13
月曜日の放課後。真は二日ぶりに純子と会った。いつもの絶好町の歓楽街。カンドービルの近くだ。
「ちょっと会う頻度上がったかな」
呼び出したのは真の方からだった。正直会いたくてうずうずしている真であるが、相手の迷惑になってないかと気になる。
「んー? 私はその方が嬉しいよー? いつも一緒にいたいしねー。もう結婚してもいい気持ちでいるしー」
「何言ってんだよ」
「そんくらいいつもふわふわした気分でいるからさ。あははは」
大胆なことを口にしたかと思えば、照れくさそうに視線を逸らして笑う純子を見て、真は鼓動の高鳴りを覚え、息を呑む。
自分と違って表情豊かな純子の顔をいつも見ていたい――そんな気持ちを抱く真。それと同時に、気がかりな点もある。
「他からは僕らってどう見られているんだろうな」
「んー? 何のことー?」
「いや、純子は愛想いいけど、僕は無愛想でつまらなさそうな顔しているから、おかしな二人に見えなくないかなって……」
「そんなに他人のことじろじろ見て意識する人なんて、いないよー。仮にそう見られたって、気にする事ないよー」
もちろん自分だけなら気にならないのだが、純子にしたら迷惑なのではないかと、気になってしまう真である。
「無意識でも表情を出す訓練みたいなのって、無いものかな。意識してわざと表情作るとか、何かすごく不自然だから抵抗あるし」
「そんなの無理しないでもいいんじゃなーい? 私は真君が、表面上はともかく、ちゃんと喜怒哀楽ある子だって知っているしさー。無愛想なのが嫌だとも思ったことは無いよー?」
純子がそう言って慰めてくれるのはありがたいが、幼い頃から母親に叱られ続けて、表情を作ることが恥だという強迫観念が染み付いている真としては、自分がこんな不自然な状態であること――普通じゃない人間であることに対し、ずっと引け目を感じている。
純子がどう受け取ろうと、そんな自分の都合に純子を巻き込むような形になるのもいい気分はしない。
「なるべく自然に表情作れるように努力してみるよ。と言っても、そんなのどうやればいいのかわからないけどさ」
「こないだキスした時には笑ってたよ」
純子が放ったその言葉に、真は驚いた。全く覚えが無かった。
「自然と表情出てたのか。気がつかなかった」
「えっと……その……もう一度してみる?」
「うん」
恥ずかしげに言う純子に、真は即答した。あまりに早く躊躇いの無い真の反応に、口にした純子の方が戸惑ってしまう。
「純子のためにも、ちゃんと表情が自然に出るようにしたい。いつも無愛想な彼氏なんて嫌だろう?」
「んー、だからさあ、別にそんなことないし、無理しなくていいってばー」
「でも、ちゃんと表情豊かな方がいいとは思わないか? 僕は純子のその表情豊かな所とか、すごく……好きだし、その……魅力的だと思うんだ。だから……僕もそうなれば……純子が僕のことを……」
必死にそこまで喋った所で、恥ずかしさが限界値に達し、言葉が途切れてしまう。純子も純子で、必死に己の気持ちを打ち明ける真に対して、気の利いた言葉が全く思いつかず、顔を赤らめて硬直気味になっていた。
「今も表情出てたよー」
「え?」
純子に指摘されてはっとする。自分では気づきようがない。顔の筋肉の動きや気配が、全く意識できないしわからない。
人通りの多い場所にも関わらず、不意に真が純子を抱きしめた。驚く純子に、真はつま先で立って純子の唇に自分の唇を軽く重ねる。どちらからともなく、互いに気恥ずかしそうにそそくさと離れる。
「僕どんな顔してた?」
「あー、ごめん、今回は見てなかったよー。突然すぎて驚いちゃったし」
「その確認したくて、僕も思い切ったことしてみたんだけどな。裏目に出たか」
心の中でしまったなあという顔を思い描く真。
「あと、身長伸ばす方法とかも無いかな。キスする時に、男の僕がいちいち背伸びとか、すごく格好悪い気がするし」
「いや、それは絶対そのままでいいよー。今のままの方が断然可愛いし、私好みだから。うん」
力強く断言されて、真は鼻白む。
その後二人は歓楽街をぶらぶらしながら、様々な雑談を交わしていたが、いつしか再び真のお悩み相談モードになる。
「さっき結婚どーこー言っちゃったけどさあ。私は歳が歳だから、そういうのも考えちゃうんだよねえ。このまま仲良くつきあっていって、そのうち結婚できたらいいとかさあ。まだ子供の真君相手に気が早すぎるってのもわかってるんだけどねえ」
きっかけは純子のこの言葉だった。自称千年以上生きているという話を思い起こすと同時に、将来の事と今の自分の事を考えてしまう。
「勉強して、なるべくいい学校入って、なるべくいい会社に就職して……それで結婚してって、僕は自分のそんな将来の姿が全く見えないよ」
そもそも勉強する気が全く起きない事が問題だ。
「結婚だの就職だの、普通の人生が無理な気がして仕方ないんだ。せめて普通にくらいなりたいけど。だからそんなこと言われても……」
真にしてみれば、気が早いとかそういう問題ではない。小さいころからずっと不安だった。普通の大人になれるかなって。
「普通になれない気がする理由って何?」
「表情を作るの苦手……ってのは置いといて。普通になりたいと望む一方で、どうしても勉強やる気が起きない。これって頭悪いからかな。教科書を開いても何も頭に入らない」
「頭の良し悪しと勉強の出来る出来ないって、必ずしも一致はしないねえ。吸収の良さ、数字の計算の速さ、記憶のひきだしの良さも、頭がいいと言えるし、それらはテストでいい点数取る事にも繋がるかもしれないけどさ。でも咄嗟の機転とか、限られた情報だけで状況や状態の素早い把握とか、ポイントを抑えて効率良く目的を達成するルートを頭の中で瞬時に計算できる力とか、人の心理を読み取る力とか、物事の裏側まで読める洞察力とか、物事の先読みができるとか、そういった類の頭の良さもあるよね。後者の意味での頭のいい人ってのは、そう多くはないし」
「やる気の無さの方が問題か」
ノートを写す作業も馬鹿馬鹿しさの方が先に立って、やる気が起こらない。テストに至っては存在そのものがくだらないと感じてしまい、反抗する意志も加わって白紙で出してしまう。
「じゃあ何でやる気が無いかわかる?」
「学校……学歴自体が嫌いだからかな。社会の仕組みに反発してるというか」
これを口にするのは躊躇われたが、純子相手には正直に述べた方がよいと判断した。彼女なら何か良い助言をしてくれそうな気がして。何より、自分がこの世で一番好きかつ尊敬している相手でもあるのだから。
「社会そのものが馬鹿馬鹿しく思えて、迎合したくない気持ちがある。子供の頃から将来の役に立ちそうもない内容の学業を強いられて、そこから人間の選別が行われるシステムだろ。それがすごく嫌なんだ。社会からよい子の判押しを授かるために、テストの点数に必死になる姿が、惨めにさえ思えてしまう。普通になるって、それに従えるかどうかなんだろ。でもその普通にならないと人間として不合格っぽいから、僕は不合格人間になりそうで怖い」
「んー……私の意見は――真君が聞くと嫌がるかもしれないけれど、その考え方はどうかと思うなあ……」
純子が珍しく真顔になっているのを見て、真は何故か気後れする。
「何と言うか、学歴ってのはいっぱい勉強したイコール面倒くさいことをいっぱいした、めんどくさい努力賞って側面もあるんだよねー。そんなめんどくさい努力賞程度で、就職に有利になったりステータスの一つにできたりする社会って、凄く恵まれているし、ぬるいと思うんだ。ていうかさ、真君が会社の社長さんだったらどう思う? 努力した真面目な子の方を採用したくなるんじゃないかなー? ついでに言うと、私はどんなに不器用であろうと、真面目さだけが取り柄な子って好きだよ? 誠実な人って好感持てるよ? どんなことであれ、真面目に努力する姿勢は大事だと思うよ? その証明を持つ事をそんな風に、軽んじていいものではないと思うな」
「軽んじているわけじゃないけど、結局は企業に忠実な奴隷になれるかどうかの格付け生産装置だろ。そのために時間を費やすのが馬鹿らしい気がしてならないんだよ」
自身を否定されたような気になり、いささかむきになって反論する真。
「まあ最後まで聞いてよー。一方で、勉強していい学校行く程度では済まない、血反吐を吐くほどの努力が要求されて、なおかつ才能とか運とかいうどうしょうもなく理不尽なものを要求される領域が、この世にはあるんだよー」
純子が何を言っているのか真には理解できたが、そうした世界で生きることなど、全く意識したことはなかった。それよりも普通に生きられるかどうかだけを不安に思っていた。
「才能っていう理不尽なものが必要で、普通の人よりもさらにずっと大変な努力をして、完全に自分の実力一つで身を立て、道無き道を進むよりかは、社会で予め用意された安全なレールの上を歩いていく方がずっと楽でいいと思うけどなー。それが所謂、普通っていうものだよ。それはわかるよね?」
「だからさ。理屈はわかるんだ。でも、その普通っていうレールを敷いている人間がいて、そいつらの都合いいようにレールの上で荷物運んでいるだけな気がして……」
それはずっと昔から真が意識をしていた事であった。
「何だか世の中って、小ずるく立ち回って生きた者が得するように出来ているように見える。僕は不器用だから、普通のレールの上にまたがってしまうと、損し続けるような気がしてならないよ。でも……純子がそれを勧めるのなら、それでもいいかとも思えてきた」
若干投げやり気味になる真。結局障害になっているのは、自分が勝手に自分の中で築いた壁であるような気がして。
「勧めているわけでもないし、そんな不器用な所も嫌いじゃないよ。言ったでしょー? 私は真面目な子が好きだって」
「僕は全然真面目じゃないだろ。勉強もまともにやろうとしないし」
「それだけが証明ってわけでもないよ? 君は真面目な子だよ。私にはちゃんとそう見える。少なくとも、努力することが嫌いってわけでもないでしょ?」
「まあ……怠けたいわけじゃない。目標さえできれば……」
「とりあえずの目標でもいいじゃない。普通になろうっていう、とりあえずの目標。たとえ動機が、とりあえずの目標であろうと、あるいは誰かから認められたいっていう――所謂承認要求であろうと、何かを目指して努力すれば、必ず得られるものはあるし、そこから世界が広がっていくはずだよー。努力した事だって、絶対に無駄にはならないしね」
純子の顔にはいつしか笑顔が戻っていた。それを見て真は安堵し、微笑をこぼす。
「ほら、また表情出てたよ」
「本当に? どんな?」
「安心しきって笑った感じ。んー、何がトリガーなんだろうねえ」
何が引き金となっているかは真にももちろんわからないが、一つだけわかっていることがある。純子と一緒にいる時、自然に表情が出る確率は上がるという事だ。
「今度さ、私の手作りの料理、御馳走するよー。何がいい~?」
日が沈み、去り際に純子が屈託の無い笑顔で訊ねてきた。
「えっと……じゃあボルシチとか」
「うん、それなら出来る。任せてー」
反射的に好きな食べ物を答えた真であったが、純子は自信ありげに言った。
「普通のレールねえ……」
去っていく真の背中を見送りながら、純子は小さく息を吐き、呟く。
「運命に魅入られた者は、本人がいくら望んでも、定められたレールの上を生きるという選択肢そのものが、許されないんだけどねー。私も、頑張れば頑張りに応じて手に入る程度のものじゃあ、満足できないタチだしさあ」
自分の本心の語らなかった部分を口にする。
それはまだ子供であり、一般人である真の前では口にするのが憚れる、純子の本音であった。そこまで言うと今悩んでいる真の心を余計にかき乱して混乱させてしまうと思慮したために、迂闊なことを口走ることもできなかった。
「話を聞いている限り、君も同じな気がするよー。ま、あの人の魂だから当然かな」
このまま真が普通の人生を歩むヴィジョンが、純子にはどうしても見えなかったが、純子は真をまだ子供と見なしているが故に、普通に生きる者にとっての正論を口にした。少なくとも、自分のいる世界には誘うのは躊躇われる。




