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「みそウォール!」
凜の周囲の足元から茶色い壁が伸び上がり、凜の四方に立ち塞がる。
怨霊の奔流がみその壁に当たると、怨霊達の憤怒と怨嗟に満ちた形相が、見る見るうちに、文字通り憑き物が落ちたように和やかな代物になり、落涙しながら歓喜の表情へと変わり、次々と消えていく。
「壁に触れた霊が成仏しているのか」
睦月がその光景を見て呻く。
(そんな馬鹿な……今の術は雫野の術師でもなければ、とても防ぎきる事などできない代物ですのに……)
一切加減無しの本気で放った、とっておきの怨霊群砲であったにも関わらず、わけのわからない術によってあっさり破られた事に、百合はショックを受けて呆然としてしまった。一応この術は百合の奥義と呼べるものの一つである。
「味噌には悪霊の浄化作用があるんだから、当然のことよ」
大量の怨霊が全て消えたのを気配で察し、みそウォールを解いた凜が事も無げに言い切った。
「いえ……そんな話、初めて聞きましたわよ……」
真に受けた百合が異を唱えるかのように言い、気を取り直し、百合めがけて一気に間合いを詰める。
身体能力は自分の方がずっと上であると見なして、百合は得意の近接戦闘で仕留める手に打って出た。
この黒ずくめの女は、何をしてくるかわからない。長い年月をかけて多数の能力や術を会得した、オーバーライフ並に多芸であるようにも思える。そのうえ、極めて異質かつ特異な能力が多いように見える。これ以上あれやこれやとわけのわからないことをされるのも面倒だと判断し、さっさとケリをつけるつもりでいた。
白の女が、黒の女へと迫る。
「乾く世界。眠る宇宙。絶句する現し世。風は息を切らし、音は踊り疲れ、光もはしゃぐのをやめる」
早口で魔術の呪文の詠唱を行う凜。詠唱途中に凜が眼前に迫り、手刀を突き出されたが、かなり際どい所で術が完成した。
右の義手が凜の喉に突き刺さり、血がわずかに喉からこぼれる。ほんの3センチばかりであるが、喉頭を突き破っていた。
百合はそのまま手刀で凜の頚椎まで貫く所存であったが、百合の手は喉頭の手前を傷つけただけで止まっていた。そこからピクリとも動かない。義手に仕込んだニードルガンの射出もできない。まるで手が空間に固定されたかのように。
(固定されたかのように……いや、これは実際に空間に固定されていますわ。この女は、私の動きも読んで、限定された空間の動きを止めましたのね)
凜の術の正体を見抜く百合。右手以外の身体は動くが、右手の肘から先だけがぴくりとも動かない。
オーバーライフなら必ずといっていいほど所有する能力に、解析、解呪、抵抗というものがある。相手をハメる類の能力や術の術理を解析することで、解析後はその力を解除や抵抗でもって完全に無効化できる。屁理屈法則ハメ系能力は、オーバーライフ相手には一度解析されたら、それ以降はまず通用しない。
しかし今はのんびり解析している暇が無い。敵は目の前にいる。
右手が空間に固定された不自由な姿勢から、凜は左の義手による攻撃を繰り出そうとしたが、それより先に凜が銃の引き金を二回引いた。銃口を斜め下に向けたままで、亜空間トンネルの入り口めがけて。
亜空間トンネルの出口は、少し離れた場所に開いた。百合が今いる位置からは死角である、百合の後ろ斜め下。空間を越えて飛来した二発の銃弾が、百合の腰を穿つ。
百合は自分が大きな判断ミスをしたと気がつく。右手を固定されて動転していたが、その時点で亜空間攻撃を警戒し、防御すればよかったのだ。それは十分に可能だったはずだ。しかし百合は残った手で攻撃しようと試みてしまった。そちらの方に意識がいって、防げなかった。
空間の固定が解除される。凜の喉から百合の手が引き抜かれ、血が迸るが、凜は構うこと無く次の行動へ移る。銃を袖の中に収容して両手に鎌を持つ。
次の百合の行動を、凜は予測する。引き続き近接攻撃を繰り出すか、一旦距離を取って体勢を立て直そうと試みるか、あるいは何らかの切り札である能力を行使するか。
凜の勘では、距離を取ると思われた。たった今百合は、連続攻撃で押し切ろうとして、それが裏目に出て、凜の銃撃を食らってしまった。同じ轍は踏むまいとする心理、そして己のダメージの回復や、体勢を立て直したいとする心理の方が強く働くのではないかと、凜は予感した。いや、それに賭けた。
相手の動きを予測し、その動きと場所を合わせて、凜は黒鎌を振るった。下から上を大きく振り上げ、返す刀で大きく振り下ろす。
振り上げた鎌の柄の先が刃ごと、液状化して飛ぶ。
凜の狙い通り、百合はバックステップして凜と距離を取る。その動きに合わせるように、黒鎌の刃が百合の後頭部上に現れる。
黒い刃は凜が大きく振り下ろした動作に合わせて百合の背後から頭頂へと振り下ろされ、後頭部から顔まで、背中から胸まで、腰から腹、股間まで切り抜け、百合の身体を縦一文字に両断した。
「嘘だろ……」
再び――今度は先程と比べ物にならぬ量の血と臓腑を床にぶちまけ、真っ二つになって床に倒れた百合を見て、睦月は震えながら呻いた。
(あの百合が……このままじゃ……)
睦月からするとそれは信じられない光景に思えた。百合の強さはよく知っている。その百合がここまで圧倒されるなど、想像もできなかった。いや、相手が純子であればそれも有りうるかもしれないと思うが、今、百合はオーバーライフですらない者に、敗北しようとしている。
「海の如き鮮やかさ、空の如き爽やかさ、然れどその者、焦がし爛れをもたらす使者」
凜が口から大量に血を吹き出しながらも呪文の詠唱を完成させると、青い炎の玉が空中に浮かび上がる。
百合の身体はすぐに元へと戻った。服も縦に切り裂かれたので、身体だけ再生してうつ伏せのまま、素っ裸という有様だ。
再生直後、百合はすぐには反応できずにいた。それどころか、意識を失っているかのように睦月の目には映った。
勝利を確信した凜が、口から血を吐きながら笑みを浮かべる。青い炎球が百合めがけて放たれる。
炎球は百合へと当たる前に、空中で爆発した。
睦月が放った蛭鞭が、炎球を弾いていた。
「あはぁ……うっかり助けちゃったよ……」
蛭鞭を振るってから、睦月は自分の行動に驚いていた。
(まあ真が殺したがっている相手を他に取られても……いや、違うなあ。そんなんじゃない。俺は百合を……俺自身が死んでほしくない気持ちが確かにある)
百合や亜希子や白金太郎と共に過ごした日常の記憶が、睦月の中に蘇る。それはまんざらでもない日々だ。百合を失うということ、それを失うということだ。
(これも百合の計算のうちかねえ。だとしたら、馬鹿げたことしたと思うけど)
「そういやあんたを忘れてた。ったく、晃は早々とやられちゃって……」
百合との戦いに集中するあまり、睦月と晃のことにまで気が回らなかった凜である。それほどの強敵だった。
「凜さんの方はやっつけたのか。流石~」
体の上に蜘蛛を乗せられ、仰向けに倒れたままの晃が、裸で倒れている百合を一瞥し、凜に声をかける。
「うまく退けたとはいえ、相手がこちらの術を知ることもなく、うまくこちらペースでハマったから勝てたようなものよ。基本スペックは向こうの方がずっと上だったけどね。勝負は流れを掴んだ方が優勢に傾くから、流れを掴む事が大事。今回はうまく流れを掴んだ」
晃の方を見ようとはせず、睦月の方に注意を払いながら凜は言った。今のところ。睦月はこちらに向かってくる気配を見せない。
「えへへ、それ純子の受け売りじゃない? 僕も相沢先輩に散々言われたよ。先輩も純子の受け売りだって」
「純子の受け売りだけど、私は何度も実戦でそれを証明もしているし、経験則でもあるのっ」
からかう晃に、怒ったように言った直後、凜は百合が動き出している気配を悟った。
「うふふふ、驚きましたわねえ。睦月、貴女が私を助けるなんて」
一糸纏わぬ血まみれの姿のまま、百合がゆっくりと身を起こす。
「あはっ、自分でも驚いてるよぉ」
言うなり睦月が凜の頭部めがけて鞭を横に振るった。
凜は身をかがめて際どい所で鞭をかわしたが、直後、想定しなかった光景を見る。睦月の振るった鞭が、空中で真っ直ぐ伸びたまま止まっていたのだ。まるで今まで鞭だった物が長い棒に変化したかの如く。
睦月が鞭を再び振るうと、通常の鞭の動きからは考えられない軌道と、そして先程よりずっと速いスピードで、鞭が凜めがけて襲いかかった。
鞭が凜の左脚を直撃する。重い衝撃。足の骨が折れた確かな感触を、凜はその身で、睦は鞭を掴む手で味わう。
(よりによって足をやられるなんて……)
よろめく凜。よろめいたはずみに、口と喉からあふれた血が床に大量にこぼれおちるのを目の当たりにする。喉に受けた負傷も放っておいてよいものではない。
負傷への回復にも気を傾けることなかった凜であるが、ここでようやくにして回復行動へと移った。みそを手に取り、喉に開いた穴を埋めるかの如く、素早く塗りたくる。その間にも睦月と百合の動きは警戒している。
睦月はどういうわけか動こうとしない。百合は身体を縦に真っ二つにされるという大ダメージからの回復に力を費やし、その疲労が大きいようで、動きは緩慢であるし、すぐに襲ってくる気配は無い。
何にしても敵の動きが無いのはありがたいと思い、凜が骨折した脚にもみそをぬろうとして軽く身をかがめたその時、腹部に熱い衝撃を受けた。
見ると、足元から凜の服にそって、長い針金のようなものが伸びて、腹部を貫いていた。針金のようなものは、床に沿って睦月から伸びているのが確認できた。
「可愛いでしょ。それ針金虫っていうんだ。あはぁ」
苦痛に顔を歪める凜に向かって、睦月がにっこりと笑う。
(何もしてなかったわけじゃなくて、こっそりとこれを伸ばしていたのね……油断した)
うつ伏せに倒れる凜。しかし倒れながら腹部に手をあて、貫かれた箇所にみそを塗っている。
「睦月、油断してはいけませんわよ。その女はまだ余力がありましてよ。反撃の機会を伺っていますことよ」
百合の指摘にぎくりとする凜。確かにそのつもりではいるが、腹を貫かれた今、すぐに反撃できるわけでもない。みそヒーリングはそんなにすぐには、ダメージを癒すことはできない。
「流れを掴むことが大事と仰られていましたわね。まったくもって同感ですわ。そして今、流れは私達が掴み、今の貴女は失ったのではございませんこと?」
無惨に破れた服を拾い上げ、腰と胸に巻きつけながら、嫌味ったらしくも優雅な口調で言い放つ百合。
「あれって、ある意味裸よりエロいじゃんよ」
恥部だけぎりぎり隠した百合を見て、晃が呑気な口調で言う。
(晃、どうにかできないの?)
凜が顔を横に向けて晃を見やるが、晃はそれを察したかのように、倒れたまま小さくかぶりを振る。いまだに刃の蜘蛛が、体の上にいるし、少しでもおかしな動きをすれば殺されるだろう。
「あはは、散々油断してぼろぼろにやられたくせによく言うねえ。もうこの二人は反撃もできないし、こっちの勝ちってことで、撤退した方がよくない? こっちだってぼろぼろなんだしさあ。あ、俺は元気だけどねえ。ぼろぼろなのは百合だけだねえ」
「とどめをさす余力が貴女にはあるのだから、しっかりととどめをさしなさいな。貴女が見逃したからといっても、その見逃した相手が次に、貴女や私を見逃す保障がありまして?」
睦月の言葉に、助かるかもと期待した凜と晃であったが、それをまるで見透かしたかのように、百合が意地悪い笑みを浮かべて命ずる。
「それもそうだねえ」
気乗りしない顔で、しかし確かな殺気を膨らませる睦月に、凜と晃は真剣に恐怖した。
「これ……真剣に絶体絶命ね……」
凜が言った。必死に身を起こそうとしているが、身体がいうことを聞いてくれない。
「うん……。誰か助けにきてくれないかなあ。そういう漫画的展開を期待するしかないよ……これ。ここで純子か相沢先輩が来てくれるとか、無いかなあ……」
力なく笑う晃。最早この状況はどうにもならないと、諦めかけていた。




