第十ニ話 壊れた心
「君は国に不幸をもたらす。命を捧げてくれないか」
アリストアは初めてエドウィンの言葉をストンと受け入れられなかった。
ディアスとエドウィンの話し合いを聞き、命を捧げることよりも、巫女の言葉を信じエドウィンの大事な人をアリストアが殺そうとしていると思わせるほど信頼されていない現実に打ちのめされた。
悲しみも怒りも生まれず、涙さえ流れずアリストアの死を願うエドウィンから異母兄のディアスに婚約者が変更された。
ディアスは巫女の暗殺を目論んでいると疑われているアリストアの監視という名目で邸に連れ帰った。
「婚約者に選んだなら義務は守るように」
父の命がなくても殺すつもりはなかった。
目の前の少女が理不尽に殺されるなんて許せない。
長時間馬車に揺られながら冷静になってもディアスはエドウィンの独断であることに呆れと苛立ちが収まらない。
無言で微笑んでいるアリストアに掛ける言葉が見つからない。
沈黙がずっと続いた。
馬車が止まり、ディアスが先に降りた。
アリストアは微笑んだまま座っていた。
ディアスが邸に入っていも、馬車から降りないアリストアを心配して御者はアリストアの顔を覗いた。
「アリストア様、着きましたよ。ご気分が優れませんか」
ぼんやりしていたアリストアは顔見知りの御者の声に気付いて微笑む。
「失礼しました。ありがとうございます。いえ、」
御者は一人で降りた乱暴王子の代わりにアリストアをエスコートして馬車から降ろした。
ディアスは邸に入ると後にいないアリストアに気付き踵を返した。
御者にエスコートされるアリストアを見て、扉の前で近づいてくるのを待っていた。
御者はディアスにエスコートを譲るためにアリストアの手をそっと渡す。
「お願いします」
ディアスは御者に無言で圧力をかけられ、アリストアの手を掴んだ。
ディアスに乱暴にエスコートされて邸の中に入るアリストアが心配でも御者にできることはない。
「アリストア様……」
バタンと扉が閉まるまで御者は礼をして見送った。
王宮への道を進みながら時の流れの残酷さにため息をこぼす。無垢な笑顔の持ち主は年齢のわりに小柄で幼児体型である。王に似て欲に弱かったエドウィンが美女と関係を持ってもアリストアへの道理を守れば受け入れられた。ないがしろにせず、表面的にアリストアを大事に扱えば。純粋すぎる王子と初恋に夢中なアリストア。エドウィンが初恋に夢中になり、二人の関係は壊れた。
道が別れても国の繁栄を願いながら美しいハーモニーで讃美歌を奏でる二人が幸せになってほしいと願いながら馬に鞭をいれた。
邸の管理は母親に任せているディアスは客室を目指して階段を昇る。
バタンといくつか扉を開けて掃除が終わっている部屋を見つけて中に入る。
「ここを自由に使え。座れ」
アリストアは未婚の男女が共に住むなど許されないと知っていても思考ができない。
ただ流されるままに笑みを浮かべて体を動かしていた。
アリストアが椅子に座るとディアスも正面の椅子に座った。
沈黙が続いていた。
部屋には二人だけ。ディアスが先に口を開いた。
「アリストア、怒れ」
「はい?」
素っ気ないディアスの単調な言葉をアリストアは聞き返した。
ディアスは女は怒ると甲高い声でわめき散らすものという認識があった。
「俺は寛大だ。うちでまで猫を被られたら迷惑だ」
細身で背筋を伸ばして行儀よく座るエドウィンと違い大柄で足を組んで偉そうに座っているディアスをアリストアは静かに眺めた。
穏やかに話しかけるエドウィンと違い偉そうな命令。怒れといわれても怒りなんて感情は幼い頃に捨てたものである。怒りも不満もアリストアの世界にはいらないものだった。
無言で微笑むアリストアにディアスは苛立ちが抑えきれなかった。
「怒りもわかないのか?妃の椅子を奪われ、あげく死を命じられ、婚約者を代えられ」
威圧的な態度のディアスの挑発にアリストアは動じることなく微笑む。
何も感じず、思考しなくてもアリストアの体は勝手に動き最善を口にする。
「国のために命を捧げるのが務めですから」
ディアスはアリストアの向ける笑顔が見せかけだけの空っぽなものと馬車の中で知った。
笑顔も言葉も取り繕った嘘にしか聞こえずディアスは苛立ち声を荒げた。
「その笑顔もやめろ。目障りだ。邸では自由にしていいが外には出るな」
「かしこまりました」
感情のない美しく無垢な微笑みを浮かべるアリストアに苛立つままに乱暴な言葉を吐き捨てディアスは席を立ち部屋を出た。
アリストアは礼をして見送りバタンと扉が閉まり一人になると与えられた部屋を見渡す。
狭くても王宮の自室によく似ていた。
ゆっくりと立ち上がりバルコニーに出ると閑散とした見慣れない庭が広がっていた。
感情を殺すことは得意だったが今は殺す感情さえも無くなった。
椅子に座り、青い空を見上げても何も感じない。
風が髪を揺らすのも、エドウィンと手を繋いで見る全ての景色が好きだったことも思い浮かばない。
アリストアの世界が崩壊し、小さな棘が心を砕いたことにも気付かずにかろうじてモノクロになった景色が瞳に映る。
空っぽになったアリストアは雨が降りはじめてもバルコニーの椅子に座ったまま動かない。ポタポタと雨の音が耳を通り過ぎていく。雨の雫が体を濡らしても雷鳴が響いても何も感じず、しばらくして意識を失った。
眠るアリストアをベッドまで運んだ存在には気付かなかった。
****
ディアスは年下の少女に苛立ちをぶつけた自覚はあった。
バタンと粗々しく扉を閉めて、背中を預け髪をかき乱した。
廊下でディアスを出迎えたのは睨んでいる母親だった。
「先触れを覚えなさい。王宮とは違います。おもてなしには―――」
ディアスにとって名ばかりの王子よりも辺境伯とは何かと面倒な立場だった。
家臣に丸投げするつもりのディアスは気にせずとも元王宮侍女の母親は違っていた。
「客じゃない。引き取った」
「は?」
「エドがいらない居候」
王宮にいるはずの未来の国母、名門公爵家の令嬢が田舎の辺境領を訪問するなどありえず、息子が乱暴に手を引いて部屋に入った後ろ姿に驚いていた。
公爵令嬢をもてなすための準備は一つも整っていないためお茶も運べない。埃まみれの体でアリストアの前に立つのは元侍女としてプライドが許さなかった。
「きちんと説明しなさい」
ディアスは母親に睨まれながら経緯を説明するとバンっと頭を教鞭で叩かれた。
ディアスの母親は常に教鞭を隠し持っていた。
頑丈な息子を叩くと手を痛めるためわざわざ教鞭を持ち歩いていた。
「婚約者を迎えるなら準備があるでしょう!?」
ディアスは母親の止まらない説教を静かに聞き流す。
口を挟むとさらに長くなるので、時間が過ぎるのを待つのが一番だった。
領主なんてディアスには荷が重い。
国境の防衛だけきちんと指揮すればいいと父親に言われているのに、母親は聞く耳を持たない。
「王宮より荷物が届きました。どちらにお運びすれば」
「荷物はその辺に置いておけ。居候が、」
「言葉に気をつけなさい!!婚約者でしょ?アリストア様をお迎えするなら制服を用意しないと。母さんが喜ぶかしら」
「母上に任せる」
「当主として自覚なさい!!だからきちんと勉強するようにと」
無責任なディアスはバンっと教鞭で頭を叩かれる。
ディアスの邸に住んでいるのは母親と祖母、勝手に付いてきた部下達。通うのは王家から派遣された文官。
王子らしさのないディアスに敬意を持つ者は誰一人いなかった。
バタンと扉が開くと見覚えのある部下が数人いた。
「大将、雇ってください!!辞表出して来ました」
「アリストア様がここに住むって本当ですか!?執事になります!!」
「あのアリストア様!?毎日拝めるなんて」
「専属護衛は俺が!!」
「この荷物はアリストア様の物ですか!?運びますよ!!ディアス様の物ならごめんですが」
「部屋はどこが、アリストア様の部屋は」
ディアスは大量の荷物の側で騒いでいる男達を眺めながらアリストアのファンが多かったことを思い出した。
騎士寮のような伯爵邸が貴族の邸らしく変わり始めた日。
「お説教の前に部屋の準備、掃除から始めましょうか。着替えないと」
盛り上がる増えた家臣達によりアリストアのための部屋が整えられていく。
日当たりがよく、広く綺麗な部屋が吟味され全員で掃除をする。
雑な男達が普段の仕事ぶりが嘘のように丁寧に手を動かしていた。
一番やる気のない雑なディアスは荷物を運ぶのを手伝わされていた。母親に逆らうよりも従うほうが楽だと学んでいる。
アリストアのための部屋の準備が整えられると外は真っ暗になり食事の時間になっていた。
「お口に合うかしら……」
今までは厨房や食堂ですませていたディアスはこれからはアリストアと二人で取るように、当主としての自覚を持ち生活をするようにという長い小言を聞き流しながらアリストアを迎えに行けと背中を押された。
ディアスは乱暴な口うるさい母親が妾として大人しくしていたのが不思議でたまらない。
酔った勢いとはいえ父の趣味が理解できる日は永遠に来ないと思いながらアリストアの部屋に入った。
「食事だ、は?」
人の気配はなく部屋も荒らされていない。
誘拐、自殺等嫌な言葉が浮かび、外に繋がるバルコニーに出ると椅子に丸まっている塊を見つけ安堵の息を吐く。
ディアスは膝を折り、顔を隠している艶やかな髪をそっと掻き上げて顔を覗くとぐっすりと眠っていた。
王妃に敬意を払い国で二番に美しいと言われるアリストア。
艶やかな髪に真っ白な肌に、整った顔立ちは美貌の衰えをみせる王妃とくらべものにならないほど美しい。
アリストアとディアスは私的な関わりはない。公的な場でしか面識はなくても異国の色を持つアリストアは目立つのでよく目に映っていた。
「陛下の命です。私に不満はありません。エド様と陛下の選んだ方ですもの。邪魔をするのは無粋ですわ」
エドウィンと巫女が抱き合う姿を見ても、唇を結んで微笑み隣を歩く令嬢を誘導して方向転換するアリストアをディアスは知っていた。
ディアスには巫女が現れるまではいつも一緒にいたエドウィンとアリストアに絆があるように見えていた。兄弟ごっこをする自分とエドウィンとは違う確かな絆が。
「そろそろ戻ろうか」
「かしこまりました。今日のお花は」
「アリー、待って。庭師に頼もう。棘がある花は手折らないで。いいかな?薔薇を」
「ありがとうございます」
庭師の手で薔薇の棘を落とされ、渡された薔薇をアリストアはそっと抱き締めて微笑む。
庭園でエドウィン達が笑い合い手を繋いで歩くのも見慣れた光景だった。
恋人に夢中になりアリストアの死を望むエドウィンを見て、笑みを浮かべて動かないアリストアを放っておけなかった。
現実主義のディアスには女剣士でもある先見の巫女を武術の心得のない華奢なアリストアが殺せる方法は思いつかない。
ずっと国のために駆け回る少女が不幸をもたらすようにも見えない。
国のために剣を握るディアス達の出迎えに立つ穢れを知らない美しい少女。
空の下で美しい少女の言葉を聞き、戦の終わりを実感する。
神殿に響く歌声は荒れた心を落ち着かせ、嫌な思考も興奮も振り払う。
血まみれの戦場で戦死者を弔った沈んだ心に沁みわたり、前を向く力をくれるもの。
「勝利の女神が不幸をもたらす少女か。迷信だ」
どんな時も怯えず微笑んでいた少女の瞳の揺れに気付かず、恋に溺れて勘違いする異母弟の言葉を遮り口を挟んだことは後悔していない。
戦が始まる前は尊敬や羨望の眼差しだけを受けていた小さな少女が丸くなって眠る顔はあどけない。
小柄な体で常に冷静で大人びた表情を浮かべる少女の寝顔はもうすぐ16歳を迎えるようには見えない。
「子供だ。この細い体でどうやって殺すんだよ。なぁ、エド、アリストアが何をしたんだよ」
遊びもしないで常に勉強ばかりしていた年下の少女。
母親を失い、父親に避けられ、正妃の椅子を奪われ、婚約者に死を命じられ、大事にしていたものに置いていかれるのに常に笑みを浮かべる少女。
ディアスがそっと抱き上げると羽のような軽さの少女の閉じられた瞳から一筋の涙が零れた。
多くの物を持っているようで何も持たない少女が必死に積み上げ、掴んだものがこぼれ落ちた。
それに怒ることも悲しむこともできない少女。
ディアスよりも不幸な少女がこれ以上不幸に襲われなければいいと思いながら頬の涙を拭ってベッドの上に運んだ。
びっしょりと濡れているドレスに気付き脱がせようと手を伸ばすと、パチンと頭に衝撃が走った。
振り向くと教鞭を持ち恐ろしい形相の母親がいた。
食事に呼びに行かせた息子が一向に戻らないので部屋を覗くと寝込みを襲う光景が映っていた。
同意があるなら止めないが明らかに違うのが目に見えていた。
「婚約者とはいえ」
「ぬ、濡れているから脱がせようかと」
「寝込みを襲うなんて」
「貧相な体に」
「色狂いの血は健在のようね。同意もなく、」
ディアスが教鞭で叩かれながら叱られていてもアリストアは目覚めなかった。
体を拭かれて夜着に着替えさせられても起きないアリストアにディアスは笑う。
化粧を落とし浮かび上がったさらに真っ白な肌色と目元のクマに驚き、母親に言われるままアリストアのための部屋に運び寝かせた。
「アリストア様は寝顔は天使」
「我らが女神は美しい」
ディアスが運ぶアリストアの寝顔を見てからうっとり呟いている家臣達に気色悪いとは口に出さない。
ただエドウィンの暴挙を知れば斬りに動きそうだと思いながら食事を始めた。
「大将、邸に護衛の配置を」
「必要か?」
「お美しいアリストア様は攫われるかもしれません」
「お前らで回しとけ。部屋には入るなよ。母上がうるさい」
アリストアを迎え入れたことでディアスに仕官を希望する騎士がさらに増え専属の争奪戦が起こるのはまた別の話だった。
読んでいただきありがとうございます。
ようやく折り返し地点です。
もうしばらくお付き合いくださいませ。




