マーチ不要の独立独行!
シャルルは激昂した!必ず、あの猪口才な婚約者を覗かねばならぬと決意し奮い立った。
シャルルには女体が分からぬ。シャルルは、未来の国を担う王子である。左手に春画を見て、右手と遊んで暮らして来た。なればこそ実物に対しては人一倍敏感であった。
今日未明、シャルルは湯浴みの頃を見計らい、浴場へひそりと足を踏み入れた。
シャルルには警護の伴があった。置いてけぼりである。今は脱衣所の入り口で見張りをしている。もう時既に満ちて、覗く準備は万端だが、風呂全体がやけに寂しい。
シャルルは、だんだん不安になってきた。一度浴場を出て、廊下で頬に紅葉を貼り付けた若い伴を捕まえて、何かあったのか、二日前に此処に来た時は夜でも水を流す音がして賑やかであった筈だが、と質問した。
伴は虚空を見つめたまま動かなかった。暫くせぬうちに婚約者に見つかり、シャルルの頬にも紅葉が散った。ひどく赤面した。
「——全く。いい加減殿下には慎みというものを覚えて頂かないと、殿下はともかく大勢の家臣がこうして酷い目に付き合わされる事になるんですのよ、分かっていただけませんか?」
「いだだだだ——!! 悪かった、我が悪かった!」
「だからどちらに目線を向けておられるのですかと——」
我はルスタヴェリ王妃が長子、シャルル・ルスタヴェリ・ペドロイヤである。つまりこの国の第一王子だ。
王子……であるのだよな?それが何故いま正座などをさせられて説教を食らっているのやら。だが思えば、跪拝を頂戴する機会は数あれど、我自らがこうして跪き景色を眺める経験はそう多くない。これはこれで見える世界が新鮮で良いものだ。特に太ももの辺り……おっと、これ以上の小言を聞く羽目になるのは、今以上に我の足指に多大なる負担を強いる事になってしまう。先程までの我を悔い改め懺悔しよう。次こそはと向かう明日へ光明が降り注ぐ瞬間を拝む為にも、ここで立ち上がれなくなる訳にはいかぬからな。
今は大人しく、行儀を良くして怒りが静まるまで堪え忍ぶ……ム?見える、見えぞ!! 今日の下着は水い——ゴフッ!
艶やかな脚線美ッ、晴れやかに空色ッ、そして最後は鮮やかな足技にて理想郷から追放された我。それは正しく天から地へと堕ちるかのようだった。
ふ、風呂は覗けず、覗く筈だった相手に折檻をされる運びと相成り申したが、我は満足……だ。
「まったく。殿下はいつもいつも女子寮に侵入して……今日という今日はもう我慢なりません。この事は陛下に報告させて頂きます」
「いや、待て父上だと?!
わ、分かった。我が悪かったから早まるでない!」
「いいえ、待てません。殿下はいつもいつも、わたくしの困る顔を見て楽しんでいるんでしょう? はっきり言わせて頂きますが、いい迷惑なんです。
これを機会に少しは反省して下さい」
「違うッ! 我はそなたの事を——!」
ピシャリ、と言い切る前に扉を閉めて寮から出て行ってしまった。取りつく島もない。追いかけたい所だが、ここは未だ女子寮の中なのだ。見つかってはマズイ、我も早いとこ窓から脱走せんとな。
「とまぁ、知っての通りそんな訳なので今朝からロゼリアとは少しピリピリしておるのだ。流石に悪かったと我も反省しておる、早急に和解したい。
しかし、今回は結構頭にきている様子であった。一筋縄ではいかないだろうと思う。だからリゲルよ、我はどうすれば良いと思う?」
「知りませんよ、シャルル殿下。
それは、あなたのせいで平手打ちをお見舞いされた私の方が知りたいぐらいですよ。
あの後、護衛長に鬼の様な扱きを受けた私の気持ち、貴方に分かります?」
「分からんな。我だってロゼリアに長い事折檻されたのだ、お互い様であろう」
「何がお互い様なのかはさっぱり分かりませんが……と、殿下。前の方、失礼します」
「うむ」
さて、無事に男子寮へ帰って来れたな。今回も偶々見つかってしまったのがローゼだったから良かったものの、他のレディー達に見つかってしまっていたら我とて無事では済まなかっただろう。いや待て、既に手遅れかもしれん。
ローゼは言った。父上に報告すると。
我は信じていた。たとえ今日負けても、明日勝てば良いのだと。思えばそれは誤りであったと今気がついた。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれともいうが、現実は死中に活を求める状況に身を捨てた時点で敗北が必至であった。負傷兵は衛生兵に運ばれ戦から遠ざかる訳で、我らの前線とは即ち女湯であるからして、そこから遠ざかるということは言うまでもなく幻想世界に相見える機会を永遠に喪うという事に繋がり、それを具体的かつ最悪な方法に直すと男子校への転校という結末が……。
やはり我はまだ死ぬ訳にはいかぬ、父上に事が知れては困るのだ。放課後になるまでに何としてもローゼの機嫌を
直さねばならん。
まずは身支度を整えて、授業の準備を整えねば。
「……しかし、殿下のロッカーはあいも変わらず、何故か文が湧き出てきますね。目を離すと直ぐにコレだ、一体いつの間に入れられたのやら。
このセキュリティの甘さ、護衛の立場としては容認しておくのが非常に我慢ならないのですが……。
チェック良し。ひとまず、中に入っていた便り以外には問題は無さそうですね。失礼しました、どうぞ」
「構わん。ただの紙切れ一枚や二枚如きに我は害されぬ。
それに、あること無いこと影で不敬な言葉を連ねる連中には直々に始末をつけてやりたいと常々思っておるし、我を思いやって言の葉を紡いで貰えるのも悪い気はせん。
しかし、ここは男子寮であるが故なのか、差出人が紳士ばかりなのにはある種の身の危険を感じるのだが。かと言ってこの様に淑女からの便りが入っているのもまた奇妙な話ではあるな……」
「あー、また艶文ですか。どなたか分かりませんが、見る目ありませんね」
「誰に言うておるのだ、お主は。
しかしそうか……手紙か」
「おや、手紙で謝罪を為さるおつもりで?」
「顔を合わせても碌に口も聞いてもらえんのだ。
ほとぼりが冷めるのを座して待つよりはマシだろう。
それにせっかくなので、先日まで気が進まず検めなかった手紙も読んでおこう。いくらか参考にしたい」
「それなら、これまで預かったいた手紙を、昼前には殿下のもとに届けるよう手配をしておきましょう」
「頼んだぞ」
そうやって予定を立てながらロッカールームにて着替え終わった頃には学園の始業時間が近づいておったのでトボトボと学園に向けて足を運ぶ事にした。
制服はロッカーに入れておくと寮の者が手入れをしてくれる。うむ、綺麗に仕上がっておるな。
窓から外に目を向ければ冬の澄み渡った青い空。思い返すは水色の下着。嗚呼、世界は相変わらず順調そうに廻っておるのに、我のお先はどうなることやら。
己の先行きに不安が募った我は、気が付けば渡り廊下で足を止めて窓の外に想いを馳せていた。
まだ我の向かう先は我自身にも分からぬ。当て所なく、まるで宙に浮いたこの渡り廊下と同じように頼りない。
寮と校舎は渡り廊下にて結ばれておるが故に行き来は容易い。渡り廊下の出来る前は天候によって雨具やコートなどの準備が必要になる他に、それぞれの建物がたつ浮遊島の間を毎日通うておったそうだ。島と島との間はそれなりに近いとは言え、地表から離れたところを飛び交うのでな、事故は毎年それなりに起こっていたらしい。それを思えば歩くのが煩わしいなどと贅沢な言葉は言えん。
「いや、この渡り廊下も、学園と寮との橋渡を、今日も確りと務めておる。我と比較するのは些か失礼であったか」
「ゔー、眠いです。やはり夜更かしなんてするものではありませんでした。歩くのが辛すぎます。もーなんでこの廊下はこれほどまでに長いのでしょうか……」
聞き覚えのある声がしたので、いつの間にやら足下に落としていた視線を声の方へ流す。するとなにやら小柄な令嬢がヨタヨタと、眠たそうな面をして後方から歩いて来おった。
ここを歩く者達は彼女を除き、カツカツと歩む者ばかりだからか、その小柄の割には目立っておった。たしか彼女はローゼと親しくしている伯爵令嬢では無かったか。名はなんと申しただろうか?
「……だらしの無い女生徒ですね。
殿下の御前であるという以前に、学園に通う者として最低限の行儀作法を弁えて貰いたいものです」
「まぁお主の言う事には同意だが、我は少々ならあの様な振る舞いも悪く無いと思うぞ?」
「はぁ、全くこのお方は……。嗚呼なぜこのお方はロゼリア様と言う素晴らしき女性が側に居られると言うのに、そのようなお戯れを仰るのやら。実は年下の女性が好みなので?」
「馬鹿を言うな。ローゼの少し堅い所に、あれぐらい丸い所が有ればなと、その様な意味で言ったにすぎん。
それに、彼女は我々と同い年だ」
「え?まさか。
初等部から来た、来年入学予定の見学生の間違いでは?」
まあ確かに、行き交う人に紛れる彼女の体躯は、多目に見ても中等部一年目の彼女らのそれに等しいが……
「……お主、本人には言ってやるなよ」
「おっと、口が滑りましたね。
……どうやら聞こえて無かった様です。助かりました」
「みたいだな。しかし、あれでは壁に向かって歩き出すようになるのはそう遠くない話であろう。どれ、暫し付き添ってみるのもまた一興か」
「なにを仰いますか殿下。戯れも過ぎれば冗談では済まされなくなりますよ、軽はずみな行動は控えてください」
「しかしアレだな、男子寮と女子寮が同じ島にあって良かった。もし別の島で、別の渡り廊下でしか見えぬ程に離れておったら、我は見果てぬ夢の先に敗れて抜け殻の様な毎日をおくっておったかもしれぬ」
「そこまで言いますか。いい加減に控えた方がよろしいと思いますよ?今回ばかりはどうなることやら」
「分かっておる。まずは謝罪、ほとぼりが冷めるのを待ち、次は絶対に覗いている事を悟られるよう、最大限の努力を惜しまぬことを誓おう」
「ダメだこの王子、早くなんとかしないと……」
何がダメなものか、このムッツリめ。
おっとっと。かなりぼんやりしておるな、彼女。だいぶ足がヨタついていて転んでしまいそうだ。
「あわわ——?!」
「よっと」
そして案の定、転んでしまいそうになったので倒れる前にそっと抱き留めてやる。……ふむ、軽いな。
何と無く流れでそのまま膝も抱えて横抱きにする。やはり軽いなと感心する。別にローゼが重いという訳でないが、同じ女子でもこうも違いがあるとは面白い。体格が違うからと言われたらその通りだが、ローゼをこの様に抱き上げようとすれば、我はこれからどれぐらい背が伸びれば可能だろうか? これ程容易に抱えられるようになれば、ローゼに何かあっても無理なく守れるだろうか?
そんな事を考えながら腕に抱えた子リスの様な少女を眺めておったら、これも百面相のように表情を変えて面白い。
「な……わ……うみゃああぁぁぁあ——?!」
最後は顔を真っ赤にして奇声を発しながらワナワナと震えだしたので、慌てて下ろしてやるとそそくさと学園向いて走り去って行ってしまった。さながら飼い始めの猫のような有様であった。
「な、なんと無礼な。まるで嵐のように去って行きましたが、良いんですか……って殿下、笑っておられます?」
「くはは……。いや何、少々辛気臭い事を考えておったからな。なんだか馬鹿らしくなった」
「そう……ですか。いや殿下、辛気臭いって言っても多分それ自業自得ですからね?」
「ん?そうだったか? そうだったかもな、はははっ」
最近は何やら我の周りですらきな臭くなっておる。今はこの足場よりも頼りない我かも知れんが、学園にいる内に山の如き不動の安定感を、確固たる地盤を固めて奴を迎え入れてやろう。心して待っておくが良い。あ、その間の覗きは許せ。王子にして女子を知らんとは何か情けない気がするのでな。
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リゲルの手配通りに、昼食前には届いた手紙の確認を行っておった。学園一番のレストラントにて、席をいくつか貸し切って中身の確認を、ついでに昼食に入った。
我が食事をする間にリゲルの奴に目ぼしいものを抽出してもらい、食事が終わり次第作業に移る。効率の良いやり方だ。奴の昼食事情は知らん、とは流石に気の毒なので申さぬ。暫し暇を与えてやろう。全く良く出来た主人である。
「……あやつめ、候補として出しているもの全て感謝状では無いか」
我ほどに、生れながらの社会的地位があると、事件に巻き込まれる事が度々あるのでな。高貴の者として下々の憂さを晴らす手助け程度はしてやらねばなるまい。それ故、この様な形で衆望が集まってくる。
それは良い。良いのだか……うむ。
「これは謝罪文の参考にはならないではなかろう」
もっとも、王子である我に対する謝辞があるとするならば、それは恐らく命を持って償うという形で現す内容になろうがな。
それにしても謝罪文、なんと難しいものであるか。そもそも手紙を書くというのは苦手に思うところがあってな。読む分には新たな知見を得られたり、良い余興にもなるので嫌いでは無いのだが。それを我が丹精気持ちを込めてしたためるとなると、非常に難しい事に思えてならんのだ。
残る手紙は艶文のみか。明らかに不審な手紙は偶に読ませてもらい、ひとしきり我を笑わせた後にリゲルが処理するし。これしか無いのか。
この手の手紙だと分かるものについて、リゲルの奴は検分せぬ。背筋が痒くなるとかどうとか。光に透かせばある適度内部の状態も分かるのでな。なので未開封のものが多い、多すぎる。この手の手紙は我も放置しておったからな。まさかこれ程溜まっておるとは。これからは、取り敢えず置いておけ、と言わずに、取り敢えず捨てておけ、と指示しておこう。
何故、婚約者のおる我に好意を向けてくるのだ紳士諸君。此奴らには、不敬を働いたとして謝罪を要求したくなるぞ。つまり我への謝罪は命でもって償われるという事になるが。
「ん? やれやれ、漸く淑女方のお便りを攫い出せたか」
「シャルル殿下、食事が終わったので作業を手伝います」
「いや、どれも形式張ってあまり参考になりそうも無いから、このひと束だけで良い」
「左様でございますか、それでは残りは持ち帰らせます」
「さて、一息ついたとは言えんが、午後の準備もある事だし、そろそろ教室へ戻るとするか」
「了解しました」
……放課後、仕上げる事にするか。
茶会への参加は今日は見送ろう。ローゼの奴が血迷って早速報告に向かわなければ良いが……。どんなに遅くなろうとも奴なら週末になれば向かうであろう。それまでうかうかしてられん、急ぎ仕上げねば! ん?
おかしい、一通足りん気がする。制服のポケットに無造作に突っ込んだのがいけないのだろうか? まさか——
「落とした」
「——ですので、やはりタラバガニがヤドカリ上科に分類されているのはどうなのか……って、何落としたんです?」
「戯け! お主が蟹がどうたら言うておる間に手紙を一通落としてしまったではないか」
「し、失礼しました。警護を務める者として気付かなかったとは不覚。この失態は直ぐに取り賄います」
「で、護衛であるお主から離れぬように、我もまた引き返せと申すか?」
「……面目次第もございません」
「まあ良い、さして遠くないところに落ちているだろう。
引き返すとしよう」
まあ我が適当な扱い方をしていたのが原因であるし、そもそも拾いに行かない選択肢もあるが、万一書いた者に今更になって拾われでもしたら、我の心象も損なう。返事も出さんで今更の気はするがな。
暫く引き返すと、思った通り直ぐにそれらしき手紙が落ちているところを、曲がり角の先に見つけた。見つけたのだか……
「不味い、もう既に誰かに拾われて……ん?」
……なぜ彼女が?
曲がり角で立ち止まり、身を潜め隠れる。そこからひっそり覗いた角の先には、手に取った洋封筒を不思議そうに眺める、一人の少女の姿があった。