KH2を待てずに(好事百景【川淵】出張版 第三i景【虫のいない冬】)
※ 虫が苦手なかたは、ご注意ください。
クラスメイトがひとり。
秋すぎから、ひきこもってしまって高校に登校して来ない。
ある日、突然、欠席して。スマホへの連絡も返事がなくなった。自宅を訪ねていくほどには、親しいともだちもいなかったのか。表向きは、長期の体調不良となっていたんだけれど。
とはいえ、いつまでもその事実は隠せるものではなくて。
クリスマスを待たずして、噂話からあたしたちの知るところとなった真相。二学期さいごのホームルームで、その情報は公式なものとなる。
お正月が明けて三学期になったら、しれっとやって来るのではないかと。担任の織田先生は、たかをくくっていたようだったが。
窓際の、前から三番目は空席のまま、新学期の席替えをむかえてしまった。
始業式の日は、先生にもまだ。暖かくなったら、なんてのんびりしたことを言う余裕があったのだが。
進級に必要な出席日数が、そろそろやばいのだろう。
家庭訪問の予定を電話で立てているのを、職員室で目にした生徒がいるとか、いないとか。
そして、きょうの昼放課のことだ。
「ちょっと、沢口さん?
きょうの帰りって、お時間あるかしら?」
織田先生が、あたしに声をかけてきた。
「ずっと、出席してない黒渦さんのこと、なんだけど……」
不登校、ということばを使わないあたり、先生の苦悩がみえて、なんだか痛々しい。
「私が家庭訪問に行くまえに、いちどクラスメイトが声をかけてみてくれないかって、ご両親からご提案があったの。
そしたら、森さんが名乗りをあげてくれたのはありがたいんだけど……ほら、森さんって……森さんでしょ?」
なんとも、微妙な言いまわし。
でも、たしかにそう。
森さん——森 夢亜は、けっして悪いコではないのだが、かたちどおりのいいコではありえない。
そして、夢亜はあたしの親友——と、まわりからはおもわれているようだ。ありがたくも、迷惑なはなしだ。
「だから、沢口さんもいっしょにお願いしていいかしら?」
担当教科の古文にくわえ、サッカー部の顧問もしていて。その大会も近いため、準備に追われているのだろう。
困り顔の先生に根負けして、あたしは快諾とはいえないものの、色よい返事をかえすと。巻きこんだその張本人、夢亜のところへとむかった。
「なんかぁ、授業で織田セン、KH2とか、言ってたじゃんかぁ」
正しくは「啓蟄」だ。
春になって。地面の穴から、虫が這い出してくる時期のことらしい。
虫なんて、好きじゃない。年じゅう、地面の穴にでも、ひきこもっていてほしい。
てゆうか、虫にもいろいろあるし。飛ぶやつとかは、冬のあいだ、どこに行ってしまったのだろう?まさか、あいつらまで、地面の穴の中なんてことはないでしょうに。
「そんときさぁ、織田セン。
増芽ちゃんの机、見てた気がすんだよぉね。
春まで待ってれば、虫といっしょに出てくるかなとか、思ってたんかなぁ?」
黒渦 増芽。
ひきこもっている、クラスメイトの名前だ。
たしかに、性格も明るくはなく、ともだちも多くはなさそう。
だからといって、虫の生態から増芽を連想したとしたら、ちょっとひどい話だ。もっとも、先生にそのような悪気はないんだろう。
げんに、あたしはそのとき、 増芽の机への視線になど、まったく気づきもしなかった。
夢亜は、ときどき、妙にするどいときがある。
だが、どちらにしろ。
残念ながら、その「啓蟄 」まで、待ってやる余裕はもうないらしい。
あたしと夢亜は、放課後、黒渦 増芽の自宅を、プリントを届けに行くという名目で、様子見に訪ねることになった。
「あんた、いま食べるの?」
先生が、 増芽の両親への手土産にと、渡してくれた和菓子といっしょに。あたしたちへのお駄賃がわりに、どら焼きをふたつ、紙製の手さげ袋に入れといてくれた。
つぶあんかぁ。お茶がほしくなるんだよね。
そう思いながら、あたしも封をあけて、どら焼きを食べつつバス停へと歩いて行く。
女子高生がふたりで、どら焼きを食べ歩くなんて。お行儀が悪いかもしれないが、ずいぶんと絵になるじゃない?
あたしはともかく、夢亜は可愛い。
性格に難——というか、癖はあっても、こうして横に置いときたい存在ではある。
進学校でもない、公立高校のクラスメイトの家だ。
徒歩では、ちょっとめんどくさい距離のうえ、この寒さだが。先生のくれたバスの回数券を使えるので、それほど苦でもない。
学校から、バス停。バス停から、増芽の自宅。
歩く距離はたいしたことなかった。
「あら、いらっしゃい。
うちの増芽のために、わざわざごめんね」
二階建ての一軒家。 増芽のお母さんは、想像したタイプより、ずいぶん社交的そうで。
増芽は父親似なのかな、なんて思ってみたり。
手土産の紙製の手さげ袋を渡すと、あたし的にはタイミングのずれた、お茶を出してくれた。
増芽の部屋は二階にあって、両親も、そのドアをずいぶん開けていないらしく。なかがどんな惨状なのかは、知るのも恐ろしいとのこと。
食事と洗濯物は、階段を登りきったところに置くことになっていて。 増芽も、食べ終わった食器がのったお盆と、衣服の汚れものがはいったカゴと。そして、なかみの詰まったゴミ袋をそこに置いておく。
二階には、増芽の部屋と、一階のお風呂やトイレとはべつにある、シャワールームとふたつめのトイレだけ。実質、増芽のテリトリーだ。それが、このひきこもりを助ける環境になっているであろうことは、あたしにだってわかった。
「 増芽ちゃん、夢亜だよぉ」
二階にあがるなり。どんどんっと、雑なノックをしながら、木製のドアごしに声をかける。
あんた、増芽と、そんなになかよかったのかとの問いには、きちんと答えず。だけど「クラスメイトじゃん」とひとことだけ言った夢亜の、そんなところがあたしは嫌いになれない。むしろ、好き。
しばらくの沈黙のあと。
「……森さん?」
増芽から、この訪問が、いかに意外であったかわかる返事がかえってきた。
スマホで、電話やらメッセージやら、これまでも、きょうのことも。さんざん送られてきているだろうに、それをすべて無視していた 増芽だったが。ドアごしのクラスメイトの訪問には、すこし心を動かしたようだった。
「詩尾ちゃんもきたんだよぉ。あーけーてー」
沢口 詩尾があたしのフルネームだけど、増芽は覚えてないってば。あたしが苗字で名乗ると、増芽のさらに意外そうなリアクションが、ドアごしでも伝わってきた。
「ねぇ、黒渦さん。
ここ、あけてよ。顔見て、話そ」
こちらだけが、名前呼びするのを避けたあたし。
だけど、夢亜はおかまいなしだ。
「 増芽ちゃん! ほらぁ、出てこないと、もうすぐKH2だってばぁ。
春まで待ってたら、虫まで出てきちゃうよぉ」
——だから「啓蟄 」だってば。
あたしが、つっこんでやろうとしたそのとき。
ドアの鍵をあける音のあと、ノブをまわす音、そしてドアじたいをあける音。みっつの音が、テンポよく聞こえてきた。
「……黒渦 さん?」
「 増芽ちゃん!」
あたしと夢亜は、突然のこの「啓蟄 」に言葉を失った。
髪こそ伸び放題だったものの。お風呂や着替えはきちんとしていたらしく、それほど、本人からは不潔な印象は受けなかった。
だが、それは本人からは、だ。
ドアのすきまから、部屋の奥に目をやると。
ゴミ出しはしていたようなものの、それでもまだ。積まれた、ゴミとしか思えないものの山脈が、狭い床に築かれていた。
そして、なにより。
増芽本人につづくように、這い出してきたものたち。
あぁ、どこに行ったのかと思えば、あんたちの「穴」は地面じゃなくて、ここだったのね。
部屋から這い出して来た、大量の虫たち。
織田先生の連想は、たいした精度だったらしい。
悲鳴をあげることさえできずに、ひらいたドアのまえにへたりこむあたしたちと、それを見てうろたえる 増芽。
この光景は、地獄絵図と表現しても、まだなまぬるい。
階段をおりてきた虫に気づいた増芽のお母さんが、呼んでくれた業者が着くまで。
時計で、はかればたいしたことはなくても。トラウマとしては、へたをすれば一生モノの傷を負うだけの時間。
この「啓蟄 」が去ることはなかった。