銀色に輝く少女の笑顔
奇妙な感覚だった。電車から降りた途端に、煙草でやられた肺が浄化されたような気がしたのだ。ゆっくりと電車は動き出す。僕の背後を走る電車。レールが軋み、女の悲鳴の如き音色を奏でている。後ろを通り過ぎていく機械の気配を感じながら、僕は無人駅のホームに佇む。改札口まで嫌になるぐらい距離があった。いや、実際には都会の駅と大差ないのかもしれない。だが、人混みもなければ自動販売機もないせいで、異様なまでに長く感じられる。
「………」
駅に一人、僕がいる。僕は立ち止まったまま、周囲を見渡してみる。すると、蜃気楼に揺れる山の姿が視界に飛び込んだ。まるで意思を持った生命体のようで恐ろしい。緑色がゆらりゆらりと身体を動かし、そのうちこの駅を呑み込んでしまいそう。
「いや……まさかね」
ゴクリと唾をのみ、喉の渇きを誤魔化す。陽射しで熱せられた地面を叩くように歩く。山はもう見ていない。山などもう、見ていない。
僕は拳で額を拭いながら、一歩一歩と着実に進んでいく。何歩ほど歩いただろうか。二十か三十歩の距離を進むと、ようやく改札口にたどり着いた。
古ぼけた駅に設置された、最新の改札口。僕は電子カードをかざし、この辺境にようやく降り立った。背中に張り付くワイシャツ。汗が接着剤の如き役割を果たし、僕の地肌にこれでもかと密着する。襟のあたりを指でつまみ、服と地肌の間に空気を送りこむ。
生温い風だった。まるで誰かに息を吹きかけられたような、そういう気色の悪い風。
「………」
さあ、歩こう! と思うが、どこに向かえばいいのかわからない。駅員はいない。民家はない。コンビニもない。観光スポットもありそうにない。僕は短くため息を吐き、やるせなく空を見上げた。泣きたくなるほど青々とした空は、見ていて気持ちが良いモノではない。
代わりに、流れる雲の数々をぼんやりと眺め、どうするべきかを考える。
「………」
僕はもう一度あたり見回してみる。左右に別れる直線道路。右も左も、果てしなく道が続いている。どちらに行っても、恐らく変わらない。道路沿いに少し背の高い雑草が生えているばかりで、何もないことは目に見えている。
「目に見えるものだけが……道じゃない、か」
初夏の陽射しを顔に浴びながら、僕は役者のように芝居じみた独り言をこぼす。目を閉じ静かに深呼吸。鼻腔を埋め尽くさんばかりの緑の匂いは、恐らく初めて嗅いだ。腐葉土と花の香りが混じり合うようなこの匂い。都会じゃあ、味わえない。
「よし……まっすぐだ」
右も左も何もないのは明白。だからこその、真っ直ぐ。後ろという選択肢はない。何故なら後ろは駅だから。ぶらりと気まぐれで途中下車して早々に、踵を返すなど勿体ない。
そうと決まれば歩けや歩け。僕は意気揚々と一歩を踏み出した。雑草生い茂る道なき道を進む。腰のあたりまで伸びた草を掻き分け、掻き分け、歩く。草を寝かせるたびに、虫たちは驚き羽を広げる。侵入者への反抗なのか、虫たちはわざわざ僕の顔を目がけて飛んでくるのだ。それを軽く振り払う。手の甲にベシンと当たると、虫たちは恐れ入ったと退散する。
そうして、小さな生き物たちと闘っていると、つま先に何かが引っかかった。
「石かな……?」
しゃがんで下を見れば、そこにはおむすび三つ分ぐらいはある妙な石を見つけた。いや、一体全体なにが妙なのかと訊かれると困ってしまう。灰色で、やたらと丸みを帯びている。たったそれだけの石であるが、不思議と僕にとっては特別な石のように思えた。
「変な石だな……」
拾い上げ、それを手に取り漠然と見つめる。
「石……まあ、それはそうだ」
クスッと微笑し、僕はそれを持ったままさらに先へと突き進む。相変わらず雑草は、僕の行く手を阻む。奥に進めば進むほど、背丈の高い草が生い茂っている。
掻き分けるというより、もはやこれでは刈り取っているような気分だ。ここまで来ると、僕のお得意の負けず嫌いな性格が功を成して(もちろん皮肉である)、とにかく歩こうと意地になる。時には殴り、時には蹴飛ばし、雑草を掻い潜る。
視界は緑一色。いよいよ嗅覚は自然の匂いにやられ、それ以外の香りはわからない。右を見て匂いを嗅ぐ。左を見て匂いを嗅ぐ。自分が醜い獣にでもなったかのような心地だ。
僕は獲物を探し求め彷徨い歩く獣。すんすんと鼻を動かし見えない何かを探る。
「ふっ……」
これが存外に面白い。人間というしがらみに囚われ生きること約二十年。しかし、今日をもって僕は人間から脱した。人間から獣へと華麗なる変身を遂げた。
僕は何者にも縛られない。僕はただ、今日という日を生きるためだけの存在。
「………」
足がピタリと止まる。僕は肩を竦めてため息を一つ。
「なにやってんだよ……僕は……」
不意に虚無感に襲われ、僕は思わず力なく笑ってしまう。握っていた石を一瞥し、次に大いなる青空へと視線を移し、やはりため息をつく。矢を放つように右腕を大きく後ろに引き、そして思い切り前へと飛ばそうとしたその刹那――
「わっ!」「わっ!」
ほぼ同じタイミングで、僕と、僕の目の前に突如として現れた一人の少女は驚愕の声を上げる。僕は動作を一時停止し、少女をしかと見つめる。
僕の腹のあたりまでしかない身長。胸に両手を添え、撥ねつく心臓を落ち着かせるような仕草。白いワンピースからひっそりと伸びた細い足。しばしの間を置き、少女は小さな口を開いた。
「お、お兄ちゃん、こんなところで何やってるの?」
頬を伝う少女の汗に視線を奪われる。射しこむ日の光に反射し、キラリと輝いていたのだ。
「ぼ、僕のこと?」
慌てて言葉を返す僕であったが、すぐに言い直す。
「あっ……いや、僕以外いないよね」
突然の遭遇に動揺したが、別に熊とか猪とかではないのだから。恐れる必要などありはしない。僕は適当な笑顔を浮かべて少女の言葉を待った。
「う、うん……」
少女は胸元からゆっくりと手を離し、身体の側面に置いた。
「君は、ここの近くに住んでるの?」
何気ない質問だったが、少女の瞳はみるみる警戒の色で染まっていく。一歩、二歩と後退りをし、少女は怯えたような顔で僕を見つめている。
「………」
「あっ、ごめんね。怖がらせちゃったかな?」
「………」
口を一文字に結び、少女は両手をギュッと握りしめて黙る。
「僕はね、怪しい人じゃないから安心して」
と言ってはみたが、少女は僕を注意深く観察している。さらにもう一歩後ろに下がった。
「お兄ちゃんはこんなところで……なにしてるの?」
何をしているのかと訊かれても困る。僕は思考を巡らせつつ、少女を安堵させるべく奮起する。
「た、旅をしてるんだ! 一人旅ってやつかな?」
「どうして?」
「ど、どうして……? いや……それは……」
「………」
ほのかに漂うこの匂い――少女の匂いだ。干した後の布団のような、いや、言うなればお日様の香りというやつだろうか。そんな風に少女の香りに気をとられていたが、僕は思い出したかのように続きの言葉を紡ぐ。
「旅をするのに理由なんて必要なのかな?」
言って、慣れない満面の笑みをつくる。
「ううん、そんなことないけど……」
困ったように視線を下にして、少女は足をモジモジとさせる。
「えっと、じゃあ次は僕から質問してもいい?」
「うん……?」
少女の上目遣いに、僕は無性にドキッとした。異性として意識したからではなく、単にその純粋過ぎる眼差しにどう対処していいかわからなかったのだ。今度は僕が後退りをする。
「その……君はこんなところで何してたの……?」
返答には少しの時間を要した。顎に人差し指を添え、少女は何かを考えながら話す。
「えっとね……麦わら帽子が飛ばされちゃって……それを探してて……」
「じゃあ、麦わら帽子を探してたら、こんな茂みまで来ちゃったんだ?」
続きを補足するようにして言ってやると、少女は小さく頷いた。
「それで、麦わら帽子は見つかった?」
「ううん。まだ見つからないの……」
露出した、少し日焼けの跡がある肩を竦めて少女は項垂れる。
「その帽子ってさ、本当にこっちに飛ばされたの?」
「たぶん……」
「僕は君とは反対方向からここまで来たけど、そういう類のものはなかったな……」
そう事実を述べると、少女は顔に暗い陰を落とした。
「そっか……そうなんだ……」
すっかり落胆してしまった少女を前にして、僕は何だか申し訳ない気分になる。励ましてあげようと思い、足りない脳味噌で思考すること約十秒。僕は咄嗟に思い出した。
「あのさ、帽子じゃないんだけど、さっき変な石を見つけてさ」
言って、僕は右手に持っていた石を少女に差し出す。
「石……?」
怪訝そうな顔で少女は僕から石を受け取る。抱えるように両手で石を持つと、少女は首を傾けた。
「それ、面白くない?」
「おもしろい……?」
どうやら失敗に終わったようだ。いかにも興味なさげな視線で石を見つめる少女。僕は苦笑いで誤魔化しつつ、話を戻すことにした。
「そうだよね。そんな石、どうでもいいよね――さてと、じゃあ僕も帽子を探してあげるよ」
依然として石と睨めっこをしている少女に背を向け、僕は元来た道を引き返す。
「僕はこっち探すから、君は向こうをもう一回さがしてみな」
なかなか言葉が返ってこない。僕は足を止めて振り返る。するとそこには、心ここにあらずと言った感じの少女の姿があった。
「どうしたの?」
聞いてみると、少女は大きく首を左右に振る。
「ううん。なんでもない」
「そっか。じゃあ、そういうことで。見つけたらまたここに戻ってくるよ」
それだけ言い残し僕は歩みを進める。どうせやることなどなかった。そう自分に言い聞かせ、僕は少女の落し物を探すことにした。
およそ一時間の時が経過したところで、僕は地面に転がる少女の帽子を発見した。まだ日が沈む程ではない。きっと、少女は未だに帽子を探しているに違いない。
そう思うと自然と足早になる。僕は急ぎ足で少女と出会った場所まで向かう。右手に抱えた麦わら帽子は不自然なまでに軽く、持っているのかさえわからなくなるぐらいだ。
度々、僕は右手を確認しつつ、歩みを進める。決して落とさぬように。決して手放さぬように。決して、風にさらわれてしまわぬように。
「………」
この場所には――少女はいなかった。しかし、どこかで探しているのだろう。まさか、諦めて帰ったわけがあるまい。意味不明な確信を胸に抱き、僕は未開拓地を進む。
いつまで経っても終わりの見えないこの道。障害物がやたらと多い。掻き分け、掻き分け、足を動かす。僕の侵入に驚いた虫たちが羽ばたく。虫たちは学習したのか、弱者に相応しい行動を取る。僕に歯向かおうとはせず、すうーっとどこかへ消えていく。
その行動は、僕を妙に寂しい気持ちにさせた。まるで友人のように、まるで夢のように、儚く散っていくのだ。でも――少女だけは、僕を待ってくれているような気がした。
僕の到着を、麦わら帽子との再会を、待ち望んでいるはず。
「………」
僕は思い切り土を蹴り上げる。土は踊るように宙を舞い、雑草に降りかかる。勢いをつけ過ぎて、土は僕の顔のあたりにまで立ち上がる。けれども僕は足を止めない。
ひたすら走り、少女を探した。
「………」
「………」
「………」
おかしい。どこまで行っても、終わりが見えない。雑草は嘲笑うかのように風に揺れ僕の身体をくすぐる。陽射しに照らされ濃ゆい緑色が輝く。
「どうしてだ……?」
圧倒的多勢を前にして、いや、四方を囲まれ、僕は茫然と立ち尽くした。睫に溜まっていた汗の雫がポツリと落ちる。頬を伝って、汗の塊が落ちる。
僕の体液で黒く染まった地面。僕はそれを、ぼんやりと見つめていた。
「………」
視線は地面から、僕の右手へと移る。これは麦わら帽子。僕が被るのではあまりにも小さい。用途を理解していても、使い道がない。僕は意味もなく麦わら帽子をクルリと回転させる。そうして、裏っかえしてみると、あの少女の名前と思しきものが書かれていた。
「………」
しかし、読めない。油性ペンで書かれているみたいだが、滲んでしまっていて読むことが出来ない。落書きの如く、ただ黒色で塗りつぶされた名前蘭。
「まあ……仕方ないよな」
独り言は突然吹いた風にさらわれていく。僕はしっかりと麦わら帽子を掴み、踵を返す。もう少女と出会うことは二度とない。そう、根拠のない確信をした。
けれど、会えないからと言って困るわけではない。それに、いつかまた会えたとしても、僕のことを覚えているとは限らない。
何を必死になっているのだと、僕は自分に呆れてしまう。そもそも、少女にとってこの帽子は、どれほど重要なものだったのだろうか。
探して見つからなければ、仕方がない。そう思える程度の物だったのかもしれない。だとしたら、もう少女は帰ってしまったのだろう。
さほど大切ではないものなら、汗水流して探す必要などないではないか。
「………」
僕は上を向いて歩いた。天の光は紅い煌めきを放ち、真っ白な雲を染め上げる。もうじき日が沈もうとしているのだ。ああ……都会から距離を置いて眺める夕陽は、どれだけ美しいのだろうか。あの雲のみならず、僕の心も赤く染め上げてくれるのだろうか。
夕陽は語る。きっと、夕陽は僕に語りかけてくれる。
「そうだ……そうに違いない」
だとしたら、一刻も早くこの雑草地から抜け出そう。汚い世界から見る景色は、当然汚い。しかし、美しい世界から見る景色は、当然美しいはず。
僕はスキップを踏むようにして走った。雑草は気にならない。雑草などはもう、気にならない。僕は前しか見えない生き物。そういう気持ちで突き進む。
存外にこの道を抜けるのは早かった。気づけばあの無人駅のところまでたどり着いていた。額の脂汗を拳で拭い、ふうと一息をついた。その瞬間――
「あっ……!」
意地悪な風だった。少し気をゆるめたら、あっという間に麦わら帽子は飛ばされてしまった。急いで追いかけようと思うが、しかし、もういいかと諦めることにした。
「僕のものじゃないんだから……別にいいさ」
ふわりと頼りなく飛ぶ麦わら帽子は、やがて力なく地面に落下した。何ともなしにその帽子を眺めていると、視界に小さな両足が入る。
「あれ……?」
目線を徐々に上にする。細い両足。白いワンピース。日焼け跡のある肩。そして、ニコリとあどけない笑みを浮かべる少女の顔。少女は無人駅の改札近くにいた。
「お兄ちゃん、見つけてくれたんだ」
言って、少女は麦わら帽子を拾う。
「どうしてここに?」
「だってお兄ちゃん、ここに旅しに来たって言ってたから」
「言ってたから……?」
「うん。だからね、もしかしたら帰る時に、この駅つかうのかなって思って」
賢い少女に感心していると、少女は僕の目の前にやってきて、もう一度ニコリと笑った。目を細め白い歯を剥き出しにし、ようやく心から笑ってくれたのだ。
「はい」
そう言うと少女は、何故か麦わら帽子を僕に差し出した。
「これ、君のじゃないの?」
聞いてはみるが、少女はまた「はい」とだけ言った。
「僕がもらっていいの?」
釈然としないけれど、とりあえず受け取ることに。
「うん。いいよ」
「でも……なんで?」
くるっとその場で回転し、少女は僕に背を向ける。
「交換だよ?」
「交換……?」
僕は思わず首を傾げた。しかし、少女の手に握られていた石を見て、なるほどと納得をするのであった。
「それ、ただの石だけど」
依然として背を向けたまま、少女は首を横に振る。
「あたしね、この石がすっごく気に入ったの」
「麦わら帽子より?」
「うん。よくわかんないけど」
風に靡く少女の後ろ髪を眺めながら、僕は微笑した。
「そっか。じゃあ、交換しよう」
顔だけこちらに向けた少女の顔が、夕陽に反射する。それは途轍もなく眩しかった。眩しくて、明るくて、輝いていて……僕は直視することが、できなかった。
日の光が雲に遮られる。目を閉じていた僕は、ゆっくりと瞼をあげる。
「あれ……?」
慌てて周囲を確認するも――少女は既に、いなくなっていた。
「まさか……」
幻かと思って右手を見ると、そこにはしっかりと麦わら帽子がある。
「………」
風に漂う少女の残り香。これは、お日様の匂いだ。不思議な心地でその場に佇んでいると、背後から元気な声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん! また遊びに来てね!」
一生懸命に片手を振りながら疾走する少女。黄昏時のせいで、少女の顔はもうぼんやりとしか見えない。
「転ばないようにね! それから、気をつけて帰ってね!」
僕が大きな声で叫ぶと、少女はより力強く手を振るのであった。