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真とのデートを終えて研究所に帰宅した純子は、リビングのソファーに腰かけて、脳と唇に焼き付けた真とのキスの感触を思い起こして、一人虚空を見上げてにやけていた。
「えっと……ごはんまだ……ですか?」
いつまで経っても夕食に呼ばれないので、累が自室から出てきて不審げに声をかける。
「どうして……にやにやしているんです?」
明らかに様子が変な純子を見て、累は嫌な予感を覚えつつ訊ねる。
「んー、今日相ざ……真君と二度目のデートしてさあ、キスしちゃったキス。しかも二回」
嬉しそうに報告する純子に、累の顔からみるみるうちに血の気が引き、次いでその小さな体から、膨大な量の殺気が迸る。
アポートにより妖刀妾松を呼び出すと、累は躊躇うことなく鞘を抜く。漆黒の刀身が鈍く光る。
「そうですか。その唇……削いであげます……よ」
幽鬼のような足取りで近づきながら宣言する累に、流石に純子も焦りを見せた。完全に本気の狂乱モードに入っている。
「いやいやいや……私は真君のこと独り占めしようとは思ってないからさー」
珍しく引きつった笑みを浮かべ、手を振って累を制する純子。
「累君は累君で彼を口説けばいいじゃなーい。私は別に止めないし、妬みもしないよー?」
純子になだめられ、累の殺気が霧散する。
(二人の絡みを見てみたいしね。できればこっそり撮影も……)
秘めたる邪な願望は、流石に口にはしなかった。そのために累を同志として受け入れた事など、言えるわけがない。
「そんなこと……今の僕には……」
累は刀を下ろし、元ある場所――研究所の魔具秘宝展示場へと戻すと、アンニュイな面持ちで溜息をつく。
「大丈夫だよー。私は特に嫉妬したり妨害したりもしないし、応援してるからさー。共有財産てことで、仲良く使う約束でしょー?」
「そういう話でしたけど……抜け駆けされてみるとね……。わだかまりになりますよ」
「抜け駆けしたつもりはないよー。私はちゃんと仲良くなる努力したんだから、累君も同じように頑張ればいいだけなんだし、累君と歩調合せなくちゃならない理由もないよ?」
「その理屈はわかってます……よ。僕がこんな状態ですし……純子にそれを合わせてほしいとか、そんなこと……思っているわけでもないんですけど……」
いざ実際に先に進まれると、自分だけ置いていかれていくような感覚があった。
「大丈夫だよー。私もあの子も、累君のことを見捨てるようなことは絶対にしないからさあ」
そんな累の不安を見抜いて、純子は累の頭を撫でて諭し、安心させる。
「嘘ついたら……二人とも殺して、僕も死にますね……」
「はいはい……じゃあご飯作るねー」
まだ恨みがましい目で純子を見上げて陰鬱な口調で告げる累に、純子もこれ以上付き合うのがしんどくなって、切り上げて台所へと向かった。
***
翌日の日曜日、真は宗徳と共に朝から仁の家に遊びに行き、ゲームやら雑談やら漫画を読んだりしながらダラダラと時間を潰していた。
大体日曜はいつも仁の家に行くのが、幼稚園の頃から定番になってしまっている。もちろん外で遊ぶこともあったが。
「真の夢って何だー? オイラは刑事になって、悪い奴を銃でばんばん撃ってやっつけることだぞー」
「それ何度も聞いたから」
宗徳が苦笑する一方で、真は仁の質問に言葉を詰まらせる。
(普通になること……)
反射的にそのフレーズが頭の中に浮かぶ。しかしそれは本当に自分の望みなのかと疑問にも思う。何か義務感のようなものに感じられる。
「将来の夢があるなんて、それだけで羨ましいけどな。仁が実際刑事になれるかどうかは怪しいけどさ」
「えー、馬鹿にすんなよー。オイラは絶対刑事になるんだもんねー。宗徳は大人になってやりたいことはないのかー?」
「ああ、俺は家業の八百屋継ごうと思ってるんだ。兄貴が今家業をやりくりしてるけど、兄貴は本当はやりたいことあるみたいだし、だから代わりにさ。兄貴は俺が小さい頃からずっと自分を犠牲にして、俺の面倒見てくれたから、恩返ししてえ」
そう語る宗徳の表情は輝いていた。何かに追われているわけでもなく、前向きに臨もうという姿勢が、真の目には眩しく映った。
(将来……僕はどんな人間になる?)
いつも考えているが、全くヴィジョンが見えない。せめて普通になりたい。普通にならなければという、そんな強迫観念じみた思いだけがある。そもそもその普通とやらが何なのか、漠然としていてわからない。
「真、どうしたんだー?」
いつもと変わらぬ無表情であっても、付き合いが長いせいで、精神状態の変化は悟られてしまうのだろう。仁が心配げに顔を覗き込んでくる。
「何かこの話題地雷なのかもしれないぞ。これ以上話さない方がいいかもな」
「別にそんなことはない。普通にガンガン喋ってくれていいぞ」
真を気遣ってくれた宗徳だが、真はいささかムキになって否定する。まるで自分だけ劣っているかのようなそんな感覚に陥りそうなのが嫌だった。
「話題が地雷って、夢の話をすると真がむっきゃーって怒るってことだよなー」
「だからやめろって」
デリカシー無くずけずけと踏み込む仁に、宗徳が真顔になって注意して、流石に仁も不穏な空気を感じて、ムードを変えた。
「真、何か辛いことでもあるのかー? オイラ達に相談してみるといいぞー」
しかし踏み込むこと自体はやめない仁。
「辛いわけじゃない。僕にもよくわからなくて、答えようがないだけだ」
「よーし、じゃあ伝説のサイボーグオカマ刑事、芦屋黒斗伝説の話をするぞー」
やっと仁が話題を変えてくれたことに、真はほっとした。
「何だよそれ……。漫画か?」
宗徳が訊ねる。
「漫画じゃないもんねー。ネットで見たんだ。裏通りの悪い奴等を片っ端から懲らしめてる凄く強い刑事がいるって。それが……」
「はーい、みんなー、おやつの時間よぉ~」
仁が意気揚々と語りだした所に、仁の母親田代麻子が満面の笑みと共に、明らかに三人では食べきれそうにない巨大なタルトケーキを乗せた巨大なお盆を抱えて、足でドアを開けて部屋の中へと入ってくる。
「何だよママー、ノックしてよっていつも言ってるだろー」
唇を尖らせる仁。一方で麻子は、部屋の床に散乱するポテトチップスの袋を見て顔色を変えていた。
「んまーっ、仁ちゃん! 何でママに黙ってこっそりこんなもの買ったのーっ! 市販のお菓子は邪悪な添加物がいっぱいで、体に悪いっていつも言ってるでしょーっ!」
「もー、ママあれこれうるさすぎーっ! そんなんだからママはクレージークレーママって言われるんだぞーっ」
「言われるって、言ってるのお前一人だからね」
こっそりと突っ込む宗徳。
「あのね、仁ちゃん。それ気に入ってるようだけれども、凄く語呂悪いわよ」
お盆を置いて、麻子が珍しく冷静な口調で告げる。
「ゴロって何だー? ゲロの親戚かー?」
「んまーっ、仁ちゃん! そんなお下品な言葉を人前で言っちゃ駄目! もしかしておかしな音楽とか聴いてないでしょうねー!? ヘビメタとかー!」
「もー、ママ何から何までうるさすぎーっ! それにヘビメタの何が悪いってんだよー! オイラはヘビメタ大好きだもんねーっ!」
仁と麻子が言い合いをしている最中、真と宗徳は麻子に軽く会釈してタルトケーキに手を伸ばした。




