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連載版 初恋の結末~運命の変わった日~   作者: 夕鈴


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第十七話 新しい生活5

アリストアは常に澄ました顔で無垢な笑みを浮かべていた。

ディアスはアリストアの天使の笑み、女神の微笑みと囁かれる無垢な笑みは気に入らなくても指摘するのはやめた。

自分達が武術を覚えたようにアリストアが王宮で生活するうえで必要なものだったと認識を変えた。

アリストアがどんな顔をするかは本人の自由と年上の余裕を見せ譲歩するとディアスが八つ当たりした感情の浮かばない瞳も少しずつ感情の色を持ち始めた。

アリストアをディアスのペースに合わせて生活させると苛立ちよりも突っ込みが先行するほどの余裕ができた。

ディアスはアリストアが生活に慣れるまでは異母兄を見習い側に置くつもりだった。


文官達はディアスが頭があがらない侍女の存在に気付いてからディアスが内務から逃げると母親達をけしかけるようになった。

母親達の小言が苦手なディアスは決まった時間に執務室に顔を出すようになっていた。

執務室には文官達によりアリストアの席がディアスの隣に用意されていたがディアスは何も言わない。


「おはようございます。アリストア様、こちらにどうぞ」

「おはようございます。閣下はさっさと座ってください」


アリストアはディアスの前では常に淑女の顔を保つようにしているが他の者の前では笑みをこぼすことがあった。思考を放棄しているアリストアの体には無垢な笑みと澄まし顔が染み付いていた。感情を見せるのは驚いた時と呆れた時くらいである。

アリストアは無意識に無垢な笑みを浮かべて返答し促されるままに座る。

アリストアの席からディアスの処理した書類が見え、初めて見るほど不備の多すぎる書類に一瞬眉がピクっと動いた。


「やるか?」

「はい。お任せください」


書類を渡されたアリストアは静かに頷きペンを走らせる。

ディアスはアリストアの視線を感じる時は書類を渡して任せていた。


「あれほど勉強するようにと言ったのに」

「ほぼ全滅では……」

「ディアス様って口頭指示は完璧なのに文章にすると駄目なんですよ。簡略化しすぎて読み取れない。ディアス様の報告書はいつも兄君達が手直しされてましたので」



アリストアがディアスから借りた資料が読み解けなかったのはディアスが悪かった。軍部独特の記載の仕方と勘違いしたアリストアはディアスの資料を読み戦の内情を理解するのを放棄した。

ディアスの補助をしていた異母兄がいれば、きちんと整理された資料が手に入りアリストアの睡眠不足は軽減されていたと気付くことはなかった。

ディアスはほとんどの書類がアリストアに修正されていても落ち込むことはなく、母親の抗議の視線も受け流す。特技を伸ばして苦手分野は適任者に任せるがディアスの方針だった。

気付くと執務室に置かれた書類の束はなくなった。


「アリストア様、こちらをお聞きしてもいいですか?」

「はい。これでしたら―――」


宰相仕込みの知識の宝庫は世界情勢にも明るく、知識の量だけならエドウィンや王妃よりも上だった。

ディアスを疑い戦争について徹底的に調べていたアリストアは辺境領についての知識も豊富だった。

そのため派遣された文官達と比べものにならないほど知識を持っていた。

そしてアリストアが任されるのは王宮で任された内務とは比べものにならないほど簡単なものばかり。ミスをしても国家間の問題も起こらず、国庫への影響もない。

新たな領土はエドウィンとアリストアの教材として管理を任されている王侯領よりも小さく豊かである。

ぼんやりしているアリストアでも滞りなく処理できる案件ばかりである。

以前のアリストアならきちんと処理できない文官もディアスもお淑やかな顔の下では冷たい瞳で見つめたが、抜け殻状態のアリストアは気にならなかった。

そんなことも知らない文官達はアリストアを頼りにして、ディアスには最終確認を求めるだけだった。



「給金を渡すか」

「お気遣いなく」


アリストアはディアスの言葉に戸惑いながらも淑やかな顔で断る。給金をもらうほどの仕事はしていなかった。

そして資産は公爵家から与えられ、十分にあるため必要もなかった。


「願いがあるなら叶えてやる」

「お気遣いいただきありがとうございます。お気持ちだけで―――」


素っ気ない口調で乱暴な態度のディアスの背中がパシンと教鞭で叩かれた。

アリストアは辞退の口上を述べ終えるとディアスを気にすることなくペンを進める。

欲しい物も願いもなく、邪魔にならないようにぼんやりと流れに身を任せるだけだった。

ディアスは何も望まないアリストアとは正反対の異母弟達を思い出した。欲しい物がある時は賭けを持ちかけるズル賢い存在を。


「賭けをするか」

「賭け?」


アリストアはディアスの言葉に戸惑いながら問い返す。ディアスの言動はアリストアにとってわからないものばかりだった。


「敗者は勝者の願いを叶える義務がある。賭けは正当な取引だ」

「かしこまりました」

「チェスはできるか?」

「はい。たしなみ程度ですが」


過去の賭けを思い出しアリストアができそうなものはチェスしか思い付かなかった。

アリストアは言われるままにディアスの向かいに座りゆっくりと駒を動かす。

互いに悩むことなくスラスラと駒を動かし合う。


「お前は何を願う?」


アリストアはすでに勝敗は見えていた。

願いと言われても何も思い浮かばず、駒を動かす手を止めた。

手に持つナイトを見て、一つだけ浮かんだ。


「お買い物を」


アリストアがナイトを盤上に戻すとディアスが口角を上げた。


「チェックメイト」


チェスの勝者はディアスだった。

ディアスは周囲の大人げないという抗議の視線は気にせず、惨敗したアリストアにえらそうに言った。


「行くぞ。買ってやる」

「え?」

「敗者は勝者に従うのがルールだ」


内務は終わったのでディアスは立ち上がり廐を目指す。


「まあ!?お嬢様、お着替えを」


アリストアはばあやに促され乗馬服に着替えて待っていた護衛騎士に案内され廐を目指す。

アリストアが廐に入るとディアスは馬に食事をさせ、鞍をつけていた。

アリストアを置いていく背中を怖い顔で母親が睨んでいたことには気付かずに。


「アリストア様、どうぞ。お気をつけて」


護衛騎士はアリストアの子馬に鞍をつけて、体の小さいアリストアが乗るのを補助する。


「護衛はいい。行くぞ」

「アリストア様を置いていくことがないように。お美しいアリストア様は攫われますから、絶対にお一人にしないでください!!聞いてますか!?」


護衛騎士はディアス達から離れてゆっくりと追いかけていく。

指揮官として尊敬していたが、討伐、捕縛に特化したディアスは護衛に携わらない。

気遣いにかけるディアスにアリストアを託すのは心配だった。

騎士の予想通り、ディアスは勝手に追いかけ、連れ回す主張が激しい兄弟に慣れているため待つ習慣はなかった。



ディアスは乗馬初心者のアリストアに合わせる常識は持っていた。

ディアスはアリストアの馬の速度に合わせて市を目指した。

危なげなく手綱を操る姿を眺め、もう少し体力がつけば遠乗りに連れて行くかと思案しながら進む。


「バカ。乗馬中は手綱から手を放すな」


領民を見つけて手を振ろうとしたアリストアはディアスの不機嫌な声に一瞬固まり、手綱に手を戻した。

人が増え、市に近づいたのでディアスは馬を止め飛び降りた。

ディアスを見習い飛び降りたアリストアは風に流されバランスを崩し頭ごと地面に落下する前にディアスが手を伸ばして腰を抱えた。

アリストアは猫のようにぶらりと宙吊りにされ固まった。


「飛び降りるな。まだ一人で降りられないだろうが」

「申しわけありませんでした」

「次から気をつければいい。行くぞ」


地面に降ろされ我に返ったアリストアは、空を飛ぶ漆黒の烏を見た。


「手綱は自分で持つか?」


アリストアはディアスの声に頷き、手綱を受け取り馬を引きながら露店を歩く。

食料を大量に売っている店を見つけて足を止めた。


「これをあるだけください」

「待て。俺が払うからそれは出すな」


ポケットに手を伸ばすアリストアの手をディアスは掴んで止める。空いている手で銀貨を支払いお釣りを受けとる。

アリストアの欲しい物にディアスは驚きながら何も言わない。


「あとは?」


アリストアが買ったのは大量の人参と鳥の餌だった。


「十分です。ありがとうございます」


アリストアは買ったばかりの人参を子馬に食べさせる。むしゃむしゃと食べる口にどんどん人参を入れていく。

黙々と食べさせ続けるアリストアの手をディアスは掴んだ。


「待て。これ以上は食わせるな。口に入れればずっと食べ続ける。こいつの体に悪い」

「あら?かしこまりました。お腹が空いてるわけではありませんのね……」


いつも勢いよく食べる馬を見て、食料が足りていないのかと勘違いしていたアリストアは人参を与える手を止めた。

大量に人参の詰まった箱を持ち上げるのをディアスが奪う。


「持つな。これはどうしたい」

「この子が食べないなら孤児院に差し入れします。いくつか追加で買っても宜しいでしょうか。でも運べますかねぇ……」

「金は俺が出す。敗者は従え。お前は銅貨以外持ち歩くな」



アリストアが金貨の小袋をポケットから出すのをディアスは止める。

アリストアは頷いて肉と甘味と野菜を購入し孤児院に届けた。

人参だけ大量に届けられたら子供達が嫌がるのは目に見えていた。

届け物が終わり、アリストアは小袋に入った鳥の餌を口に入れた。舌で転がしながら近づく烏に視線を向けて、孤児院長から贈られ羽織っていた肩掛けを脱いだ。


「おい!!それは鳥の餌だ」


ディアスは馬から降り、無言で鳥の餌を食べているアリストアから取り上げようと手を伸ばした。

アリストアはディアスの手をかわして、ディアスの後に周り背中を合わせた。ポケットから薬包を出して鳥の餌に振りかけ、シャカシャカと振り混ぜこんだ。


「お前は何をしてるんだ。腹が減ったなら、」


呆れた顔のディアスが振り返ると、視界が暗くなる。

肩掛けをディアスの頭にそっと被せたアリストアは駆け出していき、木の裏に隠れた。

アリストアはディアスの視界から消えた。


「何をして、アリストア?」


ディアスは視界を遮る布をとり、消えたアリストアを探すと漆黒の烏を視界に捉えて、呆れた顔が真顔にかわる。弓を持っていないためディアスが剣に手をかけ、降りてくる鳥に向かって駆け出すとアリストアを見つけた。


「伏せろ!!」


黒い烏に襲われるアリストアに叫び、剣を投げると烏の足に振り落とされた。

アリストアは目の前に落ちた剣も叫び声も気にせず腕を伸ばす。

腕に止まった烏好みにアレンジした餌を食べさせる。


「どうぞ。ええ。お友達を呼んでも構いませんわ」


ディアスは人を襲う烏が大人しくしている光景に警戒しながら短剣を取り出す。


「動くなよ。そいつらは」


アリストアは真顔のディアスが近づいてきたことに驚きを隠して、首を横に振った。エドウィンなら隠れたアリストアをこんなに早く見つけることはできなかった。

布を被せられたら隠れんぼの始まりの合図だった。


「少々お待ちくださいませ」

「バカ。人肉を餌にする猛獣だ」

「怒らせなければ生きている者は襲いません。賢い子達ですから」

「は?」

「お腹が空いていたので降りてきたのでしょう」


アリストアの前にさらに三匹の烏が降りてきた。

アリストアは餌を与えて、肩に乗る烏の頭を撫でた。

人を襲い毒を持つ烏は見つければすぐに殺すようにディアスは教わっていた。


「気をつけてお帰りなさい」


餌を食べた烏は飛び去っていく。

視察で見かければいつもはエドウィンの視界に入れないように対処していた。アリストアは毒の耐性があるので肌に爪が食いこんでも血が出るだけで害はなかった。


「一人で近づくな」

「申し訳ありませんでした」


アリストアはディアスに監視されていることを思い出し頭を下げた。


「次は気を付けろ。頭をあげろ。ほら」


ディアスは頭を上げたアリストアに飴を渡した。


「腹が減ったなら言え。鳥の餌は腹を壊す。嫌いか?」

「いえ。ありがとうございます」


アリストアは飴を口にいれると、あまりの甘さに驚きながらも舌で飴を転がす。


「飯を食って帰るか」


アリストアは空腹ではない。烏の好む餌か確認するために食べただけである。

ディアスの烏が人を殺す危険な鳥と言う話を聞き流しながら食堂に連れて行かれ目の前に運ばれた料理に、口をつける。

王子が古びた食堂に馴染んでいる様子に戸惑いながら流されるままに体を動かす。


「お母さん、お姉さんは?」

「今日は来れないのよ」

「お歌の日なのに!!お姉さん来るって皆に教えたよ!!嘘つきって言われちゃうよ!!」

「お母さんも謝るわ」

「嫌!!嘘つきって言われる。お客さんを呼ぶための嘘だって」



食堂では月に一度歌手を呼んでいた。

少女は商売敵の宿屋の食堂で働く少年に勝つことに夢中だった。

少年の働く宿には吟遊詩人が泊まっており美しい戯曲を披露し若者に大人気だった。

子供の喧嘩を見慣れているディアスは少女が「負けるのは嫌!!」と泣き叫ぶ声を聞き流しながら料理を口に運んだ。

アリストアも少女と母親の言い合いを気にしなかった。

昔のアリストアなら困った人を放置できない優しいエドウィンのために対処をした。

アリストアの崩壊した世界では直接声を掛けられなければ事情を聞かない。求められたら手を差し伸べるかもしれないが、自分からは近づかない。

かつては一人っ子で過保護の箱入り娘として育っていたアリストアは面倒を見られる側だった。決して世話好きな性格でもなく優しくもない。

エドウィンの隣にいるためだけに生きていたアリストアはもういない。

新しい世界に気付かずに目の前に広がるモノクロの世界に流されるまま生きるだけだった。



エドウィンが巫女と歩み始めた。

ディアスはアリストアと向き合う努力を始めた。

アリストアだけが新しい世界に馴染めずに立ち止まっていた。

誰よりも前向きで顔を上げて堂々と歩いていた少女の面影はなかった。

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