35
「纏っている空気が微妙に違うな。何だかおかしな熱を帯びているぜ? それでいて同時に、冷たい刃物を胸に秘めているといった所か」
犬飼は座ったままデビルと視線を合わせ、上機嫌で喋り続ける。
「俺とお前、似た者同士だったよなあ。運命という存在を睨む者同士。お前は悪魔を名乗って、運命を神に見立てた。俺は運命を作家に見立てている。世界はそいつの作品だとな」
「僕が犬飼の立場だったら、僕に勇気を殺させて、絶頂に至っているその時に僕を殺すよ」
無言だったデビルがようやく口を開く。これまで犬飼の前で喋っていた時とは、明らかに異なる口調。気持ちがたっぷりとこもった声。懐かしむような、寂しがるような、甘えたような、そんな響きが犬飼には感じられた。
「まあまあ、そいつはそうなんだが、俺にそんな力は無えんだ。それに俺は、こうなったらいいなって所で留めておくやり方で、あとは運任せって手の方が多いしな」
肩をすくめる犬飼。
「先に底が割れた方が殺される。そういうゲームをしているつもりでいた。デビルは違ったのか?」
「同じ。犬飼も承知済みだと思っていたし、僕も犬飼に殺される覚悟をしていたけど……まだ早い」
躊躇ってからの「まだ早い」と口にしたその一言には、抗議しているような響きがあり、痛切な訴えでもあるように、犬飼の耳には聞こえる。
「早くないぜ。お前は先に底が割れちまったんだよ」
少し切なさを覚えながらも、犬飼は優しい視線と口調で言い切った。
「お前は自分を悪魔と名乗って、悪魔のような振る舞いをしているけど、いや……演じているけどよ。その正体は、背伸びしている痛々しい餓鬼にすぎねーのさ。そう意識したら、なーんか冷めちゃってな」
優しい声と表情でその作家は、錆びついて凍りついた鋸の刃をゆっくりと引き、悪魔を名乗る少年の魂を切り刻む。
「俺と一緒にいて楽しかったか? 俺の話を聞いて楽しかったか? 俺も最初は楽しかったよ。お前は俺を楽しませてくれた」
そこまで喋った所で、犬飼は一息つくように、缶ジュースを口にする。
「でもさ、俺とお前は根本的に違ってた。もしかしなくても、お前にとって初めて心を開けた大人って、俺なんじゃないか? こんなこと指摘するのも酷だと思うし、可哀想だとは思うけどよ。お前は俺に懐いちまった。ま……俺も最初は、お前のことが可愛かったがね。でも……駄目なんだ。お前、その程度のもんだった。それじゃあ俺は冷める。飽きる」
(まただ……またあの感覚だ)
話を聞いているうちに、デビルは己の魂が大きく揺らいで歪んで、底の見えない暗黒の穴の中へと突き落とされ、延々と落ち続けていくような感覚を味わった。
(絶頂から、奈落に一気に突き落とされるって、こんな気分? 誰かにそれをやっているつもりでいたけど、今、確かに僕は――今は僕が、それを味わっている)
改めて絶望を感じる。しかしデビルは落ち込んで動けなくなることは無い。やることは一つだ。そのために来た。ケリをつけるために来た。
デビルの胸に殺意の炎が揺らめく。犬飼は確かにそれを見たような気がした。青い火が灯ったかのように。
「悪いな、デビル。保険はかけておいたんだ」
犬飼の言葉の意味を、デビルは即座に理解する。
扉が微かに開く。優が現れ、視線を覗かせる。
「お前さ、もうその体を壊されたら、一巻の終わりらしいな?」
犬飼が言った瞬間、優が消滅視線を発動させて、デビルの体は消滅した。
デビルが消滅した直後、室内に新たに三人のデビルが出現した。床から、壁から、天井から。予め分裂しておいたのだ。
もうデビルは、細胞を分裂したからといって、肉体に魂を繋ぎ留めておくことが出来ない。肉体を滅ぼされれば、魂は冥界に飛ぶ。しかし分裂した体が繋がっていれば、話は別だ。三つの分身は見えないほどの細い糸で繋がっている。あまり遠くには行けないが、この室内では動くに十分だ。
『出来ることは全てやるって心意気だ。思いつくことは全てやってみる。やり尽くす。その執念こそが――』
何日か前にデビルの前で犬飼が語っていた台詞が、デビルの脳裏に蘇る。
「奇遇。僕も保険をかけておいた」
デビルの一体が言う。
「なるほどー。近場にいる分身になら、霊魂が移動可能なわけか。それとも体が繋がっていたのか?」
デビルが生きている理由を見破る犬飼。この期に及んで、笑みを張り付かせたままだ。
三人のデビルが一斉に犬飼に襲いかかる。
優が無言で消滅視線を再度発動させ、天井から襲ってきたデビルを消す。しかし前後に二人が残っている。
「保険――俺は一つとは言ってないぜ」
デビルを見据えて笑ったまま、犬飼が告げた刹那――
「さ、せ、なぁぁいッ!」
叫び声と共に、薙刀の木刀を構えた格好のみどりが、犬飼のすぐ前に転移して現れ、犬飼を護る態勢を取った。
正面から襲いかかったデビルの喉を、みどりが薙刀で突く。デビルはのけぞって倒れる。
犬飼が椅子から転がり落ちるようにして倒れた。デビルが後ろから襲ってきたのはわかっていた。その対応だ。
犬飼の後ろから襲ってきたデビルの目と、みどりの目が合った。
みどりが大きく踏み込んで、犬飼の後方から襲ってきたデビルの頭部めがけて薙刀を振るう。デビルは反射的にかがんで避ける。
「あばばばば、デビル。今度という今度こそ、あんたの命運が尽きる時だぜィ。絶対に逃さないからっ」
みどりが薙刀で連続攻撃を放ちながら高らかに笑う。
最初に薙刀で喉を突かれて倒れたデビルが身を起こし、そして起きた瞬間に膝から上が全て消滅した。優がまた消滅視線を発動させたのだ。
身を起こすみどり相手に防戦一方に追いやられている、残り一人のデビルを見て、犬飼はにやにやと笑う。
「さて、今度こそ最期になるお前のショーを見せてくれ。どんな死に様か。どんな顔で死ぬのか。どんな台詞を最期に口にするのか。全部俺の記憶に焼き付けてやるよ」
「趣味悪ィな、犬か……」
犬飼の台詞を聞いてみどりが何か言いかけて、その台詞が止まった。
みどりは空間の歪む気配を感じていた。何者かが室内に転移してくる。
手刀が閃いた。
優の前に手だけが現れ、高速で横切った。
「あ……ああ……」
双眸を横一文字に切り裂かれた優が、愕然とした表情で呻きながら膝をつく。切られた目から血が零れ落ちる。
みどりの手が止まる。後方に跳んでデビルから距離を取り、優の姿を確認する。
「すまんこ、優ちゃん。その目は後で勇気君に治してもらってね」
その場にいる全員が知る少女の声だけが、どこからともなく響く。
「奇遇。僕も保険は複数」
デビルが呟いたその時、みどりのすぐ横に純子が現れた。
「純姉……デビルと繋がってたんか……」
その展開が有り得なくない事は、みどりにもわかっていた。知っていた。真の魂の奥底の記憶に、デビルの前世がいた。二人は敵対しながらも、心は通じ合っていたように見えた。
純子がみどりに向かって手を伸ばす。
みどりは薙刀を振るおうとして、思い留まった。純子の手に掴まれれば、原子分解されて得物は失う。
何より純子の相手をしていられない。その間にデビルは犬飼を殺すと思われた。
「三つ目の保険はある?」
デビルが犬飼に向かって問いかける。
みどりが純子を無視して、デビルに攻撃を仕掛けようとしたが、純子がそれを見逃すはずも無い。
純子がみどりの首に腕を回して、裸締めの格好に取る。
(駄目だ。純姉が出てきた時点で……詰んでたよォ~……)
あっという間に純子に拘束されて、みどりは絶望した。純子の相手をしても、純子に背を向けてデビルに向かっても、結果は同じにしかならないと悟った。
デビルを阻む者は一人もいなくなった。
「げふっ……」
目を切り裂かれた優は、犬飼の呻き声を聞いて、何が起こったかを察した。
「犬飼さあんっ!」
優が叫ぶ。
デビルは手刀で犬飼の腹部を貫いていた。
「この野郎!」
「みどりちゃん、ちょっと待っててあげて」
デビルを睨んで叫ぶみどりの耳元で、純子が囁く。
「犬飼……僕を好きなだけ馬鹿にしていい。僕は犬飼のことを尊敬していた。好きだった。僕の父親だったらいいとまで考えたことがあった」
犬飼の腹部に腕を刺し込み、犬飼と重なるような格好で、デビルは震える声で話しかける。
「僕の気持ち、正直に言った。だから、好きなだけ僕を嘲りながら死んでいい。僕を嘲り、馬鹿にして、笑いながら死んで。それが……僕が犬飼に贈る……餞」
それだけ言うと、デビルは犬飼の腹から腕を引き抜いた。血が噴き出し、犬飼の体が前のめりに倒れる。
「悪魔に好かれ……その悪魔に殺され……実に俺らしい最期で……いいもんだよ。でも……せっかくの気遣いを踏みにじって悪いが……リクエストには応えられないな。お前を嘲る気には……なれねーよ」
仰向けに体を入れ替え、デビルの顔を見上げて、口から大量に血を吐き出しながらも、犬飼は笑っていた。
「パラレルワールドを……信じるか?」
霞む視界の中、デビルの真っ黒な顔と、悲しみに満ちた目を見つめながら、犬飼は問いかける。
「お前と俺が……こんな風になっていない世界も……」
台詞は途中で途切れた。
微かに目を開けたまま事切れている犬飼を見下ろし、デビルの双眸から涙が零れ落ちる。
「う……うあ……ああ……あっあああっ……ううう……」
すすり泣くデビルを見て、みどりは憑き物が落ちたような顔になる。純子も腕をほどいてみどりを解放する。
「犬飼さぁん……ううぅ……」
優はデビルの嗚咽に共鳴するかのように、血と共に涙を鳴らし、こちらは口元を押さえて泣いていた。
純子とみどりは、デビルを見て目を見開いた。デビルの体に大きな変化が生じたのだ。
涙の流れた跡から、黒い肌にヒビが入り、黒い表皮が剥げ落ちていく。剥げ落ちた黒い肌の下から、病的な青白い肌が覗く。
今までは黒すぎて顔の隆起もわかりづらかったが、今ではどんな顔をしているかはっきりとわかる。
(デビル、こんな可愛い顔してたんだね……。今まで覆っていた黒いのが何なのかとか、どうしてここで剥げたのかとか……まあ……想像にお任せしますな感じだけどさ)
純子がデビルを見て微笑む。
(あーあ……犬飼さん、散々悪ィことばっかしときながら、幸せそうに逝っちゃってるよォ~)
みどりは犬飼の死に顔を見て、大きく息を吐いた。
(これは……今まで味わった事のないタイプの痛み……。生まれて初めての……痛み……。神様、いい加減にしろよ。僕にこんな辛い感覚を味あわせてくれるなんて……)
泣きながらデビルは、いつものように神様に抗議する。
(大丘さんと、大丘さんが指導していた苗床の子達。その関係性と同じだね。自分にとって心地好い言葉――認めてくれる言葉をかけてくれる年長者を慕う、年頃の子。デビルの場合は認めてくれるどうこうではなく、もっと別の形だったんだろうけど)
悲しむデビルを見て、純子は思う。純子は知らないが、大丘と犬飼の関係もそれだった。
純子がデビルに近付き、デビルの体を抱きしめる。
「デビル、私と一緒に行こう」
力強い声で、純子が呼びかける。
「ちょっと純姉……」
「君も私の美少年ハーレムの一員に加えてあげる。君で五人目だよ」
「え、ええええ~っ……」
純子の台詞を聞き、抗議しかけていたみどりが、思わず素っ頓狂な声をあげる。
(真兄、御先祖様、熱次郎、ネコミミー博士、それにデビルの五人か……。純姉、全ての人間が生まれつき超常の力を備える世界を作る目的の一方で、そんな計画も同時進行していたとはっ。恐るべしっ。つーか発言が場違いすぎィ)
呆れと戦慄を同時に覚えるみどり。犬飼の死の悲しみも一瞬忘れていた。
デビルは何も答えない。ただ、純子の体の温かさが、今の空虚な心を満たしている。甘美な誘惑に、身も心も全て委ねて預けてしまいたいという衝動に駆られるが、それも出来ない。それはデビルのプライドが断じて許さない。
しかしデビルは思う。反発する意味も無い。完全に心を売り渡してしまう事は許せないが、純子と共に歩く事そのものに抵抗は無い。
「デビル、君の本当の名前は何ていうの?」
純子がデビルの頬を手で擦り、柔らかい声で問う。
デビルはその純子の手を取って、ゆっくりとした動作でどけると、こう告げた。
「捨てた。デビルでいい」
その言葉が、純子の誘いへの答えになっていた。
96 マッドサイエンティストの玩具箱で遊ぼう 終




