第十一話前編 小さな棘と歯車
戦争が終わり一月経ち、アリストアはエドウィンに庭園に招待された。どんな季節も花が咲くエドウィンのお気に入りの場所に頬が緩み笑みがこぼれそうになるのを隠して淑女らしく足を進めた。
帰国して初めての私的な逢瀬に心が弾むアリストアは大好きな髪色を見つける。笑みではなく真顔のエドウィンに驚きながらもいつもの席に座った。
目の前に置かれているお茶に手をつけ言葉を待つ。
エドウィンが真顔の時は話したいことがある時と知っていた。
人払いされた庭園に広がる美しい花を二人で独占し、優しいそよ風を感じながらエドウィンの好きなお茶を飲み至福の時間を味わいながら待つ。
アリストアにとってはエドウィンと眺める風景が一番色鮮やかで美しい世界だった。
多忙でもアリストアはエドウィンのためなら喜んで時間の調整をする。睡眠時間を削るのにためらいはなく、化粧で目元のクマさえ隠せばなにも問題はなかった。
エドウィンは美味しそうにお茶を飲んでいるアリストアを無言で眺めていた。
「大事なもののために時には犠牲が必要です。命は平等ではありません。取捨選択も王族の務め」
王妃は二度とエドウィンが戦場に行かないように毎日言い聞かせていた。王妃の言葉に巫女も頷く。
騎士として以前に男としても未熟な筋肉の少ない体のエドウィンが戦場で生き残れないのは明らかだった。
戦場に立てばすぐに殺されるのが目に見えていた。
家族以外でエドウィンに意見する存在は巫女だけ。エドウィンの体にもたれかかり、真っ赤な唇で微笑む美女は誰よりも必要な存在に思えていた。
激しい胸の鼓動に火照る体、思考を鈍らせるほど求める欲の意味を純粋無垢に育てられたエドウィンは理解できていなかった。
正常な判断ができないエドウィンは、信頼している二人から何度も聞いた言葉が正しいものと認識する。
「貴族は国のために命を捧げる義務を持ちます。何があっても生き残るべきは王族」
王妃のエドウィンの無事が一番という言葉の意図を勘違いしたまま、以前のエドウィンでは口にできなかった言葉を決意を固めてゆっくりと口を開く。
国にもエドウィンにも必要な存在は一人だけ。
「君は国に不幸をもたらす。命を捧げてくれないか」
アリストアは真顔のエドウィンの言葉が生まれて初めてストンと心に落ちてこなかった。
動揺を隠して初めてエドウィンに意図を問いかけた。
「え?失礼しました。理由を教えていただけませんか?」
「巫女姫が予言した。決して外れない」
アリストアは国のために命を捧げる覚悟はできていた。
それでも命を捧げるなら正当な理由が欲しかった。遺書を書くためにも必要だった。
不幸をもたらす根拠がわからず、エドウィンの言葉はアリストアにとっての正当な理由ではなかった。
極秘で陛下の命令と言われれば何も聞かずに従っただろう。
人質として敵国に送られても受け入れた。
アリストアにとっては一番受け入れたくない理由だった。
王妃としてエドウィンに相応しくあるためにずっと努力してきた。苦しいことも嫌なことも不満を言わずに耐えてきた。
未来の正妃に選ばれても妃教育をいまだに放棄し、使用人のお手伝いをしている巫女の代わりに公務をこなした。
巫女の起こす問題も大事にならないように対処した。慣れない巫女をフォローしながら、これからもエドウィンの歩みたい道のために励むと決意していた。
国の象徴となる未来の国王夫妻が掲げる道を、顔を上げて歩いていくつもりだった。
アリストアの成果は全て二人に捧げるつもりだった。
国王夫妻を支える側妃として。
アリストアの心の小さな棘が深くにのめりこんでいく。
ずっと努力してきたものが不確かな予言というもので壊されていく。
アリストアは手に持つカップを置いてエドウィンを無言で見つめた。
穏やかな顔でためらう素振りもなく死を命じる婚約者への信頼も愛情も崩れていく。
信じていたエドウィンとの絆はまやかしだったと残酷な事実に気付いた。
巫女を見る瞳とは正反対の冷たい瞳で自分を見る最愛の婚約者に切り捨てられた動揺を隠して、ただただ微笑んでいた。それでもカラカラに乾いた喉から何も音を出せなかった。
ディアスは報酬の拒否を願うも父親に負けた。
宰相が提案した妥協案に頷くも、一つだけ受け入れられない要望があり逃げた。
父親からの要望をどうやって断ろうかと頭を働かすことを放棄し、木の上でうたた寝をしていると信じがたい会話に眠気が覚めた。
そっと木から降り会話の主達に近づき覗くといつもと変わらないエドウィンと瞳を揺らして微笑み固まるアリストアが向き合っている。
ディアスはエドウィンの非常識に慣れたつもりだった。それでもさらに訳のわからない命令をしているエドウィンの言葉を遮り口を挟む。
「エド、事情を教えろよ。不幸をもたらすって何をするんだ?」
「国に不幸をもたらす少女。世界から私を消すのは対の少女と予言を授かりました。彼女の予言は決して外れません。巫女姫を守るのは―――」
すらすらと話すエドウィンの言葉がアリストアの頭の中を駆け巡る。
アリストアは正妃ではなく未来の側妃に変わっても不満は一切なかった。
一度もエドウィン達の行動も存在も口に出して否定したことはない。
巫女との交流は多忙で後回しにしていてもきちんと、理解して仕えようと決めていた。
側妃候補に変わっても公務は変わらず多忙のため、小さな棘について深く考えることはしなかった。
エドウィンの執務室で並んで内務に励むことはなくなった。
積み上げられている報告書を読んでも後方支援と籠城の知識しかないアリストアには隣国を攻め落とした戦の実状はわからない。
王家が認めた戦の英雄は二人。
二人への批判があれば厳しく嗜め、惜しみなく英雄への祝福を口にした。
予言ができる美しい巫女の評価は賛否両論でもエドウィンの命の危機から救い守ってくれた美しい女性は王家にもアリストアにとっても英雄。貴族達に認められるように言葉を尽くしてきた。
そしてもう一人の英雄についてはきちんと調べた。
敵国の王や将軍の首を落としたディアスを国王が英雄と決めたら英雄である。
英雄であっても王太子の行方不明に絡んだなら国賊。
ディアスがエドウィンを陥れたと囁く者がいたため、アリストアは寝る間を惜しんで戦に関する大量の報告書に目を通した。
ディアスとも言葉をかわし、探りをいれた上で、常に最前線に立ち国のために戦う英雄に野心はないと判断した。
積み重なる功績を考慮し新たに手に入った広大な土地を任される辺境伯への任命を受けたディアスは臣籍降下し継承権を失う。
願ったのは正当な兵達への報酬と母親と共に去ることだけ。
乱暴ものの王子と囁かれても、アリストアもエドウィンも一度も乱暴されていない。
エドウィン以外の王子は悪評を持っているが情報源をアリストアは調べなかった。
答えがエドウィンを悲しませることを知っていたから正しいものに塗り替えるために動かなかった。
問題ばかりの異母兄達を純粋に慕う美しく心優しい人気者の王子の笑顔より大事なものはなかった。
そんな現実から目を逸らし続けたアリストアの勘違いが生んだ世界は崩壊した。
かつてはいつも膝の上に抱き上げてくれた父、いつも手を繋いでくれていたエドウィン、目に見えるものに囚われ絆があると勘違いした愚かなアリストア。
一度もエドウィンが大事にする巫女姫を消そうと思ったことはなかった。
誰よりも信じ、信じて欲しかった人に疑われたアリストアの心に小さな棘がゆっくりとのめりこんでいく。
「抽象的なものだろう」
「彼女の予言は外れません。国を繁栄にもたらす巫女姫は守らないといけません」
微笑みながら固まるアリストアに恋人を守るという正義に酔い話が通じないエドウィン。
ディアスは全てを手に入れる権利を持つ異母弟に、不当な理由で全てを捧げて生きているだろうアリストアが殺されるなど許せなかった。
エドウィンが遊んでいた時に、必死に分厚い本を読んでいた幼い少女。
眠くならないように自分の頬をペチンと叩いて兄に怒られていた少女が死ぬ理由に心当たりはなかった。
恋と夢に溺れたエドウィンの振りかざす正義は偽善よりもたちが悪いとディアスは思いながら思考を巡らす。カチっという音が耳に響いたディアスは閃く。
ディアスは運良く方法を持っていた。二番目にいらない報奨であり、先ほどまでディアスを悩ませていた要望だった。
「エド、殺すなら俺が引き受ける。罪もないアリストアを断罪すれば不満が出るだろう。監視してやるよ。うちの領地は王都から遠い。戦勝の賞にアリストアを俺が望めばうまく収まる」
敵国の王の首を取ったディアス。
乱暴者の問題児であるが、私情に任せて手柄泥棒をした功績により辺境伯に任命されたばかりの元王子。領地に行く前に国内の貴族から婚約者を指名するように命じられていた。
「兄上が?」
「父上は俺が説得する。俺が監視してやるよ」
「ですが…。アリストアが殺すんだ。だから国のために捧げて欲しい」
「そんな理由が認められるか。罪のないアリストアに死を?それならよこせ。俺が生涯監視してやるよ。もしもアリストアがお前の大事な巫女を殺したなら俺とアリストアの首をやるよ」
アリストアは自分の意思とは関係なく進んでいくやりとりを静かに眺めていた。
数刻前に死を命じられ、次は婚約者の変更。
王家の命令は絶対である。
そんなことよりも、自分が巫女の暗殺を目論んでいると疑われていることに衝撃を受け、エドウィンに私情で人を、エドウィンの大事な人を殺すような女と思われていたことを認識すればするほど、深く深くのめりこんでいく棘はアリストアの心髄に達した。
「アリストアが殺す。国のために必要な―――」
アリストアにとって大好きで絶対の声がどんどん遠くなり、青空が真っ暗に映る。
ボトリと真っ赤な薔薇が地面に落ちた。
アリストアを呼びにきた侍女は目の前の光景に絶句する。
乱暴王子の言葉ではなく、優秀な王太子のアリストアに向けられている言葉に。
「エド様に相応しくなるために頑張る。大丈夫だよ。必要なことだもの。言葉遣いも直さないと。アリーは卒業します」
王宮での生活を始めたばかりの幼いアリストアは、今まで王妃教育をさぼっていたため勉強がエドウィンよりも遅れていた。
教師の厳しい叱責に頭を下げて謝罪し、エドウィンに合わせた授業についていくために必死に勉強していた。
アリストアへの厳しい叱責を見ていた侍女に教師が立ち去るとニコリと笑う。
「エド様がいるから大丈夫ですよ。大好きな王子様と結婚できるなんて世界で一番幸せ。今日は――――」
まだ感情を隠すことを身に付けていなかった幼いアリストアはエドウィンと過ごしたことを満面の笑みで話していた。
王妃教育が進むにつれて、淑やかさを身に付け王妃の望む淑女になり子供らしさを失った。
それでもエドウィンと二人になれば年相応の恋する少女だった。
エドウィン達のために昨夜もアリストアが徹夜をしたことを知っている侍女は怒りを抑えるためにエドウィンが恋人に贈ったものと同じ真っ赤な薔薇を踏みつけた。
侍女に踏みつけられた薔薇がくしゃりとつぶれた時に、カチッとアリストアの耳に音が響いた。
「アリーの存在は国を不幸にする」
アリストアにとって国とはエドウィンを現す言葉。
遠くなったエドウィンの声を脳が認識した時、アリストアの世界から色が消え、音もなくなった。
「俺によこせよ。俺はアリストアが生きてていけない理由が理解できない。国に捧げさせるなら、俺が引き取る。敵でさえ、戦意なきものは殺さないのに、罪のない公爵令嬢はいいのか?」
苛立ちを抑えたディアスの説得にようやくエドウィンが頷き、アリストアをエスコートして立ち上がらせた。
ディアスは死ねと命じたアリストアをエスコートするエドウィンに呆れても何も言わない。
誰にも気付かれず感情の色が無くなった瞳のアリストアは一言も話していないのにエドウィンにエスコートされ謁見の間に足を進めた。
会話を聞いていた侍女の存在に誰一人気づかなかった。




