三つの序章
その日の朝、真はいつものようにジョギングをしていたが、安楽大将の森の中で、ふと足を止めた。
顔見知りの老人が、公園内で仰向けに倒れて、苦悶の表情を浮かべていたのである。
どう見ても八十歳を超えていると思われる老人だ。早朝のジョギングでよく顔を合わせて挨拶する程度の間柄で、よく公園内や公園付近で会う。
「救急車はいらんよ。ただ足をくじいて歩けなくなっただけだし」
「いや、いらないことないだろ。歩けない時点で大事だし、呼ぶよ」
遠慮する老人を無視し、さっさと救急車を呼ぶと、真は老人を担ぎ上げてベンチの上まで運んで座らせる。ベンチに運ぶ際の痛がり方を見ても、くじいただけではなく、折れている可能性が高いように思えた。
「ふぅ……悪いのー。もう大丈夫じゃ。一人で救急車来るの待つわい」
「いや、来るまで付き合う。ここいらは物騒だしな」
遠慮する老人を無視し、真は老人の隣に座る。
ベンチに隣り合って座った所で、真はその時初めて察した。この老人は堅気ではないと。いや、今はともかく、かつてはそうでない時期があったのだろうと。そしておそらくそれは、相手も気がついただろう。
「相沢真君……ネットの噂じゃ冷血な殺人マシーンみたいに書かれておるが、全然そんなことないのー。ええ子じゃないか」
「やっぱり裏通りの人か」
老人の言葉に、特に驚きもせず真は言った。
「いんや、違うよ。とっくに引退している。そうさのー、まだ裏通りが出来たか出来ないかという時期か。そう、あれはまだヤクザっちゅーもんが、この国の裏社会を牛耳っていた時代じゃ。もう四十年以上も前になるかの。堅気になっても、裏社会の出来事は気になって仕方なくての。ヤクザが滅んで、裏通りちゅーもんが出来た後にも、ずっと情報だけは追っていたんじゃ」
いい機会とでも思ったのか、あるいは暇つぶしのためか、老人は昔話を語り始める。
「わしは……当時四十そこそこで、チンケな組の若頭しとったがの。今や国賊として歴史に名を刻まれた、当時のお偉いさん共のおかげで、大量の移民が国に押し寄せ、その中に混じってマフィアも大挙して押し寄せ、日本中でマフィアとヤクザの大戦争となって、そこでうちの組員もごっそり死んで、組は潰れたよ。そう……あの頃は薬仏市にいたのう。薬仏市が最大の激戦地じゃった。あの頃と今とで、裏社会は大きく変わってしまったわい」
「当時薬仏市が最大の激戦地帯で、日本とは思えないほど戦場化していたらしいな。動画も幾つか見たけど、確かにそんな感じだった」
現在も薬仏市は、最も危険な暗黒都市と呼ばれ、海外マフィア流入の防波堤となり、裏通りの住人とマフィアの間で連日抗争が行われている。
「君のお爺さんはとても勇敢で、腕も立ち、マフィアを何十人も血祭りにあげたものよ。金筋と言われとったわい」
「は? 僕の爺さん?」
さも当然といった具合に、祖父がヤクザでマフィアと戦っていた話を出され、真は戸惑う。
「自分の爺さんの話なんか初めて聞いたよ」
「ふえ? マジか? いやいや、ほんまかー? いやいやいや、つーか、何で関西弁……」
「あんた、ひょっとして無理に爺喋り作ってないか?」
「いやいやいやいや……。そ、そんなことはないぞよ。ごほん……。わしゃあ、てっきり君が裏通りに堕ちたのも、相沢鉄男と息子の相沢豪繋がりの関係で、雪岡純子の庇護下に落ちたものかと思っていたが……違ったのか?」
「全然違うし、父方の両親は死んだとしか聞いていない。父親は僕が幼稚園の頃に、事故で植物人間化して、ずっと病院のベッドの上だった。今はもう墓の中だ」
父に関しては、真が裏通りに堕ちて間もなく、純子に治せないかと相談したが、純子曰く、すでに魂が抜けているので、肉体的に生きていても回復は絶対に無理だと告げられ、生命維持装置を外す決断をした。
真は父のことなどほとんど記憶に無い。警察官だったとは聞いていたが。
「むう……だとすると偶然かの。わしが朝、いつも相沢君と会えたのも、そして今こうしてゆっくり話す機会を得たことも含めて、偶然の導きとは実に面白い」
「僕の父親や祖父と、僕が裏通りに堕ちたことをどういう関連だと思ったんだ?」
感慨深そうに言う老人に、真が尋ねる。
「君の父親はね、事故に見せかけられて車ではねられたんじゃよ。相沢鉄男に報復したくても所在がわからんから、腹いせにその身内を代わり――という話じゃ。いや……その辺はあくまで噂じゃがの。君もそれを警戒して、裏通りに堕ちたとばかり思っとったわい……」
老人の話を聞いて、真の脳裏に百合の存在がよぎったが、父親が昏睡状態になったのは、自分が純子と出会うずっと前であるし、純子とて自分の存在を知らなかった頃だ。百合が先に自分を見つけていたら、もっと別な手を使っていたであろうし、百合の手引きとは無関係だと判断する。
「犯人は見当がついているのか? ていうか、僕の祖父は生きている可能性もあるのか……」
「犯人はマフィアという噂以外、わからんな。相沢鉄男はマフィア相手に相当派手に暴れて、命を狙われまくる立場になって、それで雲隠れした。子がいるとわかったのも、結構経ってからじゃよ。当時の抗争に関わった元ヤクザやマフィア間で、判明した。そして判明した数日後に、鉄男の子――相沢豪は車にはねられた」
「それが本当に報復なら、息子にだけ報復して、孫の僕には手を出さなかったわけか……」
そこまで喋った所で救急車のサイレンが近づいてきた。
それが二ヶ月半前の話。老人は結局足をくじいただけで、その後も真は朝のジョギングで度々老人と会っていたし、いろいろと話もしたし、独自で父親や祖父の事も調べてみたが、大したことはわからなかった。
つい最近になるまでは。
***
裏通り派生時期には諸説紛々ある。確実なのは、三十年前の米中大戦終結後には、その存在は完全に日本に根付いていたという事だ。
大規模なマフィア侵攻は二度あった。一つは移民政策による四十年前。もう一つは三十年前の、米中大戦終結後に日中の国交が途絶えた事により、華僑系マフィアが近場の隠れ蓑兼稼ぎ場として日本を利用するためにどっと押し寄せた時。いずれも激しい抗争となった。
裏通りが現在の形として作られた理由には、主に二つの説がある。マフィア侵攻によるヤクザの壊滅的弱体化と、それに対抗するための新たな裏社会勢力が求められた結果という説。移民が増加したせいで、治安が乱れて犯罪率が跳ね上がったため、裏通りはそうした犯罪を抑止するために作られたという説。
いずれにせよ、現代はほとんど残っていない暴力団組織が、かつて必要悪として存在していたのと、大体同じである。
また、現在はともかく三十年前は、裏通りの組織の構成員の三割強が、人種は様々だが移民であった。マフィアから転向した者も少なくない。
彼はその裏通り黎明期に、移民の子として生を受けた。今やすっかり裏通りの住人となり、数々の逸話を裏通りに残してその名を馳せ、タブーの一人として指定されるまでに至ったが、本気でこの世界に堕ちたくて堕ちたわけでもない。他に行き場が無かっただけだ。
彼は昔、とあるマッドサエンティストのマウスとして改造された。
自分を改造したマッドサイエンティストの従者のような立場となってから、もう二十年以上も経つ。その間、主であるマッドサイエンティストが邪魔と判断した者達を、片っ端から屠るのが彼の役割だった。
その生き方が辛いとは思わない。主のことも嫌ってはいない。今の生活はまんざらでもない。
しかしたまに、息苦しさを覚える。この世界で生きていいると、見たくはない人間のおぞましい負の部分を見る機会が非常に多い。
『おう、私はお前がそいつを見た際に、黙って見過ごせとは言わないですよ』
彼の主は、テーブルの上で自分の体を舐めながら、悩める彼に答えた。
『この世の理不尽をブチ壊せる力を与えてやったんだから、好きに使え。私が許す。悩むことは何もねーんだ』
舌で己の毛を舐めながら喋る彼女は、自分の肉声を発しているわけではない。念動力で空気を振るわせて音声を作っている。
『神様はね、わりと屑が好きらしーんだ。他人を食い物にする奴や、人を見下して意地悪するような奴や、ズルして勝ちあがるような奴に、好んで運を与える。んで、私達は神様そっちのけで、運に頼らず力をつけた。性根のねじくれた神様に愛されている糞野郎共をブチ殺して、神様のブサイクな面に糞混じりの泥を塗りたくってやるのが、私とお前の役目ですよ』
笑い声で語り、彼女は毛繕いを終えて、褐色の肌の下僕――バイパーの方に顔を向ける。
「ああ、実践してるよ。目についた分だけな。しかし……それでウサを晴らせても、傷つけられた奴はどうにもできない」
主である白猫を前にして、アンニュイな面持ちでバイパーは告げ、垂れてきた髪を後ろになでつける。
今日もまた、嫌なものを見てしまった。裏路地のドブ川に、少女の亡骸が放り込まれる場面。この国で最も治安が悪いとされる薬仏市では、特に珍しくも無い光景。しかし馴れる事も無い。
心が乱れなくなったら、痛まなくなったら、慣れてしまったら、その時はおしまいだとバイパーは思う。
『裏通りの犠牲になる奴は、裏通りが食い物にしなくても、表通りで食い物にされるんですよっと。そうなる前に、運良く救われるかどうか、あるいは自分の力でどうにかするかだ。しかし……』
人よりはるかに高い知能を持つ不死の化け猫であり、この国のマッドサイエンティスト最高峰『三狂』に数えられる白猫――草露ミルクは、バイパーの知らぬ情報を口にした。
『お前が今不機嫌なのは、犯人を逃したからでしょ?』
ミルクの指摘に、バイパーのこめかみがぴくりと動く。
『どっかの娘を殺した誰かさん、たったそれだけの光景を見て、義憤に駆られたお前。そこまではいつも通りのお前さんだ。いつもと違うのは、そいつを殺せず、逃がしたこと』
街中に仕掛けられている監視カメラで、ミルクはその様子を観ていた。バイパーもそれを察する。
少女の亡骸を無造作にドブに捨てた老人。バイパーはちぎって壊すつもりで彼の前に立ち塞がったが、老人はまるで慌てる風も見せなかった。そしてバイパーの攻撃を涼しげにかわし、あっさりと逃げおおせた。
「あの爺が何者なのか、知ってるのか?」
勘であるが、バイパーはそんな気がした。
『お前が糞小便も一人で出来ない頃に、そいつは当時の裏社会で暴れていた。マフィア相手に大立ち回りして、奴等の恨みを買っていた。丁度今のお前みたいにな』
バイパーもミルクの命を受け、薬仏市にはびこるマフィアを相手どって暴れている。
『そいつはマフィアに命を狙われたあげく、姿を消した。マフィアはそいつのことを探し続けたが、とうとう見つからなかったらしい。当然だ。整形手術して、マフィアのボスと入れ替わり、まんまと敵組織のボスになったんだからな。そいつの整形をしたのは、他ならぬ私ですがね。実験台にする条件と引き換えにな』
「不老化はしなかったのか」
『私は純子と違って、マウス全部に不老不死化はしねーんですよ。そいつには問題があったからやらなかった。しかし元のスペックに加え、かなり強力なマウスに仕上がったし、満足いくデータも取れた。そいつの体内にGPSも仕込んでおいたから、お前と接触したのがそいつだってこと、すぐわかったのです』
「問題ある奴だってんなら、データ取れた後に処分しとけよ。で、何でそいつはマフィアと潰しあっていたのに、よりによって自分がマフィアになったんだ?」
『恨み……かな』
言いづらそうに口ごもるミルク。
「つーか、マウスにするにも相手選べ。あんな屑に力与えて野放しにするなんて、さっきミルクが口にしていた、屑に運を与える性根のねじくれた神様ってのが、そのまんまお前になってるぞ」
『ぐぬっ……』
バイパーの指摘に、ミルクは唸る。
『そいつに何を言われた? 少し会話している風なのはカメラに映ってた』
その会話内容にも、バイパーの機嫌を相当損なう要素があるのだろうと、ミルクは判断する。
「人を殺した後に、欲情して女を犯したくて仕方なくなるんだとよ」
バイパーが吐き捨てる。
「射精と同時に殺すのが趣味なんだとよ。あの爺は笑いながらそう言ってやがった。胸糞悪いにも程があるわ」
『その殺した分、また欲情してエンドレスじゃねーですか』
「エロマンガじゃあるまいし、男の機能上そいつは無理だ。一度出したらしばらくクールダウンする。マッドサイエンティストしてて、そんなことも知らねーのか」
『ぐぬぬ……』
バイパーの指摘に、ミルクは再び唸って口ごもった。
それが昨日の話。
***
真は母親の存命中に、一枚の手紙を預かっていた。
それは真の父である相沢豪が、真に書いた手紙だという。
『この手紙を書いた時、父さんは多分、身の危険を感じていたんだろうさ』
母の相沢美沙が、不穏な台詞を口にしながら、真に手紙を渡した。
『お前に渡そうとして書いて、お前に渡す前に、車にはねられたみたいだね。私は中味を見たけど、その手紙の内容からすると、二十歳になるまで開かないようにと、お前に言ってから渡すつもりだったみたい。だから二十歳までは見るなよ。かなりろくでもない内容だ』
その約束を守るつもりであった真だが、そうも言ってはいられない話になった。
手紙を開くと、幾つか予想していた通りのことが書かれていた。
『真へ――
成人おめでとう。この手紙を読んでいる君が、立派な大人になっていると信じます。
そしてこの手紙を読んでいるということは、私は生きていないことでしょう。そう思って、君へのメッセージを残したくて、この手紙をしたためました。
大人になった君だから、真実を語ります。私は裏通り課の警察官として、決して見過ごせない犯罪者に直面してしまいました。
私の父、そして君の祖父にあたる相沢鉄男が、整形して顔を変え、マフィアの首領となって、悪事に身を染めながら生きていたのです。
父は、私の母と結婚して、私が物心ついてから別れたので、私もあまり思い出がありませんが、私は父を止めるつもりです。
しかしこの手紙が読まれているということは、失敗し、私は父に殺されたと思われます。
今、真がどんな大人になったかはわかりません。きっと真っ直ぐな人間になったと信じています。
そしてもし……いや、これは私の密かな望みですが、息子である君も、私の遺志を継ぎ、正義の心を持つ警察官となることを目指していたとしたら……
極めて危険なことですし、息子にこんな危険なことを頼むなど、父親失格かもしれませんが、もし警察官になったのなら、その時、私の代わりに、相沢鉄男を止めてください。もちろん、その頃にも相沢鉄男が生きていて、悪事を続けていたらの話です。
君が私のことを』
手紙は書きかけで終わっていた。
真はいろいろ考えさせられた。母から聞いた話も合わせて、父、相沢豪は相当奇特というか、正義感が強いだけではなく、思い込みの激しい性格であったという。この手紙から見ても何となくそれが伝わってくる。
だが真は考えて込んでしまう。どんな気持ちで父がこんな手紙を書いたのかと。相当追い詰められ、死を予感し、夢想のような希望を込めたのだろうと。
(僕からしてみれば、あまり思い出の無い父親だ。警察官にもなっていないし。それどころかその真逆の人生を歩み出した、親不孝者だ。でも……)
手紙を読み終えた後、無言で虚空を見つめ、随分と長い時間いろいろなことを思い、そして決めた。
(こういうのを知ってしまうと、無視できない性分なんだよな、僕は)
それも昨日の話。




