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夜の町。灯りも乏しく、人通りがほとんどない寂しい市街地。
一人の女が、泣き顔で必死に駆けている。その服は所々破れ、血が滲んでいる。
(誰か助けて!)
悲鳴をあげて助けを呼ぼうとして、しかしどういうわけか声が出ず、女は混乱しながら逃げ惑う。先程からこのような状態になってしまった。声を出そうとしても出せない。
女を追いかけている男は、その気になればすぐにでも追いつくことが出来た。しかしあえて逃がして走らせることで、しばらくの時間、恐怖を与えて弄んでいる。ここまで、いつも通りだ。
男の年齢は二十歳ほど。もしかしたらまだ十代かもしれない。
「悪獣――」
男の呟きに呼応し、男の懐から白く大きな大福のようなものが飛び出て、男よりずっと速い速度で、女へと向かっていく。
そこで男は足を止める。耳を塞ぎ、あの声を聞かないようにする。
破心流の使役する妖に犯されて悲鳴をあげるだけならまだしも、たまに本気で感じて喘ぎだす女がいる。その声を聞くと、彼は吐き気を催す。
「女は全て売女だ……」
暗闇の中であるにも関わらず、犯されている女が視界に入らないように顔を背け、忌々しげに吐き捨てる。
この男の名は神田宗佑という。最近、超常の領域に携わる者達の間で話題になっている、破心流妖術を用いて連続婦女暴行殺人を働いている犯人だ。
だが宗佑は女を犯すことなどできない。彼は性そのものを激しく忌避している。女の匂いや、女の艶っぽい声を耳にしただけで、吐き気がこみあげるほどの拒絶反応を示す。
それ故に、破心流の妖術師が使役する悪獣という名の白い妖を用いて、代わりに陵辱させる。普段は大福のように丸くなっているが、動く時には別の形状に変化する。まるっきり男性器の形となる事もできる。しかし頭部には口がついており、牙と舌が生えている。
何より悪獣にははっきりと性欲がある。その対象は人間も獣も分別が無い。そのうえ食欲も有り、雌の獣を犯して性欲を満たした後は、食欲を満たすため、雌の胎を食い破るという、非常におぞましい性質を持つ。
宗佑は悪獣のこの性質を気に入っていた。このような禍々しい妖を作った輩は、自分と同じく女を憎んでいたのだろうと、思い込んでいた。
宗佑が女を殺めるのは、憎しみと怒りのはけ口のためだ。己の中で荒れ狂う、それらの強烈な負の感情を満たすための行為である。
「女は全て売女だ……」
憎悪をこめて再度呟く。何百回、何千回口にしたかわからない台詞。
血まみれの白く短く太い棒状の生き物が、高速で飛び跳ねながら自分の方へと戻ってきたのを見て、宗佑は押さえていた耳から手を離す。
大福の形に戻った悪獣を懐へと収め、道を歩いていく。その先には、暗闇の中で、腹部を食い荒らされた無惨な屍が転がっていた。
満足しつつも、目を離す宗佑。女の素足が大きく露出していたからだ。性に繋がるものは受け付けない。
「また一人地獄へ送ってやったぞ。そちらで仲良くしてやってくれ」
歪んだ笑みを張り付かせ、虚ろな目で夜空を仰ぎ、語りかける。
その時、気配を感じた。
「またか」
唾を吐く宗佑。自分の所業はとっくにバレている。これまでに妖術師の刺客が何人もやってきた。だがそれらは全て返り討ちにした。
(何人でも来い。文字通りの屍の山を築いてやる。この世の中の奴等、全員糞だ。殺せるだけ殺して殺して殺して殺して殺しまくってやる)
心の中で激しく毒づき、暗闇の中、こちらの向かってくる人物に対して殺気をぶつける。
そんな宗佑がひるむほどの大男が、目の前に現れた。
身長2メートルはあろうかという巨体。手はごつごつとして大きく、胸板は広く厚く、上腕はそこいらの男の太ももよりも太く、何より肩が異様に盛り上り、全身が筋肉の塊。四十代とおぼしき厳しい顔立ち。この見た目だけでも圧倒されるには十分すぎるが、その身から放たれている闘気がまた凄まじい。
「俺は銀嵐館筆頭戦士、桃島弾三!」
耳をつんざく大声で名乗りをあげた大男に、宗佑はさらにひるんだ。
「間に合わなかったか。許せ」
桃島が女の亡骸に目を落とし、胸の前で片手をかざし、一瞬だけ目を伏せる。その目を伏せた一瞬の好きに襲われる可能性も十分に考え、冥福を祈りつつも警戒は怠らない。
亡骸から宗佑へと視線を向ける桃島。その視線を受け、宗佑はたじろいだ。
(何だよ、こいつ……。怒るでも蔑むでもなく……何でこんな目で俺を見る……)
これまでの人生で、自分にはほとんど向けられたことのない視線。宗佑はその意味を知っている。
(何だよ、こいつの目……。俺のこと……何で哀れみの目で見るんだ……)
動揺はやがて怒りへと変わり、宗佑は術を唱えた。
宗佑の足元から白く長い帯のようなものが四本伸びて、桃島へと向かっていく。
術によって特殊な処置が施された魔道具。相手を拘束した後に、布に書かれた小さな小さな呪紋が、拘束した相手を呪いで蝕み、巻きついた部分から相手の体を腐らせるという術だ。
「渇ッ!!」
気合いの叫びと共に、桃島が太い右腕を振り上げ、勢いよく振り下ろすと同時に、巨大な銀色の物体が現れて、己に向かい来る白帯を四本とも地面に叩きつけた。
何も無かった空間に突然現れたのは、桃島の巨体が隠れるほどの巨大な銀色の盾であった。白帯は盾の底で潰されて地面の中にめりこんで、どういう仕掛けか呪力すらも失い、最早動かない。
「お、おのれっ」
狼狽し、沸き起こる恐怖を必死にこらえ、宗佑は次の術を唱える。
懐から何十本もの千枚通しを取り出し、術をかける。すると千枚通しが宙に浮かび、凄まじい速さで銀の盾へと向かって飛ぶ。
一見地味であるが、これは破心流妖術の奥義だ。術によって鋭さと強度を極限まで増した針は、岩であろうが鉄であろうが貫く。
しかし銀の盾を貫く事はできなかったのが、宗佑には術をかけた者だけでわかる感覚でもって、理解できた。
「それで終わりか?」
呆然として立ちすくむ宗佑に、盾越しに声をかける桃島。
「ふんっ!」
裂帛の気合いと共に、盾が宗佑めがけて突っ込んできた。
及び腰ながらも横に跳んでかわそうとした宗佑だが、直進していた盾がその宗佑の動きに合わせて折れ曲がったのを見て、宗佑は死を覚悟した。
だが、盾は宗佑の直前でぴたりと止まった。宗佑は尻餅をついて、自分の前にそびえ立つ巨大な盾を涙目で見上げている。
盾が消失する。桃島がゆっくりとこちらに向かってくるのが見える。桃島が盾を持って突っこんできたのではない。盾だけが、傾くこともなく垂直に立ったまま、高速で飛来したという事だ。
最早完全に戦意を喪失した宗佑の襟を掴み、桃島は片手で宗佑の体を持ち上げると、残った手で桃島の頬を思いっきり平手で叩いた。
顔が焼けるかと思うような衝撃と痛みに、宗佑は目を白黒させる。
(嬲り殺しにする気か?)
そう考えて怯えた宗佑であったが、直後、桃島の口から思ってもみない台詞が飛び出た。
「俺を殴れ」
「え?」
あまりにも意味不明な発言に、ぽかんと口を開く宗佑。未だ襟首は掴まれたままだ。
「殴り返せ。殺す気で殴れ。全力で殴れ」
わけがかわらなかったが、とりあえず殴っておく。
「おい、それだけか?」
不服げに宗佑を睨む桃島。
「もっと殴れ。気が済むまで殴れ。全て吐き出して殴れ」
「何なんだよ! お前は! 何だ、この茶番は! 俺をからかってるのか!? 甚振ってるのかよォっ!」
宗佑は激昂し、至近距離から何度も何度も桃島のいかつい顔を殴打した。
何発殴ったかわからないが、一分以上は殴り続けていた。あまりに硬い桃島の顔に、宗佑の手の方が痛くなってくる。
「もういいのか? なら次は俺の番だ」
宗佑の手が止まると、桃島がそう宣言し、再び宗佑の顔を平手で打った。
同時に掴んでいた襟首が離され、宗佑の体が空中で回転して吹っ飛び、地面に落ちる。
起き上がろうとしたが、動くことができない。脳震盪を起こしたのかもしれない。意識も視界も朦朧としている。
「行くぞ」
その宗佑の体を桃島が担ぎ上げる。
(煮るなり焼くなり好きにしろよ……)
桃島の意図は計りかねたが、自分の命運は最早この男に握られているし、どれだけ抗っても無駄ということも理解できた。
ぐったりとした宗佑は、奇妙な感覚に包まれる。敗北の苦さと悔しさに心がねじきれそうな気分になると同時に、自分の中で常に渦巻いていた邪気のようなものが、どこかに消えてしまったようで、激しい戸惑いを覚えていた。




