四つの序章+α
自分の好きなものを穢された時、果たしてどうする?
世の中の理不尽の一つであると、涙を流し、歯を噛みしめながら諦めるか。
それとも己の人生を投げ打ってでも、他者の運命を狂わせてでも、想像しうる限りの最大最悪の形で、復讐を成すか。
彼女は後者を取った。
***
君はこの場所に来る前、二つの胡散臭い話を聞いていた。
一つは以前からネット上ではもっぱら有名な、マッドサイエンティストの話。
彼女はかつて街中で放射線を撒いて逮捕され、テレビでも放映された。
あれだけの大事件を起こして、報道されたのはたった一日だけというミステリー。ネット住人の考察では、マッドサイエンティストは権力に手を回して釈放され、報道機関も全て圧力をかけて抑えたという説が有力だ。
もう一つは、とある有名な作家の書いた小説が、現実に行われているという話。作家の名は犬飼一。小説のタイトルは『殺人倶楽部に入ろう』。君はこの小説を読んだことはないが、概要だけは知っている。
小説のあらすじはざっとこうだ。裏通りの快楽提供組織が『殺人倶楽部』なるものを運営しており、その会員になると、定められた規則の元であれば、殺人を犯しても罪にはならない。法では裁かれない。例え逮捕されてもすぐに釈放される。故に会員になった者は、安心して殺人を楽しめる、と。
二つの話はここで結びつく。その小説の内容を実現化して、オーナーを務め、また運営者としても取り仕切っている者こそが、件のマッドサイエンティストだというのだ。
そして君は今からその真偽を確かめることになる。君はその殺人倶楽部の会員として選ばれ、運営者であるマッドサイエンティストに会いに来たのだから。
ありふれたデパートに隠された、秘密の地下階への入り口。指定されたパスワードを入力した君は、すでにその地下階へと足を踏み入れ、マッドサイエンティストの地下研究所の入り口前に佇んでいる。
耳に心地好い弾んだ声で、君の名が確認された。
しばらくして、彼女は現れた。テレビで視たのと同じ顔だ。ネットで出回っている画像とも同じ顔だ。生で見る実物の方がずっと可愛くて魅力的だと、君の目には映る。
特に目を惹いたのは、切れ長の目の中にある、ルビーのような真紅の瞳だ。それは神秘的でもあり、また蠱惑的な輝きも放っていた。
「ようこそー、雪岡研究所へ。そして殺人倶楽部へ」
屈託の無い愛らしい笑みをひろげ、彼女は君を歓迎する。
「君がここに来たってことは、君に願望と疑問があるという事だよね?」
君は研究所内の応接室へと通され、まずそのような確認を取られた。
彼女の口にする願望とやらが何かはわかる。願望があったからこそ来た。しかし疑問とは何か、君にわかっただろうか?
「んー? 言葉を飛ばしすぎたかな? つまり、人を殺したいという願望と、人を殺して何が悪いのかっていう疑問だよー」
彼女は無邪気で朗らかな笑みをたたえたまま、恐ろしいことを淀みなく口にする。
「ここに来る人はねえ、その疑問を抱いている人も多いんだよねえ。何でこの世は、気に入らない人間が沢山溢れているのに、その気に入らない人達を、自由に殺してはいけないんだっていう疑問ね。うん、確かにおかしいよねえ。私は気に入らない人を自由に殺せるだけの力もある立場だし、実際に気兼ねなく殺してきたけど、それが出来ないという立場に立ってみて考えると、そんなのすごく不自由で理不尽だと思うよー? でもそれが世の中の普通だっていうんだ。うん、私にしてみれば全く理解できない、異次元の思考かなあ。で、普通の人って可哀想だなあと思うの。だって殺したいと思った相手が現れても、殺すと逮捕されちゃうから殺せないんだよ? 法律で駄目って禁止されちゃってるからねえ」
彼女にとって、社会で当たり前と定められたことは、異常に相当するらしい。もちろん社会から見れば、彼女こそが異常だ。
君の目からは果たして、彼女がどう映っただろうか? 危険で関わりたくない存在か? いや、そう思うのならば、君はここに来てはいないはずだ。
「それは警察という、暴力に裏づけされた国家権力によって、制限されているからに他ならないんだ。でも一方で、ずっと強い力を持ち合わせた者――暴力、権力、知力、財力、魅力、それらがある一定の線を越えた者なら、社会のルールも無視して好き勝手できる。所詮この世は力だからねえ。うん、何度も言うけど、私は好き勝手できるだけの力の持ち主なんだ。で、私も一応は、多少なりとも公徳心を持っているし、自分の力を自分のためだけに使わず、世の中の人達のためにも役立ててあげたい、分けてあげたいと思ったわけ。ほら、お金持ちが寄付するのと一緒だよー」
彼女が何を言わんとしているか、君には大体察しがついた。社会のルールも無視できる力の持ち主である彼女だからこそ、社会のルールを無視した殺人倶楽部を運営できると、そう言いたいのだろう。
「だから私のできる限りの範囲内で、人を殺す自由と権利を他の人にも分けてあげようと、そう思って作ったのが殺人倶楽部なんだー。犬飼一さんの小説、ほぼそのままの内容でねー。じゃあ、具体的な説明に移るよー」
長い前置きを経て、彼女は殺人倶楽部のルールを語りだした。
それは何時の話だろう? そして君は誰だろう?
***
少女はその小説をいたく気に入っていた。
小説のタイトルは『殺人倶楽部に入ろう』。
殺人が限定的に許可されるという組織にまつわる小説。事前に許可さえ取れば、人を殺しても罪に問われない。殺人を楽しむための場所。
この概念は画期的だと少女は思う。そして――
少女は現実に、殺したい人間が大量にいる。
少女はいつも考える。もし殺人倶楽部が実在すれば、それらを殺せるだろうか? 例え殺人が許されたとしても、自分には無理なような気もするが。
しかし――例え良心の呵責のおかげで殺せなくても、殺人倶楽部に入っておいて、いつでも殺せると考えるだけで、安心できるし優越に浸れるのではないかと、少女は計算する。
それに加え、殺人倶楽部などという、法治国家の倫理を根底からくつがえす存在が実在したら、非常に痛快であるし、それを楽しむのはきっと自分と似たような人間達だろうと思う。言わば見えざる同志だ。
自分はこんなに不幸なのに、自分より幸福な人間が世の中には沢山いることを意識すると、少女は自分の心が怒りと憎しみで焼き焦がれ、醜く爛れていくような、そんな感覚に陥る。
殺人倶楽部ができれば、自分の同志達の手によって、自分より人生を楽しんでいる者達の命に幕が降ろされる。そう夢想することで、少女は少し慰められる。
かなわぬ望み。空想の産物へすがることの愚かしさ。少女は自覚しているが、このうんざりする人生と、今はそこから抜け出せない現実と直面すると、妄想に逃げたくもなる。
(親子なんですねえ……)
妄想に逃げる自分を意識する度に、少女は声に出さずにそう呟く。
それはいつもの話。少女がいつも考えていること。
***
雨岸邸を放火した後、犬飼一は単身、雪岡研究所へと訪れた。
「ひとまず一件落着した所で、ちょっとしたお願いがあるんだ。企画と言ってもいいかな」
応接室で純子と向かい合い、犬飼はそう前置きを置くと、純子に一冊の本を差し出した。
『殺人倶楽部に入ろう』というタイトルの小説。著者は犬飼一本人だった。
「これ、犬飼さんのベストセラー小説だねえ」
「ありがたいことに、俺が世に出した作品は全部ベストセラーだけどね。ま、そんな自慢はともかくとして、その小説に出てくる殺人倶楽部って奴をさ、お前さんの力なら現実のものにできるんじゃないかなーと思って、それを頼みにきたんだよ」
「ふむむむ。面白い依頼だねえ」
犬飼の要望を受けて、興味を引かれた純子が本をめくる。
「あ、依頼じゃねーぞ。俺は実験台になんざなる気は無いし。純子が興味を抱いて、実践するかどうかだよ。純子ならできるだろうと踏んだし、その気が無いなら別に構わない。ただの遊びの誘いだ。もちろん、この遊びに乗るつもりなら、俺も協力できそうなことは協力するつもりだぜ」
「なるほどねえ。ちょっと考えさせて。考え終了。乗るよー」
「どんだけちょっとなんだよ。一秒あったかも疑わしいぞ」
ほぼ即答に等しい純子に、犬飼は小さく笑う。
「んー……期間限定でやめちゃうし、私の実験台確保にも利用しちゃうけど、それでもいいかなあ?」
「御随意にどうぞ。そちらの役にも立ってもらえるのなら、話を持ち込んだ俺も少し気が楽だ」
「この本そのものの通りにもしないかもだよー。いろいろ私の都合で脚色しちゃうかも」
「それも御随意に。俺に拒む権利はねーわ」
あれこれ確認を取る純子に、犬飼はいちいち細い肩をすくめて言った。
それが四ヶ月前の話。
***
暁優は今年で高校一年になる。
優は広い家に父親とお手伝いさんの三人暮らしだった。
父親はいつも家にいる。外には滅多に出ない。出られない。トイレと風呂以外に、部屋から出る事もほとんど無い。
優の父親――暁光次は高名な小説家だったが、今は深刻な心の病を患い断筆中だ。日常生活もおぼつかない有様である。
家が広いし、優には学業があるため、お手伝いさんを雇っている。彼女は優とは会話するが、必要最低限以外、光次には近づかないようにしている。掃除と食事の際に部屋に入るだけだ。
暁光次は一日の大半を布団で過ごす。いや、正確には空想の中で過ごす。
「父さん、犬飼さんが来ましたよう」
部屋の障子を開き、優が声をかける。
光次は反応せず、布団の中に仰向けに寝たまま、目はぱっちりと開いて天井を凝視している。
「どうやら、こっちにはいないみたいだな」
暁光次と唯一交流のある作家――犬飼一は、微笑みながら光次の前に腰を下ろし、胡坐をかいた。
「殺した……」
光次がぽつりと物騒なことを呟いたが、犬飼も優も、特に反応はしない。
「あ、あれ? 犬飼君」
それまで微動だにしなかった暁光次が、犬飼の方を見て身を起こした。
「お帰り、光次さん。あっちはどうだった?」
「ああ。ついに殺したよ。七人目は強かった」
犬飼の問いに、光次は満足げな笑みを広げてみせる。
「しかし油断はできない。全ての守護者を斃さないと、私が生み出した世界が、こっちの世界へ侵蝕を開始してしまう。そうすれば、この世界は消え、こちらの世界の住人は全てあっちに行ってしまう。あの過酷な世界へ」
「それはもう何度も聞いたよ」
必死に自分の境遇を語る光次に、犬飼は苦笑いをこぼす。
「ど、どうしたんだ、優? 今日も浮かない顔して。が、学校でイジメとかにあってないか? いじめられていたら言うんだぞ。父さんが殺してやるからなっ」
娘の沈んだ面持ちを見て、元気づけるつもりで言う光次であったが、優の顔は変わらない。
「あ……またあっちの世界に……行かないと。父さんがこの世界を救わないといけない。ごめんな、優。お前には苦労ばかりかけて。犬飼君。優の事頼むよ」
一方的に告げると、光次はまた仰向けに寝て、天井を凝視しはじめた。
目は開いているが、その目はこの世界のどこも見ていない。すでに光次は、己の頭の中で作った世界の中に入っている。
「いってらっしゃあい」
もう自分の声が届いていないのはわかっているが、優は声をかける。
光次は現役の小説家時代、見た夢を常にメモ帳に記し、話のネタを夢から考えるという手法を取っていた。
だがそれを繰り返しているうちに、光次は次第におかしくなっていった。夢を見るために寝るという意識もあってか、頻繁に夢を見るようになり、日々の睡眠が浅くなっていき、また、悪夢を見るケースが増えていった。細かく眠っては起きを繰り返し、起きていてもぼーっとしているようになり、周囲の人間との会話もおかしくなっていった。
やがて幻覚を見て悩まされるようになり、仕舞いには目が覚めていても夢と現の狭間にいるようになって、現実と虚構の区別そのものがつかなくなった。頭の中に世界を思い描き、その世界へとトリップするのだ。光次の頭の中で繰り広げられる世界は、光次にとってはまごうことなきリアルなのである。
多くの人が光次から離れていき、光次の妻の夕子に至っては、夫の狂気に耐え切れず、自殺してしまった。遺書には『普通に死ぬよりおぞましい。あの人の心が壊れて、別のものへとなってしまった。こんな運命を与えた神様を呪う』と書かれていた。
優は思う。母もまた日頃から欝がひどくて非常に心の弱い人で、そして父もまた弱い人だったが故に、弱い者同士でくっついてしまった悲劇だと。
優と犬飼だけが、光次の話に付き合ってやっている。優からしてみれば、自分だけは絶対に父を見捨てたくないという、意地にも似た気持ちがあった。母が死という方法で逃げ出したから、余計にそう思う。
「優、ちょっと話があるんだが……」
犬飼が立ち上がり、障子の外を親指で差し、部屋を出るよう促した。
「俺の小説――『殺人倶楽部に入ろう』の実現化、できそうだぞ。他人任せだから、俺の口から確証はできないけどさ」
犬飼の言葉を聞き、優は衝撃のあまり硬直した。そして少し遅れてから、全身の細胞に歓喜がかけめぐり、身体が震えだす。
「優、お前さんこそが当事者なんだから、入るよな? そもそもこいつは、お前の望みなんだし」
「はい、もちろんですよう」
表情を輝かせ、優は頷いた。
それも四ヶ月前の話。




