第二十一話 分岐点
子供達は花を摘んでいた。
馬を引いて騎士と歩くアリストアを見つけて照れた仕草で少年が花を差し出す。アリストアは足を止めて微笑みながら花を受けとる。
「私も!!お姫様どうぞ!!」
「これも!!」
「こちらも!!」
「手綱は俺が持ちますよ」
子供達がアリストアに摘んだばかりの花を差し出す。アリストアは膝を折り、美しく微笑みながら手を伸ばすと騎士達も花を摘み始める。
「ありがとうございます」
アリストアは子供や騎士達に初めて贈られた両手一杯の花を抱えて微笑む。花の香りを楽しみながら帰路を進む。
馬を片付けて部屋に戻ったアリストアはバルコニーで外を眺めていた。
道端に咲いていた贈ってもらったばかりの両手一杯の花は部屋に飾った。
夕焼け空や庭園に咲く花が美しく感じられることに笑う。
殺風景な庭は新しく迎えられた庭師の手により美しいものに変わっていた。
王家の馬車を見つけて、何も感じないことにさらに笑みを深める。
花瓶から紫色のアネモネを数本手に持ち香りを楽しむ。
かつてのアリストアの心を支えたものを。
「貴族の顔なんていらない。笑いたいときだけ笑えばいい。勝手にしろ。言いたいことは言え」
乱暴な物言いで素っ気ないディアスの言葉を思い出して笑う。ディアスの声が耳に残る理由はわからない。それでも時々アリストアの心にストンと落ちてくる。
王妃を目指さないアリストアは心のままに笑うことも許されている。
王族にならないアリストアは自由だった。
アリストアは自然豊かな和やかな場所で優しい人達と素っ気ない言葉でも行動は優しいディアスとの時間に砕けた心の代わりに小さな光を見つけた。
拠り所を失い、空っぽになった冷えた心は小さい光のおかげで少しずつ温かくなっていた。
初恋は終わり、アリストアの中から最愛の人は消えた。
アリストアは王宮の自室に取寄せて飾っていたものよりも小さな紫色のアネモネの花びらを1枚1枚引っ張り風に飛ばした。
「信じて待ちます。何もなかったのに」
花びらを飛ばしながらポツリと呟くアリストアの肩に、ばあやは肩掛けをふわりと羽織らせた。
ばあやは招いてない客人のことは教えない。エドウィンのことは孫に一任するつもりである。
「お嬢様、嫌なことは教えてください。坊ちゃんが迷惑なら追い出して差し上げます」
アリストアは花びらで遊ぶのをやめて振り返る。
「ディアス様にご迷惑はかけられません。私の監視というお役目のお邪魔にならないように」
「とんでもありません。坊ちゃんはお嬢様が来てから楽しそうです。お嬢様のおかげで仕事も楽になったと」
「お役に立てればありがたいことです」
アリストアは亡き祖母を思い出す皺のある手で世話をしてくれるばあやに微笑む。
心が砕けても自分の立場をわかっていた。
ディアスが優しさで保護してくれたことも。自分よりもエドウィンに怒っていることも。
ばあやは自己評価の低いアリストアに何度でも伝える。態度の悪い言葉足らずな孫のかわりに。
ディアスはエドウィンが帰るのを隠れて眺めていた。
「お前は王族なのに言葉の重みを知らないのか?一度死ねと言った女に会い、また望むのか?」
ディアスは欲を知っても気付いていない鈍感な異母弟に答えは絶対に教えない。
アリストアを見つめる瞳が変わっていることは不愉快だった。
これ以上全てを手に入れていた男に振り回されるのはごめんだった。
バルコニーで空を眺める少女が巻き込まれ振り回されるのも。
夕焼け空の下、解いた髪を風に揺らしながら花びらを一枚一枚飛ばして遊びはじめた少女の瞳から感情が消えるのを二度と見たくない。
王都で褒めたたえられた神秘的な雰囲気を持つ無垢な天使でもなく、兵に人気の全てが美しい勝利の女神でもなく、ゆっくりと成長していく天真爛漫な少女をディアスは気に入っていた。
同情で引き取り、最初は苛立ちばかり抱いたアリストアへの自身の感情の変化に笑う。
「選ぶなら守ってやるか」
風に舞っている花びらが落ち、地面には紫の花弁が散らばっていた。
ディアスは母からの余計なお世話を思い出す。
アリストアが差し出した手を掴むかはわからない。
拒まれてもいいかと思いながら邸への道に足を進めた。
晩餐を終え、夜着に着替えてアリストアは星を眺めていた。
王宮よりも暗い辺境領は星の輝きが増し美しかった。
星空を美しく感じることに笑い、頬を撫でる冷たくも心地よい風に目を閉じる。
静寂な世界にバタンと音が響き、アリストアは乱暴に扉を開ける手の持ち主に気付いて部屋の中に入る。
ディアスはアリストアのために温かいお茶を用意する祖母達を追い出し、人払いを命じていた。
ディアスはバルコニーの鍵とカーテンを閉め、アリストアの正面に立った。
「アリストア、自分で選べ。俺の妻になるかエドウィンのもとに戻るか?」
「ディアス様?」
真顔のディアスが偉そうに言った言葉が理解できずアリストアは首を傾げた。
ディアスは不思議そうな顔をしているアリストアにゆっくりと繰り返す。
「お前がどうしたいか教えろ」
「私は愛人をお迎えしても構いませんよ。形ばかりの妻」
王命による婚約なのでディアスが迎え入れたい女性がいても妻の座を譲れなかった。
勘違いしているアリストアの言葉にディアスは首を横に振る。
ディアスはアリストアに選ばせるつもりだった。
二つの道を。
後戻りできない道に無理矢理連れ込むつもりはなく、アリストアが選ぶことが苦手でも折れるつもりもなかった。
「違う。お前の気持ちを聞いている。俺はお前を気に入っているから妻になるなら迎え入れる。今ならエドのもとに戻すこともできる」
アリストアは子供に話すように、ゆっくりと話すディアスの意図がようやく理解できた。
アリストアは消したエドウィンのことを考えるのを放棄していた。
ディアスが与えてくれた世界は刺激的で優しく王宮で過ごすのと比べられないほど楽しかった。
罪を犯す前のかつての幸せな時間を思い出すほど。
エドウィンに望まれないのに傍に戻ることはできない。
――――――戻りたいとも思わない。
アリストアにとって優しいディアスの提案は考えるまでもなく答えは決まっていた。
「私とエド様の道は別れました。私にとっては砕けたものですが、エド様にとっては存在しないもの。恋に溺れた愚かな私は勘違いしておりました。ディアス様のご迷惑でないならお傍に置いていただければありがたいと存じます」
迷いのない瞳と静かでも力強い言葉にディアスは笑う。
少しずつ色んな感情を覚えていく少女を大事に思い始めていることは口に出さない。
昔とは違う信頼の籠った瞳を向けられるのもくすぐったい。
知識は豊富なのに生活力皆無で世間知らずなアリストアとの生活は愉快でこれからも続けばいいと思うほど。
アリストアがディアスを選ぶなら、いずれアリストアを求めるエドウィンに手を出されない方法を選ぶことにした。
「ずっと側にはいられない。それでも必ずお前のところに帰ってきてやる」
アリストアはエドウィンとは正反対の素っ気ない物言いのディアスの強い瞳を見返した。
ディアスはエドウィンとは正反対。
常に真綿に包まれ大事に大事に守られてきたエドウィン。
守られることはなく戦いしか求められないディアス。
王族なのに蔑ろにされ、何も持たない王子がいつも国を守ってくれていた。
これからも戦になれば駆り出される戦好きと誤解されているディアスの言葉にアリストアは頷いた。
規模が小さくてもディアスの帰りを待ち、優しい場所を守る方法を知っていた。
アリストアは勇気を出してディアスの指を掴んだ。
ディアスは一瞬驚くも、小さな手を優しく握り返すと嬉しそうに笑う顔に口角を上げる。
片手は繋いだまま強さを持つ瞳で見つめアリストアに唇を重ねた。
驚いて目を大きく見開いた顔に笑いながらそっとベッドに押し倒す。
「ディアス様!?順番が」
「問題ない。社交を免除されてる俺達はな。嫌なら拒め」
アリストアは笑うディアスの言葉に抵抗をやめた。
自分の意思を聞いた上でいらない自分を求めてくれる存在に救われていた。
ディアスがアリストアに意思を聞かなかったのは婚約者になった時だけ。
あとは全て聞いてくれた。
社交界に戻りたいか。うちに帰りたいか―――。
どんな言葉も認識でき、冷たい心があたたかくなり始めた日から些細な問いかけがアリストアは嬉しかった。
父親にも王家にも初恋の人にとっても価値のない自分がディアスの望むものを捧げられることも。
乱暴な言葉と違いゆっくりと動く手は優しく、怖いことも嫌なことも何もなかった。
優しい口づけに絡まる指に笑みを溢す。
ディアスは大人に成長途中の体をできるだけ優しく触れる。
無垢な少女は欲に溺れず嬉しそうに笑うだけ。
ディアスに抱かれて、胸に頭を預けるアリストアは満面の笑みを溢した。
頭を撫でしばらくすると目を閉じて寝息をたてる。
ディアスはぐっすり眠るアリストアが初めて口にするエドウィンとの関係に実は驚いていた。
アリストアの誤解は解かない。
互いに無かったことにすることで乗り越え、捨てたアリストアの思い切りの良さに笑った。
アリストアの中でエドウィンとは終わり、自分の側にいたいと願うなら返さない。
エドウィンが動き出した時には全て後の祭りと嘲笑いながら、艶やかな髪を弄んでいると、うっすらとアリストアが目を開けた。
「寝苦しいか」
「このままが…」
ぎゅっと抱きつき、腕の中で眠りたいと寝ぼけて溢すアリストアの頭を撫でて寝かしつけるとすぐに寝息が聞こえた。
ディアスは自室に戻るのはやめてそのまま目を閉じた。
目を開けるとアリストアはディアスの逞しい腕の中にいた。
ぐっすり眠るディアスの寝顔をアリストアは眺める。
王よりも日に焼けて健康的だが目元がよく似ていることに気付いて笑う。
アリストアは必ず帰ってくるとエドウィンと同じ約束をくれたディアスの言葉は信じていない。
それでもディアスが帰ってくるための優しい場所を守るために頑張ろうと決意した。
後見のないディアスの立場の危うさを、地盤を固め、確かなものにするために放棄していた思考を巡らせる。
ディアスも文官達も頼りなく辺境領は管理が行き届かず酷い惨状が広がっている。
辺境領を治めるために頭の中でやるべきことを整理していく。
「領民に認められない領主…。自然豊かな森に栄養たっぷりの土地。寂れた王侯領よりよっぽど…」
アリストアにとっては簡単なことなのですぐに思考は終わった。
「あら?ですがディアス様は……」
一番の難題に気付き、もう一度思考を再開する。
ぐっすり眠る腕の持ち主は軍略の天才。
「教えを乞う癖をつけなさい。本の世界だけでは全ては理解できない」
教師の教え通りに何度資料を読んでも考えても理解できない戦について教えてもらおうと閃く。
アリストアは王家の権力がなくてもディアスの正統性を主張できる根拠さえあれば、辺境領が欲しい貴族にも予言が得意な巫女にも負けない自信がある。
「きちんとお相手しますわ。ええ、不確かな予言に振り回されるなどごめんですもの。それに……」
王妃に疎まれていても王が成果を残すディアスを気に入っているのをアリストアは知っていた。
アリストアは国王夫妻との付き合い方を知っている。
王宮で10年間育ったアリストアは巫女姫様と信者の嫌う計算高く利己的で手段を選ばない貴族そのもの。そしてそれが悪いことだとは思わない。
綺麗事だけの世界は絵本の中だけ。
たくさんの国を侵略し力をつけ裕福な生活を送る裏では悲劇が起こっている。
大事なのは自国民。
国のために命を捧げ、時に非情な決断をするのが裕福な生活を送る代償と教わっていた。
王妃の好きな無垢な笑みを浮かべることは得意でも心は真っ黒である。
無垢な未来の国母は緻密な計算の末に作られた存在。
役者顔負けの演技力を王妃教育の一環としてアリストアは身に付けていた。
計算高い国王と宰相、欲深い王妃、醜い女や貴族の争いという大人の世界を誰よりも見て育ったアリストアは外見に反して強かで、氷の公爵の娘だった。
「お休みは終わりです。前を向いて頑張りましょう」
年若い青年が小さな歯車の修理を終えた。
新たな歯車はゆっくりと回り始める。
小さな歯車はゆっくりと規則正しく動き、決して鈍い音が鳴り響くことはなかった。




