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真っ直ぐ帰宅した檜原真菜子と華子の姉妹は、八丈啓次郎が妻の勝美に殺された件や、警察が口にした不可解な話のおかげで、会話が少ない状態だった。
(にわかに信じ難い話よね。でも……実際に二件も殺人事件が起こっている。同じ闇の安息所で)
テーブルの前で腰かけた真菜子が口元に手をあてて思案する。
「赤猫とかいうのが現れると、人を殺したくなるってことね。私達のどちらかにそれが現れたら、どっちかが危険よね」
わかりきったことであるが、あえて口にだしてみる真菜子。妹がどういう受け取り方をしているか、反応を伺うためだ。
「わ、私……お姉ちゃんを殺すとかしたら、自殺するから……」
「あんたなんかに殺されるほど、私は間抜けじゃないわ」
床で体育座りをして、泣きそうな顔で言う華子に、不機嫌そうに言い放つ真菜子。
「でも……寝ている時とかに、赤猫とかいうのに取り憑かれたらどうするの?」
華子が姉を見上げ、おそるおそる尋ねる。
「お互いを縛って寝る?」
真菜子が提案する。
「そうするしかない……ね……」
「冗談で言ったのよ。馬鹿。そんなことしたら誰がほどくのよ」
「あ……」
真菜子の台詞を聞き、口元に手をやる華子。
「でも、八丈さんも、狛江君も、二人暮らしだった。私達も二人暮らし。次は私達かな?」
「やめてよ、お姉ちゃん……」
全く恐れる素振りを見せずに言う真菜子であるが、華子は心底怯えていた。
「よくそんなに怖がることできるね。正直私はまだ現実味がわかないんだけど」
怯える妹を見ながら、真菜子は溜息混じりに言う。
「華子、何かさっき華子が私を殺した時のことを想定してたけど、私が貴女を殺したらどうするの?」
「そうは……ならない気がする」
真菜子の問いに、何故か華子は確信をもって答えた。
「はあ? わけがわからない」
妹の反応に、真菜子は苛立ちを覚える。何故ここで断言できるというのか。断言できる根拠が何であるかわからないが、どうせ自分をさらに苛立たせるものだろうと、真菜子は決め付ける。
「私にとって嫌なのは……殺されることじゃなくて殺すことだから……痛っ!」
言葉途中に真菜子が華子の髪を乱暴に掴んで引っ張り、そのまま立たせようとする。
「それ、私に媚びてるつもりなの? そういう媚び方やめてくれない? 私にへつらうのはいいけど、へつらうならへつらうで、やり方を考えてくれる? 真剣に頭にくる」
「ごめんなさい、お姉ちゃん。でも私、馬鹿だからお姉ちゃんがどうして怒ってるかわからないし、言ってることの意味もわかんないよぉ……」
「簡単な話よ。私が華子を殺すのも、華子が私を殺すのも、同じなの。絶対にあってはならないということで、同じなの。この意味、わからない?」
姉の言葉に、華子ははっとする。
「なのに貴女は、自分が殺されるのなら構わないとか、馬鹿なこと言って。そんなにお粗末にしていい命なら、とっとと自殺しておけばよかったじゃない。貴女を殺した後の私のことも、全然考えてないし、華子っていつでも、どこまでいっても自分本位ね」
「ごめんなさ……」
思いっきり平手で叩かれて、謝罪の言葉は中断する。
「で、その場凌ぎでただ謝るだけ。子供の頃から全然変わってない。そのうえ謝る意味もわかっていない。だから成長もしない。そのうち頭までおかしくなって、今の有様。ねえ? 今、私が話していることの意味、理解している? ちゃんと頭に入ってる? 少しは考えてくれている? 考えようっていう気持ち、ちょっとはある?」
「ごめんなざぁい。ごめ……」
また平手が飛び、今度はさっきより高い音がした。
「謝れなんて言ってないでしょう? 私は質問しているの? 謝ってくれなんて誰も言ってない」
「私……馬鹿だから……悪いと思ってる……。お姉ちゃんに苦労かけて……お姉ちゃん怒らせてばかりで……」
「だからそんなこと聞いてないって……」
諦めて、真菜子は掴んでいる髪を離す。華子はその場でうずくまって、ひっくひっくと泣きじゃくっている。
「泣きたいのはこっち。人としての会話もまともに通じないのと一緒に暮らして、ずっと苛々しっぱなしなのよ?」
毒づきながらも、真菜子は華子の頭をよしよしと撫でる。
妹を甚振っている時は気持ちがいい真菜子であるが、甚振り終えた途端に、罪悪感を抱く。不思議な二律背反。しかしこれで真菜子も、真菜子と華子の間柄も、ずっとバランスが取れてきた。これからも変わることは無いし、変える必要も無い。
***
青梅ユマは裏通りの住人といっても、裏通りのほんの片隅で生きているようなものだ。商売相手は大抵が裏通りの者であるが、裏通りにどっぷり漬かってはいない。
一応、裏通りに発生する事件や勢力構図の移り変わりなど、情報は逐一チェックしているが、ユマの商売上、あまり熱心にそれらをチェックする意味も薄い。危険な橋を渡る事もたまにはあるが、積極的に特定の敵を作るような商売でもない。
現在、ユマは防音設備が利いたマンションで一人暮らしをしている。
音は彼女の大敵だ。自分の予期せぬ物音が、自分の生活に紛れ込むことをユマは許せない。特に人の話し声の類は絶対に聞きたくない。
かつてユマはうるさい隣人に暴行を働いて、逮捕されかけた事もある。ユマが裏通りの住人であるということが知られた時点で、傷害の告訴は取り下げられて、恐れた相手が勝手に引っ越していった。
その出来事に対して、ユマはラッキーだったなどと思わず、逆にショックだった。相手の心には一生の傷が残ったのではないか、自分をずっと恨み続けるのではないかと、考えてしまっていたからだ。そのまま訴えられたままの方が、互いに気が晴れたかもしれないのにと。
あの隣人は今も恨み続けて呪い続けているに違いないと、ユマは度々意識する。意識する度に苦しくなる。
二度と同じ悲劇を起こさないために、ユマは防音がしっかり利いた住まいを選んだ。
しかし表に出れば、音や声の襲撃から逃れられない。
通りですれ違う人の話し声さえも、ユマは不快になる。笑い声など聞く度に殺意を催す。自分を罵っているかのように、自分を嘲笑っているように聞こえてならないからだ。
安息所での会話や笑い声は構わない。安全だとわかっているから。気を許せる場所と人達だから。しかし最近どっと人数が増え、息苦しさも覚えている。おまけに意味不明なオカルトチックな連続殺人ときた。
(私にとって一番大事な場所なのに、それが壊れようとしている……。何で神様ってこう意地悪なの……)
この世界は、余計なトラブルばかり起こるように設計されている。だが一部では幸福な人生を送る者も生まれるよう、設定されている。数多くの恵まれぬ者が羨むように。数少ない恵まれた者が、見下して悦に入るように。こんな腐った世界を作った神様とやらは、とんでもなく底意地の悪い奴だと、ユマは何度も心の中で呪っている。
何より腹が立つのは、自分という人間が、異常に神経質で、嫉妬深くて、そのうえ被害妄想まで抱えている事だ。そんな風に設定されて生まれてきた。自分の意志とは無関係に、気がついたらそうなっていた。ユマはそう受けとっている。
自己責任論を口にする者は、来世では自分と同様の苦しみを抱えた人生を是非生きて欲しいと、ユマは思う。どうにもできない苦しみや、気がついたら抱えている苦しみというものが、確かにこの世にはある。ユマは今、正にそれを抱えている。
(でも……私はそんな自分と向き合って、どうにかしようと頑張ってきた。それなのに、さらに余計なことして、神様は妨害してくる。せめてあの闇の安息所だけは平和な場所のままにしておいてよっ。変なもの持ってこないでよっ)
変なもの――頭の中で訴えたこの単語から、ユマはあるものを連想した。
月那美香――それはユマが大嫌いだった人物。己を底辺に生きていると認識しているユマからすれば、輝かしくて妬ましくて仕方無い存在。しかしいざ実際に同じ部屋で間近で接すると、かつて抱いていた嫌悪感が薄れている。
近くにいるだけで、物凄くエネルギッシュな気をあてられ、こちらも元気が出てくるような娘だ。そのうえ言動の一つ一つに、確かな誠実さが感じられる。それ以前に、自分のクローンを気遣って、忙しい合間を縫って付き添いに割いている事だけをとっても、ユマの中では十分に見直すに値する。
この世の成功者など、全て自分本位な人間ばかりで、自分以外は踏み台か何かとしか思っていないような奴等ばかりだと、ユマは思いこんでいたが、美香はそのイメージを真っ向から裏切っていた。
(ただ一方的に悪い人間像を作り上げて、嫉んで僻んで……。自分の心の貧しさが嫌になる。変えよう。いや、変わろう)
これを機に少しでも改めようとユマは心に決める。自分は呪われた運命の元に生まれたかもしれないが、その呪われた運命に少しでも抗いたい。
(今度来たら、自分から……話しかけてみようかな……。私なんかに話しかけられたら、迷惑かな……。でも……変だけど、話がしたいって気持ちになってる……。よし、声かけてみよう)
卑しい嫉妬が純然たる興味へと変わった事を自覚しつつ、ユマは新たな一歩を踏み出す事を決めた。
(小さな革命だね。世界で最もショボい革命。くだらない)
いつも通り、自分を嘲る声が聞こえる。しかしユマはその声を無視した。無視する事が出来た。そして無視することができたことに、ユマは満足感を覚えていた。
***
久留米狂悪は安値で雇ったチンピラに毛が生えたような情報屋を通じ、闇の安息所で起こっている出来事を知った。
殺人事件が二件発生し、警察が出入りしている。明らかに異常事態だと久留米は判断する。
(そもそも二人死んだということは、実験を開始したのだろう。何故報告しない!?)
忌々しげに久留米は歯軋りする。
(あの女は……自分を一方的に利用しただけだ。こちらの言うことなどまるで聞いてくれなかった。高飛びしなければ……)
最早ここまでとし、久留米は逃げる準備に入った。




