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鯖島恒星はしがないサラリーマンであったが、政治思想団体『絶対自由平和平等民主主義人権肯定会』の会員でもあり、会の思想と活動にどっぷりと漬かっていた。
休日は美辞麗句の綺麗事を合唱するだけの集会に足を運ぶ。その会に所属しているという事が、鯖島の心の拠り所であった。会が訴える思想を盲信し、疑っていなかった。
ある日、娘を八つ裂き魔と呼ばれる連続殺人鬼に殺されるまでは。
娘の変わり果てた亡骸を目の当たりにし、鯖島の中で決定的な何かが壊れてしまった。
「娘さんはお気の毒でした」
「犯人が一刻も早く捕まるといいですね」
休日になり、絶対自由平和平等民主主義人権肯定会に出席した際、鯖島にかけられる言葉も、最初は他と同じようなものであったが、途中から話はおかしな方向に向かっていった。
「犯人が捕まれば間違いなく死刑ですよね」
「死刑制度に反対する我々としては複雑ですね。いっそ犯人捕まらない方が……」
「ちょっと、鯖島さんもいる前で何言ってるんですか?」
「鯖島さん、ひょっとして心変わりしてない? ここにいる人は皆、たとえ身内が殺されようと死刑制度反対は断固として貫くと誓いましたが、今の鯖島さんから、あえてその言葉を聞きたいです。そうすれば我々の団結心はより強固なものになるでしょうし」
「犯人を憎んだりはしていませんよね? 私達は如何なる争いも反対という立場ですし、犯人とも対話して許すべきです」
会員達が鯖島の悲劇をダシにして、それぞれ勝手なことを口走りだしている事に、鯖島は愕然としてしまう。
「どんな凶悪犯でも人権はありますからねえ。鯖島さん、辛いだろうけど頑張ってっ。憎しみの闇に心を捕らわれないでっ」
「何失礼なこと言ってるんだ。鯖島さんがそんなことになるわけないじゃないか。仲間をもっと信じろよ。鯖島さんなら犯人が捕まっても死刑反対するし、犯人の人権も認めるし、犯人と酒飲みながら笑って語り合えるさ」
「うん、心にお花畑をっ。今こそ鯖島さんの心もお花畑で満たされていると、鯖島さんには照明してほしいなあ」
「ええ、これは鯖島さんに与えられた試練ですっ。しかし自由と平和と平等と民主主義と人権と社会主義を肯定し、差別と死刑制度と戦争と資本主義格差社会を否定する我々としては、ここで是非とも鯖島さんに頑張って欲しい」
「鯖島さん、次の選挙で立候補してみるというのもいいかも!? 娘さんを失ったけど、それでも主義主張思想を曲げないと演説すれば、民衆のハートを鷲掴みにできると思うんですっ」
「いいね、それ。家族を殺害されたという重みを持つ者だからこそ、できることだ。そうすればきっと亡くなった娘さんも浮かばれるっ」
「ついでに鯖島さんの悲劇を題材にして、ラップ作って皆で歌いながらデモしようぜ。歌詞はもちろん鯖島さんに書いてもらおう。誰か曲作れる人~?」
「どうですか? 鯖島さんっ!?」
「鯖島さんっ! 鯖島さぁ~んっ!」
幾つもの顔が自分に迫る。期待と憐憫が入り混じった視線が自分に降り注ぐ。耳障りな声が自分の名を連呼し続ける。
鯖島は固まったまま、一切反応できなかった。声をかける者達もやがて諦めた。露骨に失望の溜息をつく者もいた。
娘が失い、壊れてしまったと思った鯖島の心は、ここでもう一度壊された。それも今度は、徹底的に。
彼等にとって、今の自分は、思想の確認や政治利用するための都合のいい道具ができたくらいの認識なのだという事が、よくわかった。
自分が今まで信じてきたものが崩れ落ちた。しかし一方でこうも思う。もし自分が彼等の立場であったら? 自分は身内を失うこともなく、身内を殺された同胞が現れたら、きっと彼等と同じように迫ったであろう。同じことを期待したであろう。
娘を殺された事により、彼等が狂気に取り憑かれていた事を知り、自分も同じ狂気に取り憑かれていた事を知り、自分はその狂気から解放され、正常な人間に戻った事を知った。
その日以来、会にも出席せず、それどころか仕事も辞めてしまい、精神病院に入院する。
その後、退院した時に妻から突きつけられた三行半。
何もかもが壊れていく世界。闇の底へと転がり落ちていく自分。それまでとは別の種類の狂気によって侵されていくのを感じ取る。
絶望的なその日暮らしをしていた鯖島に、ある日電話がかかってきた。電話の主は、鯖島に殺人犯の正体を知らせると同時に、復讐の話を持ちかけた。
鯖島はその話に喜んで飛びつき、念入りに復讐案を練った。
雨岸百合という名の人物とも何度も電話で相談し、助言をもらった。裏通りの情報屋に頼んで、安っぽい変装をしている睦月の行動も常にチェックしてもらった。睦月の攻撃を防ぐために高性能のボディスーツも購入した。雪岡純子というマッドサイエンティストに力を望む際に、考えに考えた能力の付与を要求した。そして綿密に作戦を練ったつもりだ。
鯖島が持つこの記憶と憎しみを、他者にも共有させる力。しかも憎しみは増幅させたうえで与えるので、自我や理性の大部分は失う。まるで自身も鯖島になったかのように、錯覚する。
「悪霊に憑依されるのと似た効果だねえ」
雪岡純子というマッドサイエンティストはそんなことを言っていたが、失礼な言い方だと鯖島は思う。それではまるで、自分が悪霊ではないかと。
***
「ようするにこいつらは、鯖島とかいうのに操られているわけか」
つまらなさそうに犬飼が言った。関係無い他者を操って手下にしてモブ軍団を作り上げるなど、面白くもなんとも無いし、いくら数を揃えても、睦月達の敵ではないだろうと思ったのだ。
鯖島が憎悪の共有の力を用いたのは、かつて鯖島が入れ込んでいた絶対自由平和平等民主主義人権肯定会のメンバーとその家族、鯖島の勤めていた会社の部署の同僚とその家族、そして別れた妻とその家族だ。
憎悪の共有がちゃんと対象者にかかり、操れるまでに至るのには時間がかかり、個人差もある。しかも一人一人に能力を用いていくのもわりと手間と時間のかかる作業となった。
他にも復讐者がいるというので、先を越されないか不安ではあったが、何とか間に合った。
「増幅したヘイトを植えつけるのに、結構時間がかかるからな。時間の猶予さえあれば、もっと駒を集めたい所だったが、今くらいが頃合だろう。それに最期は俺の前で、俺の手で殺さないと意味がないからな」
鯖島が楽しそうに解説する。
「関係無い他人操っておいて何言ってるんだか」
咲が不快を露わにして吐き捨てる。
「関係無くも無いんだな。こいつらは皆屑だ。そして屑の身内だ。屑の身内はどうせ屑だから、やっぱり屑だ。こいつらは人間の振りをしているが、人間じゃあないんだよ。狂気の毒沼の中で蠢く、おぞましい下等生物だ」
自分だけが理解できることを口走ると、鯖島は手を払い、集団へ合図を送った。
弾かれたように一斉に殺到してくる集団に、五人は少なからず驚く。どう見ても常人の速度ではない。
睦月が蛭鞭を振るい、瞬く間に五人ばかりをなぎ倒す。
しかし倒された五人はすぐ起き上がり、また向かってくる。
「手加減するな。殺せ。肉体面も強化されている」
真が睦月に告げながら、自分に向かってくる者を三名ほど射殺する。
その中には子供も混じっており、それを躊躇なく殺した真の冷徹さを目の当たりにし、咲は息を呑んだ。
「全員違法ドリームバンドのドラッグ暗示効果で、潜在能力を極限まで引き出しているからな。かなりキツいのを使ったし、これが終わったら廃人だ。手加減する必要など無いと思うぞ~?」
へらへらと笑いながら鯖島。
「これも準備に時間がかかった理由の一つだ。ドラッグブーストしたこれだけの数の刺客相手に、どこまで頑張れるか、見物だな」
応戦して無双モードになっている真、睦月、亜希子の三名を見てもなお、鯖島は余裕をかましていた。
睦月の前に、まだ小学生の低学年と思しき子供が、怒りに歪んだ顔で殺到する。
(本当に殺すしかないの? こんな子供まで……)
かつての連続殺人鬼が、あからさまに躊躇っている。
睦月の側まで迫った子供が、突然爆発した。子供と睦月、両方が吹き飛ぶ。
「ああ、言い忘れてたけど、女子供老人は強化しても力不足な気がするから、お手製の爆弾も持たせておいた」
吹っ飛んだ睦月を見て、鯖島は小気味良さそうに笑う。
「こいつ、マジ最悪……」
「女子供老人は僕が担当する。近づけると危険だ」
亜希子が鯖島を睨み、真が静かに告げる。
「何が最悪だ! 俺がやっていることは正義だろう! 八つ裂き魔睦月は悪だろう! 正義のために手段は選ばん! 悪を滅ぼすためには何をしてもいい!」
「あっはっはっは、小悪党全開だな」
高らかに喚く鯖島に、けらけらと笑う犬飼。
(銃器を持っていないのは救いだと思ったが、この人数で、しかも地の利までとられて特攻ってのは、銃器より厄介だ)
次々と女子供老人を射殺しながら、真は思う。
だが真の銃でも捌ききれず、何人かの接近を許す。
爆発が起こったが、亜希子も真も大きめの墓石の影に隠れ、難を逃れた。しかし墓石はほぼ吹き飛んでいたし、二人ともノーダメージだったわけではない。
そのうちの老人の一人が、咲の方にも向かう。顔色を変える咲。
それに気付いた睦月が、雀を飛ばす。頭部に直撃し、咲に向かった老人が爆破する前に倒れる。
(この人数だから、個別に遠隔爆破は流石にできないようだな。誰が誰まで覚えて操作しきれないだろうし)
もし鯖島の判断で遠隔爆破を捌ききれたらと考えると、ぞっとしない真であった。
(それよりも、至近距離で爆弾を投げつけてきたらより効果的だったろうが、こいつはそこまで頭が回らなかったらしい)
中途半端に作戦を練り、肝心な所までは頭の回らなかった鯖島に、所詮は表通りの限界かと、真は思う。
「これだけ豪華なメンツでも、わりとピンチってわけか。しかし相手が量産型物量作戦でピンチ展開ってのは、あまり絵的に面白くないな」
ちょこまかと逃げ回りながら、犬飼が呑気な台詞を口にする。
(数が多すぎるうえに、雑魚の群れってわけでもないし、さらには自爆つきだ。敵はまだまだいるし、これはまともに戦っていたらいずれこちらが先に崩れる)
最初に比べて、さらに敵が増えているように真には見えた。最初に現れただけではなく、後方に控えていたのであろう。
「ごめん、咲。お姉さんの墓参りで、こんなことになっちゃって……」
咲の前に立ち、咲をかばう格好になりながら、睦月が背後にいる咲に声をかけた。
「大丈夫だ。気にしてないし、私が何とかする。睦月……貴女を助けてやる」
突然、力強い口調でそう宣言する咲に、睦月は目を丸くした。




