第七話 朗報
音もなく窓から一人の青年が忍びこんだ。
柔らかい膝を枕にしていた王はゆっくりと起き上がり、息子を招き入れた。
子供の頃から扉を使わない息子を咎めることはない。
王子は戦場で情報収集を終えて、エドウィンを兵に保護させディアスと合流するのを確認した。
無愛想で短気に見えるディアスは王子の中では気が長く本気で怒ることはほとんどない。
軍規違反さえしなければ…。
珍しく荒れているディアスの思考を読みすぐに帰国した。
自分ならディアスほどエドウィン達に好きにはさせないが、頼まれないので手は貸さない。
兄はエドウィンを送り返せず、気絶するような血生臭い戦場を見せず、寝込ませ軟禁することを思いつかない軍略以外は頭が弱く甘い弟が嫌いではなかった。
王子は知識に偏りがあり、戦場に出る準備が心身共にできていなかったエドウィンの失態を笑っていた。
ディアスよりも頭が弱く先見の巫女の正体を勘違いしているエドウィンが美女と過ごす一夜を観察しながら。
エドウィンの行方不明以前の失態を報告するのはディアス達の役目なので、頼まれたことだけ記載した報告書を懐から取り出し差し出す。
「父上、こちらを。もうすぐ片付きます」
「御苦労だった。無事だったか」
「果たして喜ぶ報告かは……。珍しくディアスが困惑してました」
「あら?まぁ、まぁ、これは、おめでたいのかしら?」
愛妾は息子の書いた報告書を覗きおっとりと笑う。
初陣を迎える王子は世話役の王子が面倒を見る。
世話役から合格をもらい、騎士として一人立ちした王子には色事を教える。戦場で色仕掛けにかかり、欲に囚われ身を滅ぼさないように。
女の男の陥落の仕方と抗う方法を数多の男を虜にした過去を持つ娼館から迎え入れた熟練の技を持つ妾に教え込ませる。
楽しむ息子と嫌がる息子と反応は様々でも王命で逃がさなかった。
王妃の管轄の体も心も子供のエドウィンには教えていなかった。
急速に大人に成長しただろうエドウィンの体に半信半疑でも、王妃以外が喜ばない報告書を冷めた視線で読み、燃やす。
正式な伝令があるまでエドウィンの無事は口にしない。
***
「王族として生まれた者は宿命を持ちます。
王族の血を持つものは敬いなさい。
母親の血筋は関係ありません。王妃になるなら全ての命を慈しめるようにならないといけませんよ。
いずれ殿下はアリストア以外の妃も迎えるでしょう。嫉妬はしてはいけませんよ。
王族になるのは大変なこと。政略でも絆をきちんと結べるように努力なさい」
「アリーにはまだ早い。お父様がいるから心配いらないよ。お父様は王様より強いから。嫌なら国を出ればいい」
アリストアは懐かしい昔の夢を見た。
父の膝の上に座り母の話を聞くことが好きだったことを思い出したのは母が亡くなってから初めてだった。
母が亡くなる前は両親と食事を食べ、父の膝の上に座り母の話を聞いて、父の腕に抱かれて眠りずっと一緒に過ごしていた。
アリストアにとって幸せだった記憶。
父の膝の上で甘えることが罪だったと気付かない愚かなアリストアだった頃。
アリストアが父に見捨てられたのは仕方のないことだった。罪を犯したアリストアを父は許さない。
「兄上に話すよ。留守にしすぎだ」
「気にしないでください。叔父様、私は大丈夫です。後見についていただくだけでもありがたいことです」
「子供は我慢しなくていい」
母の月命日に墓参りに行くと叔父に会い、何度も同じ会話を繰り返す。
アリストアが悪いので叔父が留守が多い父をたしなめようとするのは止める。
父に捨てられても資産を与えられ後見についてもらっていることに感謝している。エドウィンの隣にいるために後見は必要だった。
それ以上の望みはなかった。
アリストアの世界はエドウィンさえいれば良かったから。
「大丈夫だよ。信じていれば帰ってくる。エド様を信じる。信じないと駄目。約束だもの」
アリストアはエドウィンを思い出して自分の体を抱き締めて微笑む。ベッドから降りて正装に着替える。水場に向かい、冷たい水に足を入れて進んでいく。
「清らかな心は持ってません。どうか神様に声が届きますように汚れを落としてください」
全身が濡れ、体がキンキンに冷えていく。アリストアにとっての邪念が消えるまで水に打たれる。
かつてはエドウィンが戦場に行かなくてすむように、戦のたびに先勝祈願をしていた心の醜いアリストア。禊をして、体だけは清らかにして常に祈りを捧げていた。
ようやく心身共に冷たくなり心が落ち着いたので神殿に向かう道を歩き出した。
神殿で王国屈指の美女が祈りを捧げていた。
「エドウィンをお守りください。エドウィンを―――――」
一人はぽっちゃりとした体で、炎のように力漲る瞳で熱気と額から汗を流す王妃。
「どうかご無事でありますように」
一人は王妃とは正反対の線の細い華奢な体で静かな瞳で神秘的な空気を纏い祈るアリストア。
「お美しい」
神官達にとって不謹慎でも国一番の美女の王妃と二番に美しいアリストアが跪き祈る姿は眼福だった。
王国一美しいエドウィンと王妃よりもアリストアが美しいと思っている神官が多いのは秘密とされていた。
「ご無事でありますように。心のままに進めますように。どうか、お守りください―――――」
目を閉じて一心不乱に祈るアリストアは侍女に肩を叩かれ顔を上げる。
「陛下がお呼びです」
アリストアは立ち上がり、感謝を伝え王宮に向かう。
王妃は無言で立ち上がり、アリストアより先に謁見の間に足を進めた。
朝食や日課よりも王族の命令が優先であるため侍女がアリストアの足を止めることはない。
緊迫した空気の謁見の間に入ると国王夫妻に宰相や大臣達がすでに集まっておりアリストアが礼をして控えると伝令兵が入ってきた。
「勝利しました。殿下も見つかりました」
「おぉ!!」
「おめでとうございます」
伝令兵がエドウィンの無事と勝利を声高々に宣言した。
緊迫した空気は払拭され、大臣達は勝利に喜び祝福を口にする。
強ばった顔をしていた王妃はエドウィンの無事に流れた涙をそっと拭き、アリストアはほっとして力が抜けそうな体に気合いをいれて、淑女の笑みを浮かべて伝令に感謝を告げる。
アリストアはいつもの役割を思い出し、笑みを浮かべる国王の前に立ちひざまずく。
「申してみよ」
「心ばかりの祝いの席を設けることをお許しいただけますか」
「任せよう。王家の名で」
「かしこまりました。陛下の名のもとに相応しいものを」
アリストアはゆっくりと立ち上がり礼をして退室する。
心の中で神に感謝を捧げて侍女達に至急で宴の準備を命じる。侍女達も戦後の宴の準備は慣れているのですぐに頷き、手配に動く。
アリストアは全ての指示を終えると、禊をして再び神殿に向かう。
「ありがとうございます。感謝致します」
両手を組んで神に感謝を捧げる。
しばらくすると顔をあげて、国のために命を捧げてくれた者への冥福を祈り、鎮魂歌を口づさむ。
戦前と戦後に神に祈り、歌を捧げるのは亡き母の教えである。
王妃教育より先に教わった亡き母の王族の心得はアリストアの体に染み付き、心髄にあるものだった。
エドウィンに相応しい王妃になるためにアリストアは生きている。
たとえ神への祈りの心髄にあるのがエドウィンのための願いであっても表向きは国のために祈りを捧げていた。
***
青空が夕焼け空に変わる頃、先触れの声が王宮に響いた。
アリストアは、はやる気持ちを抑えながら執務室を出て門に足を進めた。
帰国する兵達が門を潜るのを笑みを浮かべるアリストアが礼をして出迎える。
ディアスは見慣れたアリストアの出迎えに喜ぶ兵達を眺め、笑う。
ようやく戦が終りエドウィンから解放されると心底安堵した。
礼をして迎えるアリストアに最初に話しかけるのは司令官と決まっていた。
「頭をあげろ」
「お帰りなさいませ。心より無事な帰還を」
「ただいま。口上も祝いの言葉もいい」
ディアスはアリストアの長い口上を全部聞くと羨ましいと兵がうるさいので途中で止める。
いつも通りのやりとりに珍しく口角を上げている血で染まっている乱暴王子の素っ気ない物言いにアリストアは微笑み頷く。
「かしこまりました。ささやかな宴を用意しております。お時間があれば是非。正式なものは後日に」
「アリストア様!!ただいま帰りました」
「お帰りなさいませ」
アリストアはディアスや兵達を労い、エドウィンを見つけ口元が緩むのを慌てて引き締め淑女の笑みで挨拶に回る。
エドウィンは美女と共に帰国していた。
エドウィンは見慣れた髪色を見つけて、兵達に微笑んでいるアリストアの変わらない元気な姿に力が抜けた。
初めて三カ月も離れたアリストアは無垢な笑みを浮かべてエドウィンに礼をした。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。父上のもとに行くからこれで」
「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」
美女は見たことがないほど美しい少女をじっくりと見つめエドウィンの腕に胸を押し当てた。
エドウィンは腕に感じる柔らかさに体が熱くなり、甘美な夢に顔が緩むのを堪えて美女と共にいるためにやるべきことを思い出しアリストアと別れた。
アリストアはいつもは視線を合わせで微笑むエドウィンの気まずそうな顔に気付いても思考できなかった。
エドウィンの無事な姿が嬉しくて泣きそうな気持ちを必死にこらえて微笑む。
どんな時も感情を見せずに理性を優先させ完璧な立ち振舞いを、エドウィンの隣に相応しくあるためにと言い聞かせながら心を落ち着ける。
エドウィンの腕を抱く美女の存在に気付いてもエドウィンの無事に緩む頬を抑えるので精一杯だった。
アリストアにとって制御できない感情に襲われるのは初めてだったので、必死に平静を装い美女とエドウィンに礼をして見送り兵達への感謝と労わるための宴の席に足を運んだ。
兵達は用意された酒と料理を楽しみながら勝利を祝う。
美しいアリストアに感謝を告げられ、酒を注がれれば顔が緩む。
酒に酔った男達の話を聞きながらアリストアはエドウィンを捜索してくれたことにも心から感謝を告げる。
「美女がずっと一緒で――」
「甲斐甲斐しく世話をやかれて―――」
「羨ましい」
美女とエドウィンへのやっかみをアリストアは褒め言葉と勘違いしていた。
貴族とのやりとりは得意でも生粋の公爵令嬢のアリストアは兵達との言葉遊びは慣れていない。
いつもは隣にエドウィンがいるためアリストアが言葉遊びに混ざることはない。
アリストアは兵達の話を聞きながら、エドウィンが連れ帰った美女の正体に思考を巡らせた。
初代国王が出会ったとされる先見の巫女。
数多の予言で王を助け民に慕われた美しい巫女。
肖像画もなく、歴史書にもほとんど記されていない。
おとぎ話のような存在をアリストアは信じていないが、襲われていたエドウィンを助け、奇策を提案し勝利に導いた女神であるならアリストアは感謝すべき存在と判断した。
エドウィンが国王に紹介し、賓客扱いになるだろう美女に贈り物をするための情報を集めるために笑みを浮かべて兵達に話しを聞く。
美女の存在を聞いても微笑んでるアリストアに安堵した兵、エドウィンに心の中で呪詛を唱える兵、勝利に酔いしれる兵とそれぞれに宴を堪能する。
アリストアは話を聞きながら先見の巫女姫とエドウィンが惹かれ合っているのに気付いても口を挟むつもりはなかった。
微笑みながら自分にできることをするだけ。
アリストアはエドウィンとの絆を信じている。
全ての公務が終わり、アリストアは自室に帰り人払いをした。
バルコニーに出て、満天に輝く星空を見上げる。
ずっと強張っていた体の力が抜けてぺたりと座り込む。
両腕で自分の体をぎゅっと抱いてエドウィンの腕を思い出し、ポロポロと涙を溢した。
「ご無事で良かった。エド様を守ってくださりありがとうございます」
強がって何度も何度も自分に言い聞かせても本当は怖かった。
紫色のアネモネを見て信じて待つように何度も暗示をかけた。
約束を守るために信じていてもずっと不安だった。
無事なエドウィンの姿に涙を流すアリストアはノックの音に涙を拭い、深呼吸して気持ちを落ち着かせて立ち上がる。
笑みを浮かべて侍女を出迎え、椅子に座り目の前に置かれたお茶に口をつける。
温かいお茶に冷えた体が温まり、自然に笑みが零れたことに気付かない。
侍女はアリストアの嬉しそうな笑みや泣き腫らした目に気付いていても咎めない。
戦の勝利に王宮が賑わっている夜なら少女が羽目を外すのを見逃す優しさは持ち合わせていた。
たとえいつも涙を拭う手の持ち主がいなくても。




