窓の無い研究所
ここには窓が無い。ここからは空が見えない。
当然だ。この雪岡研究所はビルの地下一階を、大幅に改築した代物なのだから。
何故地下に研究所を築いたかと言えば――普通の人間には理解できないことだが――まずは核戦争に備えてである。核戦争にも耐えられるシェルターとしても機能するよう、この研究所は作られている。
過ぎたる命を持つ者――あるいはオーバーライフと呼ばれる者達は、人類の歴史の移り変わりと共に歩みし、その途方も無い命を維持するために、ありとあらゆる可能性を考慮し、対策を立てている。核戦争が起こることさえ考慮し、高濃度の放射線にも耐えられる人体改造と、核爆発にも耐えられるシェルターくらいは持っている。
また、地下は外敵の襲撃にも備えられる。中立地区に指定されているカンドービルの地下というのも、大きなポイントだ。少なくとも裏通りの住人は、攻めてこられない。もちろん例外はあるので油断はできないが、寝首をかかれる可能性は大分抑えられる。
その代償として、陽の光が射さない場所で暮らす生活だ。単に外に出ればいいだけではあるが、それにしても窓があると無いとでは気分が違うと、彼女は思う。
彼女がかつて住んでいた場所――複数の住処には、いずれも窓があった。太陽の光を浴びる事も、外の空気と入れ替えることも、時間の変化を知る事も、天気の移り変わりを見る事もできた。それはとても大きな変化であり、大事なことだったと、この研究所に来て、彼女は思い知った。それでなくても彼女は、感性に依存する人間であったため、窓の無い住処は、息がつまりそうになる。
とはいえ、例え窓があっても、彼女には開けることが出来ない。息が詰まりそうになるというのは一つの表現だが、彼女はそもそも呼吸などしていない。
彼女はいつも、白衣の後ろ姿ばかり見せられている。それも仕方が無い。そういう役目なのだから。
他の守護霊はどう思って日々を過ごしているのだろうと、彼女――雲塚杏は考える。自分は恵まれているかもしれない。何しろ守護している相手に認識されているし、会話もできる。自分の声は全て聞こえている。普通の守護霊は、守護する人間と会話などできない。
(ここ、窓が無いんだけど、貴女は平気なの?)
暇なので、つい声をかけてみる。
「んー? 気にも留めなかったなー」
純子が振り返り、いつも通り愛想よく笑いかけてきながら答える。
杏が守護する少女は実に魅力的だ。掛け値無しの美少女であり、朗らかで愛くるしく、対話する者には大抵好意を抱かれる。最初だけは。
だがこの少女と関わった者の多くは、その天使の笑顔の下に、悪魔と表現したら悪魔が迷惑しそうなほど邪悪な本性がある事を知るのに、さほど時間がかからない。
(家の中から窓越しに天気を知るのも、昼夜を知るのも、私は大事なことだと思うな)
「んー、そうだねえ。地下に研究所を築いた代償って所かなあ。でも、その気になればここでも外の様子を知る窓は作れるよー?」
純子の真紅の瞳が、一瞬だが妖しく光り輝いたかのように、杏には見えた。
「んー……まず、実験台となる人は、空間を歪める力を使える能力を付与して、それからせつなちゃんや毅君みたいな生首植木鉢にして、窓の役割をさせるってのがいいかなあ。うん、今度やってみよう。部屋に取り付けた窓の側に置いといて、窓を開けたら能力を発動させて、外が見えるようにするとかねー」
(本当……貴女にできないことは無いって感じね。いや、普通なら出来ないと諦めることも、無理に通してしまうっていうか)
呆れと感心が混ざった杏の言葉に、純子は遠くを見るような目になる。
「力さえあれば、大抵のことができたからねえ。普通じゃ無理なことも、理不尽な運命も力で強引にねじふせてきた。欲しいものは奪ってでも手に入れてきた。力ずくで無理矢理願いをかなえてきた。途方も無い年月を、そうやってずっと生きてきたのが私」
珍しく憂いを漂わせた寂しげな笑みを浮かべ、純子は語る。
「でもねー、そんな私でも、手に入れられなかったものも有るし、かなえられなかった願いもある。運命の悪戯に勝てなかったことや、奪われ、失ったこともある。で、今現在もそれは進行中。すぐ側にあるのにねー」
純子が何を語っているのか、わからない杏ではない。
(すぐ側にあるなら、手に入れればいいじゃない。もう私はそれもできなくなったのよ? それができる貴女が、何もしないままってのもねえ……)
呆れと苛立ちが混じった杏の言葉に、純子は複雑な表情になる。これまた彼女にしては珍しい顔だ。
「杏ちゃんが真君とずっと一緒にいて幸せになれば、それが一番良かったと思うよ? 私もそれで仕方無いと諦められる。もう私には、どうしたらいいかわからないし。きっとその資格は永遠に失われちゃったんだよー」
(だから失われたのは私だって。純子が勝手にそう思ってるだけだって)
純子がただの思い込みだけで壁を作っている事に、杏はもどかしさを覚える。
(あの子が他の女と付き合って、例えば私と付き合っていた時とかも、悲しいとか悔しいとか妬ましいとかなかったの?)
正直、杏には凄くそれらの気持ちがある。無いわけがない。
真の気持ちが本当はどこにあったか、杏とて理解している。しかし自分に全く気持ちが無かったわけではないこともわかる。ただ、真の中で一番引きずっている相手は純子であるのも歴然としている。
「少しはあるよー? でも少しなんだよね。あはは……。そういった負の感情が、凄く鈍くなってる。それが、私が過ぎたる命を得た代償とでもいうかなー。永遠の命には、心が耐えられない。耐えられる人もいるけど、そういう人は何かしら心に歪が生じてる。累君は心の成長が限りなく止まっているし、私は負の感情が鈍くなっている」
そういえばそんな話を、杏は前にも聞いた覚えがある。
「杏ちゃんを死なせちゃったのだって、責任は私にあるんだし、これだけ力を持とうと、思うように行かない部分ってのは出てきちゃう。世の中不思議だよ。いや、生きてることが不思議なのかなあ。さもなきゃ、運命が皮肉屋さんとでもいうべきかなー」
(地下に窓を作って外が見られるようにすることもできるのに、手を伸ばせば開ける窓は、カーテンを下ろしたままなのね)
そう言ってから、自分でもちょっと意地悪なことを口にしたと思い、決まりの悪さを覚える杏であった。




