第四話「天使の過ち、悪魔の救済」2
第二章 善意という名の虐殺
傾奇町の夜は、深まるにつれてその毒性を増していく。私はビニール傘も差さずに、ネオンが反射するアスファルトを踏みしめていた。 冷たい雨が、頬を伝う涙と混じり合い、口元で塩辛い味に変わる。
「透さん……」
あてなどない。 けれど、私の魔眼は知っている。このドブ川のような街で、唯一混じりけのない「純白」がどこにあるのかを。私は光を探す蛾のように、あるいは救いを求める亡者のように、路地裏の迷宮を彷徨った。
神宿の中心部。 ビルの谷間に鎮座する、巨大な「首の取れた仏像」。 かつての平和の象徴は、今や錆びついた鉄の塊となり、無残な断面を雨に晒している。 その足元に広がる広場と、迷路のように入り組んだ路地裏。通称――『仏横』。
そこは、家にも学校にも居場所を失った子供たちが吹き溜まる、巨大なゴミ捨て場だ。 彼らは『ブツ横キッズ』と呼ばれる。 仏像の横にたむろする子供たち、という意味だけではない。 いつか路上で冷たくなり、「死体」として処理される順番待ちをしている子供たち、という悪趣味な揶揄が込められた呼び名だ。
普段なら、彼らは地べたに座り込んでストロング缶を飲んだり、市販薬の過剰摂取でラリったりして、嬌声を上げているはずだ。 だが今夜、仏横は異様な静寂に包まれていた。 まるで、死神が通り過ぎた直後のように、生き物の気配が希薄だ。
「……静かすぎる」
私は路地の奥へと足を進める。 腐った生ゴミと排泄物の臭いに混じって、微かに漂う甘い香り。鼻腔の奥にまとわりつくような、人工的な果実臭。『青い涙』の残り香だ。
心臓が早鐘を打つ。 角を曲がった先。 業務用ゴミ箱の影に、人影があった。
「……もう大丈夫だよ。寒くないし、お腹も減らない」
優しい声。 私が店で聞いていた、あの穏やかで、自信なさげな声とは違う。 もっと芯の通った、確信に満ちた聖人のような響き。
「透さん……?」
私が声を絞り出すと、その人物はゆっくりと振り返った。 逆光の中、ボロボロの作業服が雨に濡れている。透だった。 彼は、衰弱して座り込んだ少女――ジャージ姿の『ブツ横キッズ』の一人に、優しく注射器を押し当てていたところだった。
少女の腕から、針が抜かれる。彼女は抵抗しなかった。むしろ、感謝するように透の手を握りしめ、うっとりと目を閉じている。
「ありがとう、お兄ちゃん……。あったかい……」
「うん。おやすみ。……いい夢を」
透は、慈父のような手つきで少女の頭を撫でた。 その瞬間、少女の手から力が抜け、パタリと地面に落ちた。私の左目が捉えていた彼女の魂の色が、幸福なピンク色から、透明な「無」へと変わっていく。 ろうそくの火が吹き消されるように、命が消えた。 死んだのだ。
「な、何して……」
私の喉がひきつる。 足が震えて、前に進めない。これは現実なのか?私の唯一の救いだった人が、目の前で人を殺している。
透は私に気づくと、ふわりと微笑んだ。 店で見せていたはにかんだ笑顔ではない。 使命を果たした殉教者のような、曇りのない笑顔。
「ああ、しふぁちゃん。来てくれたんだね」
彼は血の付いた注射器を持ったまま、無邪気に言った。
「見て、また一人救えたよ。この可哀想な子を、地獄から解放してあげたんだ」
「救った……? それ、殺したんでしょ!?」
私が叫ぶと、透は悲しげに眉を寄せた。まるで、聞き分けのない子供を諭すように。
「人聞きが悪いなぁ。殺したんじゃない。『箱庭』へ送ってあげたんだよ」
彼は少女の死体に、自分の着ていた薄汚れた上着を掛けてやる。その手つきは、あまりに優しかった。
「生きていても、辛いだけだろ? お腹は空くし、寒いし、悪い大人に殴られる。……でもね、僕の薬を使えば、全部解決するんだ。痛みも苦しみもない、永遠の揺り籠で眠れるんだよ」
彼の言葉には、狂気特有の熱気がない。 あまりに静かで、理路整然としている。 それが余計に恐ろしかった。 彼は狂っているのではない。彼の中の論理においては、これが正義として完結してしまっているのだ。
「透さん……あなた、騙されてるよ。それ、『箱庭の揺り籠』っていうカルト宗教の教義だよ……!」
「知ってるよ」
透はあっさりと頷いた。
「彼らは素晴らしい薬をくれた。でも、彼らの思想はどうでもいいんだ。僕はただ、僕自身が欲しかったものを、この子たちにあげているだけだから」
「欲しかったもの……?」
「死だよ」
透は雨空を見上げた。首のない仏像が、無言で私たちを見下ろしている。
「僕はね、ずっと死にたかった。……親に殴られていた時も、工場で指を潰された時も、ずっと願ってた。誰か僕を殺してくれって。優しく、痛くなく、終わらせてくれって」
彼の瞳には、底知れない絶望が沈殿していた。光の届かない深海のような孤独。 彼にとって、生は刑罰であり、死こそが唯一の恩赦なのだ。 だから彼は、なけなしの給料をすべて『青い涙』につぎ込み、自分より弱い子供たちに、無償で「死」を配給している。それは彼なりの、精一杯の施しだった。
「しふぁちゃんは優しいから、わかってくれるよね?」
透が私を見る。 私の左目が、激しく痛んだ。魔眼が捉えた彼の魂の色。
「純白」。
依然として、彼は白かった。雪原のように。水晶のように。 人を殺しているのに。何人も、何人も、未来ある子供たちの命を奪っているのに。 彼の心には、一点の曇りもない。 悪意がないのだ。 自分は正しいことをしている。彼らを救っている。その「善意」が、あまりに純粋すぎて、私の魔眼さえも欺いている。
「違う……」
私は首を振る。 涙が止まらない。右目からも、左目からも。
「こんなの、違うよ……! 生きてなきゃ、いいことなんてないよ!」
「あるの?」
透が静かに問いかける。
「明日、いいことがある保証なんて、どこにあるの? ……今日より酷い明日が来る確率の方が、ずっと高いのに?」
反論できなかった。この街では、彼の言う通りだ。ブツ横キッズたちが迎える明日は、今日より汚く、苦しい。それがこの街の物理法則だ。 私が店で売っている「魔法」も、結局は一時的な現実逃避に過ぎない。 彼のやっていることと、私のやっていること。 どちらが本当に客を救っているのか? その問いが、鋭いナイフとなって胸に突き刺さる。
「だから、終わらせるんだ。……さあ、次は誰を救おうかな」
透が、別のブツ横キッズを探そうと歩き出す。 その背中には、見えない翼が生えているように見えた。死を運ぶ、真っ白な死神の翼が。
「待って!」
私が彼を止めようとした時、頭上から銃声が轟いた。
バォン!!
透の足元のコンクリートが弾け飛ぶ。 彼が驚いて立ち止まる。
「そこまでだ、イカレ野郎」
路地の屋根の上に、黒いコートの女が立っていた。S&W M500を構えた、久遠灯。 その銃口から立ち昇る硝煙が、雨に打たれて消えていく。 隣には、冷徹な目で透をスキャンする鉄鏡花。
「包囲されている。……無駄な抵抗はやめろ」
鏡花の声と共に、路地の前後から、二つの影が現れる。 純白の衣装に身を包んだ白雪美流愛と、不機嫌そうにタピオカのカップを握りつぶす辰巳響。 リコリス・バロックのメンバーが、透を取り囲んだ。
だが、透は動じない。 彼はポケットから、最後のアンプルを取り出した。それは、これまでの希釈された薬液とは違う。 ドロリとした、高純度の原液。 ガラスの中で、青い光が生き物のように脈打っている。
「……僕は悲しいよ」
透は、包囲する私たちを見回し、嘆くように言った。 恐怖も怒りもない。ただ、深い悲しみだけがそこにあった。
「どうして誰も、本当の幸せを理解してくれないんだ。……邪魔をするなら、仕方ないね」
彼は躊躇なく、アンプルを自分の首筋に突き立てた。
「やめて!!」
私の絶叫は届かない。 ガラスが砕ける音。 薬液が注入される。 透の身体が、内側から激しく発光した。
「あぁ……力が……溢れてくる……」
彼の肉体が変貌していく。汚れた作業服が裂け、皮膚が白磁のように硬化し、輝きだす。骨格がきしむ音と共に、背中の肩甲骨が隆起し、巨大な結晶の翼が突き破って展開された。 それは、醜悪な怪物化ではなかった。
美しい。 あまりに美しく、神々しい姿。 彼の「純粋な善意」がドラッグと化学反応を起こし、彼が理想とする姿――人々を救済する「天使」へと作り変えたのだ。 頭上には、光の輪までもが浮かんでいる。
「さあ、みんなを救わなきゃ。……僕が、この街の天使になるんだ」
光り輝く異形となった透が、雨の仏横に舞い降りる。 その光は、あまりに眩しく、そして絶望的に優しかった。私はその光の中で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。これが、私の愛した「白」の成れの果てなのか。 天使の姿をした悪魔なのか、それとも悪魔の所業を行う天使なのか。 答えの出ない問いが、私の心を切り裂いていく。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




