魚
「ちょっと相談があるから、明日付き合ってくれない? お昼ごはん奢るからさ」
それは、金曜日の午後のことだった。
クラスは同じだけど、江里さんとは特別親しいわけでもない。
だから、その申し出は意外だった。
「別に構わないけれど……どんな相談?」
「うーん、人前では話しにくいことなんだよね――ってわけで、明日よろしく!」
彼女はそれだけ言うと、待ち合わせの時間と場所を指定して、さっさと行ってしまった。
わたくしこと宇佐賀 直、自慢じゃないが女子にモテたことなど一度もない。
だからこのお誘いも、キャッチか宗教の勧誘か……。
それでも、女の子に声をかけられて嬉しくないわけがなかった。
§ § §
江里さんが待ち合わせに指定したのは、大学の最寄り駅から電車一本で行ける場所だった。
現れた彼女は普段通りの格好。やはりデートの誘いではなかったらしい。
ホッとしたような、少し残念なような――
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、江里さんが言った。
「あ、ごめんなさい。待たせちゃった?」
「いや……まだ待ち合わせ時間前だから、気にしないで」
すると彼女は、頭をぺこりと一つ下げて「休みの日にわざわざありがとう」と礼を告げた。そして――
「見てもらいたいものがあるから、ついて来て。詳しい話はそれから」
そう言って、一人すたすたと歩き出す。
わけもわからず後を追いながら、僕はなんとか話のヒントを引き出そうとした。
けれど彼女は「見ればわかる」の一点張り。
§ § §
10分ほど歩いただろうか。
足が止まったのは、多摩川にかかる橋のど真ん中であった。
「ちょっと待ってて、すぐ来ると思うから」
江里さんは欄干に手をかけて川面を覗き込む。
そして間もなく――「ほら、見て」と川の中ほどを指さした。
水面に、いつのまにか巨大な魚影が映っている。
それは、人間よりはるかに大きかった。
僕らがいる位置を中心として、円を描くようにゆっくりと泳いでいる。
「なんだ、あれ……? 鮫? 鯨? ここ、多摩川だよ!?」
「……オオイヲ様」
江里さんは、その影を目で追いながら小さな声で言った。
「私ね、生まれたときからずっとつきまとわれているんだ。アイツに」
§ § §
近くのファミレスに入り、一息ついたところで、江里さんが口を開いた。
「最初は、守られているんだと思ってた。子供のとき、海で溺れたことがあったんだけど、アイツが現れて岸まで届けてくれたし……それに……」
彼女は少し言葉を濁してから、
「私をいじめていた子が、水を張っていない田んぼで溺死したこともあった」
僕は、何も言わずに頷いた。
彼女が返答を求めていないのは明らかだったから。
「でもね、高校のとき、父さんが病気で亡くなったんだけど、今わの際に泣きながら謝られた。あの魚は、そんな良いものじゃないって――」
§ § §
私が生まれる前、兄さんが重たい病気にかかったことがあったんだって。
父さんは藁にもすがる思いで、地元で信仰されている神様に祈った。
するとその夜、夢に巨大な魚が現れ、こう言った。
「汝には必ず娘ができる。其が二十歳を迎えたら我に捧げると誓え。さすれば、オオイヲの名に懸けて息子を助けてやろう」
夢の中で、父さんはその申し出を受け入れた。
その時は「これ以上子供を作らなければいいだけ」と思ったんだってさ。
翌朝、兄さんの病気は嘘のように治っていた。
もちろん、話はこれで終わらないんだけどね。
父さんはその夢の内容を、私が生まれるまで、なぜかすっかり忘れていた――
§ § §
「結局、あの魚にとって私はエサだったってわけ。大きくなるまで囲っておいて、
パクリ、ってね」
江里さんはそう言うと、皿に残った最後のポテトフライを口に放り込んだ。
「東京に出れば縁が切れるかと思って、この大学を選んだんだけど、ダメだった。で、私、来週二十歳になるの。どうしたらいいと思う?」
もし、こんな話を突然聞かされていたなら、彼女の正気を疑っただろう。
けれど、あんなものを見てしまった以上、信じないわけにはいかなかった。
「うーん……すぐには答えが出せないけど……」
ここで、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「どうして僕に相談したの?」
「宇佐賀君、オカルト研究会じゃん。それに、友達少なそうだから、この話をむやみに広めたりしなさそうだし!」
「あ……、ああ……、なるほどね!」
僕は、一番値の張るメニューを容赦なく追加注文してやった。
§ § §
オオイヲ様について調べてみると、いくつかの伝承が見つかった。
この神性は、豊漁や多産をもたらす福神である一方、生贄を求める荒神としての側面も持っていた。
――そして、何より執念深い。
かつて、生贄を差し出すことを拒んだ親が娘を隠した際には、大嵐を起こし、娘の隠れ家ごと海に引きずり込んだと伝えられる。
また、山奥に逃げ隠れた別の娘は、水汲みに出た小さな沢で溺れ死んだと言う。
§ § §
「それで結局、どうしたらいいんだっけ」と江里さん。
明日は彼女の誕生日。これからのやり取りは、最終確認のようなものだった。
「とりあえず、誕生日が来たらしばらく家から出ない方がいい。家の中でも水回りには極力近づかないで。お風呂はもちろんダメ。トイレだけはどうしようもないけど、できるだけ気をつけること」
「……うん、わかった」
「あと、オオイヲ様は【魚】という概念を神格化した存在だから、とにかく魚に関わるものは遠ざけたほうがいいよ」
「どういうこと?」
「例えば、すべって転んで木魚に頭を打ちつけて死亡とか――」
「ないよ! 一人暮らしのアパートにそんなの置いてないから! あはは!」
江里さんが笑い転げる。
ふと、この笑顔を守りたいと思った。
彼女の本質は、こんなにも朗らかなのだから。
「たとえ話だってば……。でも、そういう奇妙なオチで命を落とす伝説は山ほどあるんだよ。魚の形をした鍋敷きとか、魚柄のプリントが入った服とか、何が引き金になるかわからないから」
「了解、了解、ふふふ……」
「それと、誕生日以降はできるだけ一人きりにならない方がいいと思うんだけど、
家族をこっちに呼ぶことはできない?」
笑顔だった彼女が、さっと表情を引き締めた。
「みんな……特に兄さんを、この話に巻き込みたくないんだ。それに、誕生日は烈ちゃんと一緒だから大丈夫」
いま名前が出たのは、江里さんの一つ年下の彼氏だ。
家が隣同志の幼なじみで、幼いころから彼女にべったりだったという。
そして、彼女が東京の大学に進学すると、それを追いかけて同じ大学を受験、この春に無事合格したというわけだ。
つまり、僕にとっても後輩に当たる。
「彼には、この話してないの?」
「うん。烈ちゃん、私のことになると視界が極端に狭くなるんだよね。この話をしたら、オオイヲ様に特攻しかねない。捕鯨用の銛でも抱えてさ」
「なるほど、それはマズい……」
「まぁ、そんな犬みたいなところが魅力でもある」
「はいはい、ごちそうさまでした――とにかく、十分に気をつけて。何かあったら、深夜でも構わないから電話して。僕は引き続き情報を集めてみるから、気をしっかり持ってね」
「……うん、本当にありがとう。感謝してる」
§ § §
夜半過ぎに降り始めた雨は、朝になっても止まなかった。
一睡もできずにいた僕は、なんだか嫌な予感がして、江里さんに電話をかけた。
つながらない。
クラスメートたちにも確認してみたが、やはり連絡が取れないと言う。
右往左往しているうちに、今度は電話がかかってきた。
警察署からの電話。
――そこで僕は、江里さんが亡くなったことを知った。
§ § §
事情聴取担当の警察官に、知っていることを全部に話した。
突拍子もない話だったはずだが、警察官の態度は一貫して平静だった。
今になって思えば、すでに裏が取れていたのだろう。
最後に僕は、「江里さんは昨晩、恋人と一緒にいたはずだ」と伝えた。
すると、警察官の表情が一瞬だけ曇った。
「その彼――刀田烈さんがですね、あなたと江里さんの関係を疑っていたようなのですが、それは事実ですか?」
「は? 違います! どうして僕が!?」
「彼はこう言っていました『最近いつも不機嫌そうだった彼女が、あなたと話している時だけ笑顔を見せていた』と――」
それが原因で口論になり、激高して彼女の首を絞めてしまったのだという。
どういうことだ?
僕は、「烈ちゃん」に会ったこともないし、顔すら知らない。
そのことを警察官に伝えると、彼はため息まじりに言った。
「彼は四六時中、江里さんのことを監視していたそうです。江里さんは、気がついていなかったようですが……お伺いしたいことは以上です。ありがとうございました」
§ § §
それから数日後、僕は、山音さんにファミレスへと呼びだされた。
彼女はオカルト研究会の先輩で、あの事件から大学を休みがちになった僕を心配してくれたらしい。
「大変だったねえ。警察の事情聴取を受けたんだって?」と先輩は言った。
「もう、何がなんだかわかりませんよ」と僕。
「それにしても、間男を疑われたとは、君も隅におけないじゃないか」
先輩はどこか楽しそうな様子で言う。
僕は、「いやいやいや」と首を振って、
「正直、そんな気は全然なかったし……それに、自分のせいで江里さんが亡くなったかと思うと――」
「違うよ」
山音先輩が、僕の目をまっすぐ見て言った。
「その考えは明確に、完全に、決定的に間違っている」
珍しく真面目な表情だったので、どぎまぎしてしまった。
「いいかい、君。この場合、絶対的に悪いのは殺人という行為だ。仮に江里さんが彼氏のある身でありながら君に好意を抱いたとしても、君が彼女のそういった態度に対して優柔不断に振舞ったとしても、殺しちゃいけない。当たり前のことだよ」
「……どうしてそんなに人間関係を泥沼にしたがるんですか!」
思わずツッコんでしまったが、山音先輩に事件の詳細を話すことにした。
一人で抱えるには、あまりにも重すぎる話だったから。
§ § §
「ところで、その江里さんの彼氏の苗字、まさか『久田』だったりする?」
話を聞き終わった山音先輩が、突然そんなことを尋ねた。
「惜しい、【田】は合っています。『刀田』ですよ」
「……なあんだ、ド直球じゃないか」
先輩は、胸ポケットからボールペンを取り出すと、ペーパータオルに「刀」「田」「灬」と書き込む。
「これで【魚】の完成だ。【魚】の頭の部分は、古い字体だと【刀】に通じる。
それに【烈】は烈火の烈、つまりは部首の【灬】そのものだね」
先輩はやれやれと首を振ると、言った。
「――オオイヲ様とやらの取り立てはきちんと遂行されていたんだ。
君だって利用されたに過ぎない。神様相手じゃ、どうしようもなかったんだよ」