいていた。光源は、(とおる)だった。 背中の結晶翼を大きく広げた彼から、雪のように白い光の粒子が降り注いでいる。 それは物理的な質量を持った攻撃ではなかった。温かく、柔らかく、そして絶対的な「肯定」の雨。


「う、そ……力が……」


 隣で身構えていた辰巳響(たつみ ひびき)が、膝から崩れ落ちた。 彼女が纏っていた龍のオーラが、湯気のように霧散していく。 響だけではない。白雪美流愛(しらゆき みるあ)も、改造ペンライトを取り落とし、呆然と虚空を見つめている。鉄鏡花(くろがね きょうか)の機械の腕が、糸が切れたように垂れ下がる。 そして、あの久遠灯(くおん あかり)でさえも、構えた銃口を力なく下ろしていた。


「なんだ、これ……。戦意()が、削がれる……」


 灯がうわ言のように呟く。 彼女たちは歴戦の「調律師」だ。どんなに強大な悪意や、殺意の波動であっても、跳ね返すだけの精神力を持っている。 だが、これは違う。 悪意がないのだ。 透から放たれているのは、純度100パーセントの「善意」。


『君たちも疲れただろう?』

『もう戦わなくていいんだよ』

『ゆっくりお休み』


 そんな慈愛に満ちた波動が、強制的に脳内の闘争本能を鎮静化させ、多幸感で満たしていく。これは攻撃ではない。 魂の抱擁だ。だからこそ、防ぎようがない。


「さあ、みんな。武器を捨てて、こっちにおいで」


 透が、宙に浮いたまま両手を広げた。 その声は、脳髄を直接撫でられるように甘美だった。


「『箱庭』は広いよ。みんなが入れるくらい、とっても大きいんだ。そこでは誰も傷つかない。お腹も空かない。ただ幸せな夢だけを見ていられる」


 美流愛が、ふらふらと彼の方へ歩き出そうとする。その瞳は、ドラッグ中毒者のようにとろんと濁っていた。救済という名の、精神の死。 それが今、この場にいる全員を飲み込もうとしている。


 ただ一人、私を除いて。


「……うぅ……ッ!」


 私は歯を食いしばり、アスファルトに爪を立てて耐えていた。 私の体内で、二つの血が激しく拒絶反応を起こしている。 天使の血は、透の光に共鳴し、「受け入れろ」と囁く。悪魔の血は、その光を唾棄すべきものとして、「反吐が出る」と叫ぶ。相反する衝動が内側でぶつかり合い、私の精神を引き裂く。 その激痛だけが、私を正気に保っていた。


「おや?」


 透が私に気づき、舞い降りてくる。光の羽が、私の頬を撫でた。


「しふぁちゃん。……君は、まだ迷っているんだね」


 彼は悲しげに眉を寄せ、私に手を差し伸べた。その指先は、白磁のように美しく、そして冷たい。


「可哀想に。君は誰よりも優しいから、誰よりも傷ついている。……全部視えているんだろう? この世界の汚い色が」


 私の魔眼。 見たくもない人の本性、欲望、嘘。 それらを強制的に見せつけられる呪われた瞳。


「もう見なくていいんだよ。僕の手を取れば、世界は真っ白になる。君のオッドアイも、君の手首の傷も、全部光に溶けて消えるんだ」


「……消え、る?」


「そうだよ。君が『君』でいるから苦しいんだ。個を捨てて、全と一つになれば、痛みなんて存在しない」


 誘惑。 それは、私がストロングゼロを飲みながら、毎晩のように夢想していたことだった。 自分という存在が消えてしまえばいい。そうすれば、もう苦しまなくて済む。透の手を取れば、それは叶う。 このドブのような街から、永遠にオサラバできる。


 私の手が、無意識に動く。 彼の指先に触れようとする。


 その時。 脳裏に、とるに足らない記憶がフラッシュバックした。


『しふぁちゃんのオムライス、世界一美味しいよ』


 透の笑顔。 ボロボロの作業服で、なけなしの千円札を握りしめて、私に会いに来てくれた彼。 あの時の彼は、生きていた。苦しくて、貧しくて、惨めだったかもしれないけれど。 それでも、私の魔法(ウソ)を喜んでくれて、私に「またね」と言ってくれた。


 あの温かさは、ここにはない。目の前の「天使」は美しいけれど、温度がない。ただの、光る虚無だ。


「……違う」


 私は手を止めた。 指先が震える。


「……ううん。私は、行かない」


「どうして?」


 透が首を傾げる。


「ここは地獄だよ? 君を搾取して、消費して、ボロボロにするだけの場所だよ?」


「そうだよ! 地獄だよ! 最低で最悪だよ!」


 私は叫んだ。 喉が裂けそうなくらい、精一杯の声で。


「毎日死にたいって思うよ! 客はキモいし、店長はウザいし、給料は安いし! 私なんて生きてる価値ないって、毎秒思ってるよ!」


 営業スマイルなんてかなぐり捨てた。「しふぁ」としてのキャラも忘れた。ただの、天羽祈としての、みっともない本音。


「でもね……!」


 私は顔を上げる。 涙でぐしゃぐしゃになった視界の向こう、透を見据える。


「明日、推しの新曲が出るかもしれないの!」


「え……?」


「来週、コンビニの限定スイーツが発売されるの! たまたま入った店で、すごく可愛い服が見つかるかもしれないの! ……そんな、どうしようもない、くだらない『もしも』があるから!」


 私は地面を踏みしめる。 泥水が跳ねる。


「そんな些細な光があるから、私はこの地獄で生きてるの! 痛くても、苦しくても、明日を待ってるの!」


 それが、私の選んだ答え。 清らかな死よりも、泥にまみれた生を。永遠の安らぎよりも、一瞬のときめきを。


「透さん……あなたは間違ってる。辛いことを消すために、楽しみまで消しちゃったら……それはもう、生きてるって言わない!」


 私は、右目の眼帯を毟り取った。 星型の飾りが、泥の中に落ちる。露わになった右目、天使の青。そして、左目、悪魔の赤。 オッドアイが、極彩色の光を放つ。


「見せてあげる。……あなたが捨てようとした、この世界の本当の色を!」


 固有能力『楽園追放(ロスト・パラダイス)』。普段は、空間を歪めて味方を回復させる癒やしの力。 だが、今の私は違う。 回復なんて生易しいものじゃない。 私の魔眼が捉えてきた、この街の膨大な情報の奔流――「現実」そのものを、透の脳内に直接流し込む。


「やめろ……!」


 透が怯んだ。 私が放つのは、物理的な衝撃ではない。 情報量による精神攻撃。


「見ないで! そんな汚いもの!」


 透が顔を覆う。 だが、私の視線は彼を逃さない。


「見てよ! これが人間だよ! 綺麗じゃなくても、生きてるんだよ!」


 流れ込むイメージ。 死んでいった『ブツ横キッズ』たちの、言えなかった言葉。『お腹すいた』『もっと遊びたかった』『ママに会いたい』『恋がしたかった』『生きたかった』


 純粋な幸福などない。純粋な絶望もない。すべてが混ざり合い、濁り、それでも輝こうとする、生命の混沌(カオス)。 ドブ色も、ヘドロ色も、血の色も。 それら全てが、彼らがこの世界に存在した(カラー)だ。


「あ、あぁ……あああぁぁぁッ!!」


 透が絶叫する。 彼の脳内を満たしていた『箱庭』の純白が、無数の極彩色によって塗り潰されていく。 善意という名の麻酔が切れ、現実の痛みが彼を襲う。 自分が何をしたのか。 救いだと信じて、何人の命を奪ったのか。 その罪の重さが、彼を押しつぶす。


「僕は……僕は、なんてことを……!」


 バキンッ!


 硬質な音が響き、透の背中の結晶翼に亀裂が入った。光が漏れ出し、ガラス細工のように砕け散る。飛行能力を失った彼は、重力に引かれて墜落した。


「透さん!」


 私は駆け寄り、彼を受け止めた。 ずしりと重い、人間の重さ。 発光現象が収まり、彼は元の、ボロボロの作業服姿の青年に戻っていた。 だが、その体は冷たく、もう助からないことは明白だった。『青い涙』の過剰摂取と、急激な変異の反動。 彼の命は、蝋燭のように燃え尽きようとしている。


「……しふぁ、ちゃん……」


 透が、薄く目を開けた。 その瞳には、もう狂信的な光はない。涙で潤んだ、弱々しい、けれど人間らしい瞳。


「ごめん……なさい……。僕は……ただ、楽にしてあげたくて……」


「わかってる。わかってるよ……」


 私は彼の手を握りしめた。 油と泥で汚れた、温かい手。


「痛いよ……。苦しいよ……」


 透が呻く。 死の苦痛が、彼を苛んでいる。安楽死を配って回った彼が、最後は誰よりも苦しんで死ぬ。 なんて皮肉で、なんて残酷な結末。


「……でも、これでいいんだよね」


 透は、痛みに顔を歪めながらも、微かに微笑んだ。


「痛いってことは……まだ、生きてるってことだもんね」


 彼は私の顔を見つめる。 その視線は、私のオッドアイに向けられていた。


「……綺麗だ」


 彼が呟く。


「君の魂は……白じゃない。……虹色で……すごく、綺麗だね……」


 血に染まった指先が、私の頬に触れようとして――力尽き、落ちた。透の目が静かに閉じる。 魂の色が、フッと消えた。今度こそ、本当に。


「……う、うぁぁぁぁぁぁッ!!」


 私は彼の亡骸に縋り付いて泣いた。雨音にかき消されながら、喉が枯れるまで泣き叫んだ。彼を地獄(ここ)に引き戻したのは私だ。 彼に、自分が人殺しだという絶望を突きつけて、苦痛の中で死なせたのは私だ。 それが正しかったのか、間違っていたのか。 答えなんて、どこにもなかった。


 雨が上がった頃、傾奇町の空は白み始めていた。 事件は終わった。 『ブツ横キッズ』たちの死体は警察ではなく、裏社会の掃除屋によって片付けられ、透の遺体もどこかへ運ばれていった。 この街は、何事もなかったかのように、また新しい一日を始めようとしている。


 私は、店の裏口にある非常階段に座り込んでいた。手には、自販機で買ったストロングゼロ。隣には、久遠灯が立って煙草を吹かしている。


「……灯さん」


「ん?」


「私、あのお客さんを地獄に落としちゃったのかな」


 救いを求めて空へ昇ろうとした彼を、私が地面に叩き落とした。 あのまま彼が「天使」でいれば、彼は幸せなまま消えられたかもしれないのに。


 灯は紫煙を吐き出し、夜明けの空を見上げながら言った。


「さあな。……だが、少なくともお前は、このクソみたいな現実に彼を引き戻した」


 彼女は吸い殻を携帯灰皿に押し込み、私を見下ろした。


「それを救いと呼ぶかどうかは、神様のみぞ知るってやつだ。……だが、私は嫌いじゃないぜ。お前のその、生き汚い執着はな」


 灯の手が、ポンと私の頭に乗せられた。不器用で、少し乱暴な慰め。


「……ありがとうございます」


 私はプルタブを開け、酒を一気に流し込んだ。炭酸と、人工甘味料と、高濃度のアルコール。 喉が焼け、胃袋が熱くなる。


 甘くて、苦くて、少しだけしょっぱい。 涙と鼻水の味が混ざった、最低の味。


「……まずい」


 そう呟きながらも、私は空を見上げた。分厚い雲の切れ間から、微かに朝焼けの光が漏れていた。その光は、透が求めたような純白でもなければ、この街を覆う漆黒でもない。 複雑に色が混ざり合い、濁りながらも輝く、美しいグレーだった。


「さてと」


 私は空き缶を握り潰し、ゴミ箱に投げ入れた。 カラン、と乾いた音が響く。 ポケットから新しい眼帯を取り出し、右目に着ける。 リストバンドの位置を直し、服の汚れを払う。


 私は立ち上がった。 足はまだ震えているけれど、もう大丈夫だ。今日という、クソみたいな一日を生き抜くための「魔法」は、もう自分自身にかけたから。


「行こっか。……店長に怒られちゃう」


 私は「しふぁ」としての仮面を被り、極彩色の地獄へと続く扉を開けた。 背中で、灯が小さく笑った気配がした。

自分が読みたい物語を書いています。

可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。

(制作に関してAIを利用しています)

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