23
目が覚めると、朝の八時を回っていた。
同じベッドに寝ていたはずの真はすでに制服姿で、椅子に腰掛けて銃の手入れをしている。杏もすぐに服を着て、部屋に届けられていたモーニングサービスを口にする。
正直な所、昨夜、真はかなり気遣いせねばならなかった。杏の過去や、まともに男と寝るのが初めてだという話を聞いたせいだ。
奇跡的に体の相性はそれなりによくて、性欲もいい具合に発散する事はできたのだが、一方でどうしょうもなく気疲れしている。抱き慣れた相手から、ほとんど初めてと変わらないような女を相手にしなくてはならないという事にも、抵抗感が強かった。
(つくづく最低だな。僕は)
口に出さずに吐き捨てる。留美と別れたその翌日に、異常性欲解消のために別の女を抱いている。それも明らかに自分に好意を抱いている相手を。
「何でこの世界に?」
真の方からは何の会話も切り出そうとせず、ただ淡々と銃の手入れをしていたので、杏の方から声をかけてみた。真は相変わらずポーカーフェイスではあったが、その質問に対して、嫌そうなオーラを確かに放っていたのが、杏にはわかった。
「あまり言いたくは無い。一言で簡単に言えるような経緯ではないし。それに……そういう事は触れるものではないだろ」
「私は結構な秘密を、ばらしたけれど?」
冗談めかして微笑む杏。
「僕も知られたくない秘密を教えたよ」
「つまり、それ以上に教えたくないことなのかな。なら無理には聞かないわ」
「言いたくないという事も加えて、ややこしすぎるって所かな。正直、こんな世界に堕ちるのは本意では無かったよ。もっと平凡な暮らしがしたかったというか、学校行ってた頃は、自分が人並みにまともに社会で生きられるかって、将来のことばかり心配していた。表通りにいた時から変わり者だったから、余計にさ」
意外な答に杏は驚いた。反骨心に満ちていて、社会を羊牧場だと見なして嫌悪するがあまり、この世界に堕ちてきて、己の生き方に誇りを持つ杏。
そんな杏が心から認めた相手が、全く自分とは逆の価値観を持っていた事が衝撃的だった。
「ふーん……で、今はどうなの?」
「今は……自分に相応しい生き場所を見つけてしまったし、もう今更生き方も変えられないだろう。でも悔しくはある。結局僕は、まともに生きる事が出来なかったんだし」
「適材適所でしょ。人にはそれぞれ合った場所があったってことよ。引け目に感じることはないわ」
自分で口にした言葉に、驚きと戸惑いを覚える杏。
真のような男が、平凡な人生を望み、学生時代に将来への不安を抱えていたという事をその口から告げられ、逆に自分が表通りをずっと侮蔑していた事に対して、どういうわけか恥ずかしさすら感じてしまう。
杏は推測する。真は普通な人生を目指して望んでいたが、良くも悪くも様々な非凡さを持ち合わせていたが故に、それが困難だったのではないかと。
それとは逆に、自分はこれといって秀でた力があったわけでもない。麗魅や真、そして真の主にあたる雪岡純子などと比べれば、まるで小物だ。いや、それらと比べるまでも無く、非凡と呼ぶにはまるで遠い。
今この瞬間になってこの少年の言葉を聞いて、自分自身がとても恥ずかしい。
「適材適所か……慰めの言葉としては有難いかもな」
真にしてみれば、今でも本気で表通りでの平穏な生活を望んでいるわけでもない。結局は今の生き方を楽しんでいるし、満足している。だが一方で未練もあるというだけの事だ。
「弟にあまり似てないと思ったけど、何か今ではよく似ているように思えてきた」
「弟?」
脈絡のない真の言葉に、小首をかしげる杏。
「雲塚晃。あんたの弟だろ? 裏通りに堕ちて情報屋している姉がいるって聞いてたし、雲塚なんて名字珍しいしさ。それとも他人か?」
「いや……確かにそんな名前の弟いたわ。忘れかけていたけれど。でも歳も離れていたし……私、家族に思い入れも無かったし……」
自分の家族でありながら、どんな弟だったか杏は思い出せない。兄弟自体が多かったせいもある。それが真と知り合いだった事といい、累との接点といい、麗魅が純子のマウスだった事といい、本当に世の中は狭い。
「まさか……私の家族を殺したのはあの子?」
そのニュースだけは流石に知っていた。しかし、家族そのもの毛嫌いしていた杏は、それを知った時、正直すっとしていた。
「随分と希薄なんだな。だからあんたも弟のことを知らず、あいつはあいつで裏通りデビューしても、あんたに報告もしないわけか」
杏の問いには答えず、真はそんなことを口にしていた。答えなかったというだけで、答えにはなっていた。
「あなた、見た目は子供のくせして、中身だけ大人びているのがどうにも違和感あったけれど、何だか、今は見た目そのままに見えるわ」
それ以上、覚えてもいない弟の話題を続けたいと思わなかったので、別の話題へと変える。
「それを言われて思い出したが、雪岡に勝手に僕も体を改造されていたって事がわかったのがショックだ……知らない間に不老不死化されていたなんて」
「四年も気付かないでいるままなのもどうかと思うけれど」
「五年だよ。あいつには、僕の身体を勝手に改造したりとかしないでくれと、何度も言ったんだがな……。帰ったら問い詰めないと」
帰ったら――その言葉にまた嫉妬の感情が吹き出そうになったが、先ほどの真の言葉を信じて抑える。
(この子、ちょっとデリカシーに欠ける所があるわ……)
そう思わずにはいられない杏。知り合って長くないが、その欠点ははっきりとわかった。
「麗魅はどうなったのかな」
よくよく考えたら、自分には累と自由に連絡を取る術が無い事に気が付いた。タスマニアデビルで悠長に彼が来るのを待つより、すぐにでも麗魅の安否を知りたい。
「累に聞いている。樋口は――除霊は済んだようだが、霊障で精神が侵されているようだ。すぐに回復は無理とのことだ。この件が片付くまでに終るかどうか。まあ、ここでリタイアだろう」
累と連絡が取れる真がすでに確認を取っていたので、杏に現在の状況を報告する。
「そんな……あいつらに復讐するために、裏通りに墜ちてきたってのに、その相手を目前にして……」
「だから復讐なんて馬鹿のすることだと言っているのさ。復讐相手を他の誰かに食われていたりすることもあれば、憎んでいた相手が実は誤解だったなんてこともあるし」
杏は麗魅が憎しみにとらわれることの危険性を、常日頃から口にしていたことを思い出した。麗魅とて、復讐の虚しさ、その事により墓穴を掘るやもしれない危うさは、重々に承知していたのだろう。
「おまけに、その復讐心も雪岡純子に利用されていたなんてね」
「でも、樋口の身内が星炭流呪術の下衆共に殺されたのは事実だ。本人の手で復讐を果たせないのは無念だろうが、僕等の手でそれを成したとしても、結果は同じだし、彼女のあの性格なら、代わりにあいつらを駆逐しても、僕やあんたを恨みはしないだろう?」
「まあね。でも、自分の手で決着をつけられなかった無念は残るわ」
「贅沢な話だ。恨んでいた相手も目出度く殺されて、本人も生き残れたんだから、それだけでもよしとして欲しいね」
復讐は馬鹿のすることと何度も言った真の言葉が、杏の中で苦い味わいとなって響く。きっとすべてを終えてから、麗魅はもっと苦い気分を味わうのかと思うと、胸が痛んだ。
***
心地好いぬくもりを感じつつ、美穂は目を覚ました。車に揺られながら寝てしまっていたらしい。
しかも隣の席の純子の体に全身を預けるような形でもたれかかっている。純子もそんな美穂の肩をそっと支えている。
いよいよ星炭のアジトに攻め込むと純子に嬉しそうに告げられ、美穂達はタクシーに乗ってその場所へと向かう最中だった。
タクシーは男性陣と女性陣に分かれて二台に乗る格好になった。夜になると霊の影響力が強まるということで、襲撃は昼間にした方がよいと純子に言われ、早急な出発となった。
「目が覚めたあ? いよいよ最後の戦いだねー」
まるで危機感の無い、いつもの弾んだ声と屈託の無い笑顔で純子。
純子を見て、美穂は不思議に思う。どうしていつもいつも、こんなにニコニコしていられるのだろう。会った時からずっとそうだった。この朗らかな笑顔で励まされ、慰められ、美穂は何度も救われた。
美穂は純子によって、人の精神にある程度干渉する力と、霊を視て退ける力を与えられた。純子の言葉では力を引き出したという事になるが、美穂からするとどうしてもそうは受け取れない。
霊とは、死後に身体から離れた心だけの状態のようなもの、もしくは霊魂こそが生物の本体で、肉体は仮の容器であるという見方もあると、純子は語った。大抵の人は前者の認識であろうし、美穂もそう考えていたが、後者は初耳だった。
純子は霊や霊界の存在が全世界で科学的に認められるずっと前から、霊と肉の関係、この世とあの世について研究し続けてきたのだという。純子に限らず、多くの人間がそれを研究し、その原理の一部を解き明かして、術という形で利用する者達が現れた。
霊という領域に科学のメスを入れ、長年に渡って霊の仕組みと扱い方を研究し、さらにその術を磨き続け、大きな力として扱うまでに至った彼等こそが、妖術師、魔術師、呪術師と呼ばれる者達なのだそうだ。
その目的や主張はともかくとして、人が霊を力の行使として利用する事に対し、美穂は怒りと嫌悪しか覚えない。
特に星炭の呪術師は、人工的に生霊や怨霊を作り出すという非道を行っている。それらを目の当たりにして、霊達の怨嗟の声を直接聞いているのだから、余計に怒りが湧いてくる。
「どうしたのー? 怖い顔してー」
「ん、ちょっとね……」
純子に言われて、怒りが表にまで出ている事に美穂は気付く。
「あの星炭って奴等の事を考えていたらさ……。同じ人間を苦しめて殺して、恨みを抱えた霊を作ってそれを利用して、それで国を守ってきたとか言ってたのがさ」
「星炭流呪術の歴史を調べてみたんだけれどさー。大昔の星炭の分家の人達には、どうしても力が必要だった。虐げられ続け、力を示さねば根絶やしにされるかもしれないという恐怖の中で、ああした外法を生み出すしかなかったの。その力を必要とされても感謝もされず、逆に蔑まれながら、星炭の汚れ仕事を担うっていう、報われない歴史があるの。本家から離れた後も、子々孫々に至るまでその怨念と屈辱をずっと忘れずに受け継いでいって、同時により大きな力を得る研究を積み重ねていったんだよー。より強力な怨霊の製造法と、それを利用した術の研究をねー。彼等の道はそれしかなかったし、彼等のような怖い人達を生み出したのもまた、私達人間なんだよー」
純子は星炭のことを一方的に悪として扱わない論調だった。それが美穂は何となく気に入らない。
「でも、わざわざそんな力に頼らなくても、別の道だってあるわけじゃない。純子みたいに、よい方法で力を求める事だって、できるんじゃないの」
「星炭流呪術の歴史が怨念と共に有る限り、その選択は無理だろうね。そのうえ国家に一度認められちゃったもんだから、余計に今までのスタイルを覆すなんてできないでしょ」
「だったら余計に……」
この戦いは負けられないと美穂は心の中で続けた。早く平和な日常に戻りたいと思う一方で、その平和の守護者を名乗る、悪逆非道な集団も許せないという感情が強く渦巻いている。
「あまり気張らない方がいいよー。一番大事な事は、皆が無事にこの戦いを終わらせる事だからさー」
美穂の心を見透かしたかのように、微笑みながらたしなめる純子。
「私としても、君達をこんな形で危険に巻き込んでいる事には責任感じているんだー。そのうえ君達に守ってもらう格好になっちゃってさー」
「何言ってんの。純子は何も悪い事してないし、そもそも私達を救ってくれたじゃない。それにあいつらは私達の事も、元から殺すつもりなんでしょ?」
「まあ、そうなんだけれどねー」
「純子だけの問題ではなくて、私達全員の問題でしょ。純子が特別負い目に感じる事なんて無いじゃない」
「あははは、そう言われると私も、ちょっと気が楽かなー。美穂ちゃん、ありがとさままま」
純子が笑って礼を告げた直後、タクシーが止まった。
窓の外を見ると、周囲は木々が生い茂っていた。山道の、何も無い場所でタクシーは止まっている。このタクシーも当然表通りのものではない。
敵のアジトに最も近い場所まで運んでもらう約束だったのだ。そして事が済んだら、また迎えに来てもらう予定になっている。
「さ、行こ」
純子が緊張感の無い声で告げ、先に出る。美穂は両手の拳を胸の前で握って気合いを入れてから、純子の後に続いた。




