第四話「天使の過ち、悪魔の救済」1
第一章 シロップ漬けの聖女
神宿の裏路地、傾奇町。 この街の空気は、常に腐ったシロップのような粘度を持っている。 吐瀉物と高級香水、豚骨スープと腋臭、それら全てをネオンの熱で煮詰めたような悪臭。 それを「夢の香り」と呼ぶ者もいれば、「地獄の口臭」と呼ぶ者もいる。 私――天羽祈にとっては、そのどちらでもあり、どちらでもない。 ただ、息をするだけで肺が焼けそうになる、居心地の悪い水槽だ。
雑居ビルの地下深く。 重い防音扉の向こうに、コンセプトカフェ『しゅがーぽいずん』はある。 店内は、視覚的な暴力で満たされていた。 ショッキングピンクと黒の市松模様の壁紙。天井から無数に吊り下げられた点滴パック型の照明。 BGMは、脳髄を直接掻き回すような早回しの電子音。 過剰な糖分と、安っぽいアルコール、そして行き場のない承認欲求が入り混じり、甘ったるく、胸焼けするような空気が澱んでいる。
「ご主人様ぁ~! 今日も会いに来てくれて、しふぁ、うれしぃ~!」
私は、鏡の前で百回練習した完璧な角度で首を傾げ、作り笑いを浮かべる。 私の源氏名は「しふぁ」。設定は、地上に堕ちてきたドジっ子堕天使。 フリルのついた黒いエプロン、背中には安っぽいプラスチックの翼、そして右目には星型の眼帯。この眼帯の下にあるのが、私が人間ではないことの証左――青い瞳だ。そして、今開いている左目は、血のように赤い。 天使と悪魔の混血。 相反する二つの血をその身に宿し、どちらの世界にも居場所を持たない忌み子。 それが私だ。
「美味しくなぁれ、萌え萌えキュン♡」
私は客のオムライスに、ケチャップで歪なハートマークを描く。 客――中年太りのサラリーマンは、にへらと頬を緩ませ、私に千円札をねじ込む。 その瞬間、私の左目が捉える世界が明滅した。
客の背後から立ち昇る、オーラのような靄。 どす黒い、ヘドロのような茶色。 色欲。搾取。そして、家庭でのストレスを弱い立場の少女にぶつけようとする、卑屈な加虐心。 それが、私の網膜に色として焼き付く。
「……ありがとうございますぅ! ご主人様、大好きっ!」
私は笑顔を崩さずに、心の中で毒づく。 (うわ、臭っ。魂の色、生ゴミみたいになってるよ。奥さんに相手にされないからって、こっちに来ないでよ)
私の魔眼は、人の魂の色を視てしまう。 金欲の黄色、暴力の赤黒さ、嘘の灰色。 傾奇町は、あまりに鮮やかすぎる。誰も彼もが、欲望という極彩色を撒き散らしながら歩いている。 その色の洪水に溺れそうになるたび、私はバックヤードに駆け込み、冷蔵庫から缶チューハイを取り出す。 ストロングゼロ、ロング缶。アルコール度数9パーセント。プシュッ、という炭酸の抜ける音だけが、この世界で唯一の清涼な音楽だ。
「……ふぅ」
一気に流し込む。 喉を焼く刺激と、脳を麻痺させる酔いが、視界の彩度を下げてくれる。左手首に巻いたリストバンドの下、無数の自傷痕が疼くのを、アルコールで強引に抑え込む。私は人間だ。 ただの、メンヘラ気味のコンカフェ嬢だ。 そう自分に言い聞かせないと、天使の血が「救いたい」と叫び、悪魔の血が「滅ぼせ」と囁く声に、頭がおかしくなりそうになるから。
「しふぁちゃーん、お客様がきたよー!」
店長の声。 私は空き缶をゴミ箱に投げ捨て、深呼吸をして、再び「しふぁ」の仮面を被る。 重い扉を開けて、極彩色の地獄へと戻る。
だが、そんな地獄にも、たった一つだけ、清らかな泉があった。
「……いらっしゃいませ、透さん」
店の隅、一番安い席に座っている青年。透。 彼は、この店に似つかわしくないほど、質素で、そして静かな客だった。 油汚れの染み付いた作業服。伸び放題の黒髪。爪の間には機械油が黒く残っている。貧しい工員だろう。 彼は、他の客のように私に高価なシャンパンを入れることもなければ、卑猥な言葉を投げかけることもない。 ただ、一番安いソフトドリンクを頼み、私がテーブルに来るのを静かに待っている。
「こんばんは、しふぁちゃん。……今日も可愛いね」
透が顔を上げ、はにかむように微笑む。 その瞬間、私の視界が浄化される。
彼の背後から立ち昇るオーラ。 それは、雪原のように、あるいは磨き抜かれた水晶のように、透き通った「純白」だった。 混じりけがない。 下心も、悪意も、打算もない。 ただ純粋に、私という存在を肯定し、慈しむ色。 東帝都という巨大な汚泥の中で、彼だけが奇跡のように汚れていなかった。
「お仕事、お疲れ様です。……透さん、今日は顔色が悪いですね。ちゃんとご飯食べてますか?」
「うん、大丈夫だよ。……しふぁちゃんの顔を見たら、元気が出たから」
彼は嘘をついている。 身体からは疲労の色(灰色)が滲み出ているし、胃袋が空っぽなのが透視できるほど痩せている。 でも、その嘘すらも、私に心配をかけまいとする優しさから出たものだ。だから、彼の魂の色は濁らない。
「しふぁちゃんは優しいね。……君みたいな子が、この街にいてくれるだけで、僕は救われるよ」
「えへへ、そんなことないですよぉ。私はただのドジっ子天使ですからぁ」
営業用のトーンで返しながら、私の胸の奥がチクリと痛む。 私は優しくなんかない。ただ、あなたの「白さ」を見て、自分が汚れていないと錯覚したいだけ。 あなたを精神安定剤代わりに使っているだけの、卑しい女だ。
「君が幸せなら、僕は嬉しいよ」
透は、なけなしの小銭をテーブルに置いた。 それが彼の全財産に近いことを、私は知っている。 それでも彼は、私に会うためにここに来る。 見返りを求めない愛。 そんなものが、この腐った世界に実在するなんて。 彼の白さは、私にとっての唯一の希望であり、同時に、直視できないほど眩しい光だった。
ある夜。 透が店に来なかった。 彼は皆勤賞だった。どんなに雨が降ろうと、残業で遅くなろうと、必ず閉店間際には顔を出していたのに。胸騒ぎがした。 嫌な予感が、冷たい蛇のように背筋を這い上がる。 この街で「突然来なくなる」ことの意味は、大抵ろくなものではない。蒸発。逮捕。あるいは、死。
「……店長、私、ちょっと早退します!」
「えっ? まだお客さん残ってるよ!」
「うるさい! 給料から引いといて!」
私はエプロンを脱ぎ捨て、裏口から飛び出した。傾奇町の路地裏は、深夜2時を回っても眠らない。 泥酔者、客引き、ネズミ、そして人間に化けた下級妖怪たちが跋扈する迷宮。 雨が降っていた。 冷たい酸性雨が、私の眼帯を濡らす。
「透さん……」
私はあてもなく走った。 彼の匂いも、居場所も知らない。頼りになるのは、あの「純白」の輝きだけ。 私の魔眼は、壁を透かして魂の色を視ることができる。 このドブのような街で、あんなに綺麗な色は目立つはずだ。
だが、見つからない。視界に入ってくるのは、ドブ色、赤黒色、濁った黄色ばかり。焦りが募る。 その時、路地裏の奥、ゴミ捨て場の影から、微かな気配を感じた。 色ではない。 「無」の気配。
私は足を止め、慎重に近づいた。積み上げられたポリバケツと、破れたゴミ袋の山。 その隙間に、誰かがうずくまっていた。
「……う、うぅ……」
少女だった。「ブツ横キッズ」と呼ばれる、家出少女の一人だろう。 ジャージ姿で、片足は裸足だ。彼女は泥水に浸かりながら、ガタガタと震えている。だが、様子がおかしい。寒さで震えているのではない。 彼女の表情は、この世の終わりのように絶望しているのではなく、まるで母親の胎内にいる胎児のように、安らかに緩んでいた。
「ねえ、大丈夫!?」
私が肩を掴むと、少女はコロンと横倒しになった。焦点の合わない瞳が、虚空を見つめている。口元には、白い泡と、幸せそうな微笑み。
「……ママ……あったかい……」
譫言のように呟き、彼女は目を閉じた。 心臓の音が、弱々しく遠ざかっていく。死にかけている。 なのに、彼女の魂の色は、恐怖の青色でも、苦痛の赤色でもなかった。薄ぼんやりとした、幸福なピンク色。 それが急速に色褪せ、透明になっていく。
「嘘……なんで……」
私は呆然とする。 外傷はない。争った形跡もない。ただ、静かに、幸せそうに、命の灯火が消えようとしている。 これは殺人だ。 でも、殺意がない。被害者を苦しめようという悪意が、微塵も感じられない。
「……妙だな」
頭上から声がした。 見上げると、非常階段の上に、二つの人影があった。黒いコートを着た女と、白衣を着た女。久遠灯と、鉄鏡花。私の「同業者」たちだ。
「灯さん、鏡花さん……」
「偶然だね、祈。私たちも今、似たような『仏様』を調べていたところだ」
灯が階段を飛び降り、音もなく着地する。 彼女は少女の首筋に指を当て、脈を確認すると、静かに首を横に振った。
「手遅れだ。……心停止まであと数秒」
「そんな……助けてよ、鏡花さん! 医者でしょ!?」
私は鏡花に縋り付く。 だが、冷徹なサイボーグの医者は、携帯端末で少女の瞳孔をスキャンしながら、淡々と事実を告げた。
「無理だ。脳幹が麻痺している。……死因は、複合薬物中毒」
鏡花が、少女の腕に残る注射痕を指差す。
「高濃度の鎮静剤と、筋弛緩剤。そして……『青い涙』だ」
青い涙。 あの悪夢のようなドラッグ。 服用者に偽りの幸福を与え、精神を破壊する毒薬。
「この調合バランスは異常だ。致死量を遥かに超えているが、苦痛を感じさせる成分が一切入っていない。むしろ、脳内麻薬を過剰分泌させ、至福の中で呼吸中枢を停止させるように計算されている」
鏡花は端末を閉じ、冷ややかに断定した。
「これは殺人ではない。『安楽死』だ。……犯人は、被害者を殺したいわけではない。苦しみから解放してやろうという、慈悲のつもりでやっている」
慈悲。 その言葉が、私の胸に重くのしかかる。 この少女は、親に捨てられ、男に利用され、この街の底で凍えていたはずだ。 そんな彼女にとって、温かくて、苦しくない死は、確かに救いなのかもしれない。 でも。
「……違う」
私は少女の死に顔を見つめる。幸せそうな笑顔。でも、それは作り物だ。生きることを諦めさせられ、強制的に幕を下ろされた、偽りのハッピーエンド。
「こんなの、救いじゃないよ……! ただの、エゴだよ……!」
私の目から、涙がこぼれ落ちた。 右目からは透明な涙が。左目からは赤い血の涙が。
「犯人は近くにいるかもしれない。……祈、何か視えたか?」
灯に問われ、私は顔を上げる。魔眼を開き、路地裏の残留思念(痕跡)を探る。少女が意識を失う直前、最後に見た光景。
視界が歪む。 雨の音。ゴミの臭い。そして、目の前に立つ、一人の人物の影。 逆光で顔は見えない。 だが、その人物から立ち昇るオーラの色だけは、はっきりと見えた。
「……あ」
息が止まる。嘘だ。そんなはずがない。だって、その色は。
「……純白」
雪原のような、水晶のような、混じりけのない白。 この街でたった一人、私が知っている「善意」の色。
透さん。
「……まさか」
私はよろめきながら後退った。脳裏に、彼の優しい笑顔が浮かぶ。 『君が幸せなら、僕は嬉しいよ』 あの言葉は嘘じゃなかった。彼は本気だったのだ。 誰かが幸せになるためなら、法も、倫理も、命さえも踏みにじれるほど、純粋に。
「祈? どうした」
「……ううん、なんでもない」
私は灯たちの視線を避けるように背を向けた。 言えない。犯人が、私の唯一の救いだった人だなんて。 彼が、善意で人を殺しているなんて。
「私……探してくる。犯人を」
私は走り出した。 灯たちの制止も聞かずに、雨の中へ。確認しなきゃいけない。 もし本当に彼なら。 私の「白」が、血で汚れてしまっているなら。それを止めるのは、私しかいない。
傾奇町のネオンが、雨に滲んで歪んで見える。 極彩色の悪意の中で、私は必死に「白」を探した。 それが、最も残酷な色だと知りながら。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




