二人だけの朝
人暦千七百五十年、三月のある朝。ミズカルズ地方(神代に『北の神威領域』と呼ばれていた地域)、ロイス公国首都近郊の霧深い森に立つ館の一室。
レン・ガルムはまだ開きたくないと訴える瞼を、緩慢な動きで擦りながら目を覚ました。
今朝はやけに森に棲む鳥たちが騒がしい。どうせまた人が迷い込んだのだろう。
この館のある森は通称・迷いの森。雲の中にいるような深い霧は方向感覚を狂わせ、一度入ったら出られず、果てには森に棲む化け物に食われる、なんて噂が流れるくらいには曰く付きの場所だ。
その真実はこの館の主が知り合いの魔術士に頼んで張らせた霧状の結界が見せる幻覚なのだが、まぁ化け物じみた人間もいるのであながち間違いとも言い切れない。
ベッドから降り、そんな自分にとってはどうでもいい思考をして頭を回転させながら、レンは普段着に着替える。
――――レン・ガルム。十八歳、男。
琥珀色の獣のような瞳に整った顔立ちをしているのだが、それを雑に切り揃えた黒髪で見え隠れさせている。『見てくれはだけは良いのに、そんなんじゃお前の取り柄が無くなるぞ?』そういえばこの間そんなことをツァオに言われたか。
「ったく、余計なお世話だっつの」
そうごちりながらレンは黒いシャツのボタンを留め、同じ色のズボンを穿いて自室から出た。
二階にある自室から一階のキッチンに移動したレンは、適当に材料を見繕い二人分の朝食を作る。
ルーン文字が刻まれたかまどの一部に触れ火を起こし、フライパンでバター、溶き卵とベーコンを炒める。そうして簡単なスクランブルエッグを作ると、それを洗って切っておいたレタスと一緒に皿に盛る。さらに間髪入れずにフライパンでパンをトーストした。
慣れた手つきで朝食を作り終えると、レンは嘆息しながら、この館の女主人を起こしに行くことにした。
「まったく、いい歳なんだからガキに起こされるようなことやめろって言った翌日にもうこれなんだもんなぁ。あの女は」
そう言いながらキッチンのドアに手をかけて・・・・・・やめた。
「・・・・・・起きてきているなら声くらいかけろよ、ツァオ。そこにいるの分かってるんだからな」
ドアに向かってまたため息を吐くと、勝手にドアが開き、一人の女性が入ってきた。
「つまらん。実につまらんなぁレン。全く面白味という物がないよ、お前は」
文句を言いつつキッチンに入ってきた若い女性は、世の男性なら寝起きでもキレイさっぱりに眠気が覚めるように絶世の美女であった。
女性にしては高身長で、スレンダーな肢体を灰色のローブで包んだ女の髪は、シルクの様に艶やかな光沢を放った長い銀髪であった。
名のある芸術家が丹精込めて作り上げた彫刻のように整えられた目鼻立ちと、美しく磨かれたルビーの様な真紅の瞳。
身体のどの部分をとっても文句無しなこの美女の名を『ツァオ・ラーズスヴィズ』、という。
ちなみに年齢は不詳と本人は言っているが、これで優に百を超えていることをレンは知っている。
ツァオはこの霧森の館の女主人にして、自称レンの母親代わりの女性だ。
しかし、レンはそんな彼女を前に今日三度目のため息を吐き眉を顰めた。
「面白味が無いだ? こないだの髪のことといい余計なお世話だ。足音はあまりしなかったがドアの向こうでクツクツと笑い声してりゃ誰だって気づくっての」
「そんな声に気づく耳はここらじゃお前くらいしか持ってないっての。・・・・・・ふむ、それより良い匂いがするじゃないか。作り終えているなら早く朝食にしよう。こちらはお腹が減って二度寝してしまいそうだ」
「腹減っているのに二度寝出来るのか、羨ましいなぁ。ならさっさと席に着け」
「おお言われなくともさ」
ツァオは手をサッと振りながらリビングに向かっていった。
「まったく・・・・」
あれでは大きな子供だ。
レンはそんなことを思いつつ、それも日常の一つかと諦め、二人分の朝食を持って自らもリビングに向かった。