三枚目の遺書
~野沢菜の前進~
口当たりは滑らかで。緩やかに滑り込んだ後は口の中にに程よい酸味と甘み。
咀嚼することで存在を表す白桃の身が程よいアクセントを醸し出している。
「おいしい」
と僕は言う。
「知ってる」
と彼は返す。
教室の中は茜色の光が差し込み、カメラを持っていたら―などと、写真なぞ撮ったこともないくせに考えてしまうような景色になっている。
その中で僕と彼はひとつの机を挟んで座りヨーグルトを食べていた。
――稲葉 菜 いなば なつ
その名前を知ったのは1年前だ。
その日は生徒会役員立候補者が、全校生徒500人強が集まる講堂で立会演説をしており。
僕は壇上で原稿の内容を頭の中で反芻しながら、他の立候補者の緊張とも興奮ともとれるような声の震えを漠然と感じていた。
ふと、声の震えが止まった。いや、そもそも声が聞こえない。
一瞬、耳鳴りが両耳同時に起こったのかと思った。
顔をあげて演説をしていた立候補者の顔を見ると、どこかを見つめたまま固まっている。
「おい、起きろ」
静かな講堂に響くのは、体育教師特有の少しドスの利いた、しかしよく通る大きな声。
見ると、一人の生徒がジャージにTシャツの恐らく体育教師に声を掛けられていた。
それなりに距離があるのに加え最近視力が落ちている僕の目には、その生徒ははっきりとは認識できなかったが、体育教師の発言によるとどうやら寝ていたらしい。
「おい」
先ほど聞いた声に少し焦りにも似た苛立ちが含まれ、再度声がかけられる。
「おい、ちょっとそいつ起こせ」
どうやら、まだ起きないらしい。
「・・・来い」
その場限りの注意ではすまなくなったようで、恐らく彼の行先は講堂の外だろう。
既に候補者の演説は再開されており、どことなく眼下に並んでいる生徒たちの黒い頭も落ち着きを取り戻したように見える。
正直なところ、この演説会の主役の一人ともいえる僕が考えてはいけないのかもしれないが、気持ちは図る。
むしろ最前列などで真剣に演説を聞いている人などを見ると、「君たちの方が生徒会役員に向いているんじゃないか」と尋ねたくなるくらいに。
生徒会の定員は10人。
立候補者の数も10人。
その内、先生や周りの人間から推薦され(恐らく渋々)立候補したのは僕を含め8人。
この状況で不信任など起こる可能性は恐ろしく低いと思うのだが、仮に不信任になるような人間がいたとしてもそんな人間の演説などは、最初から聞きたいとは思わないだろう。
そんなことを考えていると、女性教師の声が僕の立候補した役職名、次いで名前を呼んだ。
「生徒会1年生副会長立候補、野沢 和孝」
僕は立ち上がり、演説のため設置された台の前に立つ。
眼下に並ぶ無数の顔に頭を下げ、正面を向き、息を吸い込む。
「僕が、生徒会副会長に立候補した」
「ノザワナ!」
思考と息が同時に止まった。
「漬物!」
漬物。あぁ、だから野沢菜か。
依然息は止まったままだが、その二語の関連性はなぜか一瞬で理解した。
「黙れ!」
先ほどの体育教師だ。ドスが全開になっている。
「稲葉!来い!」
場所から察するにさっきの生徒だ。まだ講堂内に居たようだ。
バタバタと物音がした後、僕の名前を呼んだ声と同じ声が言った。
「野沢君、大丈夫ですから続けてください」
僕はもう一度息を吸った。
「野沢菜」
あの後立会演説も終わり、今後のことはまた結果が出てから収集をかけて説明をすると例の女性教師から言われた。
立候補者たちにはそれ以外に特に何も言われなかったが、自然、去年生徒会にいた2年生や先生に話を聞きに行く人間と帰る人間に分かれた。
僕は後者の人間で、鞄を取りに廊下を歩いていたところ、不意に背後からそう言われた。
振り返ると、一人の男子生徒が笑っていた。爆笑していた。
体は大きくくの字に曲がり、かろうじて見えた顔の目は極限まで細められ、溜まった涙は今にもこぼれそうで。
僕は再度振り返り、鞄を取りに行くために活動を再開する。
「別に馬鹿にしてるわけじゃないんだよ」
震えた声が聞こえ、僕の横に彼が並び同じ速度で歩き始めた。
「君の名前は野沢・・・えーっと何とかでしょ?俺の名前はイナバナツ。稲穂の稲に葉っぱ、んでナツがね菜っ葉の菜なんだよ」
それがどうした。僕は目で訴える。
稲葉は僕を二回自身を一回指さしてまた言った。
「野沢菜」
それがどうした。僕は再度目で訴える。
「あれ?反応薄いねー、面白くない?野沢菜だよ?の・ざ・わ・な、生徒会副会長立候補者が漬物って何か面白くない?」
「面白くないし、僕は漬物じゃない」
こいつはあれだ、面倒臭い奴だ。
僕は野沢菜と僕の名前から生じる笑いの関連性を説明しだした稲葉を見てそう思った。
「あー、でもなんかそこまですっぱり否定されるとねー面白くなくなったかなー」
独り言なのか話しかけているかわからない口調で稲葉は続ける。
「いやさっきのさ、演説会?だっけ?なんでああゆう我慢大会みたいなことやるんだろーね」
「立会演説。顔と名前を覚えてもらう意味もあるんじゃないの」
あぁ、無視すればいいのに返事をしてしまった。
「明後日には、いや明日には皆忘れてるよ」
「少しずつ覚えていけばいいんじゃないか」
「結局意味ないよね」
「僕にそんなこと言われても困る」
不意に沈黙が訪れた。こういうタイプの奴がいきなり黙ると何か、こう、少し怖い。
僕は何か変なことを言ったのだろうか、緊張から少し手汗がにじんだ。
ふと、稲葉が口を開く。
「野沢菜君さー面白いけど面白くないよね」
面白い?面白くない?何が言いたいのだろうか。
「んーあーそーだねー・・・あー」
言葉を探しているのだろうか、不明瞭な間投詞を述べ稲葉は続ける。
「面白いんだけど、不快?何か気に入らない?みたいな」
ようやく頭の整理が追いつき、僕は返答する。
「気に障ることをいったんなら謝るけど、話しかけてきたのは君だ。僕だって初対面の人に野沢菜とか漬物とか言われて気分はよくないんだ」
「うるさいなー、いいじゃん野沢菜。面白いと思ったんだもん。それと別に気に障ることなんて言ってないよ。強いて言うなら君の受け答え全部気に障るかな」
表情を変えずに笑いながら彼は続けた。
「面白いのは野沢菜、面白くないのは君の受け答え」
最早、意味が分からない。僕は歩みを止めた。
「どしたの?野沢菜君?」
「僕と話すのが嫌なら、どこかへ行ってくれ。教室に用があるなら僕はここで待っているからその間に行ってきてくれ」
これ以上は耐えられそうもなかった。そもそも話しかけてきた理由からして理解できない。僕の受け答えが気に入らないと、彼は確かにそういった。それならば僕から離れてもらえばいい話だ。
「ちなみに僕の名前はのざ」
「君と話すのは嫌じゃないけど?」
僕の言葉を遮って、やはり表情を変えずに彼は言った。
僕とそして彼と同じクラスのある生徒が死んだのは、その丁度1年後だった。
風の強い曇りの日だった。
「おい、静かに、ちゃんと前を向け。大事な話がある」
いつもの朝礼の時間に5分ほど遅れて教室に入ってきた担任教師が険しい顔をして言う。
誰?なんかしたんじゃないの?昨日?煙草とか?3組のやつじゃない?
生徒たちは口々に考えられる可能性を発表する。
「おい」
担任教師が更に言う。
まずいと思ったのか、発表者たちは口を閉ざし前を向いた。
「えー、詳しいことはまだ俺もよく聞いてないんだが・・・今朝、校舎で飛び降り自殺があった。」
教室内の空気が一瞬にして固まる。予期していたのだろう教師は続けて言う。
「あー俺もかなり驚いた、ショックを受けている。同じ生徒としてお前らは俺以上にショックを受けるんじゃないかと思う。混乱もすると思うし今俺が言っていることがよくわからないやつもいるかもしれないが、俺もこれ以上の説明をするには時間も情報もない。ただもし今回のことで精神的にきつくなったりしたやつとかがいたら、その時はすぐに先生に言ってくれ。あ、別に俺じゃなくてもいいからな。
とにかく、一人で考え込まないように・・・えー、いいか。じゃあ、今後の動きについて説明するぞ。まぁ、朝からこんなことを言われてかなり混乱するとは思うから流石に今日の立会演説会は来週に延期になる。えーだから今日は授業が通常道理行われる。
但し、既に昼までということでお前らには連絡をしているから時間自体は変わらない。
つまり、いつも道理の時間割が昼まであるということになる。
さっきも言ったが無理はするな、何かあったら先生に言いなさい。後、また放下の終礼で詳しいことは説明する。いろいろと気になることはあるかもしれないが今の時点で言えることは以上だ。何か質問はあるか?」
生徒たちはお互いに顔を見合わせる。
「あ、先生」
一人の生徒が手を挙げる。学級委員の男子だ。
「教科書的なものを全然持ってきてないんですけど、どーなるんですか」
「あー、授業に関しては各教科の先生が大至急手を打つそうだ、だから少し授業に遅れる先生もいるかもしれないので、それまではおとなしく待つように。
ほかに質問は・・・じゃあ終わるぞ、起立。礼」
と、いうのが、僕が知り合いから訊いたその日の朝の教室の風景である。
僕はその時間、生徒指導の教師、校長、そして稲葉の4人と校長室にいた。
「つまり、君たちが来たときにはもう、その・・・落ちてしまっていたんだね」
「はい」
校長に訊かれ、僕は答える。校長室では僕と稲葉がソファーに並んで座り、一枚板の机を挟んで向かいのソファーに校長が、生徒指導の教師はその横に腕を組んで立っている。
「稲葉」
腕を組んだまま返事を促され、ソファーにこれでもかと体重を預けたまま稲葉は答えた。
「あいあい」
「何か気になる事とかあったかな」
再度校長に訊かれ即座に稲葉が答える。
「いいえー。野沢」
「結構焦っていたので、あまり記憶にないです」
恐らく先ほどの当てつけなのだろう。腕を組み、体育教師の真似をしている稲葉に返事を促され、どのみち答えるつもりだったので背筋を伸ばしたまま答えた。
「おい、人が死んでるんだぞ」
「あいあい」
組んでいた腕をほどいた。
「君達は、あの子とはどういう関係だったのかな」
「同じクラスの」人間だけど正直よく知らない。と、言うには今年度の2年次生徒会副会長立候補者という肩書が邪魔をしてなんとなく答えあぐねていると
「あんなの知らないし興味もない。確かに、あの人が飛び降りた場所に一番最初に来たのは俺と野沢だけどただそれだけ、知ってることは全部話した。まだ何か?」
やけに饒舌に稲葉が捲し立てた。
「貴様っ」
「先生落ち着いて、彼も混乱しているんですよ。君も落ち着いてください」
「あー、そうなんですよ。結構ショックでー・・・今日はもう帰っていいっすか?」
明らかに気だるそうに稲葉は言う。
「ふざけるなっ」
「先生、だから落ち着いて。彼は混乱しているんです」
最初こそ校長はなんていい人なんだろうと思っていたが、何度も聞いていると稲葉という生徒は混乱しているのだ、と自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
そういえば、先ほどの「何か気になる事とかあったかな」という質問も中身のない質問だった。何故あんな質問をしたのだろうか。芋づる式にずるずると姿を見せていく疑問を解消する。前に声がかかる。
「ところで野沢君はどうしたいかな?やっぱり今日は帰るかい?生徒会の仕事も大変かもしれないが皆分かってくれると思うよ。先生には私たちから話をしておくから」
「じゃあ、そうします。すいません」
生徒会の仕事のことを考えると少し抵抗はあったが、僕はやはり帰ることにした。
「別に謝らなくてもいいんだよ、当然の反応だからね。僕が君の立場でもきっと今日は帰っていると思うよ。本当は専門の先生に診てもらったりするところなんだけど二人とも大丈夫だと言うし、やはり自分でどうにかできるならばそれにこしたことはないからね」
「はい、あの、ありがとうございます」
引きずり出した疑問に少し引っ掛かりを感じつつも、発言をすることでそれをすり潰した。
「失礼しました」
僕は一礼し校長室を後にする。稲葉はお許しが出たとたんに無言で出て行った。
鞄を取りに廊下を歩きながら、そういえば時間的にもう授業が始まっているけど、教室に入ってもいいのだろうか。すごく注目を集めそうな気がする。などと考えていると
「野沢菜」
振り返りながら文句を言ってやろうと思ったら、振り返った瞬間に何かが顔面に飛んできた。地味に痛い。
「いやぁ、なんか懐かしいね」
痛みから出た生理的な涙を拭うと意外にも真顔の稲葉がいた。
「あの時は、鞄なんか飛んでこなかった」
「オプションだよ」
「注文してない」
「サービスだよ」
「迷惑だよ」
「君が殺したんだろ」
稲葉は表情を変えずに言う。急に手汗がにじみ始める。
「それもオプションか」
「君がした事とそれによって起こった結果だけ抜き出して、端的に言うとそういう表現になるだけだよ、つまり君のせいで死んだという言い方もできるね」
「どういう表現だ」
「君が殺したんだろ」
もう一度、やはり表情を変えずに繰り返す。
手汗が止まらない、僕は今どんな表情をしているのだろう。分からない。焦る。頭の中に漠然とした白い風景が浮かぶ。何も考えられない。稲葉の口が弧を描く。
「相変わらずノリが悪いね、流石だな明智君とかぁうっ」
何が言いたいのか理解した次の瞬間に、僕は諸悪の根源を砕き潰すため、鞄を思い切り振りかざしていた。
「痛いっいがっ、待ってっ、タイぐっ、ストップッ、何か固いのがっ、辞書っぽいのがっ」
僕は肩どころか体全体で息をしながら鞄をおろし彼を睨む。
「悪趣味、にも、ほどが、ある、馬鹿じゃ、ないか」
「イヤー、痛かった、まあまあ、落ち着いて」
いつの間にか、いつもの笑みを浮かべ、しかし同様に息を乱しながら彼は言う。
「僕の血圧を上げたのは、紛れもなく君なんだがな」段々と落ち着いてきた。
「そこまで怒るとは、思ってなかったんだよ。君ってほら、そういうフキンシン?とかなんかそういうの、あんまり気にしなさそうだったから」彼もそのようだ。
「君と一緒にしないでほしいんですが」
僕はあえて丁寧に言った。
「まあ、俺は確かに気にしないけどね」
「どういう意味だ」
何かを意図して比喩的に言っているのか、と僕は尋ねる。
「言葉どおりの意味だよ。他人が死のうが生きようが、大怪我しようが無傷だろうが、不治の病にかかろうが100歳超えても元気だろうが、俺にはどーでもいい。ましてや自殺なんてむしろ騒いでいる人間に対して嫌悪感すら抱くね。鬱陶しい。意味がないんだよ。ほっといたってそのうち勝手に死ぬのに、死にたいだなんて考える事自体にさ」
「それは少し乱暴じゃないか、誰にだってその人にしかわからないような悩みを持っている。結局死ぬことでしか解決できないと思ってしまう人がいたとしても不思議ではないし、そういう人っていうのは助けてくれる人を見つける余裕もないから。結果死んでしまったとしてもそれはそれで残った人間は、考えさせられる部分があると思う」
「さすが野沢菜君だ。実に不愉快で中身のない回答をどうも有り難う」
おどけたように稲葉は言う。少し癪に障ったので言い返す。
「じゃあ、君はどうすれば良いというんだ。いじめられていようが、困っていようが全て放っておくべきだとでもいうのか」
「それこそ乱暴だ。いいかい。俺はいじめを放っておけとも、困っている人間を見捨てろとも言っていない」
笑みを浮かべたまま、まるで生徒から手ごたえのある質問をうけた教師のように続ける。
「俺はいじめの問題自体に云々と講釈を垂れるつもりはない、さっきも言ったけど俺には関係ないからね。俺が言いたいのは自殺する事を躊躇う必要がないということ。
いろんな人が言っているだろう?人はなぜ生きていると思う?答えは未だ出てこない。人は遺伝子の乗り物に過ぎないからだ。そんなもの元々無いんだよ。
では人生とは何か?死ぬまでの暇つぶしだよ。所詮、その程度のものだ。俺曰く。
ならば、何をしたっていいじゃないか。大体、その自分の命を投げ打とうとしてるんだ。それだけの覚悟があるんなら、何でもできると思わないか?
その可能性を、たかだか自分の命一つ消すために消費するなんて、実に愚かだ、まさしく、救いようがない。
自分が死ぬ位なら気に入らないやつを片っ端から殺す位の事すればいいのにね」
ところどころ間を開けて演説をするかのように稲葉は言った。僕はさらに反論する。
「論点がずれてるし。それは極端な考え方だそもそも」
「あー、ストップ。うぇい。うぇい」
かなり母国語的な発音の異国語で、僕の発言を遮る。
「俺はそういう言い合いは終わりがないからしないの。他人がどう言おうが自分の中で結論が出れば万事おっけー。おわかり?」
わざとしているのかと思うような癪に障る言い方だが、確かに反論したところで意味もなさそうなので僕はようやく帰路につくことにした。
「あ、帰んの?んじゃねー」
「君はどうするんだ、ゲーセンにでも行くのか?」
「いや帰るけど?何でゲーセン?」
「あーそうか、なんとなくだよ。じゃあ」
僕は片手をあげながら昇降口へと歩みを進めた。
―――体中の感覚が鋭敏になり。視力、聴力ともに研ぎ澄まされたような感覚に陥って、体中の体温が上へ上へと向かい、上ってきた体温のせいで頭だけがフリーズ寸前のパソコンのように熱を持ち、朦朧としている。滲み出した手汗がそのままその手に握られた紙に吸収されていく。
僕はあの後家に帰り、自室に籠ってこの手紙のある部分を何度も繰り返し読んでいた。
タイトルは「遺書」
問題の部分は二枚目の後半部分に記されていた。
『・・・×月×日生徒会立候補者の演説の日。僕は井上と新井田と清水に外のトイレに呼び出された。立会演説会の鬱憤晴らしだ。僕はサンドバックにされた。殴られた。蹴られた。水をかけられた後砂をかけられた。口の中にも無理やり入れられた。そしてまた殴られた、蹴られた。意識が飛びそうになったがそれに気付いた清水に水をかけられた。そしてまた殴られた。殴られ倒れた拍子にトイレの入り口に立っていた人と目があった。三人ともトイレの出入り口を塞ぐように立っていたので気づかなかったみたいだったけど、確かにいた。同じクラスの野沢和孝君だった。いつもならどうせ助けてくれるとかは期待してないけど。生徒会に立候補するような人なら助けてくれるかもしれないと思った。声を出そうと思ったら出なかった。タイミング悪く蹴られたからだ。視界も一瞬ぶれた。口の中から砂だけが出てきた。視線を頑張って元に戻したときには誰もいなかった。そしてまた殴られた。蹴られた。 』
僕はその部分だけをを、何度も何度も何度も読んだ。違う人間の名前であってほしいと何度も読んだ。
果たして、意味はなかった。
気が付くと、持っていた部分は汗でふにゃふにゃになりその周辺の文字はぼけて読みづらくなっていた。
これを見つけたのは今日の朝、生徒が自殺した場所。
演説の練習をしておこうといつもよりだいぶ早めに学校へと登校した僕は、靴箱で既に自分のクラスの誰かが登校していることに気付いた。
いつもの時間でさえまばらにしか来ていないというのに一体誰だろうと思ったが、名前と顔が頭の中で一致しなかったため諦めて教室で確認することにした。
しかし、教室にはだれもおらず。見る限りでは鞄すらなく、職員室にでも呼ばれたのかと思いながらまだ薄暗い窓の外を見ていたところ、何かがものすごい速さで落ちて行った。一瞬鳥か何かかと思ったが、それにしては大きい。
気になって窓から下をのぞいてみると、仰向けに倒れている男子生徒がいた。
そこからのことははっきりとは覚えていないが、確か、先生!などと叫びながら生徒の元まで走って行った記憶がある。呼吸を確認したり、気道を確保したりと。できることはいくつかあったのかもしれないが、頭からは絶え間なく血が流れ、右手がおかしな方向に曲がり、口から出た血やよくわからない液体などでぐちゃぐちゃになった顔など、あまりにも現実離れした悲惨な光景に、おい。おい。と声をかけることしかできなかった。
そのように半ば自失していた時、その右手に握られていた何かが風に飛ばされそうになっているのに気付いた。それが何かはわからなかったが、とにかく飛ばされてはいけないだろうと直感的に思い慌てて拾った。それで我に返った僕はそのままそれをポケットにねじ込み、再度教師を呼ぶ為に走った。
その後先生を連れて戻ってきたところ、なぜか稲葉が居り「朝から大変だねぇ」と場違いこの上ないトーンで話しかけてきた。
たまたま連れてきたのが生徒指導の教師だったのだが、稲葉には一瞥をくれただけで「お前らは、職員室の先生に事情を話して指示に従いなさい」と言い残しどこかへ携帯で連絡を取り始めた。
その後職員室で言われた通り事情を話すとしばらく放置された後、校長室で待つようにと言われたため校長室で待っていたのだが。「初めて入った」と言いながら、稲葉は落ち着かずにうろうろと色々なものを見て回っており、そのうち廊下に面しているドアとは違うドアの向こうに稲葉が消え、僕自身も落ち着いてきたところで手紙のことを思い出し、告げに行こうと思ったが、遠目から見る限りでも職員室内が騒然としていたのが分かったため、後で話すことに決め校長室へと戻りソファーへと再度腰を下ろした。
その後しばらく教師も、どこへ行ったのか稲葉も戻ってこず。手持ち無沙汰に内容だけざっと確認しておこうと自分に半ば言い聞かせる形で呟き、ポケットから出した手紙を多少の罪悪感を覚えながらも読み始めたのだった。
・・・どうしよう。
この手紙を誰かに読まれてしまえば、その時点で僕はどうなるのだろう。生徒会ではいられなくなる。周囲の信用もなくなる。むしろマイナスになる。教室内ではどうなるのだろうか、幼馴染や昔からの友人など特別親しい関係の人間はいなかったが、生徒会ということでそれなりに一目置かれていると思う。それが無くなるのか?無くなるだけで済むのか?生徒会という肩書が寧ろ嫌悪感を助長するのでは無いか?陰口を叩かれたり、無視されたりするのだろうか?
それはもう、いじめじゃないか。今度は僕がいじめられるのか?
そこまで考えると足のほうから体中に小さい穴が開いていくような、嫌悪感が湧き上がってきた。吐きそうだ。嗚咽を堪え、再度考えを巡らす。
いや待て、いじめはないだろう。この文章が読まれるということはいじめの事が明るみに出るということだ。教師もいじめやそれに類するものには神経質になるはず。
普段から教師に目を付けられている、いじめをしそうな主要メンバーは特に身動きがとりづらい状態になるだろう。
だが、表立ってされないだけじゃないか?明るみに出にくいいじめほど性質が悪いと聞いたことがある。いやでも・・・
明確な答えなど出ないと解っている意味のない問いを脳内で繰り返していた僕は不意に、この原因となった日のことを思い出した。
――1年前の今日。僕は稲葉に
「僕は君が嫌いだ」
と返し、そのあともなんだかしゃべっていた稲葉を無視して教室へと鞄を取りに向かった。その後、帰ったところで特にやることがないことに気付き、自分も質問とかに行けばよかったかと少し後悔していたところ、そういえば外のトイレの水道が一つ壊れていると聞いていたことを思い出した。
ここはひとつ確認しておいて、正式に着任したら即座に取り掛かって直せるようにしておこうと思い立った。直すといっても実際に直すのは用務員の人なのだが、運動部の知り合いが不便だ不便だとぼやいていたので、何となくそれを直接聞いた自分がどうにかしなくてはと責任を感じていた。
外のトイレはぱっと見、トイレの床面に砂が付き水にぬれた個所が汚くなっているところを除けば、想像していたよりもきれいで一人感心していたところ、視界の端にたばこの吸い殻が何本か落ちているのに気づき、管理が行き届いているのかいないのかよくわからないな等と考えながら本来の目的を思い出して一歩中に入った。
中にはこれまた予想に反し複数の生徒が居た。
そのため間取りもよく確認はできないが入口の仕切り壁を挟んで手洗い場があり、その奥にさらに仕切りを挟んで小便用の便器がいくつか並んでいた。
おそらく反対の壁側に個室が並んでいるのだろうと思ったが、そこまで確認するのは流石に難しく、蛇口を確認したらすぐに立ち去ろうとほぼ反射的に判断しもう一歩足を踏み出したが、その瞬間見えた光景に、僕は違和感を覚えた。
改めて見てみると3人の生徒がたむろするように立っている半円の中心に、一人の生徒が横になっている。目があった。気がした。
蛇口の確認もせずその場を立ち去る。できるだけ音をたてないように。自分自身の存在を消すように。頭の中は冷静で、気味が悪いほど落ち着いていた。
そこからのことはよく覚えておらず、気が付いたら家に居り、玄関の扉を開けいつもの様に「ただいま」と発せられた自分の声で我に返った。
家には誰もおらず、今日は家族の帰りが揃って遅いのかと、どうでもいいことを妙に真剣に考えながら自室に入り、制服を脱ぎ寝間着代わりのジャージに着替える。
ベットに横になり目を閉じる。すぐに意識は遠くなった。
目が覚めた時にはまだ夕方でそんなに寝れなかったかと思ったが、不意に口を開いたままの鞄が目に入り今日は半日で学校が終わったことを思い出した。
そんなことに今の今まで気づかなかった自分がなんだかおかしく思えて、自嘲気味に笑ったがすぐにこんな状況で笑っていられる自分がどこか遠くの誰かのように思えて、何故か泣きそうになった。
・・・あれは、いじめだろうな。
あの時トイレで、一人の生徒が横になっていることが確認できた瞬間にその生徒の体が揺れた。周りにいた生徒の動きからすると多分蹴られたのだろう。
ほかに暴力を振るうところを直接は見ていないが、思い出せる限りだといやに砂に汚れていた気がする。確かに床は砂で汚れていたが、転げまわったとしてもあそこまでは汚れないと思う。つまり砂をわざわざかけられたのだ。その行為の酷さよりもその行為に至った感覚が気になった。
昨日今日始まったいじめではないのだろうか。その場にいた生徒がどの学年の生徒なのかを確認する余裕はなかったが、仮に今年入学の生徒だとしても半年は経っている。
今まで、自分の周りにはいじめなどないと思っていた。むしろいじめが云々という人は被害者意識が高すぎる人か、生徒同士の仲を良くしようと考える神経質な教師たちの策略だと思っていた時期さえあった。
勿論成長するにつれ、いじめがどこかの学校で実際に起きていることは紛れもない事実であることは理解したが、今まで考えてこなかった分その理解は浅はかで、明るみにさえ出れば意外と簡単に解決するものと信じて疑わなかった。
手を伸ばしてきた訳でも無かったが、「助けて」と、声さえ出さなかったが、汚いトイレの床に横になり。砂をかけられ。暴力を振るわれている生徒を見て。当たり前のように。
僕は逃げた。
定期的に行われるいじめに対する講演会で、講演に来る今一つ職業がわからない人たちは口をそろえて、「いじめは見ているだけでも同罪だ」「いじめられている人を助ける勇気を」と言っていた。その言葉を聞いたときは助けるに決まっていると思い、何をそんなに大げさに騒いでいるのかが解らなかった。
思考は短絡的になり、理性はあくまで保身を優先し、外聞を無視した本性が、自分の中で導き出した結論が、行動として表に出た。
僕は逃げたのだ。
また、泣きそうになった。
一年前のことを思い出していると、玄関から物音がした。
「ただいま」
階下から声が聞こえ弟が返ってきたことを知る。
おかえり、と声を出しそうになって、自分の机の上にある手紙に気づきあわてて引き出しにしまうと、部屋のドアが開き弟が顔を出した。
「あ」
「おかえり」
「ただいま、さっきもいったけど」
そういいながら、弟の和巳―カズミ―は兄弟兼用の部屋へと入りドアを閉める。
「悪い、ちょっと考え事してて」
「あ、いや、別にそういうつもりじゃなくて・・・まぁいいや。お母さんたちは?」
「父さんは出張って昨日言ったじゃないか。母さんはまだ帰ってきてない、靴なかったろ」
「うん・・・ごめん」
和巳はばつが悪そうに俯き、制服を着替えている。見慣れた制服だ。
しかし学校で必要以上の会話をすることはなく、何かしらの接触があったとしてもそれは生徒会役員の先輩と後輩の一生徒としてのもの。
最初からそうであった訳では無い。
元々兄弟仲が良かったこともあり、和巳が入試に合格した時点で、それこそまだ教科書も揃っていない時期から食堂のお勧めのメニューや、穴場的な寛ぎスペースの場所を教えたり、校則違反であるにも関わらず、入学祝と称して学校指定ではない制服の裏ボタンを贈ったりと、ともすればお節介とも言えるほどの世話を焼いていたし、和巳もその助言を活用し喜んでいた。だがそのようなやり取りが無くなったのは、それから割と直ぐの事だった。
和巳がすでに生徒会だった僕に頼り、掃除場所をどうにか変えて欲しいと頼んできた事があったのだ。
僕はそれを聞き「弟だからと、贔屓をするつもりはない。するべき場所で掃除をしろ」と言い断った。すると和巳は、どうしても苦手な人と二人で掃除をしなければならない。どの掃除場所でもちゃんとするから。さぼりたいわけじゃないから。と食い下がりなかなか諦めなかったがその問答をしている内に掃除が始まり、その場では話が一旦終わりとなった。
しかしその日、和巳は家に帰って食事をしている時にその話題をもう一度持ち上げてきた。
流石にしつこいので苛立ちを隠しもせず、無理だ。諦めろ。と返していたのだが、あまりにしつこかったことと両親が今日と同じようにどちらも不在で止める人間がいなかったこともあり、
「いい加減にしろ!無理だと言っているだろう。俺がお前の兄貴だからとこんな頼みをしてくるのなら、学校ではお前とは他人だ!」
と、怒鳴りつけた。
それからは二度とその話題を持ち上げてくることはなかったが、怒鳴りつけた時の和巳の顔は何故かよく思い出せない。
直前までの必至に懇願してきていた表情は思い出せるのだが、その瞬間の表情だけはもやがかかったようにはっきりとしないのである。
そして、その日から学校で僕は和巳のことを野沢と呼んだ。
家では挨拶以外会話を交わすことはほぼなくなり、もしあったとしても和巳から僕に話しかけてきて、先ほどのような返答を返すだけである。
「ごはん、先食べて良い?」
「ああ」
遺書のことが気にかかり、引き出しを見つめたまま答える。
ドアが閉まる音がし、次いで僕とほとんど変わらない大きさの体が階段を下りていく音がするのを聞き、引き出しからもう一度手紙を出す。開いてもう一度同じ部分を読んでみようかとも思ったがやめた。
これからのことについて、目を閉じて考える。
・・・とにかく、これを処分してしまえばいいわけだ、だが書き残した思いはどうなる?
たとえ僕の立場がなくなったとしてもいじめに加担していた人間や、その事実を明るみに出せればその方がいいのではないか?
何にとって?学校にとって?生徒にとって?教師にとって?
なぜ僕がそれらのために犠牲にならなくちゃいけないんだ。
みんな気付きもしなかったんじゃないか。たまたま気付いた僕が何故責任を負わなくちゃいけないんだ。そうだ、要は事実だけが明るみに出ればいいんだろ。いや、もう目星はつけられているかもしれない。今まで気付かなかったにせよ流石に人が一人死んでるんだ。自殺の理由とかの調査はするだろう。そうすればきっといじめの問題が出てくるはずだ、なら僕が何もしなくとも同じことじゃないか。
よし、これは捨ててしまおう。いや燃やした方が良いかもしれない。
家で燃やすには紙の量が多すぎる、かといって少しずつ燃やしていたらその間に誰かに気付かれるかもしれない。一気に燃やせて且つ、それに気づかれにくい場所。
思い当たる場所が無くしばらく考えていたが、やはり思いつかなかったので、一旦制服の内ポケットに遺書をしまい明日学校に行ってめぼしいところを探すことにした。
そこまで決めたところで昼から何も食べていないことに気づき、夕食を食べに僕は居間へと下りて行った。
そう、そこまでは確かにあったのだ。
次の日、学校で昼休みにめぼしい場所を探そうと急いで昼食を済ませ校内を歩きながら、改めて紙の分量を確認しておこうと内ポケットを確認したら跡形も無くなっていた。
考えられる可能性は二つ。
一つは家に落としていること。内ポケットに入れたつもりだったが何かの拍子に落ちたのだ。
朝に極端に弱く自分の寝巻を脱いで和巳の寝巻に着替え学校に行きそうになる、という他人には死んでも聞かせたくない経験があるほどなので(その時は偶然まだ家にいた母親に指摘された為、事なきを得た)、認めたくはないが床に落ちている遺書に気づかなくとも不思議ではない。
そうなった場合見つける可能性が一番高いのは和巳であるが、運動部に属しているため帰りは遅い。また、朝が極端に弱いのは兄弟揃ってなので朝の時点で見つけている可能性は少ないだろう。
二つめは校内で落としたという可能性である。
考えたくもないが心当たりはある。今日は体育があったので着替えたのだ、教室で。その際に落ちるか何かしてとにかく、内ポケットから出た、発見されていれば内容が内容なだけにそれなりの騒ぎにはなると思うのだが、未だにそんな騒ぎがないということはまだ発見されてはいない、少なくとも中身は読まれていないということになる。
前者であった場合は僕自身見つけることが困難であるということにもなるのでそれはそれで落ち着かないし、後者であった場合は読まれるのも時間の問題である。
どちらにせよ一旦探してみるしかないということだ。
落ち着かないまま放課後まで待ち、ごみ箱の下やロッカーの隙間。最終的には人目がないのを確認して四つん這いになり周囲を見渡した。しかしそれらしい影はない。
「くそ」
思わずぼやいてしまい、誰かに聞かれていたらと思ったところで
「あらら、ご機嫌斜めだねぇ」
よりによって一番面倒なやつに聞かれてしまった。
「そう思うなら近づかないことだ」
「何探してんのー」
「君に言う必要はない」
「放課後に君が全力で魔物を探してたって言いふらすよ」
勝手にしろ、と言いたかったが実はこいつに会う前に何人かの生徒に同じような質問をされて「ちょっとね」とごまかすようなやり取りをしていたため、実際に言われたら困る。
沈黙から何かを察したのか「で、何?」再度訊いてきた。
「紙の束だよ、ルーズリーフの束」
「手紙みたいな?」
「そう、三つ折りにしてあるやつ、どっかで」見なかったか。そう続けようとして顔を上げたところで、言葉が止まった。
「ちょっと待ってねー、もう読み終わるから」
いや、何で。どこで。そんな疑問が頭の中を埋め尽くす中ようやく気付く。
「ちょ、まて、読むな!返せって」
「んー」生返事しか返さない稲葉に無性に焦り、実力行使に出ようとしたところで「あい、返す」手紙が僕の手に返された。
「つっても、君のじゃないよね。これ」
稲葉は笑いながらそう告げた。
終わった。
いじめの隠ぺいをしたことになるのか。退学。いや停学かな。いっそ自主退学を申し出て事実をできるだけ伏せてもらえるように頼もうか。
「それさー、どうするつもりー?」
最早、稲葉の言葉は耳に入っていなかった。
親にはなんて言おうか。和巳は、大丈夫だろう。僕とあいつが兄弟であることを知っている奴はほとんどいない。
「ちょっとお願いなんだけどさ、俺にそれくれない?あーいや、やましいことに使うつもりは・・・もしもし?ちょいちょい?聞いてる?」
あぁ煩いな。
「何だ」
「いや、だからねその手紙欲しいなって」
「何で」
「いや、ちょっと・・・そもそも君のじゃないんだからいいじゃんか」
「煩い、君のでもないだろ」
「あー、まぁ、いや。それはそうなんだけれどもね。いささか都合がありまして」
「これ貰ったら、どうする気なんだ」
燃やす。
稲葉はただ一言そういった。
その一言を聞いたとき一瞬何を言っているのか分からなかった。
しかし次の瞬間には言葉の意味とその行動がもたらす結果を理解し、肩の力が無意識のうちに抜けていた。
僕は降って湧いた希望にも見えるそれの実態を明確に把握するために、あえて平静を装って尋ねる。
「何で」
「いや、だからその都合が悪いと申したじゃあございあせんか」
珍しく下手に出る稲葉を気にしながら、折衷案を探す。
「わかった、これは君にやるから。だから事情を教えてくれよ」
あー。うー。でもなー。何で渡しちゃったんだろおれ。あーもー。等と、いつも即断即決の彼にしてはやけに言い渋るなと思っていたら「わかった。わかったよ。野沢菜君を信じて話してあげようじゃないか。ただちょっとここで話すのは嫌だから場所だけ変えても」ぴんぽんぽんぽん。
彼の語尾を掻き消し校内放送が流れる。
「生徒会副会長、野沢君。生徒会副会長、野沢君。校内におりましたら、至急職員室まで。生徒会副会長・・・」聞き覚えのある女性教師の声で呼び出しがかかった。
「いってらっしゃいませ」
話は後だといわんばかりに、稲葉は机に腰を下ろしながらそう言った。
職員室では生徒会担当の教師が待っていた。
「あら、まだいたのね。よかったわ。実は昨日の件で、野沢君が現場にいたって聞いたんだけど・・・大丈夫?」
僕は少し考え答える
「まあ、大丈夫です。今日は普通に生活しましたし、生徒会の仕事もできると思います。・・・今日は何もないと思っていたんですが、もしかして何か会議でもあったんですか」
「いや、そういうわけじゃないのよ。気にしないで、仮に何かあったとしても責めたりはしないわよ。
それで来週の立会演説までの動きに関してなんだけど、基本的には特別生徒会で集まるようなことはしないつもり。実際立会演説が落ち着かないとあまり動けないこともあるし、私と田上君とで話し合ったんだけど、状況が状況だし大事を取って、ゆっくりさせようってことになったの。
それでその報告を昨日の放課後にほかの皆には集まってもらって報告したんだけど、野沢君は昨日いなかったから言っておこうと思って。
本当は昼休みの内に来てもらおうと思ったんだけど、先生たちもバタバタしててね」
田上とは会長のことで、何かと教師の言いなりになるきらいがあるため正直言ってあまり好きではないが、今回ばかりはいい判断をしたなと思った。
「わかりました。じゃあとりあえず来週の立会演説は、昨日と同じ感じで準備とかはしとけば良いですか」
「あー、うん。そうね、一応そのつもりだけど何か変更点とかがあったらまた連絡するわ」
「わかりました。じゃあ、失礼します」
「はい、じゃあまたね。無理しないでね」
僕は軽い会釈だけを返し教室へと戻った。
教室に戻ると稲葉は机に座り、何かを食べていた。
「食べるかい」
窓越しの夕日を見たまま彼は僕に訊いた。
「何食べてるんだ」
「ヨーグルト。白桃入り」
断ろうと思ったのだがなんとなく食べたくなり、スプーンはあるのか。と訊いていた。
ようやく夕日から目を外した彼はいそいそとプラスチックのスプーンを取出し、他人の机をさも自分の机かのように動かし、その机を挟むように椅子を置いて僕に手で「どうぞ」と示した。
「どうも」と僕は言い席に着く。
ヨーグルトには手を付けず訊く。
「話を聞きたいんだけど」
「わかってるよ」
「今から場所を変えるんならうちに来るか」
「ん?あーいやいやいいよ。それはまた今度にする。話はやっぱりここですることにするよ」
彼は僕の胸のあたりを指さし言った
「話す前にさ、それ、全部読んでみてよ」
正直気が進まない。タイトルからして恐らく僕が内容を読んでいないと思っているのだろう。僕の名前が出てきた時点で読み進めるのはストップしたが、できればあの部分も含めてもう読みたくない。
「いいから話せよ、約束したろ。渡さないぞ」
「まあまあ、そういわないでよ。ね、読んだらわかるから」
このまま押し問答を続けていても埒が明かないと判断し、その部分だけ何とか飛ばせばよいかと思い、この二日で何度も開いた手紙を再度開き読み始める。
「遺書」というタイトルから始まり、まず、一枚目で日ごろ自分が受けていた仕打ちがかなり細かいところまでありありと書きつづられており、改めて読んでみるとかなり酷いことをされていたことが分かった。
しばらく読んだところで二枚目の例の部分に差し掛かったので、終わりの部分に当たりをつけその部分から再度読み始める。
『・・・視線を頑張って元に戻したときには誰もいなかった。そしてまた殴られた。蹴られた。その後三人はいい加減に気分が晴れたのか再度水をかけると笑いながらトイレから立ち去って行った。ようやく終わったと思ったらなぜか三人が戻ってきた。清水が僕の髪をつかみ「やっぱり最後にもう一発づつ蹴ることにした」と笑いをかみ殺したような表情で言った。また蹴られるのだということが分かった僕は体に力を入れ蹴られる準備をした。
清水が髪を離し、いよいよ蹴られるのだという時に、蹴られるより先に体に衝撃が走った。思っていたタイミングと違ったので口の中に残っていた砂と一緒に、うっと声を出してしまったら、個室の中から「あ、ごめんねー」とやけに明るい声が聞こえ、個室の扉から稲葉菜君が顔を出した。
「なんか騒がしいなーと思って。まさかすぐそこに横になってるなんて思わないじゃん?ごめんねー」
稲葉君の指に火のついた煙草が挟まれているのに気付いて余計混乱し、状況が今一つ読めなかった僕は、あ。とか、いや。しか言えなかったけど、再度扉を閉め個室に戻ろうとした稲葉君を清水が引き留めた
「おい、まてよ」「んー?」「何だよてめー」明らかに苛立った様子で清水は言っていた、多分いじめをしている現場を見られ焦ったのだろう。
3人とも校内では可もなく不可もなくな、どちらかというと目立たない存在で通っている。少なくともいじめをしていると思われてはいないので、気づかれると困るのだと思う
「ごめん何で怒ってるのかわかんないんだけど」
怒っているのが分かっているのに、まるで気にしていない様に煙を吹きだし、笑顔のまま稲葉君は返した。
「あ?殺すぞてめぇ、ちょっとこいやコラ」
「今忙しいんだよね、それにそんな殺意むき出しの人に来いって言われていく人いないでしょ」「あぁっ?黙れやコラ!殺すぞゴラァ!」
僕ですら見たことがないほど清水は怒っている。そう思ったが違う事に気付いた。
焦っているのだ。
3対1のこの状況で笑顔を絶やさずにさもおかしそうに軽口を叩き続ける稲葉君を、どうしたらよいかわからないのだ。その証拠に新井田と井上は黙ったまま清水と稲葉君の顔を交互に見ているだけで、その清水も、何とか言い返してはいるが、小学生のような脅し文句を投げつけているだけである。
ふと、清水が稲葉君の手元の煙草に気付き「今すぐこっち来ねぇと、それ教師にばらすぞ」と、稲葉君の手元を指さし得意げににやついた。
「お好きにどうぞ。じゃあ、僕は君たちがそこの彼を集団でいたぶっていたことを、こと細かく先生方に報告することにしようかな」
先ほどまでの笑みを上回る満面の笑みで稲葉君は言った。
少しの沈黙。
「はい詰み。俺の勝ち。ってことで戻っていいかな?諸君」
止めることができる人は、その場にいなかった。
その後稲葉君が再度個室に引っ込み扉が閉まると、清水はこの上なく不機嫌そうな顔でトイレを出ていき、それを追うように新井田と井上の二人も出て行った。僕はしばらくその場を動けず痛みが治まるのと、高揚した心が落ち着くのを待った。
暫く経って「開けるよー」という声とともに個室の扉がやたらゆっくりと開き稲葉君が出てきた。僕は稲葉君を見ても何と言えばいいかわからず無言で見つめていると、「なに見とれてんの、照れるじゃないか」といわれ、僕は、僕を助けてくれたのか尋ねた。
すると稲葉君はとても嫌そうな顔をして、「いや違うよ。何で僕がそんな面倒くさいことを進んでしなくちゃいけないんだ」と言った。その時多分、初めて彼の笑顔以外の表情を見た。
でも助かった。君が来なかったら終わってなかったと言うと「好きでやってるんじゃないのか」と真顔で言われた。僕は半ば呆れながらそんな訳ない。嫌に決まっているとこぼした。
「嫌なのに、いじめられてるの?意味が分からない」
そういわれたときに一気に頭に血が上った。
何がわかる。嫌に決まってる。当たり前だろ。馬鹿が。毎日毎日。殴られてみろ。蹴られてみろ。だれも。気付かないんだぞ。死にたくなるぞ。馬鹿かお前。馬鹿ばっかりだ。ほんとに。もう。何なんだ。馬鹿が。馬鹿が。馬鹿が。矢継ぎ早に力の限り怒鳴りつけた。
今まで、だれにも言えなかった。いや、言おうとした、でも結局は言わなかった。言うほどの事ではないと自分に言い聞かせた。許容範囲内だと押し込んだ。でも、言いたかった。
限界だと。僕が何をしたんだよ。だれでもいいから止めろよ。お前らそろいもそろって馬鹿ばっかりか。気が付くと頬がぬれていた。涙が止まらなかった。
「死のうとは思うのに殺そうとは思はないんだね」
と稲葉君は言った。涙でぼやけてわからなかったがそう言った稲葉君は、多分笑っていたと思う。
殺したいにきまってるだろ。毎日思ってるよ。でも、できるわけないだろ。いっつも集団で動いてるんだぞ。大体1対1でも勝てるかわからないのに中途半端にばれてみろ。もっとひどくなるじゃないか。嗚咽交じりで言い切った僕はよっぽど酷い顔をしていたんだと思う。稲葉君の声は震えていた。
「違う違う。あいつらを殺すんじゃない。あいつらが勝手に死ぬんだよ」
途中途中関係ないことを話していたがまとめると、稲葉君の話はこうだった。
今の現状で僕が彼らに正攻法で仕返しをする方法はない。なぜなら。あいつらが僕をいじめているという証拠がないからだ。今回の件に限って言えばあいつらが僕に暴力をふるったという事実に関しては追求できるかもしれないが、あくまでそれらは、恒常的にあいつらが僕に暴力を振るっていたということを示す事実にはならない。したがって、多少強引でかなり多くの人に迷惑をかける方法を提案された』
二枚目が読み終わったため、一旦顔をあげ稲葉を見るも、窓の外を眺めているだけで何も言いそうにないため、三枚目に再度視線を落とす。どうやらこれが最後のようだ。
『準備には時間が掛かった。でも、苦には感じなかった。
始め話がよく理解できていなかった僕に稲葉君は、いっそ派手に焼身自殺にでもしたらどうかと言ってきたため僕は若干混乱しながらも、僕はあくまでも死なずにやり返せるなら死にたいわけではないことを訴えた。
しかし稲葉君が更に、死ぬと死なないじゃインパクトがぜんぜん違うから死んだほうがいいと言ってきたので、僕はいよいよ混乱し、死んでしまったら全然意味がないじゃないかと主張した。すると一瞬考えた後に笑いながら「言い方が悪かった」と言い、続けて「焼身自殺をするのは君じゃないよ。君が一番嫌っている人」と僕に告げた。
混乱していた頭がついにがついに活動を停止した。それを察したらしい稲葉君にそこから更に説明をされたが、ところどころに関係のない話を散々された為まとめるとこうなる。
最も注目を集めることができるであろうタイミングで、自殺、或は事故を装って僕が清水を殺す。
具体的な計画としては、計画した日の早朝に清水を呼び出し、突き落とし殺す。
落下死以外の死に方だとどうしても不信感が残るため、落下死が一番自然だろうという結論に至った。因みに焼身自殺は冗談のつもりだったらしい。
また突き落とす際に抵抗されないように、何とか落としやすい位置に連れて来た方が良いと、無茶なことを言われたが。それに関しては呼び出す理由と合わせて以下の通りにすることに決めた。
先ず清水に、「いじめの件について気づかれないように記録をとった、これを立会演説会の場で全校生徒・教師達に示すつもりだ。だがその前に一度話がしたい。態度によっては対応について考えなおす」という内容の手紙をにあえて名前も書き入れて教室に呼びつける。
ここから先は清水の動きによってはどうなるかわからないが、仮に上手くいったら清水はきっとおとなしく言うことは聞かず、きっとどこにその情報があるかを力ずくで聞き出した後それを処分しようとするはず。
それを逆手に取るのだ。情報のありかを窓際と言えば、それだけで十分落としやすくはなるだろうが、さらに加えてカーテンレールの上にあるとも付け加えるつもりだ。
そうすれば何かしらの上に乗らないと届かない為、より重心が高くなる。後は落とすだけだ。落とした後はあらかじめ持って上がっていた靴を持ってばれないように外のトイレに行き、そこで登校してくる生徒が増えるのを待って出てくればいい。
ここまで考えることができた自分がどこか誇らしく。それが何より悔しかった。
何故もっと早く動かなかったのか。抵抗しなかったのか。馬鹿は僕だった。それに気づいた。
僕は恐らく人を殺すだろう。上手く行くかは解らないし、もしかしたら僕が殺されてしまうかもしれない。でも僕は殺す。必ず。
稲葉君は、この計画は単純だけどいじめの事が今までばれなかったのと同じように、清水と僕の関係に言及する人はいないだろうから、計画そのものもばれる事はないと言っていた。それを聞いて納得しかけた時期も確かにあったが、やはり堪らなく不安だった、きっとばれるだろうという確信めいたものが頭の中に根を生やしたように居座り、どれだけ稲葉君の言葉を繰り返し考えてもその度に、砂漠の真ん中に生えた毒草のようにその存在を主張し、僕の思考に絡みついてきた。
そして、だから、僕は、全てを告白することに決めた。
稲葉君はきっと怒るだろう。もしかしたら捕まってしまうかも知れない。全然関係のない人たちにもすごくたくさんの迷惑を掛けるかもしれない。でも、だから、僕はすべてを告白したい。僕が誰を、何を、恨んでいたのかを訴えたいから。
僕が人を殺したのは、これを読んでいる人全ての人のせいだと訴えたいから。
最近僕は言いたい事を極度に押さえつけられてきたせいか、自分がしたいこととかをしようとすると吐きそうになったり、頭が痛くなったり、ひどいときは意味もなく泣いたりする。
人を殺した後で、前に書いたようなことを説明するのは多分無理だと思う。
だからこの手紙を「遺書」と名づけ、今ここに思い出せる全てを書いた。
最後にひとつだけお願いがあります。
もし僕が清水を殺せなかったら、
誰でも、どんな方法でもいいので、
僕を殺してください。 』
「読み終わったみたいだね、それでは補足をしてあげよう。」
僕はどんな表情をしていたのだろうか、稲葉の声は震えていた。
「その日の朝。清水は彼が指定した彼の教室の上の上の教室に、彼よりも早くからきて、彼の予想道理彼が来るといきなり記録はどこだと怒鳴り殴りつけてきたんだ。
だけど皮肉なことに殴られることになれていた彼は痛がった振りをしながら、計画に従って情報はカーテンレールの上に置いたと言った。
それを聞いた清水はすぐさま窓際に行ってしきりにどこだ。どこだ。とかつぶやきながら探していたんだけど、聞いたほうが手っ取り早いと思ったのか再度彼のところに戻ってきて「どの辺だ」と怒鳴りつけた。
彼はゆっくりと一箇所窓が開いている部分を指差し「あそこ」と呟いた。そう。窓が開いていたんだよ。いや、正確には開けておいたんだけどね。
誰が?
一人しかいない。僕だよ。
清水があの子に詰め寄ったのを見計らって、奥の掃除用具棚の中から音を立てないように出るのは思ってたより骨だったけど。その後は簡単だったよ。
窓枠を確認しようとした清水は、あろう事か机の上に乗ったんだ。いやぁ、やっぱり日ごろの行いがいい人は得をするね。
で、その後はいっせーので突き落とそうとしてたんだけどねぇ、意外と粘るんだよこれが。
火事場の馬鹿力ってやつかな?とにかくね、ちょっともみ合いになったんだけど何とか落っことして、万々歳。のはずだったんだけど彼いきなり変なこと言い出してね、全部ばらすとか何とか。
でもほら、実際さ、証拠は一切ないわけじゃん?まー実際に彼に事細かく説明されたらそれが証拠になりそうだったけどさ、顔真っ赤にしてぼろぼろ涙出しながら表情だけ笑っててさ、これは説明とか無理だろうし、もし説明できたとしてもまともに聞く人いないだろうと思ってね。だからお好きにどうぞって言ったら、急に慌てだしてちゃんと書いてあるんだって言いながら、ポケットに手突っ込んだりしてなんか一人で盛り上がってんの。
その時点でさ、あー、何かめんどくさいもの作ったんだなってわかるじゃん?
でも肝心のそれがどこにあるのか、当の本人が探してる。
ここまで来れば分かるよね?
だから僕はその子放って、出来たてほやほやの同級生の自殺死体を見に行ったわけ。
でもさ、無かったんだよ?流石に焦ったねあれは。かと思ったら君がゴリラ連れてきてとりあえず流されるしかなかったって感じかな・・・ふう。以上、何か質問は?」
「僕が学校に来たときには、靴は僕以外には一足しかなかった」
声の震えを必死で抑える。
「それは清水のだよ、君みたいに早くから学校に来た人に見られると後々面倒だし、なにより突き落とすときに足音で気づかれるから、靴は持って上がって上履きは履かなかったんだ。
あれ、これ書いてなかったっけ?」
「君が、殺したのか。つまり」
「んん?違う違う。あの子が殺したんだ。主役は俺じゃないからね、そこは大事だよ。
俺はただ窓を開けただけ、後はほとんど見てた」
震えがはなかなか収まらないが頭は何とか回り出す。そしてあることに気付く。
「彼は?」
彼の残した最後の一文が、脳内で正体不明の焦燥を生んだ。
「そもそも知らないし、君に教える筋合いも無いなあ。因みに知ってどうするの?」
「それは」わからない。なんだろう。この感覚は。反射的に、蓋をする。
「あれ?今からでもその人と話して出来ることがないかどうか考える。とか言うかと思ったのに。だんまり?」
「これ、どこで見つけたんだ。さっきの話だと君は結局この手紙を見つけられなかったんだろう」
「君は、やっぱり僕と同じ種類の人間だね」
「は?」
「一年前、ここで会った時からそんな気がしてたんだよ。だから言ったろう君の受け答えすべて気に障るって、なんだかめちゃくちゃとろい自分の分身見てるみたいなんだよね」
「ちょっと待て意味が」「要するに君は結局自分の事しか考えてない。
常識の中で論理的に思考回路を組み立てることができて、他人の事もまるで自分の事の様に考え、同情し、能動的に動くことができる。
様に見える。
が、違う。見えるだけだね。いやもっと厳密に言おうか、見せてるんだ。「だまれ」そんなに他人によく思われたいかい?誰だって結局は自分が一番可愛い、これはもう人類共通の思想じゃ「だまれ」しかも君の場合「だまれ」和巳く「だまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれ」あーい」
小分けにされ、白桃の写真が大きく載ったヨーグルトのカップを持ち、フィルムをはがす。
フィルムの裏に付いたものをこそいだりするのはあまり好きではないので、そのままはがし切り折りたたむ。
白いスプーンをほぼ同色の粘体質の中へと入れひと掬い。口へと運ぶ。
口当たりは滑らかで。緩やかに滑り込んだ後は口の中にに程よい酸味と甘み。
咀嚼することで存在を表す白桃の身が程よいアクセントを醸し出している。
「おいしい」
と僕は言う。
「知ってる」
と彼は返す。
教室の中は茜色の光が差し込みカメラを持っていたら――などと、写真なぞ撮ったこともないくせに考えてしまうような景色になっている。
その中で僕と彼はひとつの机を挟んで座りヨーグルトを食べている。
「さて、バグは解消されたかな」
「ほざくな不良品」
「だまれ、だまれ、だまれ」
「一回言えば分かるんだけど。君、馬鹿じゃないか?流石不良品」
「いいねえ。その方がからかい甲斐がある」
「顔にヨーグルト振りかけてやろうか」
「できるもんならごめんなさい」
僕は上げていた腕を下ろし、椅子に再度深く腰掛ける。
「さっきのことは、忘れろ。とにかくこの手紙をどこで見つけたのかと訊いたんだ」
「清水一派はね、結構広範囲でいじめ、してたみたいだよ」
僕は頷く。「遺書」を読んだときなんとなくそういった内容を匂わせる部分が入っていたからだ。
「以上」
「は?」
「以上」
「は?」
「なんだ、またバグったの嘘ですごめんなさい」
「意味が解らないんだけど。えっと、君がこれを見つけたのは清水たちが広範囲に手を広げていじめをしていたのが理由ってことか?」
「そーそー、そゆ事。あ、それともー一つ。」
「何」
「あのトイレってさ、あいつらの活動拠点だったんだよ。じゃーそろそろだろうから僕は行くね」
「は?何がだよ」
「ばーいばーい」
一度も振り向かずに稲葉は教室から出て行った。片づけを一切せずに。
深くため息をつきながらヨーグルトの殻を捨て、椅子と机を戻したところで窓から外を眺めると、茜色の光を溢れさせている塊はもう沈もうとしており、窓枠を額縁にした一枚の生きた絵画ができていた。
そしてその絵が縦に裂ける。
感じる既視感。滲む手汗。冷える体。熱を持つ頭。
震える足を殴り、前へ進ませ、窓際、へとあ、ゆみ、よ、る。
そこから見えた風景は、昨日見たものとほとんど同じだった。
僕はなぜかその瞬間、和巳が掃除場所を変えてくれと懇願してきた時の表情を思い出した。
淡い、もやが消える。
『そっか。そうだよね。無理言ってごめん』
そう言った和巳の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
諦め。
それだけが読み取れた。
そのとき僕は何かに気づいていたのかもしれない。あるいは何か言ってやれたのかもしれない。でも僕は何も言わなかったし何もしなかった、いや違う。あの時も、僕は逃げたんだ。避けていたのは和巳じゃない。僕だった。気づくのが怖かった。その「何か」を追求するのが怖かった。なのに、嫌われると感じるのは堪らなく不安だった。
前触れなく再生された記憶に体が違和感を訴える。近くにあった椅子に腰を下ろし大きく深呼吸をした。ついでにネクタイを緩め、ブレザーのボタンを外す。
「あ」
自然と声が漏れ、僕の中でゆっくりと。でも確実に。記憶が繋がって形を作っていく。
光そのものであるかのように形を見せない太陽が。去っていくその時。優しく。美しく。しかし虚しさを感じさせる光を放ちながら、その姿に輪郭を持たせるように。
僕の記憶は一つの推測を形作った。
「かずー!生徒会の人来てるよ!」
次の日僕は朝のうちに一年の教室で和巳を待った。
和巳は僕を見つけると、いつものようにばつの悪そうな表情を浮かべながら近づいてくる。
「こんな朝早くから僕に用ですか?野沢先輩」
「いつからだ」
「え?」
「入学して直ぐか?うちは一年間掃除場所が変わらないからな、それとも」
「ち、ちょっと待ってくださいっ。何の話かわからないんですけど」
「これを稲葉に渡したな」
僕は胸の内ポケットから、ルーズリーフの束を出す。
タイトルは『遺書』
「あ」
和巳の表情が動揺に揺らぐ。こんな顔ですら久しぶりに見ることに気付き、虚しくなった。
「間違っているところがあったら言ってくれ。」
和巳は何も言わない。これを渡したことは否定しないということだ。
「これはすべて推論に過ぎないが、この結論に至るにはいくつかの事実が要点になるから先にそれを説明する。
まず清水たちについては二つ。
いじめをかなり手広い範囲でやっていたという事と、そのいじめの活動拠点を外のトイレに絞っていたということ」
和巳は、何も言わずに僕の顔を見ている。
親の顔色を伺う子供のように。
だから僕は続ける。
「そしてそれ以外の点がこっちは三つ。
お前が外のトイレ掃除の担当だった事と、その関係で、外のトイレを喫煙スペースか何かと勘違いしている稲葉と知り合いになった事。
それから、その外のトイレ掃除がお前一人の担当だった事だ」
トイレ掃除に関しては先生にも訊いて確認していたし、稲葉と知り合いなのは俺が取り乱した時に稲葉が和巳の名前を出した事と、あいつがあそこで喫煙をしていた事から推察したのだが、否定しないあたり当たっているらしい。
喫煙という単語に反応した生徒が何人か居たが、ここからは推測だと前置きし、構わず続ける。
「事情が変わりだしたのは僕に相談した時期から判断してかなり早かったんだろう。
お前は掃除が始まって直ぐに違和感を感じたはずだ。
いくら外のトイレといえどもここまで汚れるものなのかと、だがお前は構わず掃除をした。そこまで深刻に考える様な事じゃ無いしな。
そしてある日清水たちに会った、恐らく掃除中に。
純粋に目をつけられたのか何か理由が会ったのかは分からないけど」
一瞬間を開け、祈る。どんな形でも良い。否定してくれ、と。
「その時からお前は。いや、お前も、いじめを受けていた」
否定の反応は・・・無い。
推測は滞りなく事実へと変わっていく。
僕の向かいに立つ足が、手が、肩が。
それから多分、心が。
震えている。
俯いたせいで表情こそ解らないが、考える必要もなく分かる。
音にならない声で叫ばれた言葉が僕の全てに、ぶつかる。
ただ一つの懇願が、『もうやめて』とただその一言が。
でも僕は続ける。僕が作った傷跡を、抉る。僕のせいで膨らんだ膿を、潰す。
「だから取引をしたんだ。恐らくはいじめの後始末、つまりあいつらがぶちまけていく砂や水、あるいは血とかの掃除。それをしっかりやるから見逃してくれとかそんなところだろう。
そして清水たちはそれを呑んだ。でもそこからが辛かった。お前がやったことはつまりいじめの手助けだからな。
そして、僕に相談をした」
だから僕に嘘をつき、あそこまで食い下がったんだ。必死に。
「そして一昨日清水が死に、僕が家に手紙を持ち帰った。
正直そこだけはいくら考えても思い出せないんだが、お互いに制服を間違えて着てしまったんだ。
だから僕の制服の内ポケットに入っていた手紙を、僕の制服を着たお前が見ることができた。内容を見たお前は驚いただろう。そして咄嗟に思いついたのは稲葉に相談することだった。
稲葉に相談して内容を読んだあいつがお前に何を言ったかは知らんが、とにかく、あいつは手紙を持ち去った。で、それがまた僕のところに戻ってきたんだ。違うところはあったか」
あるはずがないと、知っている。
「・・・違うも、何も・・・全部、推測じゃ、ない、ですか」
震える声でぽつぽつと和巳は答える。
その通り。推測である。いかに状況が真実であることを指し示していても。
それだけでは推測の域を出ない。でも、もうすぐ推測が事実へと、完全に変わる。
それが僕にとっても和巳にとっても傷跡を抉ることにしかならないとしても。
僕がそれを望んだとしても、和巳がそれを望まないとしても。
僕の意思でもなく、和巳の意思でもなく。
誰の思いも尊重せずに。
事実は空しいほど簡単にそこにあって。
その空しさをまた別の事実が苦しいほどに埋めつくす。
「大体、稲葉なんて人知りませ」「冷たいなあ」
和巳が目を見開き振り向く。
そこにはいつものような笑顔ではなく、いつに無く真剣な表情の稲葉がいた。
「今野沢君が言ったことに間違いは無い。俺が保障する」
「何で、いや、あの、でも、この、この人が何を言っても別に、ほら、何も変わってない、じゃないですか」
突然のことで混乱が頂点に達したのか、ほとんど言葉になっていない。
本当は家で追求しようとも思ったのだが、今指摘されたように大事な部分が推測でしかないため否定されるとこちらも言い返しようが無い。
だから稲葉に協力するように取り付けておいた。
ちらりとこちらを見る、ひどい顔をしているはずなのに、稲葉は笑わなかった。
「これ、なーんだ」
稲葉の手のひらに乗っているものを見た和巳は、一瞬呆けたような顔になりその後直ぐに表情が、全身が、固まった。
そしてゆっくりと歪んだ表情は今にも泣きそうな顔で、それでも、決して諦めてはいない表情だった。
こんなにも強く、優しく、幼い心が伸ばした手を僕は、振り払い、叩き落とし、踏みにじり、そして知らないふりをした。
表情の消えた和巳の顔が、目の前の顔に重なる。頭を振って残像を掻き消すと、代わりに昨日の放課後のことが思い出された。
――――ふらついて椅子に座りネクタイをほどきブレザーのボタンを開けた時、僕はそれを見つけ、そして全てに気付いた。
どれくらいそうしていただろうか、気が付くと窓から見える景色は黒く染まっており教室の明るい光が一部分だけを照らし出すと、違う世界をのぞき込んでいるようにも思えた。
「おー、ビンゴー。ってか何やってんの、ほんとに」
教室のドアから帰ったはずの稲葉が顔を出した。
「帰ったんじゃなかったのか」
「残念ながら帰るとは一言も言ってないんだなあこれが」
「何やってたんだ」
「俺が先に訊いたんだけどなあ。ま、いいや。えーっと、死体あさりしてた」
「いまさっき飛んだ人のか」
稲葉の回答を聞いても、不思議と落ち着いていた。
「いやまあそうなんだけど、ずいぶん静かだね。めっちゃ怒るかと思ってた」
「何であさってたんだ」
言葉を考える気力が湧かず、稲葉の言葉をそのまま使いまわす。
「なんか怖いな。・・・さっき落ちた人が昨日清水を俺と一緒に突き落とした彼なんだけどさ、また新しい遺書とか作ってたらまずいなーと思って、念のために確認にね」
「そうか」まあ、そうだろうな。
と本当にその位にしか思わなかった。実際なんとなく目星がついていたこともあるだろう。
「いや、あの、ほんとにどうしたの。え、野沢菜君だよね」
「ほざくな不良品」
「あ、本物だ」
「頼みがある」
会話を続けるのが億劫になってきたため、無理やり話を変える。
「断ったら?」
「命令になる」
「やれるもんなら」「事細かく説明する。もちろん手紙も提出する」
稲葉の言葉を遮り、未だ僕の手の中にあった手紙を机の上に置く。
「あー、ミスったわー。あーもー、わかりましたー」
不貞腐れた声を出しながら、表情が笑っている。
少し気持ち悪いが、おそらく最初から断るつもりは無かったようだ。
今になって気付いたが、そもそもこれを回収に来たのではないだろうか。
「じゃあこれ持って、明日の朝7時半1年の教室前集合」
僕は手に持っていたものを渡した。
「うえー、朝礼の1時間も前じゃないっすかー、そんな時間に教室行っても誰もいないっすよー、運動部の連中が朝練の準備してる時間っすよー」
にやにやしながら、丁寧に説明してくる。どうせ分かってるんだろう。
渡したものが持つ意味以外は。
「そんなもの無くなる」
生徒が二人、しかも連日死んでるんだ。
部活の監督なんてやっている暇はないだろう。今日明日、明後日くらいまでは職員会議とかで少なくとも朝練は無くなる。
放課後は学校に残ってる生徒を早めに帰らせて、校内の巡回とかも始めるかもしれないし、もしかしたら午前授業で昼休みを向かえずに帰ることになるかもしれない。
だから、この計画を成功させるには明日の朝しか無い。
それに、急な予定変更で生徒が沢山いて、且つ、それなりに話す時間ができるという二つの条件がそろっている事に、僕はもう一つの期待をしていた。
「俺はこれのことは事情が分からないから、できれば説明が欲しいんだけどなー」
稲葉の声で我に返り説明をしようと口を開いた時。
「先輩」
不意に背後から呼ばれ振り返ると、二人の男子生徒が立っていた。
「あの、かずが何かしたんすか」
片方が口を開く、そのあだ名から先ほど和巳を呼んでくれた生徒だということを思い出す。
声からして僕を呼んだのもこちらの生徒だ。
表情から察するに、和巳を心配して声をかけてきたらしい。
「ああ、いやちょっと込み入った話をね」
人が多いのは良かったのだが、いかんせん注目を集めすぎてしまったようで、予想していなかった事態に言葉が詰まる。それでも何とかごまかそうと考えを巡らせていると。
「あれ、これ付けて来たら駄目なやつじゃね?かず、こんなの持って来たの?それで怒られてるって事?」
「え、マジで、ちょっ、かずこれお前の?」
稲葉の手の上に有るものを見つけて、先ほどよりも若干勢いのある声で尋ねてきた。
和巳は「あ、えっと、ちがうけど、いちおう、その」と答えになっていない単語を並べている。
「これは落し物だよ」
ようやく整理できた頭で答えを返す。
「「落し物?」」
二人の生徒の視線が集まる
「そう、落し物。このボタンの拾得について少し話を聞きたくて来たんだ。騒がせてごめんね、もう少ししたらすぐに出ていくから」と、稲葉が僕の作り話に乗る。
「あ、そうなんですか。邪魔してすいません。ほら、いくぞ」
「かず、後で事情聴取な」
どうやら納得してくれたようで、男子生徒たちが教室の(恐らく自分たちのではない)席に落ち着くのを確認し和巳に向き合うと、最近いつも見ていたばつの悪そうな顔に戻っていた。
僕が入学祝と称して贈った『学校指定ではない裏ボタン』を見つめて。
「まだ付けてたとは正直思ってなかった。お前にそれやったの1年以上も前だし、さっき話したことに気づいてからは絶対嫌われてると思ったからな」
「あー・・・なんとなく話が読めた」
僕の言葉に稲葉が独り言のように口を挟む。
「要は、野沢君の制服に付いている筈のないこれを見て、自分が来ている制服が和巳君のだって気付いたって事か。んで、俺にあの手紙が渡った経緯に気付いたと。・・・ん?何かずいぶん飛躍してない?どっからいじめられてるって話に繋がるの」
僕が和巳に話した内容は聞いていたらしい、いつから居たんだろうか。
「何で、手紙を僕じゃなくて君に渡したと思う」
僕は稲葉に向かいなおして尋ねる
「そりゃあ・・・あれ、そーいえば何でだろ。和巳君はその時まだ、野沢君が和巳君がしたこととかされたこととかには全然気づいて無いって思ってるはず、だよね?手紙の中に和巳君の名前は出て来て無かった気がするし・・・んー、分からん」
完成したと思ったパズルから唐突にピースが一つ無くなったのを不思議に感じているのか、空中の一点を見つめたまましきりに頭を掻いている。
だが稲葉が確認する様に言っている事は、ほとんど核心を突いていた。
つまり僕がこの手紙について知っているかどうか。
或は、僕がこれを読むかどうかは問題じゃない。
そもそも、僕の制服に入っていたのだからその心配は既に手遅れと言える。
ではこの手紙を僕に渡すか稲葉に渡すか。更に言うなら、この手紙を僕と稲葉のどちらが持っているかで何が違うのか。それはつまり
「この手紙が公になるかどうかが、大事だったんだ」
案の定、和巳の顔が強張る。
「何で?」
「まず仮に稲葉に渡した場合、君は絶対にこれを内密に処分する。少なくとも教師に渡すような真似は絶対にしない。これは断言できる、これなら問題はない」
稲葉の質問に答える形で、思い出したように傷を抉る。和巳の顔がさらに曇っていく。
「では、僕に渡した場合はどうか、君は事情を知っているからそれは無いと思うだろう。
でもいくら内容に僕の名前が僕に不都合な形で出ていたとしても、僕のことをある程度よく知っている人間なら僕がこれを教師に渡す可能性は十分に考えられる筈だ。
じゃあ本題だが、これが公になって、教師陣が調査に乗り出すとどうなるか」
僕は和巳に何をすれば償いになるんだろうか、そんな問いが何度も頭をよぎった。
この事に気付いた時、その答えが分かった。
「和巳がいじめられていた事が、していた事が、僕にばれる可能性が出てくる」
「は?」稲葉は呆けたような顔をしている。
「あ、ぅ」和巳は表情が読めない。既に下を向いているから。
これこそ、和巳が何よりも避けたかったことなのだ。
このために、全てを隠そうとしたのだ。
いじめられていた事よりも。
いじめの手助けをした事よりも。
残された思いに火をつけて消し去る事よりも。
何よりも。
いじめられていたことを、知られるのが。
いじめの手助けをしたと、知られるのが。
僕に軽蔑されるのが、嫌われるのが、ただ。ただ。
嫌だったから。
当たり前だ、僕自身。感じていた事だ。
「いやいや、分かった分かりました。あいむあんだすたーん」ふざけた口調が聞こえてきた。かと思えば、表情は至極真面目にうなずいている。
他人に嫌われることを何とも思ってないから、理解はしたけど、納得はできないんだろう。
そんな事より、僕はすべきことをしよう。
痛みはいずれ収まる。傷もいずれ治る。でも、だから何だ。
今まで向かっていた方に背を向けて、僕はまた歩みを進める。
時間は戻らない、だったら、どの方向に進んでもそれは前へと進むことだ。
だから僕は前進する。逃げるんじゃなく、後ろに向かって前進する。
「悪かった」
クリーム色の廊下の床を見ながら、言葉を口にする。
「え、いや、あの」
和巳の足が震えながら半歩下がっているのが視界に入り、動揺しているのが分かった。頭よりも、むしろ胃のほうから絞り出した言葉を噛み締めながら、伝える。
「お前が僕に相談をしてきたとき、気付くべきだった。もっとちゃんと話を聞くべきだった。掃除場所ぐらい変えてやれば良かった。腕にできた痣について、顔にできた、すり傷について、一言聞けば、よかった。どうしたんだ、って、それだけ、でも」肺がせりあがる。泣くな。
「でも僕は、なにもしなかった、できなかったんじゃない。しなかった。なにも、みなかった。気付かない。ふりをしてた。ずっと。ほんとは、気付いてた、お前に、相談されたときに、後になって、考えたら、何かおかしいって、いつものお前だったら、そんなこと、いわないのにって、思ったんだ。でも、それが」「もう、いい」和巳の声だ。涙が引き。体が強張る。
「・・・顔、あげてよ」涙は止まってるけど、あげたくない。
「早く、あげてったら」
少し苛立ったような声に恐る恐る、顔をあげる。
表情の無い顔が脳裏に浮かび上がってくる。
和巳は。
「制服間違えるって、逆に凄いと思わない?」
今にも泣きだしそうな顔で笑っていた。
「それもそうだね、何?二人揃って朝弱い訳?」
「そうなんですよ、朝から何故かお風呂に入ろうとしてたり、それをお互いに止めなかったりして」
僕抜きで、話が進んでいく。兄弟で兄だけが泣くってどうなんだろうか。
「うわー、そりゃ重症だね、朝から風呂って女の子みたい」
段々と腹が立ってきた。
「ですよねー、でも僕よりも野沢先輩の方が酷くって、一度なんて寝起きに何故か僕の寝巻に着がえて学校に」
「和巳」
反射的に声を出したから結構な音量が出た。周囲が少しざわめく
あの先輩目赤くない?え、泣いてる?何で?ってかあれ、副会長じゃね?今、和巳って言った?誰?馬鹿、かずの事だろ。何で呼び捨て?さあ?あれ、かずって苗字野沢だよね?副会長も野沢、先輩?確かそうだった気がする、あ、ほら、野沢先輩じゃない方の先輩がめっちゃ頷いてる。じゃあ、兄弟?あ、そうみたい、頷いてるし。何で一人だけ笑ってんだろ?一人だけ?うん、だってほら、かずも泣いてるよ、あれ。
「それ、ずるいよ」
涙を拭いながら和巳が言う。学校で名前を呼んだのはあの時以来だ。
「良いんだよ、僕だけ泣いてるなんて、みっともなさすぎる」
兄なんだから。
「大体、そっちが一方的に、学校ではたぶっ」
和巳の頭をつかんで顔を肩に押し当てる。
理由は、その続きを聞きたく無かったのともう一つ。
「もう、二度と言わない」
和巳の抵抗が止む。
「僕はいつでもお前の兄だ」
動きを止め。全身に力を入れているのが分かる。
自分の事を守ろうとして、お前に全部押し付けた。
不出来な兄で悪かった。
今まで、よく、頑張ったな、和巳。
だから。これ以上泣く姿なんて見せたくないよな。
こんなことしかできないけど。
でもこれだけは、今僕が言わないといけないと思うんだ。
なあ、和巳
「もう、頑張らなくて良い」
抱えた体が静かに震えていた。
「今日はまた夕飯母さんたち居ないみたいだけどどうする」
「え、そうなの?父さんは?」
「出張じゃないけど今日は多分帰れないと思うって、母さんに朝言ってたみたい。
さっきメールで、やっぱり今日は帰ってこれないって連絡があった、って母さんから連絡来た」
「じゃーラーメンでも食べてかえろーよ」
「何でお前がいるんだ、帰れ」
「だから帰ってるんじゃないか、あれ?バグったの?」
「黙れ不良品が、粗大ごみになりたいのか」
「まあまあ、兄さんと稲葉先輩って何でそんなにあれなの」
「あれって何だ」
「仲が良いのって聞きたいんだよね」
「流石不良品、頭の中にお花ばた」「あ、そうです、やっぱり仲良いですよね」
「和巳!?」
「ははは、野沢菜君?頭の中に、何?」
「和巳何をどうしたらそんな風に見えるんだ、よく見ろ」
「だってほら、稲葉先輩はちょっと知らないですけど、兄さんはなんていうか、こう、いつもより砕けてる気がする」
「あーそれは思うな、野沢君ねー俺にだけめちゃくちゃあたり強いんだよー、差別じゃない?」
「それはお前が僕に異常に構うからだろうが」
「あ、ほら今のも。兄さんって基本的に怒ってる時か僕にしか普段、お前。って言わないのに。稲葉先輩には割と普段から言ってますよね」
「不良品とも言ってくるよ」
「それは事実だろうが」
「えー、弟君の寝巻を着て学校に来るような人にごめんなさっ、いだっ、ちょっ」
「兄さんっ、落ち着いてっ、ほらっ見られてる、凄い見られてるからっ」
僕は鞄を下ろしながら息を切らす。
和巳と稲葉も同様に息を切らしながら、懲りずにまた僕の寝起きエピソードで盛り上がっている様だ。まあ、いいか。
あの後、教室に帰ると朝礼で連日の自殺に関する報告と少しの諸注意があり、授業時間には特に変更がないことを説明された。
部活動に関しては各顧問に一任されていたのだが、和巳の所属している部は顧問の判断により休みとなったらしく、放課後すぐに和巳から連絡が入り一緒に帰ろうと誘われた為、今に至る。
のだが。
「ほんとに何でお前と一緒に帰らないといけないんだ」
「ん?和巳君言って無いの?」
「え、稲葉先輩言って無いんですか?」
何だろうか、僕を差し置いてやり取りをされるとなんだかむずむずする。
「何だよ、何を僕に言うんだ」
「えっと、稲葉先輩は僕が誘った、っていう事」
「は?」何で和巳が?
稲葉も、そーそー、と首肯している。
「いやその、朝の件で、実は僕当事者なのにちょっとわかんないことが有って。兄さんから朝言われた話とかも考えたんだけど、どうしても分かんなかったから、聞いた方が早いかなって」
「それで稲葉を呼んだって事は、稲葉に訊きたいことが有るのか?」
「うん、そう」
「何でも聞きたまえ下々の者よ、答えてしんぜよう」もう一回殴ってやろうか。
「あ、兄さん鞄おろして・・・えーっと変な意味じゃ無いんですけど、その、何で助けたんですか」
何で助けた?和巳をか?あれは助けたって言わないんじゃないか?
「んーあー、そゆことね。へぇ、和巳君は結構賢いんだね、お兄さんと違って」
腹立たしいが、実際何の事か分からないから余計頭にくる。
「何だよ、誰を助けたんだよ」
自分でも少し呆れるほど、不貞腐れて言った。
「僕はちょっと名前知らないんだけど、あの、ほら手紙書いた先輩」
「あいつか、気まぐれじゃないのか?」
あれはあれで助けたかどうかは怪しいが。
「最初は僕もそう思ったんだけど、よく考えたら手紙の中での稲葉先輩の行動とかあんまりそんな感じじゃなかったから、何か気になって」
言われてみれば、「助けた」と勘違いされただけで不機嫌になっていた。でも話を持ち掛けたのはそのすぐ後だし、そういえば何故だろう。考えもしなかった。
「んー説明・・・面倒くさいなぁ、気まぐれってことで良くない?」
やはり理由が有るのか。
「ラーメン、奢ってやる」
ここまで来たら知りたい。ラーメン代くらい払ってやろう。
「あ、ほんと?じゃー分かりました説明してしんぜよう」
「お願いします」
「えー、ごほん。まず、校長先生が出てきます」
「校長って、うちの学校のですか?」
「いえす。そして清水かっこ故は、校長の義理の息子です」
「余計な現状説明を加えなくていい。で、息子?義理ってことは血が繋がってないのか」
「血は繋がってます。但し、清水の母親は校長の奥様ではありません、更に言うなら、清水の母親に結婚経歴はありませんし、清水が生まれたのは、校長が結婚して何年も経ってからです」
「えっとつまり、すいません、どういうことですか?」
「要は、清水は校長の浮気相手が産んだ子供って事」
情報の渦に締め付けられて頭がきりきりと痛み、言葉が出ない。
そういえば、あの時校長室で変な質問をされたのもそんな背景があったとすれば納得できる。
「あ、え、でも・・・そう、なんだ」
和巳も驚いたようで、敬語が無くなっている。
「うん、そう。で、何で俺がそれを知ってるかっていうと。あそこってほら、タバコ吸うのにちょうどいいのよね。
それなのに清水があそこを拠点にしちゃって鬱陶しいったらない訳。だから一回ちくったんだよ。ゴリラには近寄りたくなかったから、校長にね。清水っていう生徒が外のトイレでいじめやってますよって」
「言ってたのか?ならなんで無くならなかったんだよ!」自然声が大きくなってしまう。
「まあまあ、落ち着いて。俺にとってもまさにそこが問題だった。こっちからわざわざ協力するような真似してやったのに、大事なところで全然動かないからさー。あったまきて清水がいじめしてる証拠とって、もー一回話したんだよ証拠もあるって言って。
そしたら校長血相変えてさ。お願いだから誰にも言わないでくれって、黙っててくれって言い出すわけ。意味分かんないでしょ?でも、何かあるんだなーと思ってちょっと脅かしたら、さっき説明したこと話されて、しかも校長清水から脅されててさ。んで、その内容が清水がやることを黙認する代わりに清水の出生について黙ってるって事だったらしい」
開いた口が塞がらないとはこのことだろう。和巳も言葉が出ないらしい。
「つまり、校長。ひいては学校公認で、いじめがあったってことだね」
「・・・で、その、続きは」
と、何とか言葉を紡ぐ。
「俺も便乗した」
「「え」」
僕と和巳の声が被る
「あ、いじめとかしてたわけじゃないよ。タバコだよ、タバコ。
もともとそれを隠すために動いてたんだから、校長のそれを黙ってる代わりにタバコ見逃してって取り付けたわけ。
それで、一応それを呑んでもらったんだけど、俺が提出したいじめの証拠みたいにタバコの吸い殻とかが見つかったらかばいようがないって言われて、しょうがないからそれだけはこっちでしっかり処理するって事にしてたんだよね。だけどめんどくさくてさー、何かいい方法無いかなーと思ってたら和巳君が来た」
「え、僕ですか?」
急に名前を出された和巳は目を瞬かせている。
「そう、和巳君がすっごい綺麗に掃除してくれるもんだから、俺がわざわざタバコの消し跡とか消す必要が無くなって大助かりだったんだよ。だからほら、お礼の意味も込めてヨーグルトあげたでしょ?」
「あ」
和巳が反応する。
心当たりがあるようだ、もしかしたらそれをきっかけに稲葉と知り合ったのかもしれない。
「なのにさー、清水が和巳君をいじめ始めてこれでこの子が学校来なくなったら困るなーと思ってたら、あの日あんなことがあってね。だから助けたっていうよりは利用したって言った方が正しいかなぁ」と終始笑顔で言い切った。
最早清々しい。
「そんな事だろうと思った」
僕も呆れた様な笑顔で返す。
和巳が驚いたような顔でこちらを向く。
僕もこいつに会った当初なら、もっと怒っていたと思う。
でも僕は、後ろ向きに前進することを決めた。
何から逃げていたのかを知るべきだと思ったから。
「ってあれ、雪降ってません?少し早すぎる気がしますけど」
「へぇ、異常気象だねぇ」
「でも、綺麗だ」
西日に照らされて不思議な輝きを放つ雪を見て、僕は素直にそう思った。
雪は冷たくて、痛い。ともすれば人の命を奪うこともある。
でもそれは事実で、どうしようもなくて。
だから人は雪を温めようだなんてしなかった。
存在を否定することも無く。ただ、あるがままの雪を受け入れた。
でもそれはいつからか美しいという感動に代わり。人の心を温めた。
何とも陳腐な決心だが、僕もそんな風に痛みと向き合い、その痛みを生きる糧にしていきたいと思う。
「んじゃ、ラーメン食べに行きましょー」
だから辛くとも。長くとも。僕はこの道を歩いていく。
「え、ちょっと切り替え早くないですかって先輩!走らないでくださいっ!あ、兄さん早く!」
道を歩くことすら出来なかった人の為に。
「どうせ僕が奢るんだ戻ってく、あ、和巳待て、お前まで走ったら、僕も走んなきゃだろ!」
僕は後ろに向かって、今は走る。
~フリョウヒンの完成~
流石にこの時間帯だとほとんど人がおらず、がらんとした店内の中ラーメンをすする音が三人分だけやけに大きく響いている。
「あ、気を付けろ、鞄にスープ飛んでるぞ」
「え、ほんと?・・・あ、兄さんも飛ばしてるよ。こっち置いとくね」
「嘘?あーほんとだ。ありがとな」
「どーいたしまして、でも教えてもらったのこっちだから、こちらこそありがとね」
「何だよそれ」
「うん。何だろね」
顔を見合わせて笑っている。
何だろう、何か。あれ?俺がおかしいのかな。
でも店員の視線も心なしか生暖かい気がするし。
「・・・ねぇ、なんかさ、仲良すぎない?」
「「そう?」ですか?」
「はもらないで鳥肌が立つから・・・これが、普通なの?」
あーやっぱり俺おかしくないわ。
店員さんが水注ぎにきたもん、空のピッチャー持って。
「お水おつぎします・・・申し訳ございません、少々お待ちください」
絶対気にされてる。何言うか聞きに来ただけでしょあれ。
「まあ、普通だなこれが」
「そうですね、僕が中学卒業するまでは一緒にお風呂も入ってましたし」
「あー、そうだったな。今日一緒入るか?」
「あ、いいね。久しぶりにはいろっか」
「・・・もうお好きにどうぞ」
この人たちに付き合ってたら何か失う気がする。さっきまでこんな感じじゃなかったのに。
・・・まあいいや、考えたいこともあるし丁度良い。
ズボンのポケットに手を突っ込み、入っている紙に触れながらそれを手に入れるまでの事についてぼんやりと思い出してみる。
「なんで何にも動いて無い訳?」
「こっちにも都合があるんだよ、大体その口の利き方は何だ。敬語を使いなさい」
「うるさいなー。そっちは全然やる事してないくせに都合のいい時だけ先生です、って?ふざけないでくれる?敬語使ってほしかったら、あんたこそ敬語使いたいと思われるようにしたら?」
「何だと?いい加減にしろ!お前どこのクラスだ!とにかく一回生徒しど」「うるさい」
・・・あーやっと黙った。あぁ愛想笑いが消えたからか。こんなの相手に笑ってらんないよ。
いやだねー男のヒステリーとか汚いだけじゃん。めんどくさいなぁもう。
「これ、証拠。他に何の準備が要るの?」
「は?証拠・・・何で、こんなもの」
あれ?何この反応。
「こんなものって何だよ、こういうのが要るんじゃ無いの?」
「誰が、誰が頼んだんだそんな事」
急に顔色を変えた校長―もうハゲでいいや―は、どうしよう。とにかく一度連絡を取って。でも今呼んだら・・・などと一人ぶつぶつと唱えながら、俺が提出した写真と音声データが入ったUSBメモリを睨んでいる。
「おーい、もしもし?・・・ちっ、もーいーでっす。あんたが大好きな生徒指導の大先生に提出すりゃいいんでしょ」
と、次の瞬間喉の下あたりに激痛が走り、ハゲの脂ぎった顔が目の前に迫っていた。
「止めろ!」
「ぐぅっ」
あまりにも唐突すぎて、反応ができない。
「止めろ!黙れ!喋るな!」
ほとんどパニックを起こしたみたいになってるようで、声すら出してないのに支離滅裂なことを訴えてくる。
あ、これホントやばいかも。意識が。
いよいよ手当たり次第に暴れようかと思ったところで、ノックの音が響く。
「誰かいらっしゃいますか」
ハゲはその声で我に返った様で、あたふたと扉まで走る。
「っげほっげほ。うえ。・・・っふう。あのハゲ無駄に力強いなーったく」
すいません大丈夫です、はい。少々込み入った事情がありまして、ええ、部屋お借りしてます。等と弁解が聞こえる。内容からしてこの生徒指導室の主―ゴリラが来たんだろう。
「それでは終わったら、伝えに行きますので」
ドアを閉め、こちらに向き直る。
「あー・・・さっきはその、取り乱して申し訳ない。怪我とかは無いかな」
「無い、で?何を隠してんの?」
「それはその、君には関係のないことだし、生徒のプライバシーにかかわる事だから、私の独断では何とも言えないんだよ」
「今更だんまりが通用するわけないでしょ?馬鹿じゃないの?それとも何、生徒指導の大先生呼ぶ?」
「あ、いやそれは」
目に見えて狼狽える。
自分よりも二回りほど長く生きているはずの男を見て、思わずため息がこぼれる。
「一つ、今ここで俺に全部話す。二つ、ほかの教師を呼んで一緒に話す。どっちがいいの?」
考えがまとまらず焦っている人間には選択肢を与えてやれば他の事を考えられなくなるから、大抵こちらに都合のいいように動かすことができる。
「・・・分かった。ここで話す。ただその代りこのことは絶対ほかの人には話さないでくれ」
ほら、こんな風に。
「まぁ良いですよ」とでも言っておかないと話進みそうにないし。
「実は・・・」
「・・・要はあんたが浮気相手に孕ませた子供が清水で、それを理由にあんたを脅してるって事でしょ?」
「そんな言い方・・・まぁ、そうだ」
話が長いのは校長になる必須条件か何かなのか?
たったこれだけのこと話すのに30分もかかったんだけど。
「ふーんそうなんだ」
でもこれいいな、便乗しよっと。
「じゃあ俺からも条件がある」
「え?ちょ、ちょっと待て」「タバコ見逃して」
「え?」
「え?」
「いや、た、タバコ?吸ってるのか?」
「まね、外のトイレで。最近大先生がよく全校集会で騒いでるじゃん?あれうるさい。まー現行犯で捕まっちゃったらどうしようもないと思うから、その辺は俺の自己責任って事でいいよ。とにかくあんまり積極的な活動をしないようにして。そんくらいできるっしょ」
「な、成程な。うん、そうか。あ、でも吸い殻とかもどうしようもないからその辺も処理しといてくれよ」
「うえー。マジで?ほとんど俺負担じゃんか。
んーでもまーそーか。はいはい。んじゃ、圧力はよろしく」
「あぁ、絶対に誰にも言うなよ?」
「・・・」
「わ、悪かった。一応確認をな?」
返事をせずに生徒指導室から出ていく。
思いがけない収穫に思わず笑みが零れた。
いやー良かった良かった。たまには良いことをするもんだなぁ。まさか学校公認でタバコが吸えるとは。
しかし清水がねぇ・・・ん?それをネタにしてるって事はあいつ自身も後ろめたいところがあるって事か?
・・・いや、別に無くても良いか。要は清水を学校―ハゲから守ってるのがあいつ自身の出生に関する情報って事だから、それを俺が知ってることをあいつに匂わせて・・・あー、いいこと思いついドンッ
考え事をしながら歩いていたせいか、向かいから歩いてきた生徒とぶつかった。
ごめんね、と振り返る。
「っはは」
堪えられずに噴出した俺を、清水が怪訝そうに見ていた。
「いやあ、ごめんね考え事をしててさ、俺の不注意だよ。いやほんとに申し訳ない」
「あ、いや別にそんな。大丈夫だけど」
「ところで校長先生に用かい?」
清水の顔が強張る。
「いや、別に。だ、大体校長に用とか、普通なくない?」
んー、作り笑いはし慣れてないんだろうなぁ。っはは、ひきつってる。
ぐいっと顔を寄せて耳元で呟く。
「それとも、お父さん。に、用があるの?」
「っ」
うわぁ、わっかりやすいなぁ。まあ嘘付かれてもめんどいだけだけど。
「まあまあ、そんな怖い顔しないで、ちょーっと話をしようじゃないか」
こっち。とだけ言い放ち歩き出すと後ろからついてくる足音が聞こえる。
うんうん、まずは満足。
そして連れてきたのは俺の喫煙スペース、もとい外のトイレ。
「俺が何を知ってるか、分かってるよね?」
「あ、あぁ」
ここでごまかそうとしない所を見ると状況判断はちゃんとできるし、意外と性格も・・・まぁいいか、さっさと話を進めよう。
「それじゃ、一応君が背負っているリスクについて説明をしておくね。
君は今いじめをしている、しかも結構えげつないやつを。そして君は校長の愛人の子供。この二つの事実は君と校長の働きによって相互にバランスを取り、実質的には、現状君のリスク足りえてはいない。
ではこのバランスが崩れたらどうなるか。
学校という閉鎖的な社会の頂点に立つ人間の汚点。そしてその汚点たる君が行った数々の蛮行。それを世間が放っておくと思うかい?・・・うん、良い反応だ。理解が早いと助かるよ。
それではこのバランスはどうやったら崩れるのか・・・もっとはっきり言い換えようか、このバランスを崩そうと思ったらどうすればいいか。
実は結構簡単。この事実を公表すればいい。たったそれだけでいい。
そしてだからこそ、この事実を知っている人間は数少ない。そしてその人間たちは皆一様にこの事実が公表されると困る・・・すなわち関係者ばかりだ。った。
そう俺は違う。
君たちとは何の関係もない。このことが公表されたところで、君たちがどんな生き地獄を味わおうとも、俺には退屈しのぎにしかならない・・・んーっと、とりあえず。君と俺の立場の違いは理解してもらえたかな?」
体中に激痛が走ったような何とも辛そうな顔で頷く。あー泣きそうなのか・・・めんどくさ。
「それじゃあ、本題に入ろうか。俺は君と取引がしたい。
あぁ、先に言っておくけど君にとってかなり有利な条件だからそのつもりで。
まず俺が君に与えるメリットは二つ。一つは君の出生についての一切を他言しない。もう一つは君がしているいじめとか、まあ、諸々の事についても同じく他言しないし今後は言及もしない。ここまでは分かった?」
先ほどよりは落ち着いた表情で頷く。集中している様だ。そうそう。それでいい。
「うん。じゃあ代わりに俺が君に求めるものは何か、これは一つ。と言っても厳密には一つとも言えないんだけどね。
君が俺に渡すのは、お金。現金。それ以外は受け取らないから・・・どう、乗るかい?」
また、頷くかと思ったが以外にも口を開いた。
「えっと、その。金額は、どれくらい渡せば良いんだ」
あーそういえば言って無かったっけ。ってか金額によっては乗らないのかな?それはそれで、むかつくなぁ。
「特に」
「え?」
「だから特に決めて無い。一週間に一回持ってきて、金額は君が出せるって判断できるぎりぎりの金額で良いよ。あぁでも金額に不満が有ったら警告とか無しで契約破棄とみなすからそのつもりで。他に質問は?」
「え、でもそんないきなり」「質問は?」
「えっと、あの・・・無い」
「あそ。じゃあ改めて訊こうか。乗る?反る?」
「・・・乗る」
「まーいど。それじゃー今週、は良いや。来週からよろしくねぇ。そんじゃ、ばーいばーい」
何か言いたげな表情をしていた清水を残してその場を去る、だってどうせ俺に得なことじゃ無いし。
さてさて、臨時収入も入るし、タバコも吸えるし・・・いいねぇ。順調だよ、俺の青春ライフ。
「・・・い、おい。稲葉。起きろって」
「んあ?何」
「来い」
は?何、人が気持ちよく寝てたのにさー・・・ってゴリラかよ、めんどくさいなあ。大体さぁ、こんなことして誰が得すんのよこれ。寝てた方がよっぽど有意義じゃない?ったくほんとに「僕が生徒会副会長に立候補した」
「ノザワナ!」
思わず声を出してしまった。
この演説会が始まる前に配られた立候補者紹介のプリントで名前を見つけた時、その名前と自分の名前をくっつけると漬物になる事が妙に面白くてやけに印象に残っていたのだが、まさか声に出してしまうとは思わなかった・・・寝惚けてんのかなぁ?うわぁ、ゴリラの顔がすごいことになってる。ははっ、ここまで来たら言い切ってしまえ。
「漬物!」
・・・んー?頷いてる?この状況で・・・へぇ。野沢菜君、ね。よっし。覚えたぞ。
「黙れ!」
っうるさ!距離考えろよなー。あー耳がキンキンする。
「稲葉!来い!」
言いながらもう引っ張ってんじゃんか。ほんと何がしたいのかなこの人・・・あぁ人じゃなかったっけ。
それじゃあ野沢菜君。また、後でね。
「野沢菜」
あの後生徒指導室から出てきた俺は偶然見かけた後頭部にこの言葉を投げかけた。
その後、野沢とやり取りをしていく内に、どうやら怒らせてしまったようで『嫌いだ』宣言をしたまま恐らく教室へと早足で向かって行った。
うーん。あれはなんだか予想外な感じかなぁ。・・・あー久しぶりに頭こんがらがってきた。
ちょっと安らぎを求めに行こうかな。
俺はポケットの中に入った箱を軽く叩き、外のトイレへと向かった。
・・・ふぅー。あー落ち着く。そいえば久しぶりかも。
バタバタバタ。
複数の足音がトイレへと入ってくる。
ん?こんなとこにずいぶん沢山来たなぁ。部活動生かな?
ドンッ、ドサッ。バシャッ。
んー、これは・・・あぁ、清水か。
「ちっ」
タイミング悪いなぁ、煩いし。でも口出さないって言っちゃったしなぁ・・・
あの後次の週になってから、清水はしっかりとお金を持って来た。
何でも校長からも取って来てたみたいで結構な金額だったが、継続的に渡すのは難しいと判断したのかその次の週からの金額は少し減っていた。
しかしそれでもこれまでの金額をすべて合わせるとかなりの大金になる。
うーん。変につついたら今の環境が壊れちゃいそうだし、かといってこれは煩いし・・・ん?
バタバタバタ・・・。
足音が遠ざかっていく、考え事をしている間に終わったようだ。と、思ったところで。
・・・バタバタバタ。
戻って来た。
「やっぱり最後にもう一発づつ蹴ることにした」
清水の声だった。
終わったと思って気を抜いたところで、フェイントのように戻って来たそれに妙に腹が立ち、苛立ちをぶつけるように思い切り扉を開くと、すぐに何かに引っ掛かり「うっ」と言う声が聞こえた。
清水達の誰かにあたったと思うと嬉しくなって謝罪のトーンが少し軽くなってしまったが、まあ大丈夫だろう。
しかし、顔を出してみると扉の前に居たのは清水達ではなく、汚れた制服などを見ていじめられている側の人間であることに気付き、上がっていたテンションが少し下がった。
まあでも牽制にはなっただろうと、一言二言告げて引っ込もうとした時、思わぬ声が響いた。
「おい、まてよ」
「んー?」俺に、言ってるのか?
「何だよてめー」
明らかに苛立った様子で清水は言っていた、しかし意味が分からない。
ここで俺を引き留めて何になるんだ。
「ごめん何で怒ってるのかわかんないんだけど」
「あ?殺すぞてめぇ、ちょっとこいやコラ」
「今忙しいんだよね、それにそんな殺意むき出しの人に来いって言われて、行く人いないでしょ」
「あぁっ?黙れやコラ!殺すぞゴラァ!」
あぁ、分かった。日頃の恨みが溜まってるんだ、こいつ。
この状況なら俺はこいつの秘密については喋れないし、喋っても意味ないし、腰巾着もいるし。
今なら俺にも優位に立てると考えたけど、今度は逆に余計な事考えすぎて、実際俺にどうすればいいか分かんなくなって、とにかく思いついた事喚いてるって感じ?
「今すぐこっち来ねぇと、それ教師にばらすぞ」
「お好きにどうぞ。じゃあ、僕は君たちがそこの彼を集団でいたぶっていたことを、こと細かく先生方に報告することにしようかな」
あーあ。
折角こいつにとってもローリスクハイリターンな、素晴らしい契約を結んでやったというのにさぁ・・・ペナルティだな。これは。
この後の事を考えて、自然頬が緩む。
「はい詰み。俺の勝ち。ってことで戻っていいかな?諸君」
今度は誰の声も響かなかった。
吸いかけていたタバコをゆっくりと灰にしながら、清水に何を要求するかを考え、その考えがまとまったところで外へと出る。
その際、何度もぶつけて下手に恨みを買っても困るため、これでもかというほどゆっくりと扉を開けた。
「開けるよー」
今度は当たらなかったようで肩の力を抜いていると、床にへたったままこちらを見る一対の目と、目が合った。
「なに見とれてんの、照れるじゃないか」
軽口を叩いてみると、慌てたように助けてくれたのかと訊かれた。
「いや違うよ。何で僕がそんな面倒くさいことを進んでしなくちゃいけないんだ」
不愉快だなぁ。そんな感情を隠しもせずに告げると、でも僕は助かったと尚も食い下がってきた為若干苛つきながら
「好きでやってるんじゃないのか」
と、訊いてみた。
これで流石に黙るだろうと思っていたら、不覚にも呆れられてしまったため負けじと言い返す。
「嫌なのに、いじめられてるの?意味が分からない」
一気に爆発した。
堰を切ったように、俺に日頃の苦労をぶちまけ始めたと思ったら、段々と俺に対する罵倒のような感じになり、涙をこぼしながら馬鹿を連呼されたところでたまらず口を挟んだ。
「死のうとは思うのに殺そうとは思はないんだね」
・・・殺す、か。
ほぼ思い付きで言ったことだがそのキーワードからある事を思いつき、先ほどから緩みっぱなしの頬が更に、緩んだ。
出来るわけないと必死の形相で主張してくればしてくるほど、自分のひらめいた計画が成功すると主張されているようで、声をあげて笑いそうになる。
「違う違う。あいつらを殺すんじゃない。あいつらが勝手に死ぬんだよ。・・・おっと、今日は用事があったのを忘れてた。じゃあ続きはまた」
その場で事態を動かそうかと思ったが止めた。
清水の意思を確認しておく必要があったからだ。
先ほどの清水の態度は本当に一過性のものだったのか。それとも何かを決意したのか。
或はあの時のあの行動が彼の中で、何かを変えてはいないか。
それ次第で、この計画が実行されるかどうかは変わってくる。
・・・現状維持が理想的なんだけどなー。
清水君、君はどうしたい?
それから二日後に清水と話をした。
結論から言うと、彼は彼にとって最悪の選択肢を選んだ。
「俺は、もうお前に金は渡さない。実際これを後二年も続けていったら家の金を足したって足りないしな。
俺はあいつ―校長は嫌いだけど母さんには感謝してる。
いつも頑張って働いてそこから何とか俺の小遣いまで出してくれてるんだ。その金を、俺がしたことでどぶに捨てるような真似はもう、したくない。
これで、お前が納得しないって言うんなら、全部しゃべっていい。あいつのことも、俺がしてきたことも、全部。でも、お前にはもう何もしない。決めたんだ」
「・・・そっか」あーあ。最悪。
全部しゃべれって?できるわけないじゃん。
俺がゆすってたこともばれる。ハゲからの後ろ盾も意味を失う。っていうかそうなったらあのハゲ絶対俺の煙草の事も話すだろ。
かと言って放っておいたらこいつに俺の弱みを握られることになるし・・・ほんと、最悪。
もう要らないや、お前。
「うん。分かった。じゃあお金はもう要らない。
でも、君のことについても今まで道理他言しない」
「え?」
「正直ね、驚いた。
君がそんな風に思ってたなんて知らなかった。
君がそんな風に悩んでたなんて、考えもしなかった。・・・ごめんね。
・・・今まで散々なことをしてきたから信用できないかもしれないけど。
約束は守る。だから安心して。難しいかもしれないけど」
「あ、いや、その・・・俺こそ、ごめん。
元々俺のせいでもあるのに、お前ばっかり悪いみたいな言い方して。
あ、そうだ。俺もう、いじめとかも止めようと思ってるんだ。
今までは何かもうどうでもいいやって。
八つ当たり・・・とはちょっと違うんだけど、誰かを見下してると安心できて、それに縋ってただけだって気付けたから。
校ちょ・・・お、親父とも少し話してみようと思う。
あの人の立場があるから表だって関係を認めるのは難しいと思うけど、それでも今みたいな関係はもう、終わりにしたいんだ」
そういえばこいつが笑ってるの、初めて見たかも。
これからどんどん笑顔が増えて、人付き合いも変わって良い人生を歩めるんだろうなあ。
・・・もし生きてれば。
「そうか、色々考えてるんだね・・・うん、応援してるよ。何かあったら相談してね。
あ、ところでこれはちょっと余計な事と言うか、君には少し酷な提案かもしれないんだけど」
そこで一旦言葉を切り顔を見ると、少し嬉しそうな表情で俺の話を聞いている。
自分の気持ちを理解してくれたのが嬉しいんだろう。あぁ何かむかつくなぁ。
「いじめは止めない方が良いと思う」
案の定清水の表情が曇る。
「わかる、分かるよ。言いたいことはね。
でもよく考えてごらん、もし君が今急にいじめをやめたらどうなる?いじめられてる連中はきっと良かったと思うだろう。でもそれで終わるかな?復讐のために教師に相談したりしたらどうなる?君のやったことは全て明るみに出て君はきっと吊し上げられる。
まぁ、そうなったところで君はそれでもいいと思うだろう。でもそれだけじゃない。君の周りにいる人間すべてに影響が来るんだよ。新井田や井上はもちろん、校長やそれから。
君の母親にもね」
「っ、母さんにも」
「そう、当然だよ。いじめって言うのは世間では最早犯罪と同列の扱いだからね、加害者の親も糾弾されて然るべき、っと失礼。
別に俺は君の母親を糾弾すべきと言ってる訳じゃなくて、世間はそう見ると言ってるんだ」
「あ、あ。そう、か。そう、だよな・・・母さんにも」
目に見えて清水の顔から血の気が引いていくのが分かる。
あ、良いな今の表情。少しすっとした。
でも、まだだよ。清水君。落ち込むのは早い。
「でもこれは仮の話だ。もし仮に君が苛めていた連中がこんな風に動かなかったとしたらこれは杞憂に終わる。しかしね、彼らが大人しくしていたらそれはそれでまた新しい危険が出てくる。何か分かるかい?」
あくまでも可能性の話である事を強調してやれば、先ほどよりは若干良くなった顔色で「分からない、何があるんだ」と、続きを促して来た。
「新井田と井上だよ。あいつら、今でこそ君の腰巾着みたいに動いてるけど、いざ君が足抜けするって言い出したらどうなるだろうか?・・・果たして、それを認めたとしよう。
そうするともしかしたら、今まで彼らが君に遠慮していた分、その八つ当たりの意味も含めていじめが酷くなるかもしれない。
そうなったら今度は、君のせいで更に傷付く人が増えるんだよ?
・・・えーっと。今ざっと思いつくだけでもこれだけのリスクが考えられるんだ。今の清水君にはきついかもしれないけど、新井田と井上の手綱を握りながらやりすぎない程度にいじめは続けていくのがベストだと思う」
我ながらよくもまあこんなに話せるものだと思いながら、すらすらと都合のいいように話を進めていく。
「・・・成程。稲葉の言いたいことは、よくわかった。とりあえず、その。ありがとな。俺なんかのことこんなに心配してくれて。
それで、今俺も話聞きながら考えたんだけど、それなら俺自身は新井田達に何を言われてもいいからきっぱりといじめをやめて、その上であいつらの事も止めたらどうだ?
それなら、かなり虫のいい話だけど、俺が苛めてたやつらも俺の事を許してはくれなくても多少は考えてくれるかもしれないし、必要なら頭だって何回でも下げる。いや、必要なくたって俺は頭を下げなきゃいけないんだけど」
・・・うーん。やっぱりこいつは馬鹿じゃあ無いんだよな。早めに懐に入って正解だったなぁ。
「あー、成程、良い考えだと思うよ。でもそれは新井田達が実力行使で正面から君とやり合った時にしか通用しないよね。
もちろん俺は言ったりしないけど、仮に君の出生の秘密についてあいつらが知ったりしたら、絶対にそれを利用してくると思う。そうなったら・・・最悪、じゃない?」
「あ、あぁ・・・いや、でも。今まで誰にも知られなかったんだから」
「俺は知った。割と簡単にね。ここまで来たら言うけど実はこの話校長から聞いたんだ。
・・・何か、ごめんね。それで俺が話を聞いた時も結構すぐに話してきたし、このことが漏れないって保証はないって考えておいた方がいいと思う。
後、俺が個人的に思うのは、新井田達ってむしろそういうやり方のほうが得意そうな気がするんだよね。・・・どう、かな?」
清水は眉にしわを寄せて地面を凝視している。
今まさに距離を詰めようとしている相手がしていた事がよほどショックだったのか。或は俺の助言を聞いて、新井田達の性格について考えているのか。若しくは、両方か。
そして暫くの後、重々しく清水が口を開く。
「・・・分かった。稲葉の言う通りにしてみる。俺がしてきた事なんだ、自業自得、だよな」
発言と表情が噛み合っていない。心の底からは納得してない証拠だ。
思い直されても面倒だし、背中を押してやるか。
「清水君。辛いのは分かる、だから今更君のせいじゃないなんて言わない。
俺が言えた義理じゃないかもしれないけど、清水君の言う通り自業自得だ。
でも、それを分かった上で、もし何か辛くて耐えられなくなったら俺を頼ってほしい。
力になるのは難しいかもしれないけど、今みたいに頭を使うことは得意だから、そういう事ならできるし、もし俺にできないことでも話くらいは聞くから。
俺は君の味方だ・・・約束する」
嘘をつくときのコツはしっかりと言い切る事。
人を騙す時のコツは倫理的な常識とは真逆の事をすること。
俺はどちらもいつもやってる、というか、倫理的な常識なんてそもそもどうでも良い。
「稲葉・・・有難う」
清水の頭が静かに下がる。声の感じからして泣いている様だ。
あー、さっきから表情作りっぱなしだったから顔痛くなってきた。
ぐにぐにと手で顔をマッサージしながら返事だけはする。
「いや、いいんだよ。俺こそそんなことされる人じゃないから。頭上げて。ほんとにいいから」
「い、いまちょっとな、あげられない顔してんだよ。悪い。ちょっと待ってくれ」
ラッキー。丁度欠伸でそうだったんだよねぇ。・・・あ、そうだもう一個種撒いとこ。
「ふぁ、っとごめん何でもない。じゃあ、そのままでいいからもう一つ聞いてくれる?」
「ああ。何だ。また問題点か?」
「いや、特別そういうことじゃ無いんだけど。これから君が今まで道理いじめをしていくんだったら、下級生もその対象にしないと違和感があると思うんだよね」
あーこれはちょっと強引過ぎたかな。
「そう、か?うぅん・・・それで?」
ようやく顔を上げた清水が怪訝そうな表情で続きを促してくる。
「うん。でも清水君は、必要だとは思ってもそれはやっぱり、嫌でしょ?
だからね標的にはしても、いじめなければいいと思うんだ。要はカモフラージュみたいな」
「カモフラージュ?」
「そう、つまり下級生もしっかりといじめの標的にしてるってことを周りに示しながら。その実いじめてはいないっていう状況を作る・・・そーだね、例えば外のトイレ掃除の子を狙って二、三回いじめる。で、いじめてる最中とかに、後始末面倒だなーとか、誰かが片づけやってくれれば最高なんだけどなー、とか言って、上手くやれば状況を変えられることを匂わせる。それでその子がそれに乗ってくれば、後はこっちもその話に乗る。みたいな」
「そうか・・・そうすればあくまでもそいつは俺の言うことを嫌々聞きながら、でも実際には普通に掃除をしているだけっていうことになるのか・・・そうか、成程な」
うんうんとしきりに感心した様に頷いている。
相当無茶な言い回しをした気がするけど、一気に色々言ったせいで余計なことまで気が回っていないのかね。
いやーこんなに上手く回ると逆に気持ち悪いな。楽で良いけど。
「じゃあさっきも言ったけど俺にできることが有ったら言ってね。それじゃあそろそろ」
「あっ、悪い。ありがとな、ほんとに。お前がいなかったらやばかったぜ。っはは。じゃーなまた明日」
「んー、じゃーねー」
前向きだなー。
たまには足元も見ないと、落ちちゃうよ?
それから少し計画を練り直したりして結局状況を動かしたのはあの時から、丁度一週間ぶりだった。
「やあやあ、一週間ぶりだねぇ」
久しぶりに会ったその顔はかなりやつれていた。
一週間前に感情が爆発したから、今までされても平気だったことも、急に辛くなってきたのだろうか。
「あ、稲葉、君」
「お、君付けか。昇進したねぇ、俺」
「ちゃ、茶化すなよ。この前の話の続きか?」
「そーそー。察しが良いと楽で良いね」
「あれは、その。清水を殺すって言うのは。本当に?」
「んあー、そうなんだけど・・・ま、順を追って説明しようか」
近くにあったベンチに座るよう促し、隣に腰掛ける。
「良いかい?まず今君が思っている“清水を殺す“っていうのは多分。こう、直接的な、夜道で後ろから襲っちゃうみたいな感じでしょ?それはまあ、無理っていうか難しいんだよね実際。
じゃあどういうことかって言うと・・・それを話す前にまず状況の整理をしてもいいかな?
うん。それじゃあ説明するけど、はっきり言って現状君のいじめの事実って言うのを学校側に認めさせるのはほとんど不可能に近いんだよね、何でかっていうと。単純に証拠がない。
一週間前の件に関しては俺が証言すれば何とか認めてもらえるかもしれないけど、それがいつも行われている。
すなわちいじめの一環だと認めるのは難しいでしょ?ま、要はそういう事。
全く、あの人たちは警察の違反切符みたいに、どうでも良いことにはやたらめったら目くじら立てる癖に、こういうことになると一気に動かなくなる。
ほんっと、役に立たない・・・ああ、ごめん。続けようか。
それで何が言いたいかっていうと、セオリー通りのやり方。
つまり、教師に相談して、親御さんと話をして。謝罪。和解。ハッピーエンド。は、ほとんど無理って事。
教師に話した時点ですり潰されるだろうね、きっと」
「ま、待ってよ」
話を遮られムッとなるが、何とか取り繕って、目で続きを促す。
「それは別に話してみないと分からないじゃないか。何で断言できるんだ」
「あー、まあそれは後で説明するよ、一応根拠はあるから。とにかく正攻法じゃ、君は勝てない。おーけー?」
強引に結論を持ち出すと。渋々と言った表情で頷く。
「うん。だから君が彼に対抗しようとするならばかなりの力技をしなくちゃいけない。
・・・まぁ俺が思いつく限り、の話だから。他の案があるんならそっちでも良いけどね。
その方法を取るとかなり事態は大事になるし、全くと言って良いほど関係がない人間にも迷惑をかけることになるけど、良いかい?」
「・・・とりあえず、聞いてみたい」
「よし分かった。ひとまず簡潔に言うと。
あらゆる秘密を公表して、当事者が死ねばいい。そしたら誰も困らない。
意味、分かる?」
分かるわけないだろうな、と思いながらも話を大げさにするためにあえて尋ねる。
すると意外にも神妙な顔付きで悩み出し、少しの沈黙の後その口が開いた。
「稲葉君の、言ってることはわかるけど。でも僕はそんなの嫌だ。僕は、今更誰にも守ってほしくない。助けてほしくない。自分の力で何とかしたんだって知ってもらえるような、そういう方法が良い」
その言葉を聞いて一瞬意味が分からなかったが、すぐに言いたいことを理解した。
「違う、違うよ。あーびっくりしたな。君が知ってるはずないのに普通に、俺の言ったこと理解したとか言うもんだから。うん、びびった」
「えっと、どういうこと?」
俺の否定にいよいよ混乱してきたのか、少し焦ったような表情で尋ねてくる。
気持ちを入れなおすために大きく咳払いをし、俺は話を始めた。
・・・校長と清水の関係。本当に恨むべき人間が誰なのか。
そいつらに復讐するためには何ができるのか。
それらを踏まえて、実際どうすればいいのか。
それを、教えた。
その後具体的な計画の内容、日取り、必要な物などについて話し合い。
彼の何かを決意したその表情を見て、俺は自分の計画が上手くいっていることを確信した。
だが、肝心なところを人任せにしてしまったことがまずかった。
計画当日、欠伸を噛み殺しながら教室へと向かうと、そこにはすでに彼がいた。
「おー、はよ。どう?清水。来そう?」
「あ、おはよう。・・・何か、すごいな。稲葉君。落ち着いてて。僕なんかもう、昨日から眠れなくって。大丈夫だよな?何とかなるよな?」
「あーうん。だいじょぶだいじょぶ。で?清水来そう?」
ここまで来て何を不安に思うことが有るのか分からないが、とにかく計画が上手くいくかは確認して置く必要が有る為、苛立ちを隠して再度尋ねる。
「あ、うん。すぐに来ると思う。いじめの証拠を集めたって言ったから、多分すごい怒ってるとは思うけど」
それを聞いた瞬間に、寝起きでぼやけていた思考が一気に覚醒した。
「何だって?証拠を集めた?」
「ああ、それならきっと焦ってくるだろうって思って・・・何か、まずかったか?」
「うん、いや、ちょっと待ってね」
この馬鹿。何してくれたんだ。
畜生、そんなことで呼び出して、清水が余計な事をしゃべったら・・・足音か?くそっ。
「来たみたいだ、とにかく計画通りにね」
慌てて掃除用具棚に隠れる。
教室の中に人が入ってくる足音が響く。
「おう、おはよう」
「し、清水く・・・しみ、ず」
「・・・」
「な、何とか言えよ」
「分かった」
「え?」
「・・・悪かった」
その声を聞いた時、俺の中で何かが崩れた。
ここまでやったのにさぁ。収穫なしとか・・・あー後で絶対追及されるわ。
・・・糞が糞が糞が。
薄い扉の向こうで清水の謝罪が続いている様だが、最早頭に入ってこない。
どうしよっかなー、今から出て行って二人とも殺すかな。ははっ、絶対無理だし。
えっとー?清水が全部喋っちゃったとしたら、清水を助けるとか言いながら、殺そうとしてたことがばれるわけでー・・・あーなんかもうどうでもいいや。
その後しばらくぼーっとしていたが、ふと妙に静かなことに気付き、ゆっくりと掃除用具棚から出る。
ん?何この状況。
あいつはあいつで―結局名前わかんなかったや―ボロボロ泣いてて。それは良いんだけど清水が何かを・・・読んでる?んー良く見えない「あ」
気付かれた。清水が怒りを隠しきれない表情でこっちに向かってくる。
「稲葉っ!この、糞野郎っ!」
掴みかかってくるかと思ったが意外にも俺より少し手前で立ち止まり、深く深呼吸をした。
「ふぅ・・・お前がどういう人間か、良く分かった。ほんと最低だな、お前。完全に騙されてた、いや、騙されるところだった」
認めるのもしゃくだったので、半ば面白半分でしらを切ってみる。
「おはよう清水君。どうしたの?そんなに怒って」
「てめぇ、この期に及んでしら切れると思ってんのかっ!ああっ?」
「じゃあ聞くけれども、俺が一体何したっていうのさ。証拠はあるの?」
「証拠?はっ。それがお前の切り札だったのか?残念だったな。全部これに書いてあんだよっ!この糞野郎がっ」
どんっと殴るように突き出された清水の手には、ルーズリーフの束のようなものが握られていた。
「んー、そこまで言うんならちょっと読んでみるよ」
清水の手からそれを奪い取り、近くの椅子に陣取って悠々と読み始めた。
最初の一枚は俺にとってはどうでも良い内容だったので軽く読み飛ばし二枚目、三枚目。そして最後の四枚目まで一気に目を通す。
そして読み終わった時、既に諦めて、蓋をしかけていた思考に一閃が生じた。
・・・清水君。君には散々迷惑を掛けられたからねえ。これはその報いだと思うと良いよ。
俺はその手紙の束から三枚目をそっと抜き取りポケットに突っ込んだ。
そして三枚目を除く残りの三枚を清水へと返しながら言う。
「成程ね。これは君が、いや君たちが怒るのも無理はない。でもこれは勘違いだよ」
「勘違い?ふざけんなっ、何言いだすんだてめぇっ。要するに・・・」
そこで清水の言葉が詰まる。
先ほど俺が面白半分ではあるがしらを切った事と、ここに至るまでの経緯が複雑になりすぎて、頭の整理が上手くいかないのだろう。
この二人の両方の事情を把握していた俺でさえ、たまに混乱したほどだ。
本当に大変だったなあ。
まぁ、もう終わるけどね。
清水が復活する前に言葉を紡ぐ。
「うん。混乱するのも無理はないと思うよ。それじゃあいつもみたいに順を追って説明するとしよう。あー君は・・・良いよ。話を聞ける状態じゃないと思うしね。とりあえずそこで休んでいると良い」
再度清水に向き直り説明を始める。ふりをする。
「じゃ、清水君。説明をするにあたって一つ確認をしてほしいことが有るんだけど、良いかな?」
念のために最後の確認をしておく。土壇場で気付かれたらまずいしね。
「・・・分かった」
先ほどよりも幾分落ち着いた様子で頷く。
「有難う」騙されてくれて。
「それじゃあちょっと付いて来てくれるかい?」
そうとだけ言い窓際に向かって歩き出す。
後ろから足音が付いてくる。
ただ一つ開いた窓の前に立ち止まる。
「あそこに見える文字を読んでほしいんだ」
窓の外の適当な方向を指さす。
「・・・どこだ?」
清水が窓際に寄る。
「えーっと、ほら、あれだよ。あの茶色のマンションの、横の建物の屋上にある」
「ああ。あの看板か・・・ええっと、敷金、礼金」
窓枠から身を乗り出した清水の背後に回る。
「あ」
あぁ、休んでる方か。でも今更気づいても遅いなぁ。
「ん?」
清水がその声に気付き振り返ろうとした。
が、その前に突き落とした。
「「あ」」
俺以外の二人の声が重なる。
滅多にない機会なので地面にあたるところまでしっかりと見届けた。うわぁ人形みたい。
「・・・さて、と」
振り返り、久しぶりに、笑う。
「あ、あ。ころ、ころ。あ」
最早言葉にすらなっていない。それを見て吹き出しそうになる。
いいねぇ、調子出て来た。
「そんなに怖がらなくたって良いじゃん。君だって同じことをしようとしてたんだよ?」
腰が抜けたのかずるずると後ずさりながら必死に右手だけを突き出している。
「左手も使ったら?っあはは。ほんとにしなくても良いのに」
もう少し遊んでみたかったが、これ以上は人が来ると面倒なのでとっとと本題に入る。
「さて、君の状況について説明しようか。
今回は時間が無いからね。質問は無し。説明は一回だけしかしないからよく聞いてね。
俺は今、清水を殺しました。しかしそれを知っているのは俺と君しかいません。
そして・・・じゃんっ。これ、君が書いた手紙の三枚目だけ引っこ抜いたやつ。
つまり今清水の手元には、一、二、四枚目の手紙だけがある事になる。
・・・いやぁ。よく出来ていたよあの手紙。ちょっとした詩みたいだった。
発言を一字一句再現したりと無駄な部分も多かったけど、その分真に迫るものが有ったしね。
でも、さっき俺はあの手紙のある欠点に気付いた。
まあ、俺にとっては長所なんだけど君にとっては致命的ともいえる様な、そんな欠点をね。
んー?ははっ、思い出そうとしたって無理だと思うよ?だって文章自体には特に問題は無かったもん。
欠点って言うのはね。
三枚目が無くても、違和感がないってこと」
つまり、俺にとって不都合な事実が入りまくった三枚目を消去してしまえば最悪の事態は防げるという事。
でもそれを言うよりは君にはこう言った方が良いかな?
「更に加えて言うならあの三枚だけが他人に見られた時、真っ先に疑われるのは君だ。
殺すって書いちゃってるしね」
砕けた口調に少しは緊張が解けたのか、ようやく反論が始まる。
「ち、違う、僕は殺してない。い、稲葉が殺したんだろっ。僕じゃないっ」
その言葉に、俺はへたっている彼につかつかと歩み寄り、髪の毛を掴んで壁に叩きつけた。
ガッ
「あぐっ」
「うるさいなぁ、一々わめくなよ。ほんっと頭悪いなお前。毎回毎回一から十まで説明させやがってさぁ。マジでうざいなお前。要はさ、お前以外はみーんなお前が殺したって思うって話をしてんの。分かった?」
「ぁ、ぅ」
今のは返事・・・とみなそう。
「そ、分かってくれて嬉しいよ。それじゃ、人殺しとして後ろ指される人生を、心行くまで楽しんでね。ばーいばーい」
再度涙を零して呆然としはじめたそれを放置して、階下へと向かう。
出来るなら回収しときたいんだよね、あれ。
先ほどはああ言ったが実際あの手紙が見つかれば、俺にも疑いの目が向けられるのは避けられない。
何とか殺しの罪を擦り付ける事が成功したとしても、厄介なことになるのは間違いない。
俺は少し早足で、死体の元へと向かった。
のだが。
果たして、手紙は無かった。
しかし誰もいない。
飛んでいったのかと周囲を探してみるも見当たらず、少し焦り始めた頃。
「こっちです」
聞き覚えのある声が聞こえて来た。
野沢?と・・・ゴリラ?
・・・あぁそういう事。まっずいなあ、よりによってあいつか。
「朝から大変だねぇ」
俺は焦りを隠すようにそう言った。
「稲葉?お前何でここに」
「おい。お前らは職員室に行きなさい。他の先生には俺から連絡しておくから」
野沢の疑問を薙ぐように、ゴリラが俺らに指示を出した。
「――――・・・ば、稲葉」
おっと、少し考えに浸りすぎたみたいだ。
「どうしたのさ?」
「いや、どうしたじゃなくて何回も呼んでるんだが」
「あー、ちょっと考え事しててね」
「・・・まぁ良いか。僕らはそろそろ帰るけど、お前が食べ終わるの待ってた方が良いか?」
あらら、随分と優しい事を言ってくれる。
「ありがとうね和巳君。でもまだゆっくりしてるから帰っていいよ」
「おいこら、俺が訊いたんだぞ」
「ばーいばーい」
「まっ、ちょ、兄さん。落ち着いて、蓮華置いて。それじゃあ僕達もう帰りますね、ほら兄さん行くよ」
優しく品行方正な和巳君は、冷たく不躾な和孝君を連れてラーメン屋から出て行った。
さて、この手紙はどうしたもん・・・あぁ、良いこと思いついちゃったなぁ。
安いラーメンを啜りながら、俺は清々しい気分を感じていた。
・・・数日後、とある家に一通の手紙が届く。
手紙に差出人の記名は無く、手ずから投かんされたものであることが分かった。
そのことに幾分の気味悪さを感じながらも、校長はその手紙を開いた。
『「あらゆる秘密を公表して、当事者が死ねばいい。そしたら誰も困らない。」
そういわれた時に僕はその秘密と言うのはいじめに関する事だと思った。
だから当事者が死ぬというのはよくわからなかったけど、とりあえずありのままの事を皆に知ってもらうというのは理解できたし。成程とも思った。
でも、僕は嫌だった。今まで僕の事を助けなかったクラスの連中。見ないふりをしていた教師。部活動もしてないのに、傷を作ってきても元気だなと笑い飛ばす父。相談をしようとしても、みんな大変なのよとヒステリーを起こす母。もちろん全員が全員じゃないけど、そいつらだって僕から言わせれば十分に加害者だ。清水たちと何にも変わらない。
なのに、個人じゃなくなった瞬間に強気になって、さも善人みたいに、僕に寄って来て、助けてやったみたいな顔をされるなんて。守りたかったみたいな言葉を吐かれるなんて。
考えたくもない。そんなの。いじめられる方がましだ。
そう思ったから僕は稲葉君に異論を唱えた。
「稲葉君の、言ってることはわかるけど。でも僕はそんなの嫌だ。僕は、今更誰にも守ってほしくない。助けてほしくない。自分の力で何とかしたんだって知ってもらえるような方法が良い」
稲葉君は僕の言葉を聞いて一瞬呆けたような表情をしていたが、すぐにいつもみたいに笑って言った。
「違うよ。あーびっくりしたな。君が知ってるはずないのに普通に俺の言ったこと理解したとか言うもんだから。うん、びびった」
何の話をしてるのか分からずに先を促した。
「えっと、どういうこと?」
一回わざとらしく咳払いをし、稲葉君は話し始めた。
「実はね、この学校の校長は君がいじめられていることを知ってたんだよね。それでなんで校長がそれを黙ってるかっていうと。
実は清水は校長の浮気相手の産んだ子供なんだけど、それをネタに校長にストップをかけてるって訳。あ、君の件だけじゃなくても清水がすることは基本校長が噛んでるみたいだから、そんな人間清水がいなくても君の事は黙ってたかもしれないけどね・・・で、このことをいじめの件と合わせてできるだけ大勢の目に、耳に、触れる場所で流すんだよ。
これが、あらゆる秘密を公表するって事」
どれほどそうしていただろうか。開いた口がからからに乾いて飲み込んだつばが喉で引っ掛かりむせたことで、僕はようやく我に返った。
「し、清水が、校長の。でも、そんな。だって、知って、た。校長先生が、しってた」
それを聞いた時僕は本当に絶望した。
稲葉君はそんな僕に続けて言った。
「さっき話した清水の出生に関することを公表すればまぁまず校長は絶対に学校に居られなくなる。で、清水はどうなると思う?考えてもごらんよ、学校から追い出された校長の愛人の子、しかもそれを嵩にかけていじめを行っていた。
この二つの事実が一気に全校生徒・・・いやそれ以上の数の人間に知られるんだよ?学校で今まで通り過ごしていけると思うかい?いやいや、そんなことはあり得ない。
人間というのは、特に学校みたいに閉鎖的な社会では多数の意思さえ一致していれば正義の旗はどんな風にもはためく。しかし、面白いことにそれは意識の水面下では決して翻らない。無意識という水を吸ったみたいにね。
それこそ多数が個人を攻撃することだって皆がいじめと取ればそれは悪だと叫ぶだろう。でもこの計画が実行されれば皆嬉々として清水を吊し上げる、絶対ね。
では何が違うというんだ?いじめか、吊し上げか。どちらが正義かなんてどうでもいい。
大事なのはどちらの方が自分達にとって都合が良いかだ。ん?分かりづらいかな。ではもっとはっきり言おうか。
いじめをしている自分。いじめを糾弾している自分。果たしてどちらがかっこ良く見える?素敵に見える?可愛く見える?優しく見える?・・・つまりはそういうことだよ。
問題の本質はどうでも良いんだ。当たり前だろう?どちらに非が有ろうが、それが何だ。自分に何の関係がある。っと失礼。少し横道にそれちゃったね、さて続きを話そうか、え?俺かい?俺なら放っておくさ。俺に害を及ぼすか、利益を生みそうな時は別だがね。
・・・続きを話していいかな?それでだ、こうなると君にとってどうなるか。
君の事を助けるべきだった人間である校長と一番の加害者である清水。この二人が始末できる。
校長は・・・さっき言ったか。清水が途中だったね、あいつは今までの君と同じように周りの人間に痛めつけられるさ、身も心もね・・・でも、そうか。これじゃ駄目なんだった。
君は自分の手で始末をつけたいんだったよね。じゃあこうしようか」
そして稲葉君から今回の計画を提案された。
僕と一緒に清水を殺そう。
稲葉は笑いながらそう言った。 』
「この手紙について、お話があります。
N・I」
最後までお読み頂き有難うございました。
折々いじめについての表現その他が有りましたが、本作はいじめの是非、或いはその本質について言及するための作品ではありませんので、追及はお控え願います。