おにぎり
木村勇は、車窓から外の風景を眺めていた。
三日間の休暇をもらった。
勇は出撃が近いと悟った。思えば半年前、神風特別攻撃隊「神武隊」に配属になって以来、この日が来る事は覚悟していたが、いざその時が近いとなると、不思議な事に実感がなかった。
汽車は鉄橋を越えて、懐かしい風景が見えてきた。大陸や南方での転戦を繰り返し故郷に帰るのは出征して以来、実に六年ぶりだ。勇は列車を降りて、駅のホームに立った。
駅から見る風景も全く変わっていなかった。
「あ!」
駅舎を出た時、近所に住む次郎が声をかけた。すっかり大きくなっている。出征前、よく遊んでやった。
「おお、次郎じゃないか。大きくなったな」
「はい! 僕もお国のために立派に戦死して軍神になります!」
――「軍神になる」か。
勇は少年の言葉に複雑な感情を抱いた。
「がんばれよ」
「はい!」
走り去っていく少年の後姿を眺めながら、子供の頃の事をふと思い出した。大陸での戦闘を連日ラジオで聞いていたが、自分とは関係のない世界の出来事と思っていた頃の事を。あの頃が懐かしく思えた。
しばらく歩いて実家の門の前まで来た。
――みな、居るだろうか?
そう思いながら、玄関の扉を開けた。
「ただいま」
扉を開けた。
「あ! お兄さまだ! お母さま、お兄さまが帰ってきたよ!」
弟の勝次が叫んでまた奥へと戻っていった。
「え? 勇が?」
母の静子の声がして割烹着を着たまま飛び出してきた。
「おかえり! 勇!」
満面の笑みで勇を迎えた。家には弟の勝次、妹の節子がいた。みな喜んで勇を迎えた。
「ただいま帰りました!」
勇は、海軍軍人らしく敬礼した。その勇を、母も、節子も、勝次も、みなが喜んで迎えた。
窮屈な軍服を脱いで、風呂に入り、夕食を囲んでいると、出征前の生活を思い出した。節子は勝次の一つ上、国民小学校五年生、勝次は四年生だ。二人とも少国民として頑張っているという。
軍の報道班員の父は仕事で、満州の新京におり不在であった。
帰ってくるのは、当分先になるとの事であった。
――最後に父と話をしたかったのに……。勇はそう思ったが、最後に父と会えずに残念な気持ちになった。
「毎日、大空に上がるんだ。俺たち海軍が敵機を全部墜としてやる」
「すごい!」
勝次と節子が、目を輝かせる。華々しい空中戦の話や、敵に遭遇し機銃を受け九死に一生を得た話をすると、みなが興奮した。しかし、特攻隊に選ばれたことは、どうしても切り出せなかった。久しぶりに勇と会えて楽しそうにしている家族を見ていると、あまりにも忍びなく思えた。
それは二度と帰れない事を意味するからだ。
結局、言えなかった。
翌日の朝は、勝次たちの登校に校門まで付き添った。道行く人々がみな、真っ白な海軍の軍服姿に頭を下げ勝次も節子も誇らしげであった。門の前ではまるで凱旋した将軍を迎えるかのように大勢の子供たちが喜んで勇の周りにやってきた。しばらく相手をした後、勝次らに別れを告げた。凛々しく敬礼して見送った。
向かった先は恋人が眠る墓地だった。
去年、結核で亡くなった島田芳子の墓に一輪の花を手向けて祈った。
「俺も、そちらに行くから待っていろ」
そうつぶやいた。
実家に帰ると静子は、井戸で洗濯をしていた。
「今から隊へ帰ることにします」
「え! まだ休暇は一日あるのに、もう帰るのかい?」
「はい。みんなによろしく」
「……」
静子は悲しそうな目をした。
「もっといたらいいのに」
「国家の非常時です」
「……」
「お母さん。お元気で」
そういいながら敬礼した。
勇が玄関を出ようとした時、静子が呼んだ。
「ちょっと待ちなさい。おにぎりを作ってあげるから」
「わかりました」
勇は、居間で待つ事にした。小一時間ほど、勇はじっと居間を見ていた。ここにもう帰ってくることはないのだと思うと感慨深かった。やがて静子が入ってきた。
「これを持っておいき」
竹の皮に包まれたおにぎりは、暖かかった。
静子は、笑顔を見せた。精一杯の笑顔だ。だが、その目には涙が溢れていた。
「ありがとう。母さん」
勇は敬礼した。
「今度会う時は、靖国で会いましょう」
静子は、ハンケチを取り出して涙を拭いた。
「体に気をつけてね」
静子は勇の姿が見えなくなるまで、門の外で見送っていた。
勇は、後ろ髪をひかれる思いで駅のホームに着いた。
――父さん、母さん、勝次、節子……みんな、さようなら。
そう思いながら汽車に乗り込んだ。母の作ったおにぎりは、まだ暖かかった。走り去る車内でそれを食べた。そして、ひとつの決意をしたのだ。
その三日後。
高度二千で神武隊の最後尾にいた勇は、突然、機首を反転させた。
「木村! どうした!」
隊長の呼びかけを無視して無電を切る。
すまないと思いながらも、全速力で離脱した。残りの燃料はわずかだ。
しばらく飛ぶと島影が見えた。近くに不時着して、勇は必死で泳いだ。
岩陰から上陸して、海を見る。
波間に零戦が漂っていた。早く沈めと思った。
必ず生きて故郷に帰る。
勇は、そう誓った。