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この部屋に再び女が来るなんて、思いもしなかった。
もうあれから何年になる? 四年? 五年? まだ俺が裏通りに堕ちて間もない頃だ。そんなに長い時間は経っていないような気もするし、すごく長い時が流れた気もする。
あいつも――清瀬もそうだった。俺との関係は、狙われる者とそれを守る者。
清瀬は馬鹿な女だった。可哀想な女だった。糞みたいな家に生まれて、家出して、立ちんぼして、汚い男の一物をしゃぶってその日暮しして、変な男に目つけられてと、まあ笑っちゃうほどのドン底っぷりだ。
いや、馬鹿にならざるをえなかったんだろう。生まれの悪さ一つで、清瀬は不幸のドン底だった。
「世界はとても綺麗に輝いているけど、私にはその光が痛い。闇の中から見た光は眩しすぎる」
清瀬はそんなことを言っていた。言いたいことはよくわかる。
清瀬から見れば、多くの人間が幸福に見えたことだろう。そして比較する。比較して己の不幸を実感し、惨めに思えてしまう。より不幸と感じて、より哀しくなる。
そんな惨めな人間を見下すことで、安心して生きている、自分を幸福だと思っている奴等。一人残らず殺してやりたいもんだ。一時期、俺はそんなことを考えていた。俺も自分が底辺だと思っていたから。
おっさんに拾われて、俺は救われちまった。裏通りでは非常にありふれたよくある話だ。自分が一番不幸だと思っている奴が、組織に拾われて、居場所が出来て、不幸とは思わなくなる。不幸ではなくなる。ありふれたパターン。
でも清瀬はとうとう最後まで救われなかった。俺は救ってやれなかった。守ってやれなかった。
俺に力が無かったせいだ。あの時の俺はただの雑魚で、モブで、木偶だった。
清瀬と付き合っていたという男が、手下を引き連れて部屋に押し入り、俺を袋叩きにした後、清瀬を連れ去った。
気がついた俺は部屋の外に出て、すぐに清瀬を見つけた。アパートのすぐ横の路地裏で、体中の骨が砕かれ、手足が何箇所もあらぬ方向に折れ曲がり、見る影もなく顔を腫らして、目玉の一つが飛び出た状態で、ボロ雑巾のようになっている清瀬の姿。俺は清瀬の無残な亡骸にすがりついて、身も世もなく泣き叫んでいた。
復讐のために俺は力を望んだ。雪岡研究所という場所を訪れ、そこでイカレた女にイカレた手術を施されてイカレた力を手に入れた。
糞虫共の足を折り、命乞いをするゴミカス共の全身の骨を丁寧に砕いて、嬲り殺しにしてやったが、俺の気は晴れなかった。復讐を果たしたにも関わらず、俺の中の怒りは消えなかった。
あいつを殺したのは、あいつにたかっていた屑共じゃない。この理不尽な世界そのものであり、理不尽な世界を設計した神様だ。全てに復讐したい。もちろん、実行はできない。それが悔しい。
その後、俺は手に入れた力で組織にも貢献しまくって、いつしか組織内でも一目置かれる存在となっていた。そんな風になった所で、全然嬉しいとは思わなかったが。
「定期的にメンテナンスしにきてねー。君の力の成長のほども知りたいし、副作用が出てないかもチェックしたいからー」
雪岡研究所という場所で、赤い目のイカレた娘がそんなことを言っていたが、面倒で一度も行ってない。メールでの呼び出しもしつこいが、一度も目を通していない。向こうにとってもお望み通り、リスクと引き換えに実験台になってやったんだ。これ以上付き合う義理は無いだろう。
あれから長い時間が経ったような、大して時間が経ってないような、そんな気分なのは、きっと清瀬のことが忘れられないからだろう。あの無残な死に方が、救われない人生が、許せないからだ。
何であんなにひどい目に合わなくちゃならないんだ? 俺は何度も何度も、天に向かって心の中で叫び続けている。答えを返さないそいつに向かって、怒鳴り散らしている。そんな俺を見下ろして、世界中から崇められ、祈られているそいつは、きっと笑っていやがるんだ。
神様死ねよ。何度そう呟いたかわからない。そして今後もその言葉を吐き捨てる。この世界自体が、神様という性悪屑の悪ふざけから創られた代物なんだからな。
***
朝、ほのかの方が先に起きて、狭い台所に立って辺りを見回す。
「護衛していただくせめてもの御礼に、朝御飯を作ろうと思いましたが、食材が何もありませんね。どうやらひどい食生活を送っている様子。刹那的なるコンビニ食ですか」
「大きなお世話だ。飯は外に食いに行こう。シャワーはいいのか?」
「使わせていただけるのなら、済ませてきますね。服の替えはある程度用意してあります」
ほのかが風呂場へと向かった。その間に、俺はおっさんに電話をかける。
『で、やったのか?』
真面目な声でおっさんが問う。
「第一声がそれかよっ! やってねーよっ!」
『お前ひょっとして不能……いや、同性愛とかか?』
さらに真面目な声でおっさんが問う。
「おっさんの娘を手出すわけねーし。いや、それ以前にこれは護衛の仕事なんだろ。護衛対象と即やるとか、そっちの方が無いだろ」
『いや、その理屈はおかしい。別々の部屋に泊めたのか?』
「護衛するんだから同じ部屋だ」
『ほら見ろ、やっぱりおかしい。若い男女が同じ部屋で何も無いとか、お前は異常だ。きっとほのかも泣いているだろうよ。それにな、別に護衛だからって同じ部屋じゃなくちゃいけない理屈もないぞ』
いつもの飄々とした喋りに戻っているおっさん。
「泣いてねーし。安全度はどう考えても上がるだろ」
『まあ、確かにそれはそうだ』
「おっさんの方はどうするんだ?」
『奴等の戦力が相当殺がれているとはいえ、以前のように、新たに人を雇う可能性も大だし、油断はできんな。積極的に仕掛けて削っていくさ。だがそちらで仕掛けてくれても構わんぞ。ほのかも一応戦える』
ようするに娘を餌にするつもりか? それはどうなんだ……
「それは護衛の任務からすると、本末転倒になるんじゃねーか?」
『俺は娘のためだけに組織を危機に晒すことはしない。奴等が娘を狙っているというなら、そいつを利用しない手もない。それと同時に娘も守る。両立させることができる。それを実行できる奴も知っている。例えば今、俺と電話している奴とかがそうだ。ほのかもその辺は納得済みだ。それどころか、自分を守るために組織の戦力を割くだけなんざ、当人が納得しねーよ。ほのかはそういう性格だ』
うーん、流石はおっさんの娘と言ったところか。しっかり筋は通すってわけか。
「考え方によっては、俺達は戦力を得たとも言えるな。そのうえ奴等に対する陽動要員にもなる、と」
『そういうことだな。もちろんほのかもそいつは承知しているだろう。頭のいい子だからな』
親馬鹿全開の自慢げな口調。
『他に何かあるか?』
「いや、無い」
『んじゃー、ほのかを頼む。いろんな意味で』
電話が切れた。うーん……不安だ。いろんな意味で。
俺はほのかの護衛をしつつ、ほのかを使って敵の陽動と、ほのかを狙ってやってきた連中を攻撃して敵の戦力を削ぐ、と。一方でおっさんら四つ葉の烏バーも、放たれ小象と抗争か。
何が不安かって、小金井の指摘した通り、四つ葉の烏バーは、俺への依存率高いワンマン組織に近いってことだ。だからこそ、二手に分けるのであれば、俺一人とその他全て、という分け方にしたんだろうが。
まあおっさんは結構腕が立つんだがな。それでも不安。
「これからどうするのでしょうか。ここにずっといるというのもどうかと思います。私が狙われている立場なのは理解していますが」
風呂場から出てくるなり、ほのかは言った。
「まあここにいても必ず安全というわけではないし、むしろ一箇所に留まっていない方がいいとも言える」
「できるだけ移動して回るという感じですね」
「安全を図るだけなら、その方が安全だろうな。向こうから見れば、逃げ回っているという感じだが。その間におっさんらの方で、放たれ小象とドンパチしてくれるだろう」
俺無しで大丈夫かという不安は、口にしないでおく。
「父から話を聞いていませんか? 安全だけを図る必要もありませんよ。どうぞ遠慮なさらず、私を囮として使ってください」
「その話は聞いたよ。でも積極的に囮にする気にはなれねーよ。自然とそうなる可能性は高いし、わざわざ危険に晒す必要も無い。向こうの狒々爺がお前に執着して、積極的にさらいにくるのなら、戦力を二手に割くという格好にはなっている。組織の長としてはとんでもない大馬鹿野郎だが」
しかし実際とんでもない大馬鹿野郎と見抜いたからこそ、おっさんはこうして娘を俺に預けたんだろうが。
「積極的に用いてくださって結構ですのに。私は提灯鮟鱇の灯り。引き寄せ、宿主に養分を与えることに生き甲斐を覚える。主が食欲を満たす喜びは、私の悦び。私達は二人で一人」
「いや、その詩はおかしい。アンコウと疑似餌が独立した生き物なわけじゃないんだし」
「でも私の言いたいこと、今の詩でわかりましたよね?」
正直、いろいろズレまくった例えだと思ったが、言いたいことはわかった。
「まあ、外をぶらつく路線は決定なんだし、そのうえでどうなるかは奴等次第ってな話だ」
今晩はここに戻らない方がいいだろうな。つーか、我が家巻き込んでドンパチというのは、できれば避けたいってのが本音だ。
「遼二さんのおすすめの場所にエスコートしていただければと思うと、私の心は舞い上がり、踊り狂います」
「何だそりゃ」
「私、今まで男性と共に遊んだことなどありませんし。いわゆるデートなどしたことがありません。父公認の遼二さんなら、安心して委ねられるというものです」
この親にしてこの子有りという言葉が、俺の脳裏に浮かぶ。中身は本当におっさんと似ているな……




