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リコリス・ミッドナイト・ヘブン  作者: ネオもろこし
箱庭の揺り籠(ガーデン・オブ・クレイドル)編

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第一話「硝子の街の調律師」1

第一章 雨と鉄錆の聖域


 東帝都(トウテイト)の空は、いつだって死人の皮膚のような色をしている。


 そこに垂れ込める雲は、水蒸気の塊などではない。都市の排熱、工場群が吐き出す亜硫酸ガス、そして三千万人の人間が撒き散らす欲望の吐息が凝固し、天井となってこの街を塞いでいるのだ。そこから滴り落ちる液体は、雨と呼ぶにはあまりに粘着質だった。


 神宿(シンジュク)の路地裏。雑居ビルの屋上にある違法建築のプレハブ小屋、それが私の城だ。 軒先から手を伸ばせば届きそうな位置に、錆びついた手すりがある。私はそこに身体を預け、湿気った「わかば」を唇に銜えた。百円ライターの火花が散り、一度目は着火に失敗する。二度目、頼りないオレンジ色の炎が、紙巻き煙草の先端を焦がした。


 紫煙を深く吸い込む。 肺胞の一つひとつが焼け付くような、粗雑で暴力的な刺激。 それが脳髄を駆け巡り、千年の時を生きてきた私の、磨耗しきった神経を僅かに苛む。 痛み。そうだ、この痛みだけが、私がまだ化石ではなく、生きた肉体を持っているという証左だった。


「……不味い」


 吐き出した煙は、重たい大気に押され、上昇することなく足元へと沈んでいく。 眼下に広がる神宿の街は、巨大な内臓のように脈打っていた。 極彩色のネオンサイン、ホログラムの広告塔、行き交う車両のテールランプ。それら全ての光が、濡れたアスファルトという黒い鏡に乱反射し、視界を毒々しいマーブル模様に染め上げている。


 視線を正面に向ける。 そこには、この街の象徴とも言えるランドマークが鎮座していた。ビルの谷間に埋もれるようにして座す、巨大な仏像。かつては平和への祈りを込めて建立されたというその巨像は、今や首から上が欠損し、錆びた鉄骨の断面を無様に晒している。 誰かが修復しようとした形跡はない。あるいは、この街の住人たちは本能的に悟っているのかもしれない。神宿という魔窟に、慈悲深い仏の顔など似つかわしくないということを。 雨が、仏の首の断面を打ち続けている。それはまるで、救いのない世界に対する天からの唾棄のようだった。


 背後で、気密性の高いドアが開く音がした。流れ出してきたのは、空調で管理された無機質な冷気と、ツンと鼻をつく消毒用エタノールの匂い。


「……(あかり)。警告したはずだ。その有害物質(スモーク)を私の聖域に入れるなと」


 振り返らずとも分かる。鉄 鏡花(くろがね きょうか)だ。 その声には、人間らしい抑揚がありながら、どこか氷のような冷徹さが混じっている。 私は短くなった吸い殻を、雨水で溢れた空き缶の中へと弾き飛ばした。ジュッ、という断末魔と共に、小さな火種が黒い水底へと沈む。


「聖域とは大きく出たな、ヤブ医者。ここはただのボロ屋だ。それに、換気扇の下よりここの方が空気が美味い」


「貴様の味覚センサーは千年前から故障したままか? 外の大気汚染レベルは危険域だ。有機生命体ならば、呼吸するだけで寿命を縮める」


「あいにくと、寿命なんてものは平安の昔に売り払っちまったよ」


 振り返ると、鏡花はパイプ椅子に座り、自身の右腕を解体している最中だった。 肘から先が取り外され、複雑怪奇な配線とサーボモーターが露わになっている。彼女はピンセットを器用に操り、神経接続コネクタの煤を除去していた。白衣の裾から覗く脚線美は彫刻のように美しいが、その内側には血肉ではなく、冷たい鋼鉄と電子回路が詰まっている。

 かつて天才外科医と呼ばれた女。自らの肉体を捨て去り、脳髄だけをケースに収めて生きるサイボーグ。彼女もまた、私と同じ「欠落」を抱えたバロック(歪んだ真珠)の一つだ。生物としての温もりを捨て去った彼女と、死ぬことのできない呪いを背負った私。二人の間に流れる空気は乾燥しているようでいて、傷口を舐め合うような奇妙な湿度が漂っていた。


「……また、その指を弄っているのか」


「チューニングだ。今夜は湿気が多い。伝達系にラグが生じる可能性がある」


 鏡花はカチリと小気味良い音を立てて前腕部を再接続し、五本の指をピアノを弾くように動かした。指先が微細な駆動音を立て、ありえない角度へと変形し、また元の美しい指へと戻る。


「それに、客だ。……足音が乱れている。心拍数も上昇中。まともな案件ではない」


 彼女の聴覚センサーが捉えた情報は、数秒遅れて私の耳にも届いた。カン、カン、という鉄靴の音ではない。もっと重く、引きずるような革靴の音。 錆びついた非常階段を一段ずつ踏みしめるたびに、ため息のような軋みが鉄骨を伝って響いてくる。


 私はカウンターの内側へと回り込み、冷蔵庫からトマトジュースのボトルを取り出した。グラスに注がれる真紅の液体は、私がかつて啜っていた生き血の色に似ているが、鉄錆の味はしない。ドアノブが回される。 ノックはなかった。


「……ここが、『Akari Detective Studio』か」


 現れたのは、初老の男だった。仕立ての良いイタリア製のスーツは雨に濡れ、肩の部分が黒く変色している。白髪交じりの髪は整えられているが、額には脂汗が滲み、眼光には疲労と焦燥が色濃く焼き付いていた。左手の薬指には、不釣り合いなほど巨大な金剛石(ダイヤモンド)の指輪。だが、その輝きは泥と、拭いきれなかった古い血痕で曇っている。

 松金(まつがね)。東帝都の裏社会、その半分を牛耳ると言われる広域指定暴力団「松金組」の組長だ。普段ならば、数多の構成員を引き連れて肩で風を切って歩くような男が、今はたった一人。傘すら持たずに、濡れ鼠のような姿でここに立っている。 その姿は、帝都の顔役ではなく、ただの一人の老いた父親に見えた。


「いかにも。私が所長の久遠 灯(くおん あかり)だ。……名刺は切らしているんでね。座りな」


 顎でソファをしゃくると、松金は崩れ落ちるようにその安っぽい合皮の上に身を沈めた。鏡花は興味なさげに視線を逸らし、再び手元の端末へと没頭するふりをする。だが、そのセンサーが松金のバイタルサインを詳細にスキャンしていることを私は知っていた。


「……単刀直入に言おう。娘を探して欲しい」


 松金は震える手で懐を探り、一枚の写真を取り出してローテーブルの上に叩きつけた。その動作には、祈りにも似た切迫感が籠もっていた。 スナップ写真だ。写っているのは、黒髪の美しい少女。制服を着て、屈託のない笑顔をカメラに向けている。背景はどこかの公園だろうか。この街には珍しい、緑の木々が映り込んでいる。


優奈(ゆうな)だ。……私の一人娘だ」


「家出か? それとも、敵対組織の誘拐か?」


「分からん。……三日前から連絡が取れん。GPSも切れている。警察にも掛け合った。だが、奴らは『年頃の娘の家出だろう』と鼻で笑いおった! 誘拐の線も洗ったが、どこの組も身代金を要求してこん……!」


 松金が声を荒らげる。その怒号は、しかし空回りして虚しく響いた。 彼はグラスのトマトジュースには手を付けず、両手で顔を覆った。


「あの子は……優奈は、この汚泥のような街には似合わない、真っ白な子だったんだ。私の仕事のことなど何も知らん。ただ花が好きで、ピアノが好きで……」


 真っ白。 その言葉に、私は微かな冷笑を禁じ得なかった。 この東帝都に、「真っ白」なものなど存在しない。空から降る雨も、人が吸う空気も、流れる金も、全てが等しく汚れている。もし白に見えるものがあるのなら、それは何色にも染まることさえ拒絶された、虚無としての白だけだ。 極道として手を血に染めてきたこの男が、自分の娘だけは聖域に住んでいると信じていたのだとしたら、それはあまりに滑稽で、哀れな妄想に過ぎない。


「……鏡花。(いのり)を呼べ」


「了解」


 鏡花が指先を弾くと、事務所の奥、ベルベットのカーテンで仕切られた一角から、不満げな声が上がった。


「え~! なんですか? 今、推しの配信がいいとこだったのに……!」


 カーテンを乱暴に開けて現れたのは、フリルとリボンで過剰に装飾された衣装を纏う少女――天羽 祈(あもう いのり)だ。所謂「地雷系」と呼ばれるメイク。目の周りを赤く縁取り、病的な白さを演出した肌。 だが、彼女の異様さはそのファッションにあるのではない。右目は澄み渡るような青。左目は血のようにどす黒い赤。 天使と悪魔の混血(ハーフ)。相反する二つの血をその身に宿した彼女の両目は、物理的な光景ではなく、その場に漂う霊的な情報を視る「魔眼」だ。


「……うわ、なにこのおじさん。魂の色、ドブ川の底みたいにヘドロまみれですよ。最近、結構な数の人間を不幸にしたでしょ?」


 祈は松金を見るなり、顔をしかめて鼻をつまんだ。松金が色めき立つ。


「貴様、誰に向かって……!」


「いいから、祈。この写真だ。……何か視えるか?」


 私がテーブルの写真を指し示すと、祈はおずおずと近づき、そのオッドアイを写真の表面へと走らせた。瞬間、彼女の表情からだらしない色が消え去る。青と赤の瞳孔が収縮し、呼吸が浅くなる。


「……うっ」


 祈が口元を押さえ、たたらを踏んで後退った。


「おい、どうした」


「……臭い。すごい臭い」


「死臭か?」


「ううん、違う……もっと甘ったるくて、ねっとりしてて……脳みそが溶けちゃうくらい、幸せな匂い」


 幸せな匂い。 その単語が出た瞬間、私と鏡花は視線を交わした。この街において、「幸せ」という言葉がポジティブな意味で使われることは皆無だ。それは破滅への誘い文句であり、現実からの逃避を示す隠語(スラング)である。


「写真の女の子……優奈ちゃん、だっけ。彼女の背中……見て」


 祈が震える指先で、写真の背景、木々の暗がりを指し示した。私は目を凝らす。 そこには、ただの影ではない、ぼんやりと青白く発光する歪な輪郭が写り込んでいた。心霊写真の類ではない。もっと実体的で、それでいてこの世の物理法則から外れた何かの痕跡。人ならざるもの。人外の残滓。


「……『青い涙(ブル・ティアーズ)』か」


 私が呟くと、鏡花が頷いた。ここ数ヶ月、帝都の裏路地で急速に蔓延している新型のドラッグ。 摂取した者は、あらゆる苦痛から解放され、至高の多幸感に包まれたまま廃人となる。その副作用として、使用者の体液が青く変色し、最終的には肉体が結晶化するという噂があった。 甘い匂い。現実逃避。そして青い発光現象。 全ての符号が一致している。


「おい、どういうことだ! 優奈が薬をやっていたというのか!?」


 松金がテーブルに身を乗り出す。


「あんたの『真っ白』な娘さんがどうだったかは知らん。だが、少なくとも彼女は今、この街で一番ドス黒い場所に足を突っ込んでいるということだ」


 私はM500リボルバーをデスクから取り出し、シリンダーを開放した。ジャラッ、という金属音が室内に響く。 装填するのは、対人外用の特注弾頭。水銀と聖銀を封入した、吸血鬼(わたし)ですら嫌悪感を覚える代物だ。


「依頼は引き受ける。ただし、報酬は高いぞ」


「いくらだ……金ならある。組の金庫を開けてもいい」


「あんたの全財産の半分だ」


 松金が息を呑む。 法外どころの話ではない。組の存続すら危うくなる要求だ。 だが、私は譲らない。金に執着があるわけではない。ただ、命のやり取りに際して、相手にもそれ相応の「肉」を切らせなければ、天秤が釣り合わないというだけの話だ。それが私の、そして『調律師(チューナー)』としての儀式なのだ。


「……いいだろう。娘が生きて戻るなら、安いものだ」


「言っておくが、死体で戻ってくる可能性の方が高い。それでも文句は言うなよ」


「……構わん。骨の一片でもいい。……優奈を、家に帰してやってくれ」


 老いた極道の目から、一滴の雫がこぼれ落ちた。それは、空から降る汚れた酸性雨とは違う、人間の体内から絞り出された本物の液体だった。 私は何も言わず、ただ頷いた。


 松金がふらつく足取りで事務所を出て行く。鉄扉が閉まり、再び雨音が遠ざかると、私は弾丸をシリンダーに滑り込ませた。一発、二発、三発。 その重みは、これから奪うかもしれない命の重みだ。シリンダーを戻し、手首のスナップで回転させる。チャキッ、と硬質な音が、開戦の合図のように鳴り響いた。


「鏡花。美流愛(みるあ)(ひびき)を呼べ」


 私はコートを羽織り、窓の外を見やった。雨脚はさらに強まり、叩きつけるような豪雨が神宿の街を洗い流そうとしている。 だが、どれだけ雨が降ろうと、この街に染み付いた罪と血の臭いは消えやしない。 ネオンサインが、まるで過負荷のかかった心臓のように激しく明滅している。


「今夜は少し、音がズレすぎている」


 調律の時間だ。 私は吸いかけの「わかば」を灰皿に押し付け、闇に沈む硝子の街へと足を踏み出した。

自分が読みたい物語を書いています。

可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。

(制作に関してAIを利用しています)

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